弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年3月16日

甘粕大尉

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 角田 房子 、 出版 ちくま文庫

 関東大震災のドサクサに無政府主義者(大杉栄)とその愛人、そして幼い子ども三人を虐殺した憲兵大尉が、有罪になったとはいうものの形ばかりの服役をして、パリに渡ったあと、まもなく帰国し、満州で我が物顔にのさぼった。それが甘粕正彦。その一生をたどった文庫本です。
 大震災がおきたのは、大正12(1923)年9月1日の昼前。朝鮮人が暴動を起こしたとのデマが治安当局も加担して広がっていった。
 9月4日、亀戸警察では南葛労組の川合義虎など9人が日本軍の将校に虐殺された。
 甘粕ら憲兵が大杉栄を虐殺したのは9月16日のこと。伊藤野枝、そしてその甥の宗一も殺された。
 甘粕は軍法会議にかけられた。軍隊の中だけでなく、一般大衆にも甘粕支持者は多く、減軽嘆願書は65万人の署名が集まった(法廷に提出されたのは5万)。
 判決はもちろん有罪で懲役10年。ところが、2年もしないうちに出所し、フランスに渡る。
 甘粕が本当に大杉栄たちを殺したのか、今なお真相は明らかにされていませんが、軍当局の全体の意向として大杉栄のような無政府主義者を「邪魔者は消せ」とばかりに虐殺したこと、甘粕がその一味であったことは間違いありません。そうでなければ、甘粕のフランス行き(滞在費用も)を軍部が負担するはずはありません。
 そして、1年5ヶ月ほどフランスにいたあと甘粕は日本に戻り、今度は満州に渡るのです。
 満州では、ハルビンにおいて関東軍による爆弾事件の中心人物に甘粕はなった。
 そして、すぐあとに満州国皇帝になった溥儀が満州に連れてこられたとき、派遣されて出迎えたのも甘粕だった。
 甘粕は満州国が建国されると民政部刑務司長となった。日本の内務省警得局長にあたる高官だ。その後、1937年、甘粕は協和会総務部長に就任した。
 甘粕は陸軍士官学校時代、教練班長の東條英機から教育された。そして、甘粕は東條の「一番のお気に入り」だった。満州時代の東條に対して甘粕は機密費など多額の政治資金を渡していた。
 1939年11月1日、甘粕(48歳)は満映理事長に就任した。酒席の甘粕は、しばしばハメをはずして荒れた。しかし、本業の映画製作には力を入れた。
 日本敗戦の1945年8月20日、甘粕はもっていた青酸カリを飲んで、予告どおり自殺した。3通の遺書のほか、「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」と理事長の黒板に書いていた。
 昭和史の黒い謎の一つですよね。
(2011年10月刊。税込1045円)

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