弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

フランス・イギリス

2021年7月 6日

百年戦争


(霧山昴)
著者 佐藤 猛 、 出版 中公新書

ジャンヌ・ダルクが活躍したのは百年戦争のとき。
この戦争は14世紀(1337年)から15世紀(1453年)まで続いた。日本でいうと足利尊氏が室町幕府を開くころからの100年になる。
前半はイングランド軍が圧勝し、後半はジャンヌ・ダルクの活躍によりフランス軍が最終的に勝利した。戦乱のなかで、イギリスとフランスの貴族が没落し、教会は権威を喪失して、やがて宗教改革の嵐が到来する。百年戦争を通じて、中世という時代が終わった。
イギリスとフランスの両王家は婚姻関係でつながっていた。
当時のヨーロッパでは、識字率は低く、支配階級でも少なかった。
百年戦争は、フランス王国の支配をめぐる戦いであると同時に、地方の独立をめぐる戦いでもあった。百年戦争は、1337年、イングランド王エドワード3世がフランス王フィリップの王位継承に異議を唱えて始まった。当時のフランス王家には、日本の皇族典範のような法典も、明確な王位継承順位もなかった。百年戦争は、決して「イギリス人とフランス人」のあいだの戦争ではない。百年戦争の根本原因は、イギリス大陸をめぐる積年の封建的主従関係の存在だと考えられている。フランス王の王位継承というのは開戦の口実にすぎなかった。
百年戦争は、ヴァロワ王権に対するフランス地方貴族の大反乱を有していた。
終結したのは1453年。フランス軍はイギリス軍からボルドーを取り戻し、イングランド軍は大陸から全面撤退した。
このころ、イングランド王国の人口は500万人。フランス王国は1700万人。約3倍の国力があった。イングランドの3倍の人口をもち、2倍の兵力を有するフランスがなぜイングランドに連敗したのか...。
フランスでは、統一国家と言える状況にはなかった。
戦争のさなかの1348年にはペストが大流行した。人口が増加し、食糧不足のもとでのペスト流行だった。ペストは、パリの人口の4分の1を、ブリテン島では人口の4分の1から5分の2を奪った。
教皇庁は、ローマからアヴィニヨンに逃れていて、教会は大分裂の時代だった。
英仏のあいだで休戦が成立すると、兵士たちは報酬がもらえないので、より一層、略奪に明け暮れた。
フランス王は、軍資金を調達するため、聖職者・貴族・平民と言う三つの身分代表を集めた三部会を招集して、課税の承認を求めた。
1355年、パリの三部会は、3万人の兵士を雇うため3.3%の消費税と増税を承認した。
中世ヨーロッパの戦争では、敵軍兵士の殺害よりも、捕虜をとることが優先された。身代金が目的だ。身分の高い者の身代金は高額だった。ジャン2世の身代金は300万金エキュ、うち60万金エキュの支払いによってジャンの身柄は釈放される。そのあと、毎年40万金エキュの分割払いとする。完済まで、フランスから王権が人質としてイギリスに渡る。
ジャンヌ・ダルクの登場は、1429年なので、百年戦争終結(1453年)直前になります。1431年に異端審問の末、処刑されたのでした。
百年戦争を概観できる手頃の解説書です。
(2020年4月刊。税込1012円)

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