弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2021年7月 3日

戦場の漂流者1200分の1の二等兵


(霧山昴)
著者 半田 正夫 、稲垣 尚友 、 出版 弦書房

語り手は1922(大正11)円12月に大牟田市で生まれ、小学校から与論島で育った。そして、神戸で働くうちに兵隊にとられて、船舶工兵として、海軍ではなく帝国陸軍に入営。
フィリピンに運ばれる途中、乗っていた8万5千トンの輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈される。3千5百人の同乗兵が海のもくずとなって戦死。海を票流中に偶然に駆逐艦に助けられ、別の船に移って島へ行く途中、再び魚雷に沈められた。それでも、著者はしぶとく生き残った。同期の船舶工兵1200人のうち唯一生き残ったことから、上官から「1200分の1」と呼ばれるようになった。それで、金鵄(きんし)勲章をもらうことになった。
いま横浜港につながれている氷川丸は病院船としても活躍しましたが、実は、兵器輸送船として活用されていたというのを初めて知りました。制空権も制海権もアメリカ軍に奪われてしまった日本軍はインチキをしていたのです。病院船は赤十字をマークを大きくつけているので、敵から攻撃されることがない。そこで、日本軍は、弾薬、鉄砲、機関銃を氷川丸に積み込んで運んでいた。そして、多くの人が白衣を着ていた。
語り部(半田氏)は、戦場のむごい実際を包み隠さず語っています。戦場で死ぬかどうかというのは、まさに偶然。運が悪ければ、むなしく死んでいくことになりますし、大半の人が、そうやって戦病死していったわけです。そこには英雄的行為はありません。そんな力を発揮する前に亡くなっていったのです。本当に本人も残念無念だったことと思います。
フィリピンの山中にいて、しばらくアメリカ軍による攻撃に対抗していった。フィリピンのアメリカ軍収容所に入れられたあと、日本に帰ってきた。こんな日本人もいたのですね...。みんながみんな、語り部のような強運の持ち主だということはありえません。
(2021年2月刊。税込1980円)

2021年6月22日

中国戦線、ある日本人兵士の日記


(霧山昴)
著者 小林 太郎 、 出版 新日本出版社

南京攻略戦・徐州作戦に参加した日本人兵士が毎日のように日記をつけていて、日本に持ち帰ったものが活字になっています。写真もついているという、大変貴重な日記です。
内容は、日本軍の兵士たちが中国人を見境なく殺戮(さつりく)していくのですが、悪びれたところがまったくありません。日本では良き夫であるような人が中国戦線では平然と罪なき人々を殺し、食糧をふくめて財物を略奪しても罪悪感が皆無なのです。同時に、日記では身近な兵士仲間が次々に戦病死していくことも記述されています。末端の日本人兵士たちは、罪なき中国人にとっては残虐な加害者でしたが、同時に日本政府・軍部の被害者でもあったことがよく分かる日記です。
それにしても、よくぞ日記を日本に持ち帰った(できた)ものです。そして、写真です。いったい、どこで現像していたのでしょうか...。
この日記には、有名な学者である笠原十九司、吉田裕のお二人が解説していますので、その作戦の背景がとてもよく理解できます。
著者は日本大学工学部を卒業したインテリです。なので、南京攻略戦のときには発電所の修理に従事していたので、南京大虐殺を直接には目撃していないようです。
歩兵二等兵(27歳)から上等兵になり、病気で本国送還されて、1939(昭和14) 年に満期除隊(このとき29歳)しています。私の父も病気で中国大陸から台湾に送られ、日本に戻ることができました。戦地では病気すると生命が助かるんですね...。
第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属し、上海戦、南京攻略戦、徐州作戦、そして武漢三鎮の軍事占領という、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。
よくぞ生きて日本に戻れたものです。強運の持ち主だったわけです。
欧米の軍隊は、大作戦が終了すると、しばらく休暇ないし本国帰還などがあるが、日本軍には一度もなかった。そのうえ、現役除隊の期日がきても、一方的に延期され、継続しての軍隊生活を余儀なくされた。そうなんですよね、人権尊重という観念は日本軍にはまったくなかったのです。
南京大虐殺を否定する言説をなんとなく信じこむ日本人が少なくないのは、「やさしかった父たちが、中国戦線で残虐な虐殺なんかするはずがない」、「誠実で温厚な日本人が、虐殺事件を起こすなんて考えられない。中国側が日本人を批判するためにでっちあげたウソだ」という言説による。しかし、日本国内では人間的に善良な日本人であり、地域や職場で誠実であり、家庭において優しい父や息子であった日本人男子が、ひとたび日中戦争の厳しい戦場に送られると、中国人を平気で虐殺し、残虐行為をし、中国人からは「日本鬼子」と怖がられる日本兵になっていた。
日本軍が上海戦で苦戦したのは、ナチス・ドイツが中国軍に武器(たとえばチェコ製機関銃)を供与し、トーチカ構築を指導し、またドイツ人軍事顧問を送り込んでいたことによる。
ヒトラーは、「日本にバレなければかまわない」という態度だった。すでに日独防共協定を結んでいたのに...です。
蒋介石の国民政府は70個師団、中国全軍の3分の1、70万人の兵力を上海戦に投入した。戦死者は25万人。日本のほうも19万人もの大兵力をつぎこみ、戦傷者4万人以上(戦死者も9千人以上)を出した。
日本軍は、「皇軍兵士は捕虜になるな」という考えだったので、中国軍に対しても、捕虜として保護することはしなかった。つまり、直ちに殺害した。それには、そもそも自分たちの食糧さえ確保できていなかったことも大きい。
これまでの通説は、日中全面戦争は、無謀な陸軍が国際的で平和的な海軍を強引に引きずりこんだというものだった。しかし、歴史事実は逆。海軍航空隊は首都南京に対して宣戦布告もしていないのに戦略爆撃を敢行した。それは、50回以上、のべ5330機あまり、投下した爆弾は900トンあまりというものだった。
南京攻略戦の責任者であり、大虐殺の責任者でもある松井石根大将は、成績優秀であったのに同期の大将のなかでは一番出世が遅れ、いちはやく予備役に編入されていた。そこで、59歳の松井は、軍功をあげる最後のチャンスとして南京攻略戦をとらえていたのではないか...。そして、それいけドンドンの武藤章大佐がそれを支えていた。
どこの世界でも、口先だけは勇ましい人に、慎重派はかないませんよね...。
著者の所属する第16師団は、9月に京都を出発していて、防寒の装備はもっていなかった。そして、食糧の供給も十分でなかった。なので、日本部隊は、いわば強盗集団の軍隊だった。これが輝ける「皇軍」の実際の姿だったんですね...。
そして、著者は捕虜として中国兵を日本軍を虐殺(即決殺害)した写真を撮って、日記に添付しています。
南京にいた唐生智という司令官は、近代戦の知識も経験もなく、南京防衛戦を指揮する実力もないのに、野心から名乗り出て、防衛軍事司令官に任命された。しかし、自分たちだけはいち早く脱出し、部下の膨大な中国軍を置き去りにした。いやはや、日中双方とも、ひどい司令官だったのですね。なので南京大虐殺はいわば必然的に起きてしまったということです。この事実は、消しゴムで簡単に消せるものではありません。
いやはや...、日本人にとっては、とても重たい事実です。でも目をそむけるわけにはいきません。ぜひ、図書館で注文してでもご一読ください。
(2021年3月刊。税込3960円)

 日曜日の午前中、フランス語検定試験(1級)を受けました。1995年以来この25年間、欠かさず受けています。とても難しくて、まるで歯がたちません。長文読解と書き取りでなんとか4割近い55点(大甘の自己採点です。150点満点)をとりました。はなから合格(6割超)はあきらめています。3割を突破して、4割、あわよくば5割に達したいと願っています。
 この2週間ほど、朝も夜も、25年分の過去問をふくめて、一生懸命、フランス語を勉強しました。年に2回、大学の教室で試験を受けると、大学生に戻った気分になります。ボケ防止を兼ねて、続けるつもりです。

2021年6月10日

後期日中戦争


(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版 角川新書

著者は後期日中戦争が混迷した主たる要因の一つは、日本が日中戦争に明確な目的を示せなかったことにあるとしています。盧溝橋での偶発的な衝突により始まり、関東軍の出先幹部の暴走であり、日本政府や陸軍中央が組織的計画によってすすめたものではない、というのです。
「東亜新秩序の建設」という抽象的な大義名分では、日中両軍の軍事衝突を止める効果はなく、日本は何ら解決の糸口を見出せないまま、強国である米英を相手とする太平洋戦争まで始めてしまった。
目的なき日中戦争を始めた時点で、日本の敗北は事実上決まっていた。日中戦争の後半は、その作戦の大半が、太平洋戦線の展開に大きく影響を受けながら立案・実施されている。第二次長沙作戦は、香港作戦を容易にするための防動作戦。浙かん作戦は、ドーリットル空襲への反撃、湘桂作戦(一号作戦)はアメリカ空軍による日本本土空襲を防止するための中国南西部敵飛行場攻撃が目的だった。
太平洋戦争に引きずり込まれた中国戦線は、国民政府のある中国奥地の重慶方面へ進むよりも、南方戦線に近い中国南部から西南部方面へと広がった。日中戦争は、ゴールの見えない、果てなき戦いとなった。
日本が敗戦したあと、蒋介石がすぐに日本軍を武装解除しなかったのは、すでに強大な勢力となっていた八路軍の動きを抑える目的があった。しかも、蒋介石とその部下の多くは若いころ日本に留学して陸軍士官学校などで訓練を受けた経験があり、岡村寧次総司令官をはじめとする日本陸軍の将校らと実は親しい関係にあった。これは知りませんでした...。
浙かん作戦前年の1941年の時点で、日中戦争での日本軍の戦没者の半分は、戦いで命を落とす戦死ではなく、戦病死だった。日本軍将兵の敵は中国軍と病の二つだった。しかも、その病は、実は、日本軍の七三部隊がまいたペスト菌などによるもので、まさしく自業自得だった。いやはや、なんということでしょうか...。そして、日本軍は細菌だけでなく、毒ガス兵器もつかっていたのです。
日本が一号作戦のため第三師団など華中にあった主力部隊を南下させたことから、八路軍と新四軍は、その軍事的圧力から解放され、本格的な反撃に転じることができた。一号作戦は8ヶ月に及んで日本本土空襲を阻止するための敵飛行場の占領を達成することができた。しかし、そのときには、さらに奥地の飛行場から次々にB29が飛び立って日本本土を襲っていた。つまり、第三師団をはじめ、第11軍の将兵が命がけで戦い抜いた一号作戦は、結局、劣勢な戦況を打開することはできずに終わった。
軍人の単純な頭に国のカジ取りをまかすことはできないということですよね。
昔のバカな話と思ってはいけません。今の自衛隊のトップたちのなかにも議員バッジをもって日本の国政を左右しようと考えている人々が次々とうまれていることを忘れてはいけません。彼らは、国民を守るのではなく、国を守ると称して、軍需産業と自分たちの利権を図っています。それが残念ながら戦争をめぐる古今東西の不変の事実です。
(2021年4月刊。税込1012円)

2021年5月21日

私は八路軍の少年兵だった


(霧山昴)
著者 藤後 博巳 、 出版 岡本企画

著者は1929(昭和4)年生まれですから、1945年の終戦時は15歳。
関東軍の兵士とともにシベリア送りにされようとしたところを少年だからとして免れたのに、今度は八路軍に協力させられ、いつのまにか、その兵士となって中国各地を転戦し、ついには朝鮮戦争にまで従軍させられそうになったという経歴の持ち主です。
幸い、1955(昭和3)年に日本へ帰国し、その後は、日本で日中友好運動に従事してきました。実は、私の叔父(父の弟)も同じように終戦後、八路軍と一緒に何年間か行動していました。
八路軍は「パーロ」と呼ばれた、今の中国人民解軍のこと。第二次国共合作(国民闘争と中共軍の合体)によって、国民党政権が、赤軍を「国民革命軍第八路軍」と呼ぶようにした。第八番目の部隊という意味。そして、日本敗戦後、八路軍は「連軍」に編成された。連軍(八路軍)は、中国内でアメリカの支援を受けた国民党軍と内戦を始めた。
このとき、八路軍は、「三大規律、八項注意」ということで、高い規律を守り、中国の民衆から絶大な支持を得て、武器に優れ、人員も多い国民党軍を圧倒していった。
著者たち元訓練生たちは、中国の革命戦争のために「留用」ということで参加させられた。連軍(八路軍)は人材不足のなかで国民党軍との戦いで苦戦を強いられていたので、日本人技術者の協力が必要だった。分野別では医療関係が際だって多く、続いて鉄道・電気技術者。医師やエンジニアが不足していた。衛生人員だけで3千人をこえた。
日本人の「参軍」は受動的・後向きで、進歩的・積極的なものではなかった。著者も、生活のためには連軍に従うほかなかった。そして、連軍担架兵として100人ほどの日本人と一緒に八路軍に組み込まれた。16歳のとき。少年兵としての好奇心は強かったが、内心では八路軍・中共への反発心も非常に強かった。
著者は第四野戦軍に配属されたが、司令官はかの有名な林彪だった(1971年にモンゴルへ逃亡しようとして失敗し、死亡)。
当初は、日本人たちは八路軍の兵士たちとよくケンカしていたとのこと。やがて、分散配置されて、兵士に溶けこんでいったようです。
著者は、凍傷でやられてハルピン近くの病院に入院したところ、そこの医師・看護婦のほとんどが日本人だったとのこと。
1万人ほどの日本人が中国の内戦に深く関わっていたようです。そう言えば、国民党軍に組み込まれた日本軍の部隊もありましたよね...。
そして、朝鮮戦争が始まってから、中国人民志願軍のなかに日本人兵士が少なくとも300人、1000人近い人数だったと推定されているとのこと。これは知りませんでした。
著者は1955年に12年ぶりに日本に帰国しました。26歳になっていました。
著者は92歳。お元気のようです。叔父も90歳をはるかに超えて、長生きしました。中国では粗食だったようですが、それがためにかえって頑健になるのでしょうか...。
(2020年1月刊。1000円)

2021年3月24日

歴史否定とポスト真実の時代


(霧山昴)
著者 康 誠賢 、 出版 大月書店

「反日種族主義」という耳慣れないコトバを、最近、あちこちで見かけるようになりました。
韓国人はウソの文化、物質主義とシャーマニズムにとらわれている種族であり、隣国日本への敵対感情を表していると主張するためにつくった新造語。韓国人がつくったコトバで、この本が韓国で10万部も売れたというのです。驚きます。まあ、アメリカでトランプを熱烈に信奉する人たちがいるのと変わらないのでしょうね...。
日本でも、この本が40万部も売れたというのですが、それまた信じられません。ヘイトスピーチと同じ現象なのでしょうね。
日本では、「反日種族主義」は文在寅政権に反対する感情と緊密につながっていると指摘されていますが、そのとおりだと私も思います。
日本人のなかに朝鮮半島を植民地として支配し、朝鮮人を隷属する人々と見下していたのを、今なお受け継いでいるとしか思えない人たちがいるようです。とても残念だし、悲しいです。
韓国では、パク・クネ大統領が弾劾されて失脚するまで、社会指導層の破廉恥な嘘のオンパレードが続いていた。
ええっ、これって、まるで今の日本の政治そのものじゃないの...。思わず叫びそうになりました。アベ首相のときに、嘘と嘘があまりにも多く積み重ねられ、官僚が忖度(そんたく)ばかり、そしてスガ首相になっても同じこと、いや、それ以上に、首相の子どもまで表舞台におどりでて、官僚は超高額接待漬けになってもシラを切る。かつて、「我こそは国を支える」、という気概をもっていた(はず)の官僚のホコリは、今やどこにも見当たりません(残念です)。
日本軍「慰安婦」を「性奴隷」ではなく、稼ぎのよい「売春婦」にすぎないという反論があります。それなりに信じている人もいるそうですから、嫌になります。中曽根康弘元首相も「慰安婦」は日本軍が管理していたことを堂々と認めているのです。軍の管理と言うもののもつ重みを軽視してはいけません。
自由意思の「売春」というのは、現代の日本でも、どれだけあるのか、私には疑問です。ましてや戦前の日本に、そして、そこに日本軍が関わって「自由意思」なるものがあるなど、私には想像もできません。
そもそも、戦前の日本では女性は法的主体になれなかったのです。フツーの女性でも選挙権はありません。そこにあるのは、まさしく人身売買システムだったのです。そのベルトコンベアーに乗せられていた女性に向かって、自分の意思で乗ったんだろ、落ちて死んでも自己責任だろ、と放言しているようなものだと思います。それは許せません。
女性は日本軍の軍票をもらっていたようです。それも高額の軍票を...。ところが、現実には、そんな「高額の軍票」は、何の役にもたちませんでした。これは、ナチス・ドイツが政権を握る前のドイツ、マルクのように、価値のないものでしかありませんでした。高い「報酬」をもらって、いい思いをしていたなんて、とんでもないと私は思います。
歴史をあるがまま受けとめるのは、どこの世界でも難しいことなんだと、つくづく思わせる本でもありました。過去を美化したいというのは、誰だってもっていますが、それが後世の人を誤らせてはならないと思います。
やや読み通しにくい記述の本ですが、なんとか読了しました。
(2020年12月刊。税込2640円)

2021年2月25日

傷魂


(霧山昴)
著者 宮澤 縦一 、 出版 富山房インターナショナル

ヴァイオリニストとして有名な黒沼ユリ子の師匠でもあった音楽評論家の著者が第二次大戦中にフィリピンで九死に一生を得た過酷な体験を、帰国した翌年1946年に忘れないうちに書きつづったものが復刻された本です。
著者は、生還者の義務として、思い出してもゾッとする、あの過ぎしころの悪夢のような出来事と、現地の実相を、ただありのままに世に広く発表したいと思い筆をとったのでした。
著者が召集の赤紙を受けとったのは1944年(昭和19年)5月5日。3日後の5月8日には目黒の部隊に入隊した。そして、輸送船に詰め込まれて台湾へ、そしてフィリピンに運ばれた。この輸送船は、「ああ堂々の輸送船」と歌われていたのは真逆の奴隷船、あるいは地獄船だった。船底に近い最低の場所に詰めこまれ、熱いのに水は飲めない上古湯で、着たきりスズメ。そこをシラミがはいまわった。そして、潜水艦に狙われる。
「将軍商売、下士官道楽、兵隊ばかりが御奉公」
そして、フィリピンに上陸。ミンダナオ島に着く。やがてアメリカ軍が空から飛行機で襲撃し、海から砲撃されるようになり、食糧に苦しんだ。中指ほどの芋1本か2本が兵隊たちの一食分。それで、カエル、ヘビ、ネズミを食べたが、それはまだ上の部類の料理。銀トカゲを食べて嘔吐した者、死んだ水牛を掘り出して下痢した者、オタマジャクシやカタツムリが試食された。
敗残兵となって山奥へ逃げていく。裸足(はだし)にわらなわを二重三重に巻きつけて、ぬかるみの坂道をのぼっていった。軍紀も軍律も敗残兵たちを拘束する力をもたなくなり、上官の命令が下級者に徹底しなくなった。かえって上官が下級者のきげんをとるようになった。上官をバカにしだした兵隊たちは、頼りない上官を相手にせず、気のあった仲間と連れだって勝手に行動しはじめた。
ついにアメリカ軍の砲撃で足をケガした。何の手当もできない。すると、3日目は、小さく細いウジ虫が傷口いっぱいにウジャウジャと固まり、1週間もすると、大きな白いウジ虫までもはいまわり始めた。そのうえシラミが身体中をはいまわり、やたらとむずがゆい。10日ものあいだ、はんごうにたまった雨水をのむだけ...。
手榴弾を石に叩きつけて自決しようとするが、なんと不発弾。そして、身動きできないところにアメリカ兵がやってきて、取り囲まれた。アメリカ兵はタンカを持ってきて、ジャングルから基地へ運んでいく。「いつ殺されるのか」と訊くと、「心配するな、病院に行くのだ」という答えが返ってくる。半信半疑の状態だった。
京都帝大法学部出身の著者は英語で、「起きられない、歩けない」と言ったのでした。
そして、赤十字の車をみて平和の生活をとり戻せたのでした。奴隷から自由人に戻ることができたのです。著者は、日本に帰国してから南方の戦地の実情をたずねられたそうです。
ネズミの塩焼きは、焼き鳥の味に似て、うまいうまいと言って喜んで食べていたと答えたとのこと。
フィリピンで死んでいった日本兵の戦死者たちは、戦闘どころか、一発の弾丸も撃つことなく、戦争を呪(のろ)い、軍閥を恨んで死んでいった者が絶対多数だった。このように著者は自らの体験を見聞した状況から断言しています。そして、それが日本国内にきちんと伝わっていないことに、もどかしくこの体験記を書いたのです。絶対に忘れてはいけない戦争体験記だと思って最後まで読み通しました。
(2020年11月刊。1300円+税)

2021年2月17日

難民たちの日中戦争


(霧山昴)
著者 芳井 研一 、 出版 吉川弘文館

日本の無謀な大作戦が日本政府トップの無理な指示によるものだというのを改めて認識しました。1944年4月から1945年2月にかけて中国大陸で展開された大陸打通作戦のことです。この作戦は、日本の陸軍史上最大の50万人もの兵力を動員した。それは、日本国民の戦意喪失を防ぐために、アメリカ軍の対日空爆基地をつぶすという大義名分の大作戦。
ところが、実際の参加兵力は41万人、作戦距離2000キロという大作戦は、制空権がないなか、補給もほとんどないという無謀な行軍と戦闘を余儀なくされた。
したがって、現地の日本軍は食糧は現地調達、つまり現地で掠奪するしかなかった。ところが、中国の民衆はほとんど逃亡し去っていて、掠奪すべき食糧は残っていなかった。
また、41万人の日本兵のうち、10万人ほどはほとんど未教育の補充兵だった。食糧が現地調達できない日本兵は下痢、栄養失調、コレラで次々に死んでいった。第58師団は、出発時1万3849人だったのが、敗戦時には7388人と生存者は半分だった。
そして、この無謀な大作戦のきっかけは1942年4月の日本本土初空襲のドゥリットル空襲だった。日本本土がアメリカ軍による空爆の射程内に入ったことは、一般国民に突然、戦争の前面に立たされたという感覚をもたらし、士気に影響するところが大きいと政府当局は判断した。なので、日本への空襲のためのB52の離着陸可能地にある中国の飛行場を破壊することが最優先される作戦が考えられ、実施された。これをリードしたのが東条英機首相だった。
1938年に広東爆撃から重慶爆撃へと中国の都市爆撃を拡大していった日本軍指導者は、1942年の首都東京の電撃空襲を受けて、冷静な作戦の見通しと判断を見失った。
総力戦をうたっていた東条首相以下の日本政府と軍部のトップにとって、国民の継戦意志を確保するため、つまり国民動員のために必要な不可欠と判断した。そこで、現地作戦軍の意向を無視して押し付けた。
しかし、この大陸打通作戦の終末期には、アメリカ軍は中国大陸にある航空基地を利用することなく、日本本土を空襲するようになっていた。すなわち、アメリカ軍は、1944年の6月、マリアナ沖海戦で日本海軍の空母や航空機に壊滅的打撃を与え、7月にはサイパン島、グアム島そしてテニアン島に上陸して占領した。7月からは、日本本土爆撃基地は中国本土からマリアナ諸島に移された。11月には、マリアナ基地から飛びたったB29爆撃機70機が東京を本格空襲した。
日本軍の中国大陸での戦面拡大によって厖大な難民が生まれた。難民が一番多かった河南省では、1942年から43年にかけて200万人もの人々が餓死等で死亡し、300万人が難民として他省に流出した。これには、1938年の国民党軍による黄河の決潰も大きく影響している。しかし、それも日本軍の侵攻への対抗策としてなされたもの。
中国大陸への日本軍の侵攻作戦について、日本の指導部と現地作戦群の思惑が見事にずれていて、現地軍の独断専行がひどかったことは他の本でも再三指摘されています。
日本軍は、現地の中国人をなんとか手なづけようと、満鉄社員のなかから52人を指名し、その経験を生かした宣撫(せんぶ)班を7つも組織した。まあ、しかし、日本軍が近づくと中国の民衆のほとんどはまたたくまに逃げ出してしまったのでした。
日本軍は、1938年6月から国民政府の首都になっていた武漢を目ざした武漢作戦を開始した。30万人以上の兵力が動員され、戦死者6558人、戦傷者1万7040人、病者10万5945人という大消耗戦となった。このとき、日本軍は占領地の多くで治安体制を整えることができなかった。このころ、陸海軍は、軍事費のさらなる拡大を追求していて、30億円以上もかけて武漢作戦に着手したかった。いわば、自分たちの権益を守るために大勢の若い日本人を死地に追いやったわけです。もちろん、その「敵」は中国人民でした...。
1938年5月、日本軍は広東市内を突然に空襲した。これは、日中戦争の帰趨を左右するほど大きな国際的影響があった。要するに、フツーの市民を爆撃した日本はけしからんという全世界の世論の声を招いてしまった。このとき、「軍事施設に限って」日本軍が空襲した事実はなく、むしろ日本軍は、意識的に民家を狙って空爆していた。これと同じことをアメリカ軍も日本を空襲したときにやったわけです。カーチス・ルメイ将軍は、日本を石器時代に戻すと豪語したのです。そのカーチス・ルメイに対して、日本政府は戦後、大勲章を授与したのです。いったい日本国民の生命、財産を政府はなんと考えているのでしょうか...(プンプン)。
日本史も切り口によって新しい視点を身につけることができることを実感させられた素晴らしい本です。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年10月刊。1800円+税)

2021年2月 4日

「非国民な女たち」


(霧山昴)
著者 飯田 未希 、 出版 中央公論新社

女性の美に対するあこがれの強さに改めて驚嘆させられました。なにしろ空襲下でもパーマネントを離さなかったというのです。
「ぜいたくは敵」
「パーマネントはやめませう」
という世の中でも、戦前の日本女性は上から下まで(上流階級だけでなく)、パーマネントをかけようと、徹夜してでも、早朝からパーマネントをかけるべく行列をつくっていたり、木炭パーマネントにつかう木炭なら、食事づくりの木炭をまわしてでも、ともかくパーマネントを優先させていたというのです。
「石を投げられてもパーマをかけたい」
「非国民」とののしるほうがおかしいと、日本の女性は開き直っていたのでした。
いやはや、「常識」ほどあてにならないものはありません。戦前の日本女性はパーマをかけず、黙ってモンペをはいて、防災訓練と称するバケツリレーをしていただなんてイメージがありますが、とんでもありません。
戦前、洋裁に憧れて地方から上京してきた女子学生たちは、まずパーマネントをかけるのが「慣例」だった。それは学校側が止めてもきかなかった。
戦火が激しくなった1940年を過ぎても、パーマネントをかける女性が減るどころか増えていた。
それは工場でも同じこと。女工たちはパーマネントをかけ、スカートの美しさに気を使っていた。モンペの着用は広がらなかった。
1943年の大日本婦人大会で「パーマネント絶対禁止」が決議されているが、それだけパーマネントは流行していたということ。実際、パーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院があり、店の前には順番待ちの女性の行列があった。
パーマネント機を設置する美容店は、1939年に800店で1300台のパーマネント機があったが、1943年には1500店で3000台になった。
パーマネント機が国産機として普及するようになって、35円だった代金が10円から15円になった。それでも、高額ではあった。国産パーマネント機は製造しても、すぐに売り切れるほど需要があった。
日本一の美容院チェーンだった丸善美容院は、1937年ころ、全国に35店舗、6百数十人の従業員を擁していた。大阪の本店には、1940年に1日の総売上高1万円をこえるのも珍しくなかった。1人7円なので、1日1400人以上が来店していたことになる。
上流層の女性はパーマネントをかけるのは「当然」のことだった。陸軍省で働く女性たちにもパーマネントが流行っていた。
パーマネントは日本製がトレードマークの芸者たちのあいだにも広がっていた。
木炭パーマ。戦争が激しくなってきて、電気を使えなくなり、パーマは炭火ですることになった。客がもってくる木炭がなければ木炭パーマはかけられない。そして、主婦が配給の炭を節約してでも自分のためにパーマネント用の木炭を店にもってきた。
いやあ、さすが日本の女性だと、すっかり見直しました。大和撫子は、政府の言うとおりに踊らされてばかりではなかったのです...。
ついつい目を見開いてしまう驚きに満ちあふれた本でした。
(2020年11月刊。1700円+税)

2021年1月22日

戦争と弾圧


(霧山昴)
著者  纐纈 厚 、 出版  新日本出版社

 戦前に特高警察として共産党弾圧を指揮し、戦後は公職追放のあと国会議員として「建国記念の日」の旗振り役となった纐纈弥三の一生をたどった本です。著者は同じ纐纈姓なので、ひょっとして身内なのかと思いましたが、同じ岐阜県の出身ではあるけど、親族ではないとのこと。ただ、纐纈弥三が衆議院議員のとき、著者の家にも選挙の挨拶に来たのだそうです。
この纐纈(こうけつ)という名前は岐阜県の美濃地方では珍しい名前ではない。纐纈の読み方にはこうけつのほか、くくり、あやめ、はなぶさ、こうげつ、きくとじ、こうしぼり、こうけんなど、いくつもあるというのにも驚かされます。
 纐纈というのは、絞り染めからきていて、江戸中期までは上級武士の晴れ着として珍重されていたとのことです。あの『蟹工船』の作者である小林多喜二を無惨にもまたたくまに虐殺した特高警察を許してはならないと私は心底から思いますが、その虐殺の状況、下手人たちは今なお明らかになっていません。纐纈弥三とか毛利基とか課長連中がどれほど関与していたのか、本人たちは戦後になっても白々しく何も語りませんでした。その意味では、嘘を国会で118回も繰り返して恥じないアベ前首相とウリふたつです。
纐纈弥三は、一高から京都帝大に行き、内務省に入りました。あとは特高警察や県知事などの要職を歴任しています。この本は、纐纈弥三の日記(全部ではありません)によって、その私生活にも触れつつ、戦前の日本の民主主義が崩壊されていくなかで特高警察がいかに危険な役割を果たしたのかを明らかにしています。要するに、日本が帝国主義侵略戦争を仕掛けていくとき、その障害物を除去するため、特高警察は共産党を真っ先に弾圧し、そして、戦争遂行を妨げる民主主義を圧殺してしまったのでした。
 ところが、そんなひどいことをした特高警察が戦後の日本で見事に復活し、大手を振るって国政の表舞台に登場してきたのです。それが今の自民党にそっくりつながっています。これがおぞましい日本の現実です。いま選挙のときに投票に行かないということは、そんな現実を下支えしているということにほかなりません。
戦後、戦前の軍国主義に加担した政治家や官僚たちに対してGHQは公職追放したのは10万人。ところが、ドイツでは110万人が公職追放された。日本はドイツの1割でしかない。しかも、特高警察に属する下級警察官は職を失って路頭に迷ったが、上級官僚たちは、みるみるうちに要職に返り咲いた。警察の特高課長経験者が自民党の国会議員になった人物が紹介されていますが、なんと総勢で54人(特高課長と同種の肩書をふくみます)にのぼります。えぇっ、自民党って特高課長の党だったんだね...と驚き。呆れてしまいます。ここにも日本人特有の忘れっぽさがあらわれているようで嫌になります。
特高課長として無惨な拷問を指揮命令して纐纈弥三ですが、日記によると、子煩悩のようであり、子どもや妻を亡くしたときの悲しみは、人間らしいものが十分にうかがえます。つまり、新しい身内には人間らしい情愛を尽くす一方で、「敵」と思い込んだ共産主義者などに対しては人を人と思わぬ残酷さを発揮するのです。これは、ヒトラー・ナチスの幹部たちとまったく同じです。
戦前の「3.15事件」という1928年(昭和3年)におきた日本共産党弾圧事件。日本の侵略戦争のもう一つの表現であった。戦争と弾圧が表裏一体の関係で強行された典型的な歴史事例である。日本の戦争は、弾圧なくして強行できなかった質を内在したもの。つまり戦争と弾圧は一体のものであった。
 著者によるこの指摘は、まさしくズバリ本質を突いている。私はそう思いました。
 纐纈弥三と同じころ共産党弾圧に関与していた人物は「共産党の取り締まりをやっているときが一番楽しかった。このころ田中義一内閣は山東出兵を強く出兵する方針で、そのために戦争反対を叫ぶ共産党の存在がたんこぶだった」と戦後に語ったとのこと。寒気を覚えるほど、おぞましい告白です。そして、纐纈弥三は、戦後、自民党(今の自民党の前身をふくみます)の国会議員として「建国記念の日」を定めるのに執着しますが、その頭のなかには神武天皇が実在していたという。まるで非科学的なイデオロギーにみちていました。
 これまた、おぞましい事実です。これは日本会議の源流の一つなのでしょうね...。
(2020年10月刊。2200円+税)

2020年11月 4日

分隊長殿、チンドウィン河が見えます


(霧山昴)
著者 柳田 文男 、 出版 日本機関誌出版センター

下級兵士たちのインパール戦というサブタイトルのついた本です。
私と同じ団塊世代(1947年生まれ)の著者がインパール戦の現地ビルマからインドを訪問し、その体験で知りえたこと、戦史や体験記も参考資料として書きあげた物語(フィクション)なので、まさしく迫真の描写で迫ってきます。実際には、もっと悲惨な戦場の現実があったのでしょうが、それでも、インパール戦に従事させられ、無残にも戦病死させられた末端の兵士たちの無念さが惻惻(そくそく)と伝わってきます。
インパール戦には、1万5千人の将兵が従事し、1万2千人の損耗率、戦死より戦病死のほうが多かった。インパール作戦は、1944年(昭和19年)1月7日、大本営から正式許可された。すでに劣勢にあった日本軍がインドにあるイギリス軍の要衝地インパールを占領して、戦況不利を挽回しようとするものだった。インパールはインド領内にあり、日本軍は、そこにたどり着くまえに火力で断然優勢な英印軍の前に敗退した。
インパールに至るには峻険な山地を踏破するしかなく、重砲などの武器と弾薬そして食糧補給は不可能だった。ところが、反対論を押し切って第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将と、その上官にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三(まさかず)のコンビが推進した。大本営でも作戦部長(真田穣一郎)は反対したが、押し切られてしまった。
主人公の分隊長である佐藤文蔵は、京都の貧しい農家の二男。師範学校を退学させられ、応召した。そして24歳のときに軍曹に昇進して一分隊の指揮官に任命された。
英印軍は、山域に機械化部隊をふくむ精強な第20師団を配置し、強力な重火器類による砲列弾に日本軍は遭遇した。日本軍は小火器類しかなく、食料が絶対的に不足していた。そして、ビルマの激しいスコールは日本軍将兵の体力を消耗させていった。
第一大隊は、チンドウィン河を渡河した時点で1000人いた将兵が、これまでの戦闘によって、現時点では、1個中隊に相当する200人足らずの兵力に激減していた。そして、この将兵は、食料不足、マラリア、赤痢などの熱帯病におかされ、激しい雨によって体力を奪われてやせ衰え、その戦闘能力は極度に低下していた。
インパール作戦が大本営によって正式に中止されたのは、7月3日のこと。第15軍司令部が正式に知らされたのは1週間後の7月10日だった。あまりに遅い作戦中止決定だった。7月18日には東条内閣が総辞職した。
「戦線整理」という名ばかりの指揮系統のなかで、戦場に遺棄された将兵たちは、密林地帯から自力で脱出することを課せられた。激しいスコールに見舞われる雨季に入っていた。「白骨街道」が誕生することになった。
佐藤軍曹は2人の一等兵を鼓舞しながら、山中をさまよい歩きチンドウィン河を目ざしていくのでした。涙なしには読めない苦労の連続です。でも、ついに目指すチンドウィン河に到達し、やがて日本に戻ることができたのでした。もちろん、これはめったにない幸運な人々の話です。こんな無謀な戦争にひきずり込んだ軍部の独走、それを支えていた「世論」の怖さを、しみじみ実感しました。
あたかも生きて帰還した人の手記を読んでいるかのように錯覚してしまう物語(フィクション)でした。
(2020年1月刊。1600円+税)

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