弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年4月27日

満蒙開拓団

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版 岩波現代文庫

 満州開拓の動機が純粋であっても、その結末はあまりにも悲劇的だった。動機と結果のあまりにもひどい落差が満蒙開拓団の評価を難しくし、政策に関与した者たちの口を重くしている。
 でも、私には、「動機が純粋」と言えるのか、きわめて疑問です。満州に渡った日本人の大半は、いわば錯誤(錯覚)の状態だったと思います。誰の所有でもない未懇で未開発の原野を耕地に変えて、そこに移住するという動機をもっていたとしても、それは客観的な事実に反していました。「誰の所有でもない」のではなく、大土地所有者がいて、耕作者がいて、あいだに管理人もいたのです。未懇の原野もたしかにありましたが、開拓団の多くはすでに畑となっていたところに入植したのです。もちろん、前の耕作者を追い出し、今度は、労働力(苦力。クーリー)として雇傭したのでした。そして、耕作地(畑)は、安く買い叩いて、関東軍の武力を背景に追い出したのです。
 そのうえ、多くの開拓団は現地の中国人に対して優越感をもち、徹底して差別扱いしたのです。恨みを買うのも当然でした。それが日本敗戦後に、開拓団への襲撃として現実化し、多くの団員(主として女性、子ども、そして年寄り)が犠牲になったのです。
 中国人が今も忘れることのない9.18を現代日本人はすっかり忘れ去っています。1931(昭和6)年9月18日に、日本(関東軍)が満州事変を起こし、またたく間に満州領域を占領したのでした。翌1932年3月1日に、満州国という自他ともに認めるカイライ国家を「建国」しました。
 満州事変の前の日本は、世界恐慌の影響を受けて、不況のドン底にあった。なので庶民は明るいニュースを求めていた。満州事変のあと、大きな被害もなく、またたく間に日本が満州領域を占領するというめざましい戦果をあげたことは、庶民を熱狂させるものだった。
 1933年4月、関東軍は「日本人移民実施要網案」を正式に決定した。
 同年7月、試験移民団が満州に入ったが、500人の団員のうち退団者がたちまち1割以上の60人にものぼった。それは、満州の厳しい気候に耐えられず、匪族から襲撃を受けたからだった。
 1934年2月には、現地住民が集団で蜂起した(土竜山事件)。
 1936年の二・二六事件のあと、広田弘毅内閣は8月に七大国策を定めたが、その六番目に、満州移民政筆をかかげた。満州移民は正式に日本の国策となった。
 1945年8月9日、ソ連軍が満州に進攻してきた。対する関東軍は、その精鋭が南方へ転出していて、まさに「張り子の虎」状態。圧倒的な火力をもつソ連軍の攻勢そして現地民の襲撃も加わって被害甚大の結果をもたらした。開拓団27万人のうち、7万人以上が亡くなった。そして、大量の残留婦人と残留孤児が発生した。
 国策に盲目的に従うと、ろくな目にあわないという典型が示されています。現代日本にも生きる教訓だと思いました。
(2023年2月刊。1500円+税)

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