弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2024年1月 4日

硫黄島上陸


(霧山昴)
著者 酒井 聡平 、 出版 講談社

 クリント・イーストウッド監督の映画2部作でも描かれた日米最大の激戦地である硫黄島に遺族の一人であり、新聞記者でもある著者が3度も上陸した体験記を中心とする本です。  
硫黄島(「じま」と読むと思っていると、この本では「とう」と呼んでいます)での日本軍の激闘は1945年2月19日に始まり、3月26日に終了した。その組織的戦闘は36日間で終わったが、なお残存兵は散発的にアメリカ軍と戦った。結局、守備隊2万3000人のうち、戦死者は2万2000人。致死率95%。生存者は1000人しかいない。そして、戦没者2万2000人のうち、今なお1万人の遺骨は見つかっていない。
 日本政府が遺骨収集にまったく取り組まない時期が長く続いたうえ、今も細々としか遺骨収集作業は進められていない。
 この本を読んで、日本政府が熱心に取り組まなかった大きな理由の一つが分かりました。それは硫黄島が戦後、アメリカ軍の核兵器貯蔵庫として利用されていたことです。そんな島にアメリカ遺骨収集団を上陸させようとするわけがありません。
 そして、アメリカ軍の訓練基地として使われてきました。艦載機の離発着訓練(タッチ・アンド・ゴー)がなされたのです。厚木基地のような周辺に民家があるところと違って、ここは民間人がまったくいないので、誰からも文句は出ません。
まあ、それにしても、硫黄島に上陸するのが、こんなに大変なことだとは...、思わず溜め息が出ました。
いま、硫黄島は緑豊かなジャングルの島になっている。ただし、硫黄島は、当時も今も川がなく、雨も少ない、渇水の島。遺骨を探しに地下壕に入ると、内部はとんでもない熱さで、1回の作業は10分が限界。一酸化炭素の濃度も高いので、危険がある。そして、人間にかみつく、大きなムカデがいる。
硫黄島では自由な取材が原則として禁止。カメラの持ち込みも禁じられている(この本には許可を得て撮った写真はあります)。
人骨の年齢を推定する鑑定人がいる。たとえば、恥骨の結合部。若いころは波打っていて、そのうち加齢とともに平らになり、でこぼこ穴が空いてくる。また、頸椎のしわは、年齢とともに減っていくので、その減り具合から、年齢が推測できる。
硫黄島で日本軍守備隊は総延長18キロメートルの地下壕を駆使して持久戦を繰り広げた。地熱によって地下壕内部は70度にも達する。
アメリカ軍が占領したあと、硫黄島はB29の緊急着陸地となった。終戦までにのべ2000機に達し、硫黄島はB29の天国とまで言われた。
硫黄島の日本軍兵士たちは、いつか必ず連合軍が現れ、アメリカ軍を撃退し、自分たちを救出してくれると信じていたようです。でも、実際には、東京の大本営は早々に硫黄島を切って捨てていました。短期で陥落するのは必至とみていて、応援してもムダだと考えていたのです。
硫黄島には、朝鮮人軍属が1500人ほどいた。これも忘れてはいけない歴史的事実だ。
フィリピンで日本軍将兵は52万人が戦死した。そのうち37万人の遺骨が収集されていない。
靖国神社に参拝するより、海外に放置されている日本軍将兵の遺骨を発掘して日本に連れ帰ることのほうがよほど先決だと、この本を読みながら、つくづく思いました。
 
(2023年11月刊。1500円+税)

2023年11月17日

龍の子を生きて


(霧山昴)
著者 二ッ森 範子 、 出版 こうち書房

 八路軍従軍看護婦の手記というサブタイトルのついた本です。
八路軍というのは中国共産党の軍隊です。日本が中国に侵略戦争を仕掛けていたとき、頑強に戦いました。蒋介石の国民党軍と一緒に日本軍と戦っていた時期もあります。国共合作によって誕生した名前です。中国では「パーロ」とも呼ばれていました。
そんな八路軍に日本敗戦後に大勢の日本人が参加しました。日本軍がアメリカに無条件降伏したといっても、中国現地の八路軍は装備は貧弱で、人員も足りていませんでしたから、日本人に「助っ人」を頼んだのです。
私の叔父(父の弟)も応召して関東軍の兵士(工兵)として山中で地下陣地を構築していましたが、八路軍の求めに応じて、紡績工場の技術者として戦後8年間、働いていました(1953年6月、日本に帰国)。私は、叔父の手記を基として『八路軍(パーロ)とともに』という本(花伝社)をこの7月に刊行しました。まだ読んでいない人は、ぜひ買い求めてください。少し付加、訂正したいところがありますので、改訂版を出したいのですが、売れゆきがかんばしくありません。どうぞお助けください。
山形県の山村で生まれ育った著者は、16歳(数え)のとき、満州に渡って看護婦になりました。満州の中央にあるハルビンの義勇隊中央医院が職場です。もちろん、初めは看護婦になる勉強から始まります。
待遇は、日本(内地)に比べるともったいないほど良かった。祭日には、お菓子もお餅もあった。満州に渡ってきた義勇隊の少年たちが次々に病人として運び込まれてきました。栄養失調と結核が目立って多かった。厳しい苛酷すぎる自然環境でした。
日本軍の敗戦(8月15日)の前、8月9日深夜、ソ連軍が突如として満州に、侵攻してきた。頼りの関東軍は、その精鋭部隊は南方戦線に送り出されていて、員数あわせだけで成りたっている、見かけ倒しの軍隊にすぎなかった。
ソ連軍のあとは、国民党軍がやってきて、ついに八路軍も姿をあらわした。国民党軍は規律のなさから現地の人々から総スカンを喰った。
八路軍は、日本人の医師や看護婦に対して、あくまで紳士的に、礼儀正しく、協力を要請してきた。そして、著者はそれに応じることを決断した。やがて国共内戦が始まりました。
共産党軍(八路軍)は当初、アメリカ式の最新兵器を有する国民党軍に追われていましたので、著者も八路軍と一緒に広い満州をわたり歩いたのでした。
著者が初めて出会ったときの八路軍の兵隊は、ノミとシラミ、そして垢(あか)にもまみれて行軍していた。こんなみすぼらしい軍隊が、最後には勝つだなんて、とうてい信じられなかった。しかし、負けるという気もしなかった。
病院は忙しく、毎日、大変だったが、暗い雰囲気はまったくない。毎日、変化があり、刺激的で楽しく、満ち足りた日々だった。
1948年春になると、八路軍は勢いがあり、進撃に転じていた。このころ著者は19歳の看護師で、1日40キロを行軍した。
著者たちは「三大規律、八項注意」の歌をうたい、「一日に3つは良いことをしよう」と決めて実践していた。
1953年4月、25歳の著者は日本に帰国し、宮城県にある坂病院で看護婦として働きはじめた。中国での看護婦としての大変さがよく伝わってくる手記でした。岡山の山崎博幸弁護士(26期、同期です)に紹介され、インターネットで注文して読みました。
(1995年12月刊。1500円)

2023年10月13日

朝鮮戦争・無差別爆撃の出撃基地・日本


(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 高文研

 朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月25日。北朝鮮軍が突如として韓国に侵攻してきた。以前は、韓国軍・米軍が北侵したのが始まりという説もありましたが、今では完全に否定されています。ソ連崩壊後に、いろいろ裏付資料が出てきました。
 そして、1953(昭和28)年7月27日に停戦協定が結ばれるまで、3年1ヶ月も戦争は続き、莫大な死傷者を出しました。アメリカ軍の戦死者は3万3667人。韓国軍は25万人以上で、民間人をあわせて100万人をこえる。これに対して、中国人民義勇軍の死者は少なくとも50万人、多ければ100万人。北朝鮮軍は50万人の死者と民間人200万人以上が死亡したとみられている。つまり、当時の朝鮮半島の人口3000万人の1割300万人が南北あわせて亡くなったということ。これは大変な数字です。
 この本を読むと、アメリカ軍の爆撃によって韓国北部と朝鮮がまさしく焦土に化したことがよく分かります。日本敗戦後の東京や広島の写真以上の惨状です。まったく荒野と化しています。そして、それを敢行したアメリカ空軍の出撃機数累計2万277機のうち、日本の横田基地から7531機、嘉手納基地から1万2746機が朝鮮爆撃に行っています。これは、大半が日本から出撃していって朝鮮を焦土と化したということです。
日本は朝鮮戦争のおかげで特需ブームに湧き立ち、目ざましい戦後復興を実現したのでした。いわば、他人(ひと)の不幸を自らの金もうけのタネとして復興したというわけです。
 ソ連は朝鮮戦争に表向きは参戦していませんが、実は大量の戦闘機とパイロットを北朝鮮軍に提供しています。ソ連製のミグ15戦闘機にアメリカの戦闘機のほとんどは対抗できず、唯一F86戦闘機のみが対抗できました。
 朝鮮半島の都市人口は、ソウル(京城)が77万人、平壌が22万人、あとはすべて10万人以下でしかなかった。農村に人々は住んでいました。
 アメリカ空軍はナパーム弾を大量に投下したが、そのナパーム弾15万個は、日本の工場でつくられた。
プロペラ機であり、速度の遅いB29は、ミグ15戦闘機の攻撃には弱かった。
 B29は日本の基地から出撃するにあたって、何度も墜落するなど事故を多発させたが、これは旧式化していたことによる。
日本の都市を太平洋戦争中にじゅうたん爆撃し、焼け野原にしてしまったアメリカ軍の指揮官、カーチス・ルメイは、朝鮮戦争のときは戦略空軍司令官だった。このカーチス・ルメイは、ソ連との全面核戦争をいかにして戦い抜くかにばかり関心があり、局地戦である朝鮮戦争にはほとんど関心がなかった。
 この一文を読むまで、カーチス・ルメイ将軍は、日本への無差別、じゅうたん爆撃の効果を踏まえて朝鮮戦争のときも、それを強引に実行しようと考えていたと想像していました。ところが、そうではなかったというのです。カーチス・ルメイ将軍(戦略空軍司令官)の影は朝鮮戦争では薄いのです。
朝鮮戦争の戦闘場面に少なくない日本人に参加していた事実があります。機雷掃海作業や軍需物資の輸送だけでなく、炊事夫や通訳として雇われていた日本人も兵士になっていたのです。
 そして、日本人が目のあたりにしたのが露骨な黒人差別でした。アメリカ人にとって、韓国人も北朝鮮人のいずれかが判明するのには骨が折れました。
 アメリカ人たちは、韓国人も北朝鮮人もグック、クーリー、また「訓練されたサル」とか「軍服を着た無知茡昧の苦力ども」とまったく差別意識まる出し、軽視のまま呼んでいました。自らの戦争犯罪を認めず、戦争責任をとらない点では日本もアメリカも同じ。都市や農村の無差別爆撃は国際法に違反する明らかな犯罪。でも、アメリカも日本も、まったく知らぬ顔をして今に至っています。
 朝鮮戦争を爆撃機の効果という点で、恐ろしさを実感できる本でした。
(2023年6月刊。2500円+税)

2023年8月 8日

下山事件


(霧山昴)
著者 柴田 哲孝 、 出版 祥伝社文庫

 1949(昭和24)年7月5日、初代の国鉄総裁・下山定則が朝から行方不明となり、翌7月6日未明に国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の中間地点で遺体となって発見された。いわゆる下山事件。ときは日本占領下、マッカーサーのGHQが日本を支配していた。
 下山総裁は国鉄合理化にともなう10万人規模の人員整理の渦中にあり、7月4日に第一次人員整理として3万700人の名簿を発表したばかりだった。このころ、7月15日には三鷹駅で無人電車が暴走して死傷者を出した三鷹事件、8月17日には福島県内で機関車が脱線転覆して乗務員3人が死亡した松川事件が起きていた。松川事件については政府は直後から共産党が犯人だと発表し、共産党関係者や国労の組合員などが逮捕・起訴され、いったんは死刑判決まで出たものの、被告人らのアリバイを証明する物証(諏訪メモ)が掘り起こされて、逆転無罪となった。GHQないしCIA等のアメリカ機関がからんだ謀略事件というのが今では有力となっている。
 この本は矢板玄(くろし)が代表をつとめるY機関(亜細亜(アジア)産業の別名)が関わっていたという説を中心として語られています。GHQのキャノン機関の下請け機関として、非合法工作にいくつも関わっていたというのです。著者の祖父は柴田宏(ユタカ)。1970(昭和45)年7月に69歳のとき病死した。
事件当時、下山総裁は、精神的にかなり追いつめられていた。下山総裁への殺人予告電話がかかってきた。
 失踪当日、下山総裁の行動はいかにも不思議なものだった。これは自殺しようとしている人の行動とは矛盾している。
 CIAをはじめとするプロの謀報員のプロパガンダには、一定の法則がある。その9割は「実話」で、残る1割に「虚偽」を挿入してカバーストーリーを構成する。たとえば、人名、地名、日時などを入れ替える。
 下山総裁の遺体はいかにも不審な轢死体であるのに、検視した医師は自殺だと断定した。これに対して布施健検事が疑問を呈した。東大の法医学教室(古畑鑑定)は、死後轢断と判定した。
下山総裁は腕の血管を切られ、血を抜き取られて死んだというCICの元協力者だった朝鮮人の証言がある。
田中清玄と西尾末広の二人は、下山事件の周辺に登場する。
 下山総裁の遺体が発見された大友野の轢断現場には、下山総裁が身につけていたはずのロイド眼鏡、ネクタイ、ライター、シガレットケース、シャープペンシルがついに発見されなかった。そして、右側の靴が大きく裂けていたのに、右足はまったく無傷だった。
 キャノン機関のキャノンは1981年、自宅のガレージで射殺体になって発見された。享年66歳。自殺とされた。
M資金はウィロビーのWを裏返しにしたらMになる。ウィロビーの裏金という意味。
 伊藤律も共産党の情報をどんどん持ってきていた、ただのスパイだ。
GHQは国防省、CIAは国務省。両者は敵対していた。
下山総裁が事件当日、3時間近くも休息したはずの末広旅館で、ヘビースモーカーなのに1本もタバコを吸っていないという。そして、女将の長島フクの夫は特高警察官あがり。現場は大きく左にカーブしている。戦前の中国・満州での張作霖爆殺事件のカーブと同じ構図だ。
 矢板玄は1998年5月、83歳で死亡した。矢板玄も統一協会の後援者だった。亜細亜産業は七三一部隊と奇妙な符号がある。
戦後の疑惑にみちた事件について、その真相に一歩迫っている本だと思いました。
(2017年5月刊。857円+税)

2023年4月18日

流れる星は生きている


(霧山昴)
著者 藤原 てい 、 出版 中公文庫

 1945(昭和20)年8月、日本敗戦後の満州から生命からがら日本に逃げ帰ってくる涙ぐましい体験記です。漫画家のちばてつや、ゴジラ俳優の宝田明も同じような体験をしています。著者のこの本は戦後、空前の大ベストセラーとなり、映画化もされたそうですが、残念ながら見ていません。この本の初出は1949年5月で、1971年5月に発刊され、早くも1976年に文庫本になっています。私は改版25刷という2022年7月刊のものを読みました。
ともかくすさまじい内容で筆舌に尽くしがたいとは、このことでしょう。著者の夫は有名な作家の新田次郎で、二男は数学者の藤原正彦。
満州国は日本が植民地支配の道具としてつくっただけの国ですから、日本の敗戦と同時に瓦解し、それまで日本支配下で苦しめられていた現地の中国人、そして朝鮮人が、日本人避難民に一般的に親切なはずがありません(いえ、なかには親切な人もたくさんいました)。
日本人はグループをつくって、リーダーの統率下に行動します。基本的に武器を持たず、お金も少ししかない。食料も着るものも十分でないなかです。しらみと発疹チフスで次々に日本人が死んでいきます。抵抗力のない(弱い)老人と子どもたちがまっ先にやられます。ところが、著者は7歳の長男を頭(かしら)に3人の子どもを連れて、それこそ何度も死にかけて、ついに日本に4人全員が帰り着いたのです。すごいです。
二男(正彦)は4歳。1日2回のお粥(かゆ)ではお腹が満足するはずもない。「お母ちゃん、もっと食べたいよう」と泣く。
日本人会が出来ているが、日本人はみな露骨な利己主義を主張している。誰が何でもよい。ただ自分だけが一刻も早く逃げ出して救われたい。他人(ひと)のものを奪ってでも逃げ出そうとする醜い状況がすぐそこで見られた。
著者の一団とは別なグループが、すぐ近くを歩いていく。ときには牛車に乗っていく。著者は怒りのあまり、その一団のリーダーである「かっぱおやじ」に向かって怒鳴った。
「私をだましたね」
「なにい、生意気いうな。何をしようと勝手だ」
「自分ばかり良ければいいんだろ」
「なにをいう、この乞食(こじき)女め」
「かっぱおやじの馬鹿」
こんな激しい応酬をするのです。そのときの二人の必死の形相が想像できます。そして、別の人に向かって著者はこんな呪いの言葉も投げかけるのです。500円の借金申し込みを断った女性に対して、です。
「子どもたちが死んだら、一生あなたのせいにして、あなたを呪ってやるわ。私が死んだら、きっと幽霊になって、あなたをいじめ殺してやるわ」
その女性は、この脅しに屈して、500円を貸してくれたのでした。
4歳の二男の足はひどく傷ついていた。足の裏に血と砂と泥がこびりついたまま、はれあがっている。この足で山を越させなければいけない。可哀想というより、そうまでして生きている自分が憎らしくなった。「痛い、痛い」と泣く子を、蹴とばし、突きとばし、ひっぱたき、狂気のように山の上を目ざして登っていった。生まれて1年にならない赤ん坊には、大豆のかんだのを口移しで飲み込ませ、生味噌を水に溶かして飲ませた。乳が出ないから仕方がない。どんなに悪いことかは分かりきっていたが、それよりほかに方法がなかった。
38度線をこえ、最後に汽車に乗って釜山に行くまで、一家4人は4日間をリンゴ12個で生きのびた。下の二人は全身おできだらけ。栄養失調の症状の一つだ。大きなかさぶたが出来て、夜になって静かにしていると、たまらなくかゆくなる。子どもが泣くと、周囲の大人が叫ぶ。
「うるさい。なぜ子どもを泣かすんだ。そんな子どもの口は縫ってしまえ」
著者が対抗心をもっていた「かっぱおやじ」は40人の一団を見事まとめて日本に無事に連れ帰っているのを発見し、「完全な敗北」を認めざるをえなかったのです。
いやはや、まことに壮絶な生還体験記でした。植民地支配の末路の悲惨さをよくよく味わうことができました。いままた、軍事大国になって戦争へ近づこうとしている日本です。「戦前」にならないよう、今、ここで声を大にして、いくら軍事を増強しても平和は守れないと叫びたいものです。
(2022年7月刊。686円+税)

2023年1月 9日

抑留記

(霧山昴)
著者 竹原 潔 、 出版 すいれん舎

 著者は1906年生まれなので、日本敗戦(1945年)時は39歳。陸軍士官学校を卒業した職業軍人で、陸軍中佐。情報関係の将校として、アガバ機関という特務機関長も務めている。日本に帰国したのは1956年12月なので、11年もシベリアに抑留されていた。山崎豊子の『不毛地帯』のモデルの一人とのこと。
 シベリアのラーゲリ(収容所)でも日本軍の中佐としての誇りを捨てず、ロシア人を「ロスケ」(露助。ロシア人に対する蔑称。日本人に対するジャップのようなもの)と呼んで恥じるところがない。
 著者はなぜ日本が侵略戦争をしたのか、満州を支配した日本軍が何をしたのか、驚くほどまったく反省していません。日本軍は強かったと「ロスケ」に言われて、得意然としています。そんな致命的弱点がある体験記なのですが、人間としての誇りは失わないという点は、最近の映画「ラーゲリより愛を込めて」の主人公・山本幡男に共通するところがあり、共感できるところも少なくないのです。つまり、戦争というものの非人間性をこの本も明らかにしています。
 日本の敗戦直後、師団参謀として金策するのにアヘンを確保し、それを蒙古人に売っています。そこでもアヘンの害悪という点は、まったく念頭にありません。日本人将兵1万人を救うのが先決だという発想であり、論理なのです。
 著者のアガバ機関というのは、蒙古系のブリカート人を保護・育成して、ソ連軍に対抗する勢力として利用しようという仕事をしたようです(もちろん失敗しています)。
 ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり、日本軍に戻れず、やむなくブリカート人になってしまった日本人も登場します。これも、日本軍の限界というか、弱点なのですが、著者は、何ら問題としていません。
 シベリア抑留では、たくさんの日本人がソ連側のスパイになるよう勧誘されたようです。著者は情報将校として、スパイの接し方、利用したり裏切らせたりしています。さすが・・・です。
 著者は50歳のとき帰国し、1982年に76歳で亡くなっています。
ソ連のラーゲリで12年も生き抜いた囚人が生き抜く心得を三つあげた。その一つは、できるだけ働かないこと。殺人的なノルマをこなそうとしたら、その代償は死。その二は、犬(スパイ)に気をつけること。犬はどこでもいる。地位の維持、保身のため、つくり話を当局にたれこむ。その三は、人とはケンカをしないこと。人を殺すのなんか、なんとも思わない囚人が少なくない。
 ラーゲリの食事は、1日300グラムの黒パンと、わずかばかりの豌豆(えんどう)スープだけ。ソ連は、日本軍元兵士だけでなく、満州国の官吏、満鉄の職員、そしてフツーの市民までスパイ容疑でシベリアへ連行し、強制労働に従事させた。
 シベリアのラーゲリに収容されると、虚脱状態になって、元兵士たちを指導するなんて、とてもできない師団長や参謀たちがいた。それに対して、著者は敗戦の虚脱状態から抜け出させて、軍記厳正、志気旺盛の兵隊に戻そうとしたのです。
なかなか迫力満点の体験記でした。ご一読ください。
(2022年8月刊。税込4400円)

2023年1月 6日

「収容所から来た遺書」

(霧山昴)
著者 辺見 じゅん 、 出版 文春文庫

 映画「ラーゲリより愛を込めて」を見ましたので、その原作を読みました。映画と原作とでは大筋は同じですが、細部は少し違っています。ここでは映画をみていない人には申し訳ありませんが、ネタバレになることをお許しください。
 タイトルにある「遺書」とは、シベリアに抑留された元日本兵が収容所(ラーゲリ)で病死する前に家族あてに書いたものです。映画でも、その内容の一部が紹介されています。というか、その遺書の内容と、それがどうやって日本にもたらされたのかが、この映画のメインストーリーです。本当に心を打たれました。
 遺書の1通目が遺族宅に届けられたのは、本人が亡くなってから3年目のことでした。そして、最後の7通目は、なんと本人が亡くなって33年たってのことです。
 初めの6通は、届けた人が記憶して再現したもの、7通目は、糸巻にカムフラージュしてソ連の収容所から持ち帰った現物です。シベリア抑留が違法なことであると自覚していたソ連は、収容所から一切の文字の持ち出しを厳禁していました。それで、収容所仲間は、分担してみな必死で本人の遺書を頭に暗記したのです。遺書のなかでも出色なのは、なんといっても妻に宛てたものです。泣けてきます。
「妻よ!よくやった。実によくやった。殊勲甲だ。その君を幸福にしてやるために生まれ代わったような立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦がれてきたことか。一目でいい、君に会って胸いっぱいの感謝の言葉をかけてやりたかった。ああ、しかし、とうとう君と死に別れてゆくべき日が来た。君は不幸つづきだったが、これからは幸福な日も来るだろう。君と子どもらの将来の幸福を思えば、私は満足して死ねる。雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志を生かしてくれ。私は君の愛情と刻苦奮闘と意思のたくましさ、旺盛なる生活力に感激し、感謝し、信頼し、実に良き妻をもったという喜びにあふれている。さよなら」
 心の震える、いい映画でした。そして、原作もいいものです。両方とも強くおすすめします。
(2022年7月刊。税込715円)

2022年10月22日

満州崩壊


(霧山昴)
著者 楳本 捨三、 出版 光人社NF文庫

 1945年8月9日未明、ソ連軍は日ソ不可侵(中立)条約を無視して、満州に侵攻してきた。対する日本軍(関東軍)は「無敵」として自称していたが、精鋭部隊を南方の戦線に転出していたので、「根こそぎ動員」によって人員こそ75万人の兵隊がいたものの、軍備が伴っていなかった。充分な兵器なしで兵士が戦えるわけがない。
この本には、なので、ソ連軍は「わずかな抵抗を受けたにすぎなかった」としています。それでも、朝鮮との国境地帯では地下要塞にたてこもって18日間も耐え抜いたとか、西側のモンゴルとの国境近くのハイラルでも関東軍は必死で抵抗したようです。なので、「わずかな抵抗」というのは全体としてみたら、ということなのでしょう。
 ソ連軍は侵入に際して、関東軍の猛抵抗を予測して、シベリアの凶悪な無期徒刑囚からなる囚人部隊を2ヶ国、最前線部隊として編成したという風説が紹介されていますが、歴史的事実としては間違いだとされています。たしかに囚人部隊はいましたが、それは経済犯の囚人が主体だったとのことです。
 ソ連軍による満州支配は略奪・強姦が頻発して悲惨な状況にあった。それでも、個人としてのソ連兵は、素朴で親しみのもてる者が少なくなく、例外なく子どもが好きだった。
 ところが、公人としてのソ連軍将兵の言うことは嘘が多く、約束は多く守られなかった。
 満州に中国共産党(中共)軍が進入してきたとき、満州(戦後は東北地域)の人々は、中共軍を恐怖的存在とみた。しかし、次第にそれは薄れていった。
 戦後中国では、さまざまなグループは張りあっていて、お互い諜報活動が活発だったようです。満州国がソ連軍の侵攻によって崩壊していく過程がリアルに解説されていて、よく分かりました。
(2022年9月刊。税込924円)

2021年6月24日

朝鮮戦争を戦った日本人


(霧山昴)
著者 藤原 和樹 、 出版 NHK出版

朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月。当初は進攻してきた北朝鮮軍に米韓軍は一方的に敗退していた。それは、アメリカ軍(マッカーサー)が、北朝鮮軍の実力を過小評価し、自国軍を過大評価していた過信によるもの。
中国人民義勇軍は90万人、北朝鮮軍は52万人が死傷した。国連軍として死傷した40万人のうち3分の2は韓国軍と警察。市民の死傷者は300万人以上。
この本は、アメリカの国立公文書館にある極秘文書(1033頁)が開示されたものを丹念に掘り起こしている。アメリカ軍が、朝鮮戦争に従軍していた日本人を日本本土に送り返して尋問した記録(調書)を紹介している。
70人以上の日本人が朝鮮戦争にアメリカ軍と一緒に従軍していた。彼らは在米日本人でも日系人でもなく、生粋の日本人。日本国内でアメリカ軍基地でボーイとして働いていたような人たち。たとえば、両親を失った孤児。アメリカ軍から見捨てられたら、たちまち失業して、生活の目途が立たなくなる20歳前後の青年たちだった。
アメリカ軍の下で働く日本人の給料は良かった。日当450円、月に1万3500円になった。このころ(1951年)の公務員の初任給は6500円なので、倍以上。
アメリカ軍と一緒に朝鮮半島に渡り、朝鮮戦争の最前線に投げ込まれた。そこでは、前線も後方兵站もなく、周囲の全部が敵(北朝鮮軍だったり中国軍)だった。なので、銃をとって戦ったが、あえなく敗退して、アメリカ兵と一緒に捕虜になった日本人もいた。
朝鮮戦争の初期の激戦地がいくつか登場します。日本人たちもその戦場にいたのです。
たとえば大田の戦い。1950年7月14日から21日にかけた戦闘。国連軍(アメリカ軍)の劣勢を象徴するもの。この大田の戦いで第19歩兵連隊(3401人)は650人の死者を出した。そして、ディーン少将まで捕虜となった。あとで捕虜交換でアメリカに戻ったディーン少将には、戦場でがんばったとして名誉勲章が授与された。ここが、旧日本帝国軍との圧倒的な違いです。
多富洞(タプドン)の戦いは、1950年8月1日から9月24日まで55日間にわたって続いた激戦。9月15日の仁川上陸作戦によって、一気に形勢が逆転した。『多富洞の戦い』(田中恒夫、かや書房)という430頁の本に戦闘の推移の詳細が紹介されています。その過程での「架山(カサン)の戦い」においても日本人が戦死したのでした。
日本人を朝鮮戦争に参加させることは、日本人の出国を原則として禁じていたGHQの占領政策に違反している。それで、日本に送還した。兵士だった日本人を尋問したのは、アメリカ軍に従軍した理由を記録して、日本人の口を封じることで、従軍を許可したアメリカ軍の部隊司令官を守るためだった。
公文書館の尋問記録とあわせて、アメリカまで生存している元米兵にインタビューしています。朝鮮戦争の地上戦に日本人の青年が70人ほども参加していたこと、強制ではなく、いわば食べるために志願していったことなどの事実を知ることができました。世の中は、本当に知らないことだらけです...。
(2022年12月刊。税込2090円)

2020年12月 5日

神々は真っ先に逃げ帰った


(霧山昴)
著者 アンドリュー・バーシェイ 、 出版 人文書院

日本の敗戦時、満州にいた日本軍のうちソ連軍の捕虜となったのは61万人、文民で捕縛された抑留者は7千人だった。
敗戦直後、朝鮮にあった挑戦神宮の宮司たちは、御神体を直ちに東京へ空輸した。
8月16日(もちろん1945年)、朝香宮(鳩彦王)、閑院宮(春仁王)、竹田宮(恒徳王)の3人は東久邇宮(稔彦王)とともに皇居内に呼び出された。そして、閑院宮は南太平洋に、朝香宮は中国に、竹田宮は満州に出向き、天皇の「聖旨」を伝え、武装解除に応じるよう説得に行くことになった。
竹田宮は家族を新京に残していたので、8月10日、家族を東京に呼び戻していた。竹田宮はシベリア抑留を紙一重の差で免れた。
ソ連が参戦したとき、関東軍の大半は通信遮断によって戦闘に入らないか、入っても遅すぎた。ソ連軍は、155万人の地上軍、戦車5千両、航空機5千機で侵入してきた。ソ連軍が攻撃を開始して1週間のうちに日本軍5千人が死に、終了までに4万8千人が亡くなった。
関東軍は、「根こそぎ動員」によって、「中抜け」であり、大多数は古兵としての10代、30代そして40代から成る25万人だった。人員の穴埋めでしかなかった。
戦争終結時、ソ連は400万人の捕虜をとった。ドイツ兵200万人、日本兵60万人、ハンガリー兵60万人...。すなわち、ソ連の人口の7分の1にあたる2300万人が戦争で亡くなっていた。それを穴埋めした。
元日本兵の日本送還は1946年5千人、1947年2万人、1948年17万人、1949年8万人、1950年7500人だった。
著者はアメリカの大学教授であり、画家の香月泰男、評論家の高杉一郎、詩人の石原吉郎という3人のシベリア抑留体験者を論じながら、シベリア抑留とは何だったのかを論じています。
(2020年5月刊。3800円+税)

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