弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年6月20日
昭和天皇の敗北
日本史(戦後)
(霧山昴)
著者 小宮 京 、 出版 中公選書
昭和天皇が、いったい何に敗北したというのか...。
昭和天皇は、戦後、敗戦の責任をとって退位することもなく、日本国憲法ができて「象徴」となっても、最近、ちっとも首相が内奏に来ないが、どうしたことかと不満たらたらだった。
つまり、戦後も、戦前と同じように内閣に対して助言、ひょっとしたら指導するつもりだったのです。それをしようとして、周囲が慌てて制止していた。これが天皇にとっての「敗北」ということのようです。
1946年1月25日、マッカーサーはアメリカ本国に対して、天皇制の存続が重要だと連絡した。日本を円滑に支配で運営するうえで、天皇制を利用したほうがよいと、マッカーサーは判断していたわけです。
昭和天皇は皇室財産が国会の審議対象となったら、「その収支が白日にさらされるので、かなり窮屈になる」、このように苦笑したと記録されている。
マッカーサーは、「会談」の場では、一方的にまくしたてるのが常態化していた。マッカーサーはいつも好き勝手に話す。一人でしゃべり続けるので、マッカーサーとの対話は成立しない。
マッカーサーは幣原(しではら)首相と会談(対談)したのではなく、一方的に命じただけのこと。つまり、9条は幣原の提起したものではなく、マッカーサーが発案したもの。なーるほど、恐らくそうなんでしょうね。
昭和天皇は国民主権の明示に納得しなかった。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは事実ではない。むしろ実態に反する虚構に近い。
昭和天皇は、自らの地位や主権に関する事項について、強い関心を抱いていた。
昭和天皇は、天皇大権がある程度は制限されることは覚悟していたが、統治権をすべて放棄するところまでは想定していなかったと思われる。
昭和天皇は、日本型の立憲君主制を模索した内大臣府案を高く評価していた。昭和天皇からすると、政府も内大臣府も臣下にすぎない。ところが、幣原首相や松本国務相は、昭和天皇の意向を無視した。
昭和天皇は、キングの存在を大前提として、君主主権でも国民主権でもないものを希望すると明言した。これは「聖断神話」を真っ向から否定するもの。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは、幣原がつくり上げた物語にすぎない。
GHQ側は、「天皇を軍法会議にかけることもできるし、証人に呼ぶこともできる」と言って、日本側を恫喝した。政府は、この恫喝に屈した。
占領軍(GHQ)のサゼスチョン(示唆)に反対するのは、当時、きわめて困難だった。貴族院は、公職追放などによって恫喝されて、自発的に決定したという体裁をとらされて最終的に可決した。
昭和天皇に対して、片山内閣が総辞職するときに、拝謁(はいえつ)したこと、芦田首相が内奏したことにマッカーサーは寛容だった。昭和天皇は、自らが主権者であることにこだわり、イギリスのキングと同じく元首であることを希望していた。
そして、昭和天皇は、戦後も元首であり続けようとした。周囲(たとえば田島・宮内庁長官)が、新憲法のもとでは元首でないと釘を刺した。
「将来変わるから、当面は辛抱してほしい」と言って昭和天皇をなだめた。
昭和天皇は、与野党が拮抗し、政局が混乱したとき、政治的調停者としての役割を果たすつもりでいた。昭和天皇は、奨励や警告というレベルをこえて、戦後政治において自らが果たすべき役割を模索していた。
昭和天皇は、当時、「すべての新聞」に目を通していて、その動向を注視していた。
田島宮内長官の書き残した『拝喝記』によって、昭和天皇が元首としての役割や権限にこだわり、その拡張を目ざしていたことが明らかになる。結局、GHQの圧倒的な権力によって国民主権が憲法に明記され、昭和天皇の希望は実現しなかった。すなわち、昭和天皇は「敗北した」。
福岡県生まれ(1976年生)の著者による論旨明快な本で、頭がすっきりしました。すでに3版発行というのですから、これまたすごいですね。こんな硬い本でもテーマによっては読まれるわけです。
(2025年4月刊。2200円)