弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年6月17日
力道山
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 斎藤 文彦 、 出版 岩波新書
力道山(りきどうざん)というプロレスラーがいました。ともかく強いのです。狭いリングのなかで、いかにも悪役という外人レスラーが反則技ばかりするため、それこそ一時はタジタジとなりつつも、ついに堪忍袋の緒をふり切って得意技の空手チョップを繰り出し、とうとう悪漢レスラーをやっつけてしまうのです。胸のすく思いとは、このことでした。もちろん、生のリングを見ているのではありません。まだ全部の家庭にはなかった時代、わが家のテレビを見ていたのです。
力道山は、日本におけるプロレスの父である。
力道山のプロレスは、戦後そのものであり、昭和そのものであり、テレビそのものであった。力道山はプロレスラーであると同時に、「力道山」という、ひとつの社会現象であった。
力道山が現役のプロレスラーのまま殺害されて亡くなったのは1963(昭和38年)12月のこと。私は15歳、中学2年生でした。
小売酒屋の主(あるじ)だった父がプロレスの大ファンで、私も一緒にみていましたが、父は力道山になりきったようにして、画面をくい入るように見て、肩をいからせ、かけ声を茶の間で上げていたのを思い出します。
まさしく、力道山はヒーローでした。
力道山が生まれたのは、今の北朝鮮であり、両親ともに朝鮮人。当時の朝鮮は、日本の植民地支配下にあった。美空ひばりも同じく朝鮮人でしたが、二人そろって戦後日本の輝けるヒーロー、ヒロインでした。
若き力道山にとって、相撲とりになることが貧困からの脱出を意味していた。本名は、金信洛。三男で末っ子。戸籍上は百田光浩。ところが、生年月日のほうは、大正11年、12年、13年。7月4日、7月14日、11月14日と、確定していない。
力道山がプロレスラーとしてデビューしたのは、1951年10月28日。1ヶ月にもならないトレーニング期間だった。
プロレスでは、殴る、蹴る、地獄突きといった反則をする悪役、憎まれ役をするプロレスラーがいたけれど、力道山は、一度もこんな憎まれ役を演じることなく、ベビーフェイスで正統派のポジションを維持した。
日本テレビの正力松太郎オーナーはテレビを通じたプロレスの父でもあった。
1954(昭和29)年2月、蔵前国技館を借り切ってプロレスの国際大試合が3日間連続で開催された。この初日、新橋駅前の西口広場に特設された街頭テレビに2万人をこす見物客が押し寄せた。その写真が紹介されていますが、まさしく、黒山(くろやま)の人だかりです。大変な熱狂ぶりでした。まさしくスター誕生の瞬間だった。このあとも全国を巡行して、興行総収入は8千万円をこした。これって、大変な巨額ですよね。
力道山を主役としたプロレスブームは社会現象となり、プロレス中断を独占していた日本テレビは1953年8月の開局から、1年足らずの1954年上半期に黒字経営に転じた。
子どものころ熱中して見ていた私は、プロレスは毎回、真剣勝負だと信じ切っていました。それがショーだったというのは、東京で学生生活を始めたあと、それを知らされて驚いたのでした。純朴そのものでした。
著者はプロレス・ライターだそうです。そんな職業があるとは知りませんでした。
ともかく、力道山が戦後の社会現象であることは間違いありません。でも、いったいなぜ殺されたのでしょうか...。
(2024年12月刊。960円+税)