弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2011年3月 1日

革命とナショナリズム

著者  石川 禎浩、  出版 岩波新書
 本のタイトルからは何のことやら分かりませんが、中国近現代史の本です。国民党と共産党の二つを同じく主人公としていますので、これまでの共産党のみを主人公とする本より、事態の推移がより多面的かつ深く認識できる本になっています。
 1924年、国共合作(こっきょうがっさく)が始まった。この時点で、共産党員は500人にすぎず、国民党員の100分の1でしかなかった。 国民党は幹部が相対的に高い比率を占めていた。だから国民党に加入した共産党員は国民党の基層において大きな役割を果たしていた。この国共合作は共産党の党勢発展に大いに寄与した。国民党の傘のもとで「職業革命家」を維持できたことの意義は決して小さくなかった。
1924年に500人だった党員は1925年には300人になった。1924年の共産党の財政の95%はモスクワからの資金援助に伝存していた。予算の90%以上をコミンテルンからの援助に頼るという財政構造は1920年代を通じて、ほぼ変わらなかった。
 しかし、資金援助の点では国民党がソ連から得ていた軍事援助などの物質的援助は、共産党へのものより二桁も上回るものがあった。たとえば、1925年に国民党へは半年で150万元、共産党へは年に3万元を援助していた。ところが、日本は中国の段稘瑞政権に対して1億5000万元もの援助をしていたから、それに比べるとソ連の援助など微々たるものでしかない。
 幹部中心の政党である国民党は、その上層部が複雑な派閥に分かれていたので、多数派を占める蒋介石派も正規の党組織に依拠するだけでは盤石の支配体制を築くことは難しかった。そこで、蒋は腹心の陣果夫・陣立夫兄弟の組織した秘密党内組織CC団や力行社・籃衣社や中華民族復興社といった、蒋個人に直属する諜報秘密結社を拡大していった。これらの非正規組織は、黄埔(こうほ)軍校卒業生の統率する軍と並んで蒋の独裁体制の基盤となっていた。
 1930年代はじめ、コミンテルンの指導を背景とした中国共産党の「党中央」の権威は、地方の指導者が容易に否定することができないものだった。
 共産党の中央組織は、1930年代初めまで、上海の現界の中に置かれていた。
 都市部の共産党組織は1930年代半ばまでには、壊滅するか、活動停止に追い込まれるかのどちらかであった。だが、それにもかかわらず共産党は影響力をもっていた。共産党の勢力は、常に実態よりもはるかに大きく見積もられた。それは、共産党のもつ宣伝工作重視の政治文化による。
近世・近代日本の農村に比べて、中国農民の結合力は格段に弱かった。あとで中国共産党の指導者になる入党者の多くが、旧郷紳層・富裕層の子弟であった。当初、紅軍の有力な構成員であった土着のアウトローたちは、粛清などを通じて次第に紅軍から排除され、それに代わって土地革命の恩恵を受けた若き農民たちが大きな役割を占めていくようになった。
1934年10月に始まった「長征」も、中央根拠地の軍事的な窮地を打開するための「戦略的転進」として始まったもので、具体的な目的地を設定して開始されたものではなかった。
孫文の妻だった宋慶齢は共産党にひそかに入党を申していた。張学良は入党を申し入れたが、中国共産党はコミンテルンの拒否を受けて、これを認めなかった。ソ連とコシンテルンは蒋介石の統治能力を高く評価し、張学良はあくまで「軍閥」としてしかみていなかった。
ソ連・コミンテルンは西安事変の直後から、張学良の行動に疑念を抱き、「プラウダ」などを通じて、蒋の安全の保障、事態の平和的解決を望むという論評を発表し続けていた。
1940年の夏から秋にかけて、八路軍は100あまりの団(日本の連隊に相当する)20万人の兵力を動員した百団(ひゃくだん)大戦を始動した。日本軍は、八路軍に大攻勢をかけるだけの力があるとは思っていなかった。八路軍の力量に衝撃を受けた日本軍は、ただちに報復戦にかかった。それが悪名高い三光作戦である。
中国史の裏側にまでかなり踏み込んだ力作だと思いました。
 
(2010年10月刊。820円+税)

2011年2月17日

毛沢東(下)

著者 フィリップ・ショート、   白水社 出版 
 
 1941年、国共合作は緊張関係にあった。1940年秋の百団大戦によって日本兵2万6千が死傷し、抗日戦争で共産党軍は大きな成果をあげた。そのため蒋介石は共産党を警戒し、国民党軍に共産党新四軍を奇襲攻撃させた。しかし、この窮地にあっても、共産党は統一戦線策は放棄できなかった。そのおかげで、紅軍(共産党軍)は5万人から
50万人へと発展していった。
1943年から44年にかけて、周恩来は辛い状況に置かれていた。毛沢東は周恩来に対して実績と信念の欠落、権力ある集団に振りまわされやすいことを激しく批判した。
 1946年から1950年にかけて、紅軍(人民解放軍)は国民党の軍勢に押されて後退を強いられた。しかし、1947年2月には、毛の戦略によって国民党軍218旅団のうち50以上が戦闘力を失い、投降した国民党兵のほとんどは共産党軍に吸収され、人民解放軍の新たな人的資源となっていた。
 国民党軍の司令部には共産党のスパイが入りこんでいた。副参謀長も、戦時計画委員会の責任もそうだった。ここが中国共産党のすごいところですね。ベトナムでも、南ベトナム軍の中枢に「北」のスパイが潜入していました。激烈な戦争は隠れた英雄を生み出すものなのですね。
 1949年10月1日、北京の天安門広場で、毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言し国家主席に就任した。ところで、その前、スターリンは毛沢東に対して、長江を渡らないこと、中国の北半分を掌握したら満足するように言っていた。アメリカを刺激しないためにはそれが賢明だと説明した。しかし、中国が分裂するのはロシアの利益のためだと毛沢東には分かっていた。
 1950年に始まった朝鮮戦争は、毛沢東の歓迎したものだった。金日成とは相互に不信感があった。
毛沢東は中南海にいて、身辺警固のため警衛兵が三重に円を描くように配置されていた。食材は指定された安全な農園から提供され、毛の口に入る前に毒味されていた。お抱え医師がいて、移動するときには、事前の十分な偵察なくしてはありえなかった。装甲を施した専用列車で旅行し、飛行機には滅多に乗らなかった。台湾の国民党軍の破壊工作や砲撃を恐れていたからである。
 1959年、大躍進政策の誤りを批判した彭徳懐が失脚した。しかし、毛沢東にしても、朝鮮戦争の英雄でもある彭徳懐を切り捨てるのは容易なことではなかった。
1965年、毛沢東は巻き返しを図りはじめた。正面からの攻撃はできないので、お得意のゲリラ戦術でいった。毛沢東が共産党そのものに対して大衆をけしかけようと決めていたなど、あまりに荒唐無稽であり、政治局の誰一人として信じられなかった。そうなんですね、そのまさかが自分たちの災難になって降りかかったわけです。
 紅衛兵の指導者たちがやったことは、毛沢東自身がAB団の粛清をしたときと同じことだった。
 1967年、中央政治局は機能を停止した。毛沢東は多人数が団結して毛沢東の敵にまわってしまう危険を避けたかった。そこで政治局のかわりに常務委員会や周恩来が率いることになった文革小組の拡大会議を開くことにした。
 林彪が中国人民解放軍を完全に掌握することはついになかった。500万人という規模があり、指揮系統と昔からの忠誠をそれぞれに備えたさまざまな根拠地からの成り立ちのせいで、毛沢東以外の誰にも中国軍をコントロールすることは出来なかった。
毛沢東は強い不信感のせいで、絶えず取り巻きグループの忠誠を確かめないと気がすまなかった。周恩来が生き残ったのは、毛沢東の信頼を保つためなら誰でも裏切ったからだ。毛沢東は周恩来に親愛の情を抱いたことは一度もなかったし、周の死に対しても心動かされた様子を示していない。中南海の職員に対して黒い喪章を腕につけることを禁じた。 
毛沢東の実際にかなり迫っている本だと思いました。
(2010年7月刊。3000円+税)

2011年1月 1日

三国志逍遥

著者:中村 愿・安野光雅、出版社:山川出版社

 「三国志」は、私も学生のころ愛読しました。「水滸伝」と並んで、中国大陸の広大さと、そこに生きる人々の活力に圧倒され、躍動する心を抑え切れないほどでした。
 その「三国志」の現地へ出かけています。そして、絵を安野光雅が描いています。それがまた実に味わい深く、つい現物を見てきたかのように活写されているのです。
 曹操は悪者ではなかった。曹操は、周公の立場で26歳も年下の皇帝を誠心誠意、補佐した。董卓や袁術や袁紹などのように、おのれの権力欲を満たし、栄華を夢見て皇帝の座を手に入れようと目論んだ軍閥・輩とは異なるのだ。
 曹操は、自らが皇帝となるのを願わなかった。漢の遺臣であり、周公の立場に徹するという信念があった。
 曹操は66歳のときに病死しました(220年)が、その墓が発見されたと中国政府が発表しました。本当だとしたら、大変なビッグ・ニュースです。
 曹操の頭蓋骨まで残っているということです。ぜひとも確認してほしいところです。
 それはともかくとして、中国の「三国志」の世界にイメージたっぷり浸ることのできる楽しい本です。
(2010年3月刊。1900円+税)

2010年11月25日

中国河北省における三光作戦

 著者 松井 繁明・田中 隆 ほか、 大月書店 出版 
 
 日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動の一つを現代日本の弁護士たちが現地調査をして解明した労作です。
 1942年5月、日本軍の北支那方面軍の第110師団163歩兵連隊第一大隊が一つの村を包囲して奇襲攻撃し、民兵や村人が逃げ込んだ地下の坑道に毒ガスを投入して
1000人を殺戮した。これは日本軍による三光作戦、粛正掃蕩作戦の典型的な事例である。
 1942年5月1日から6月20日までの日本軍の「掃蕩」作戦によって、冀中区全体で八路軍1万6000人が犠牲になった。主力部隊は35%減少(3分の2になった)、兵員は半数近くに減少した。区以上の幹部の3分の1が犠牲となり、死傷した人民は5万人に達した。このように中国側の被害が大きかったのは、日本軍の作戦規模が大きかったというだけでなく、中国側が「掃蕩」を事前に十分予期していなかったからでもある。
 1941年12月に太平洋戦争が始まり、日本軍の抗日根拠地に対する大規模な「掃蕩」の可能性は減ったという判断が中国側に生まれていた。
日本軍の「掃蕩」作戦は、それまで八路軍に協力的でなかった地主層の態度さえ変化させた。日本の掠奪・暴行は地主に対しても例外ではなかったので、その差益は大いに損なわれた。そして、その後には、日本軍による重い税負担が待っていた。
人々は、八路がいれば八路を恨み、八路がいなければ八路を想う」と皮肉をこめて言っていた。
結局、日本軍の「掃蕩」は表面的には抗日根拠地に打撃を与えることは出来たが、中国民衆の心をとらえることは決して出来ず、むしろ反対の効果をもたらした。
 1940年8月、八路軍は華北一帯で日本軍の根拠地や鉄道線などを攻撃する大規模な攻勢を展開した(百団大戦)。朱徳の総指揮のもとで40万人を動員したこの攻勢によって、日本軍は多大の損害を蒙った。この百団大戦によって、北支那方面軍の八路軍認識は一変した。それまでの八路軍軽視から、八路軍を主敵とする抗日根拠地への粛正掃蕩作戦を前面化するに至った。村民を無理やり従わせている軍隊なら、追い払えばことがすむが、村民と深く結びついている軍隊となると、村そのものを掃蕩の対象とするしかない。北支那方面軍の思考はこのように転換した。なるほどそうだったんですか。偶発的な虐殺ではなく、意図的だったのですね。
2001年9月末、小野寺利孝・松井繁明・田中隆など弁護士6人のほか日本人研究者たちが三光作戦の現地に出向き、被害者らから聞き取り調査を行いました。被害にあった村には、地下道がはりめぐらされていたのです。幅1メートル、高さは人の背丈ほど。地下道は、それぞれの民家とつながっていたし、隣村の地下道ともつながっていました。
 八路軍は、この地下道による戦い、地道戦というそうです、初めは否定的にみていたようですが、あとで有効なものと認めて戦略的な地位を与えています。その地下道の構造が図解されています。ベトナムのクチにある地下道に潜ったことがありますが、それと同じようなものです。
 三光作戦とは、日本軍が中国で展開した残虐な作戦行動をいいます。やきつくす(焼光)、殺しつくす(殺光)、奪いつくす(搶光)という言葉によります。これは、北支那方面軍の司令官であった岡村大将が、焼くな、犯すな、殺すなという「三戒」を非難をこめてもじってつくった言葉だといいます。そして、この日本軍による三光作戦は、中国の民衆に莫大な被害をもたらしました。にもかかわらず、その実態を多くの日本国民は知りません。知らされていないのです。そんな状況で、日本の弁護士たちが減知に出かけて日本軍の残虐な行為による被害にあった人々から聞き取り調査をしたというのは、大変意義深いものがあります。少し古い本ではありますが、百団大戦などに関心をもっていたので、積ん読になっていて、未読だった本書を引っぱり出して読んだのでした。現地にまで出かけた日本の弁護士と学者の労苦に少しはこたえたいと思いました。 
(2003年7月刊。3400円+税)

2010年11月19日

毛沢東(上)

 著者 フィリップ・ショート、 白水社 出版 
 
 長征までの毛沢東が語られています。何回もの危機に見舞われ、権力を握るまでの過程は決して平穏な道ではなかったことがよく分かります。
毛沢東が40歳のとき、1943年12月12日紅軍首脳部が通道(県渓鎮)で会合を開いた。これが、毛沢東が至高権力を握る第一歩となった会議である。
毛沢東は、共産党主義者になってからの12年間に、冷遇されたことが6回あった。一度目は、信念が揺らいだ1924年。二回目は1927年の秋収蜂起の失敗のあと。三回目は1928年、特別委員会書記の座から追い落とされたとき。四回目は、1929年に朱徳とゲリラ戦術をめぐる争いをしたとき。五回目は、1932年1月の華東山で。六回目は、1932年寧都で。
1935年1月、紅軍が遵義で行軍を停止したとき、毛沢東はやっと共産党指導部でゆるぎない地位についた。3ヶ月前に出発したとき8万6千人だった紅軍は、遵義についたときには3万人に減っていた。通道は第一歩であり、遵義と1935年表の一連の会議は、毛沢東が権力を獲得する第一段階だった。1935年10月、長征は終わった。このときも歌苦闘と一緒に出発して残った者は5千人に満たなかった。
毛沢東は身近な同士から分かりにくい人物だった。ものすごいかんしゃくと、無限の辛抱強さが同居していた。頑固な意志と、極度の細やかさ。公的なカリスマと、私的な執拗さ。毛沢東は騾馬のように頑固で、自尊心と決意の鋼鉄の棒がその性質を貫き通していた。何年も見守りつつ待ち続けるが、いずれは自分の思いどおりに事を運ぶ。
1934年12月の会議の前には、1932年に毛沢東は軍の指揮を解かれていた。1934年12月の時点では、周恩来のほうが毛沢東より優位にあり、おとなしく毛沢東に権力を譲る気はなかった。夜遅くまで続いた激論の末、ドイツ人のオットー・ブラウンは軍事顧問の職を解かれた。真の敵が周恩来だということで、毛沢東に何らの迷いはなかった。周恩来こそが競争相手だった。しかし、遵義で正面切って周恩来を攻撃したら、指導部は分裂してしまい、そうなったら毛沢東に勝ち目はない。だから、毛沢東は、もっとも弱いところに攻撃を集中した。それが、ブラウンと博古だった。そして、本当の政敵である周恩来には、面目を保てるような逃げ道を用意してやった。うむむ、すごい権謀術数ですね。
周恩来は、毛沢東より5歳年下で、見事な策士であり、冷静で決して過剰には陥らず、常にその状況が提供するものから最大の利益を引き出そうとした。最終的な勝利のためなら、いくらでも変わり身を遂げることができた。周恩来にとっては、最終的な勝利こそが唯一の価値ある目標だった。
毛沢東は政治局常務委員会に入り、周恩来の主席軍事顧問となった。
毛沢東は、裕福な一家に生まれた。父親の財産は銀3千両にものぼり、小さな村では一財産だった。毛沢東は、自分の父親をまったく許す気はなく、人々の前で厳しく糾弾した。毛沢東は一度も海外に出かけていない。英語ができなかった。毛沢東のマルクス主義は、常にアナキスト的な色彩を残していた。
1930年に、AB団騒動が発生した。紅軍内部にスパイがいるとして、粛清運動が始まった。AB団員だという糾弾は、毛沢東の戦略に異議を述べるあらゆる人物を打倒する棍棒と化した。粛清は血みどろとなり、毛沢東の反対者たちは消え去った。AB団粛清では、江西省で毎月80~100人が銃殺され、福建省では6千人以上の党員や高官が処刑された。粛清の猛威にあって結束を固めたため、それに耐えた人々は緊密な規律・そして鉄の意志を持つ、異様に士気の高い軍団となった。
知らなかった毛沢東の一面を認識しました。 
(2010年7月刊。2800円+税)
 依頼者の一人に僧侶をしている方がおられ、先日、お守り札をいたdかいました。秋田の事件がありましたので……ということです。ありがたく頂きました。
 殺された津谷(つや)弁護士は20年前にアメリカの先物取引調査のために一緒したことがあり、それ以来のつきあいでした。事件の前々日に、東京での日弁連の会議でも元気な顔を見たばかりでしたので、今でも信じられない重いです。
 離婚事件の暴力(DV)夫は本当に怖いですね。これまで以上に気をつけなければいけないと思っています。

2010年10月19日

溥儀の忠臣、工藤忠

著者:山田勝芳、出版社:朝日新聞出版

 満州国の侍衛処長・工藤忠。ラストエンペラーから「忠」の字をもらった日本人。中国裏社会にも精通、張作霖爆殺事件の真相を握り、陸軍に疎まれながらも、溥儀に影のように付き添った男。中国と皇帝に生涯をささげた人物を通して新たな溥儀像、満州国像、昭和史に迫る。
 これは、この本のオビにある文句です。一人の中国人に最後まで誠心誠意を尽くし、決して裏切ることなかった日本人が紹介されています。客観的に見て、彼の果たした役割がどういう意味をもったのかはさておき、さわやかな読後感の残る日本人です。あの満州国で、駆け引き、打算で動く日本人ばかりではなかったことを知るのは、うれしいものです。
 工藤忠は明治15年(1882年)青森に生まれた。弘前にあった東奥義塾に入り、四年生、16歳のとき中退している。
 上京して中学に入り、剣道を学んだ。そして、朝鮮さらには中国大陸を旅行した。
 工藤は中国で生活するうちに秘密結社・哥老会の会員となった。日本人でこの秘密結社に入会できた人は珍しい。
 そして、1917年、34歳のとき、11歳の溥儀と出会った。運命の出会いである。
 このころ工藤は、陸軍の機密費から活動資金を得ていた。今の内閣機密費よりさらに巨額の機密費を軍部はもち、運用していたのです。お金こそ権力の強さの源泉です。
 1931年9月、満州事変が発生した。このころ、恐慌に苦しんでいた多くの日本人は、これで新たな利権先、就職先、入植先ができたと喜んでいた。軍が満州を制圧したころから、日本人が大挙して満州に押し寄せた。
 1931年11月、溥儀は工藤とともに天津を脱出した。このとき、溥儀は車のトランクに隠れてイギリス租界の港に行き、陸軍の船に乗り込んだ。ところが、この船には、ガソリンを入れた石油缶が一つ、ひそかに積み込まれていた。中国側に捕まったときは、火を放って船ごと溥儀を始末してしまう計画だったのだ。そのことを、工藤は後になって知らされた。
 こうして溥儀は満州に入った。このとき25歳。工藤は49歳だった。ちなみに、張学良は30歳、蒋介石は44歳であり、東條英機は47歳、満州に逃げ込んでいた甘粕正彦(大杉栄を殺した主犯)は41歳、近衛文麿は40歳だった。
 このころ、工藤は、日本陸軍にとって、むしろ煙たい存在であった。しかし、溥儀を動かす切り札として使わざるをえなかった。満州国で工藤が侍従武官・中将に任命されたことについて、陸軍は不満たらたらだった。工藤に軍歴がなかったからである。しかし、溥儀は、工藤に「忠」という名前を与えて、不満を封じた。
 満州国がつくられたとき、関東軍司令官(本庄中将)は、自ら傀儡政権(パペット・ガバーメント)をつくったと書いた本を出版していた。
 満州国皇帝に溥儀が即位したとき28歳、工藤は51歳であった。
 満州国の運営には、中国側(満)と日本側とで認識の違いがあった。外の国務院を内面指導しただけではうまくいかない。内の宮内府にも日本人をふやして、そこも完全な指導下に置こうとした。 溥儀は、常に毒殺されることを恐れていたが、工藤のもってくる食べ物については、まったく疑っていなかった。
 満州国には、国籍法がなかった。「王族協和」と言いながら、日本人が満州国籍をとるのに消極的だった。さらに、満州国内の朝鮮人の位置づけが難問だった。結局、1940年に「満州国暫行民籍法」が制定され、満州にいる日本人は日本戸籍法の適用を受けた。これが満州在住日本人の徴兵の根拠となった。
 1945年8月、溥儀39歳、工藤62歳だった。4月に日本に来て、満州に帰れないまま、工藤は日本で敗戦を迎えた。溥儀も終戦直後、飛行機で日本に来るはずが、ソ連兵に拘束されてしまった。
 戦後も、工藤は溥儀に忠誠を尽くし続けた。満州国は完全に関東軍が支配し、日本のほうが溥儀を裏切ったという思いが工藤には強かった。
 こんなに中国人に忠節をつくした日本人がいたのですね・・・。
(2010年6月刊。1500円+税)

 平泉の中尊寺そして毛越寺を見学してきました。20年ぶりのような気がします。藤原三代のミイラが保存されているというのは驚きですよね。戦国時代など、よくぞ戦火の中で滅失しなかったものです。なんといっても金箔ですからね。荒らされなかったのは奇跡ではないでしょうか。
 毛越寺(もうつうじ)は庭の復元が進んでいて、大宰府の曲水の宴ができるような水路まで再現されていました。
 小高い義経の館跡に昇って、遠くの山の大文字焼の跡を見、かつて人口10万人もいたという、今は水田になっている広大な平地を眺めました。
 国破れて、山河あり……の地に立ち、感慨深いものがありました。

2010年8月 5日

発禁『中国農民調査』抹殺裁判

著者:陳 桂棣・春桃、出版社:朝日新聞出版

 2003年に出版された『中国農民調査』は中国の内外で大きな話題を呼び、このコーナーでも紹介したと思います。
 この本は、その本が裁判で訴えられた顛末が紹介されていますが、まさしく中国の司法の寒々とした実情が実感をもって語り伝えられています。この本を読む限り、まだまだ中国は法治国家というより人治国家のようです。
 『中国農民調査』は2004年2月、中国政府から発禁措置を受けた。そして、この本で実名をあげた安徽省の党書記から、名誉毀損として訴えられた。
 2004年1月9日、裁判官2人が著者の家を予告なしで訪問した。
 ええーっ、裁判官が予告なしで被告宅に訪問するなんて・・・。日本では、まったく考えられないことです。
 訴状を送達するためのようです。この訴状は、本の出版を停止せよ、謝罪して慰謝料20万元(260万円)を支払えというものでした。
 原告は党書記、そしてその息子が裁判官になっています。そんなところで裁判を受けるわけにはいきません。まずは弁護士探し。幸い、ボランティアでやってくれるという弁護士が見つかりました。
 中国の地方行政が腐敗しているのは有名だが、この阜陽市は、なかでももっとも深刻なところ。なにしろ、市党委員会の元書記は、収賄と官職売買で死刑を執行された。その後、2ヶ月足らずで、160人もの問題幹部が発覚した。
 裁判が始まった。原告側の弁護士は自分の机の上に山ほどの証拠書類を積み上げたものの、被告への提出を拒んだ。コピー代がかさむからという理由だ。にもかかわらず、裁判所はいきなり原告側が連れてきた証人を調べようとする。忙しい指導幹部だから・・・。なんということでしょうか、まったく信じられませんね。
 そして、裁判長は公開を原則とする法廷なのに、傍聴していた2人の記者について有無を言わさず退廷を命じたのです。
 20数年になる中国における法の普及教育を通じて、現在の中国で法的知識がもっとも欠けているのは一般市民ではなく、増長した党と政府の役人たちなのである。
 残念ながら、これではそうとしか言いようがありませんね・・・。
 4日間、合計35時間にわたる裁判が終わったのは夜10時。ところが、裁判所の正門に人々がぎっしりと待っていた。応援のために遠くから駆けつけてきた人々だった。これはすごいことです。
 でも、阜陽市裁判所の独自の審理権は上部の行政機関の強い関与を受けている。多くの司法間は供応あり、収賄を紹介しあい、裁判所内は、あからさまな「賄賂の取引市場」になっていた。そこは、「お役所の門は開けても、お金のない者は入るべからず」であっただけでなく、大胆不敵な汚職司法官たちは、「訴訟ごろ」の弁護士や「訴訟屋」たちと結託して、大きなブラック・ネットワークをつくっていた。法をその手に握る彼らは、飲む打つ買うのやりたい放題、天をもあざむく非道のかぎりを尽くした。
 たとえば、重罪を犯した男を仮釈放し、その妻に土地を売らせて数千元を受けとり、そのうえ自分のオフィスで妻を強姦した。
 20数年のキャリアのあるベテラン司法官は、職位を利用して、少なくとも6人の当事者の親族と肉体関係を結び、その中には、多数の少女を強姦・輪姦した凶悪犯を逃がしてやるとして、その母親と関係に及んだ事実もあった。
 阜陽市裁判所の歴代所長3人が汚職取り締まり捜査で摘発され、起訴された。
 なんということでしょう・・・。
 中国では、全国人民代表大会を最高国家権力機関とし、権力分立を否定する体制をとっている。そこで、裁判官が裁判において憲法を根拠に国家公権力の行使を抑制することを認めていない。
 なかなか中国の前途も多難だと思いました。
(2009年10月刊。2800円+税)

2010年7月 6日

中国・抗日軍事史

著者:菊池一隆、出版社:有志舎

 日本軍がなぜ中国大陸で敗北し去ったのかについて、八路軍など中共軍だけでなく、むしろ国民党軍の戦いぶりを正面から論じている画期的な軍事史です。
 著者は私と同じ団塊世代ですが、さすが学者です。よくぞ、ここまで調べて、体系的な軍事史になっていると感嘆しながら一心不乱に読みふけりました。
 日本軍の敵であった弱い中国軍を強化するのに、実はドイツの軍事顧問団が大きな役割を果たしたこと、同じくイタリアも中国軍に寄与・貢献していたことなど、日独伊防共協定を結んだ三国なのに、ええっ、何、これは・・・、と驚く記述もありました。もちろんアメリカ軍も中国軍と共同作戦しているのですが、ソ連も武器・弾薬だけでなく、飛行機隊をはじめとして人的にもかなり中国軍を支えて頑張っていたようです。
 また、あまりの日本軍の残虐さに中国民衆が怒って立ち上がって軍事行動をしていたこと、それが国共合作につながって、結局のところ日本軍の敗退につながっていったことなども、総合的にとらえることのできる本でした。
 日中戦争について、軍事的な観点で詳しく知りたいという人には一読をおすすめします。百団大戦など、もっと詳しく知りたいと思うところが簡略化されているという気はしましたが、そこまで求めると、この本の10冊シリーズにはなるのでしょうね・・・。
 日本は開戦当初、軍事力は質量ともに圧倒的に優位に立っていた。兵員が非常に多く、かつ訓練も行き届いていた。軍需工業も発達し、装備も優良であった。日本側の総兵力は448万人。陸軍は17師団、飛行機1480機(陸軍)、と2700機(海軍)。
 それに対して中国側は、陸軍170万人、飛行機は、わずかに314機。
 制空権は、日本が完全に握っていた。
 日本は、中国が軍備力脆弱で、長期に抵抗するのは不可能と考え、3ヶ月で打倒できると考えていた。
 しかし、1937年8月の上海事変のとき、上海周辺にはドイツ軍事顧問団に組織され、ドイツ製武器で装備した最精鋭6個師団3万人が配置され、上海防衛体制は強化されていた。つまり、日本軍はドイツ製の武器を戦うことになり、上海では激烈な市街戦が展開された。中国軍の頑強な抵抗により、日本軍は、10キロ進軍するのに1ヶ月もかかってしまった。そして、このとき、上海の民衆も、積極的に抗戦に参加して、中国軍を支援した。中国軍が初めて見せた奮戦は、上海視界の外国人を驚かせ、中国の国際的地位を高めた。
 1937年9月に第二次国共合作が成立し、中共軍も蒋介石軍とともに戦うことになった。このころ、ドイツは、政治的には日本との関係が強かったが、経済的には中国との関係が密接だった。1938年5月、ヒトラーは、軍事顧問団の引きあげを命令した。
 ソ連は日本に脅威を感じ、1937年8月に中ソ不可侵条約を結んで、軍事的にも援助を強めた。
 日本軍は、首都南京の陥落を喜び、提灯行列がおこなわれたが、日本の予想に反して、国民政府は敗戦を認めるどころか、首都を南京から武漢さらに重慶へ移して抗戦継続の姿勢を明白にした。
 日本は、次々と首都を移動させながら戦えるという中国の広大さを実感として十分認識していなかった。日本は、中国の広大さ、懐の深さを見誤った。
 国民政府の戦略は、空間を時間に換え、持久消耗戦を実施し、日本軍の「速戦速結」政策を粉砕した。抗戦初期、たしかに日本軍が武力面で圧倒的に優勢であった。そこで、可能な限り、正規戦を避けた。蒋介石の指示で、多戦区は遊撃部隊を組織した。遊撃戦をもって正規戦を補強し、日本軍を牽制した。
 日本軍の残虐行為は、中国の民衆を畏縮させるどころか、普遍的な怒りを巻き起こし、反日の実際行動に立ち上がる国共両軍の戦闘を支援しただけでなく、自らも戦闘に参加した。
 太原会戦では大局的には日本軍が勝利したが、台児荘戦闘での局部的勝利は、中国軍兵士と中国民衆を鼓舞した。中国人に、日本に勝てるという意識を植えつけ、日本不敗の神話を打ち破った。その自信は、その後の抗戦に強い影響を及ぼした。
 この本の冒頭に、日本軍は孫子の兵法から外れているので、1939年の時点で日本必敗を予測した中国人の本が紹介されています。なるほど、という指摘がなされています。
 孫子は、「不知彼、不知己、毎戦必敗」と言っている。日本は自己の力量が分からず、中国のことが分からず、どうして勝利できるのか、これが日本必敗の根本的要因である。
 なーるほど、日本軍は孫子の兵法に学んだようで、実はまったく学んでいなかったのですね・・・。大変勉強になりました。
(2009年3月刊。2800円+税)

 先日の日曜日にいつものように庭の手入れをした翌日から、腕のあたりが赤く腫れ、かゆみがあります。これはきっとハゼマケだと思って皮膚科で診てもらったら、案の定でした。
 庭に植えたわけでもないハゼの木があります。ぐんぐん大きく伸びて実もつけます。隣の田んぼに出っ張って邪魔な枝を切り落としたのです。そのとき、汁が腕についてしまったのでしょう。
 小学生のとき、ハゼの枝を手にしてチャンバラごっこをして、顔中が腫れあがって1週間、学校を休みました。なにしろ顔がお岩さんのようにかさぶただらけになったのです。おかげで一枚すっかり顔の皮がむけて、それ以来、美男子になりました。

2010年6月17日

貧者を喰らう国

著者:阿古智子、出版社:新潮社

 中国の現実の一断面を鋭くえぐり取った本だと思いました。アメリカ社会の格差もすさまじいいと思いますが、お隣の中国大陸も貧富の格差は相当深刻だと改めて思いました。
 なにしろ人口13億人もの巨大国家です。日本の10倍の人口をかかえて、国民がひとしく豊かになるというのは並大抵のことでは実現できないのでしょうね。それにしても、30代の日本人女性が中国の農村部に入って長く生活していた体験に裏づけられていますので、実感がよく伝わってきます。
 中国にエイズ村がある。人口700人のうち、170人は売血で、20人は輸血でHIVに感染し、既に40人が亡くなった。河南省は売血によるHIV感染者の多いことで知られている。これは、省や市・県の当局が売血による地域振興を呼びかけ、血液銀行をつくってすすめていったからである。
 採血は不衛生な環境で行われていた。同じ針をつかって採血していたため、ねずみ算式に感染が広がった。うへーっ、これって怖いですね。
 河南省のHIV感染者は30万人と推定されている。そして、被害者が加害者の責任を追及しようとすると、大きな困難が立ちはだかる。なぜなら、当局がすすめていた事業だから・・・。いやはや、なんということでしょう。
 都市と農村の格差が縮小しない背景には中国特有の戸籍制度がある。農業(農村)戸籍と非農業(都市)戸籍に分ける制度である。
 郷鎮企業は、半官半民で経営される。その所有母体は、郷鎮政府内の資産管理委員会であることがほとんど。1990年代半ばから官民癒着の弊害が指摘され、今では郷鎮企業は、ほとんど消失してしまった。
 中国政府のすすめている社会主義市場経済がうまく機能しないのは、市場原理が健全に働くための前提となる「公平なルール」を政府が保証せず、コミュニティーの中に「信頼」が存在しないため。現在の中国農村には、「信頼」も「公平」も欠けている。不公平・不明瞭なルールの下で、役人たちは農民から富を巻き上げようと腐心し、農民たちは隙あらば隣人を出し抜こうと考え、また隣人が自分を出し抜こうとしているのではと疑心暗鬼になり、あるいは希望を失い自暴自棄になっている。
 中国は表に社会主義の理想を掲げておきながら実際は、資本主義以上に苛酷な競争を大多数の国民、とりわけ農民に強いている。そのため、農民は国を信じず、隣人を信じず、未来を信じなくなっている。もはや、農民が信じられるのは目先の金銭だけ、という荒涼とした拝金主義がはびこっている。
 一時は名望を失っていた毛沢東が死後30年以上も経過した今になって人気を取り戻しつつあるのは、格差拡大を容認する現在の共産党指導部に対する農民の不満が、毛沢東時代の方が希望があったという、よじれた感情にもとづくもの。
 中国の青少年の自殺は多い。15~34歳の青少年の死因の第一位は自殺であり、19%を占める。中国の年間平均自殺者数は10万人に対して23人。これは、国際的な平均水準の2.3倍。もっとも、日本も同じ水準である。
 中国のすさまじい現実の一端を垣間見ることができる本でした。
(2009年12月刊。1400円+税)

2010年5月28日

殺劫(シャーチェ)

著者 ツェリン・オーセル、 出版 集広舎

 チベットにおける文化大革命の実情を写真とともに解説した本です。
 チベットに駐屯していた中国軍士官が熱心なアマチュア写真家として、チベットでの文化大革命の進行過程を写真にとっていたのが、その子どもを通じて世間に知られるようになったのです。つまりは偶然の産物です。
 文化大革命は、団塊の世代である私が中学生のころに始まり、高校生の頃が最盛期で、大学生の頃には終息に向かおうとしていたように思います。といっても、その実情は日本によく伝わってこなかったので、いったい中国で何が起きているのだろうかと怪しみながら仲間うちで話していました。
 というのも、権力者ナンバーワンの毛沢東が、ナンバーツーの劉少奇を実権派として打倒するなんて、まるで理解しがたいことだったからです。
 日本では、文化大革命という文字面を妄信して賛嘆する人たちがいました。いわゆる毛沢東派です。私は大学生でしたが、なんだかウサン臭いものを感じていました。それも道理でした。要するに、失政を重ねて権力の座から落ちていた毛沢東が、もう一度権力を握ろうとして、自己の名声を唯一最大の武器として発動した権力闘争でしかなかったのです。つまり、その内実は文化革命でも何でもなく、単なる勢力争いでしかありませんでした。
 ところが、その被害たるや、甚大かつ深刻なものがあり、いまもって中国共産党はきちんと総括しきれていないという人が少なくありません。
 文化大革命によって、チベットでも寺院が破壊されようとしたし、実際に寺院は破壊され、教典は燃やされていった。しかし、国際世論から批判されるのを恐れた周恩来は、寺院への襲撃を必死になって止めた。そのとき、かつての貴族階級の人々が打倒対象となり、公開の場で大衆的な糾弾を受けた。
 この本には、その様子が生々しく写真とともに紹介されています。そして、糾弾される人だけでなく、写真にうつった糾弾していた人にも40年後のいま、取材しているのです。当時糾弾されていた人でも、現在は復活していまなお活躍しているひとが少なからずいます。
 そして、当時、激しく糾弾していた人が、今では、宗教信仰の世界に舞い戻っている。つまりは、180度の大変身を遂げたわけである。
 はじめ、革命は我々に素晴らしい生活をもたらしてくれるものと思っていた。たとえば、役人になれるし、金持ちにもなれると思いこんでいた。しかし、時間がたつにつれ、そんなことはないことに気がついた。そして、年齢をとればとるほど死に近づく。本当に申し訳ないことをしてしまった。まだ死なないうちに、急いで悔い改める。さもないと、死んで鳥葬場に運び込まれても、ハゲワシが食ってくれない。まったく情けないことになる。
 チベットでは、今も中国政府と揉めているようです。
 40年前のチベットの写真、そして最近のチベットの状況をうつした写真によって、チベットという国のイメージが湧いてきました。貴重な本と写真集です。
 
(2009年10月刊。4600円+税)

前の10件 8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー