弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2010年7月 6日

中国・抗日軍事史

著者:菊池一隆、出版社:有志舎

 日本軍がなぜ中国大陸で敗北し去ったのかについて、八路軍など中共軍だけでなく、むしろ国民党軍の戦いぶりを正面から論じている画期的な軍事史です。
 著者は私と同じ団塊世代ですが、さすが学者です。よくぞ、ここまで調べて、体系的な軍事史になっていると感嘆しながら一心不乱に読みふけりました。
 日本軍の敵であった弱い中国軍を強化するのに、実はドイツの軍事顧問団が大きな役割を果たしたこと、同じくイタリアも中国軍に寄与・貢献していたことなど、日独伊防共協定を結んだ三国なのに、ええっ、何、これは・・・、と驚く記述もありました。もちろんアメリカ軍も中国軍と共同作戦しているのですが、ソ連も武器・弾薬だけでなく、飛行機隊をはじめとして人的にもかなり中国軍を支えて頑張っていたようです。
 また、あまりの日本軍の残虐さに中国民衆が怒って立ち上がって軍事行動をしていたこと、それが国共合作につながって、結局のところ日本軍の敗退につながっていったことなども、総合的にとらえることのできる本でした。
 日中戦争について、軍事的な観点で詳しく知りたいという人には一読をおすすめします。百団大戦など、もっと詳しく知りたいと思うところが簡略化されているという気はしましたが、そこまで求めると、この本の10冊シリーズにはなるのでしょうね・・・。
 日本は開戦当初、軍事力は質量ともに圧倒的に優位に立っていた。兵員が非常に多く、かつ訓練も行き届いていた。軍需工業も発達し、装備も優良であった。日本側の総兵力は448万人。陸軍は17師団、飛行機1480機(陸軍)、と2700機(海軍)。
 それに対して中国側は、陸軍170万人、飛行機は、わずかに314機。
 制空権は、日本が完全に握っていた。
 日本は、中国が軍備力脆弱で、長期に抵抗するのは不可能と考え、3ヶ月で打倒できると考えていた。
 しかし、1937年8月の上海事変のとき、上海周辺にはドイツ軍事顧問団に組織され、ドイツ製武器で装備した最精鋭6個師団3万人が配置され、上海防衛体制は強化されていた。つまり、日本軍はドイツ製の武器を戦うことになり、上海では激烈な市街戦が展開された。中国軍の頑強な抵抗により、日本軍は、10キロ進軍するのに1ヶ月もかかってしまった。そして、このとき、上海の民衆も、積極的に抗戦に参加して、中国軍を支援した。中国軍が初めて見せた奮戦は、上海視界の外国人を驚かせ、中国の国際的地位を高めた。
 1937年9月に第二次国共合作が成立し、中共軍も蒋介石軍とともに戦うことになった。このころ、ドイツは、政治的には日本との関係が強かったが、経済的には中国との関係が密接だった。1938年5月、ヒトラーは、軍事顧問団の引きあげを命令した。
 ソ連は日本に脅威を感じ、1937年8月に中ソ不可侵条約を結んで、軍事的にも援助を強めた。
 日本軍は、首都南京の陥落を喜び、提灯行列がおこなわれたが、日本の予想に反して、国民政府は敗戦を認めるどころか、首都を南京から武漢さらに重慶へ移して抗戦継続の姿勢を明白にした。
 日本は、次々と首都を移動させながら戦えるという中国の広大さを実感として十分認識していなかった。日本は、中国の広大さ、懐の深さを見誤った。
 国民政府の戦略は、空間を時間に換え、持久消耗戦を実施し、日本軍の「速戦速結」政策を粉砕した。抗戦初期、たしかに日本軍が武力面で圧倒的に優勢であった。そこで、可能な限り、正規戦を避けた。蒋介石の指示で、多戦区は遊撃部隊を組織した。遊撃戦をもって正規戦を補強し、日本軍を牽制した。
 日本軍の残虐行為は、中国の民衆を畏縮させるどころか、普遍的な怒りを巻き起こし、反日の実際行動に立ち上がる国共両軍の戦闘を支援しただけでなく、自らも戦闘に参加した。
 太原会戦では大局的には日本軍が勝利したが、台児荘戦闘での局部的勝利は、中国軍兵士と中国民衆を鼓舞した。中国人に、日本に勝てるという意識を植えつけ、日本不敗の神話を打ち破った。その自信は、その後の抗戦に強い影響を及ぼした。
 この本の冒頭に、日本軍は孫子の兵法から外れているので、1939年の時点で日本必敗を予測した中国人の本が紹介されています。なるほど、という指摘がなされています。
 孫子は、「不知彼、不知己、毎戦必敗」と言っている。日本は自己の力量が分からず、中国のことが分からず、どうして勝利できるのか、これが日本必敗の根本的要因である。
 なーるほど、日本軍は孫子の兵法に学んだようで、実はまったく学んでいなかったのですね・・・。大変勉強になりました。
(2009年3月刊。2800円+税)

 先日の日曜日にいつものように庭の手入れをした翌日から、腕のあたりが赤く腫れ、かゆみがあります。これはきっとハゼマケだと思って皮膚科で診てもらったら、案の定でした。
 庭に植えたわけでもないハゼの木があります。ぐんぐん大きく伸びて実もつけます。隣の田んぼに出っ張って邪魔な枝を切り落としたのです。そのとき、汁が腕についてしまったのでしょう。
 小学生のとき、ハゼの枝を手にしてチャンバラごっこをして、顔中が腫れあがって1週間、学校を休みました。なにしろ顔がお岩さんのようにかさぶただらけになったのです。おかげで一枚すっかり顔の皮がむけて、それ以来、美男子になりました。

2010年6月17日

貧者を喰らう国

著者:阿古智子、出版社:新潮社

 中国の現実の一断面を鋭くえぐり取った本だと思いました。アメリカ社会の格差もすさまじいいと思いますが、お隣の中国大陸も貧富の格差は相当深刻だと改めて思いました。
 なにしろ人口13億人もの巨大国家です。日本の10倍の人口をかかえて、国民がひとしく豊かになるというのは並大抵のことでは実現できないのでしょうね。それにしても、30代の日本人女性が中国の農村部に入って長く生活していた体験に裏づけられていますので、実感がよく伝わってきます。
 中国にエイズ村がある。人口700人のうち、170人は売血で、20人は輸血でHIVに感染し、既に40人が亡くなった。河南省は売血によるHIV感染者の多いことで知られている。これは、省や市・県の当局が売血による地域振興を呼びかけ、血液銀行をつくってすすめていったからである。
 採血は不衛生な環境で行われていた。同じ針をつかって採血していたため、ねずみ算式に感染が広がった。うへーっ、これって怖いですね。
 河南省のHIV感染者は30万人と推定されている。そして、被害者が加害者の責任を追及しようとすると、大きな困難が立ちはだかる。なぜなら、当局がすすめていた事業だから・・・。いやはや、なんということでしょう。
 都市と農村の格差が縮小しない背景には中国特有の戸籍制度がある。農業(農村)戸籍と非農業(都市)戸籍に分ける制度である。
 郷鎮企業は、半官半民で経営される。その所有母体は、郷鎮政府内の資産管理委員会であることがほとんど。1990年代半ばから官民癒着の弊害が指摘され、今では郷鎮企業は、ほとんど消失してしまった。
 中国政府のすすめている社会主義市場経済がうまく機能しないのは、市場原理が健全に働くための前提となる「公平なルール」を政府が保証せず、コミュニティーの中に「信頼」が存在しないため。現在の中国農村には、「信頼」も「公平」も欠けている。不公平・不明瞭なルールの下で、役人たちは農民から富を巻き上げようと腐心し、農民たちは隙あらば隣人を出し抜こうと考え、また隣人が自分を出し抜こうとしているのではと疑心暗鬼になり、あるいは希望を失い自暴自棄になっている。
 中国は表に社会主義の理想を掲げておきながら実際は、資本主義以上に苛酷な競争を大多数の国民、とりわけ農民に強いている。そのため、農民は国を信じず、隣人を信じず、未来を信じなくなっている。もはや、農民が信じられるのは目先の金銭だけ、という荒涼とした拝金主義がはびこっている。
 一時は名望を失っていた毛沢東が死後30年以上も経過した今になって人気を取り戻しつつあるのは、格差拡大を容認する現在の共産党指導部に対する農民の不満が、毛沢東時代の方が希望があったという、よじれた感情にもとづくもの。
 中国の青少年の自殺は多い。15~34歳の青少年の死因の第一位は自殺であり、19%を占める。中国の年間平均自殺者数は10万人に対して23人。これは、国際的な平均水準の2.3倍。もっとも、日本も同じ水準である。
 中国のすさまじい現実の一端を垣間見ることができる本でした。
(2009年12月刊。1400円+税)

2010年5月28日

殺劫(シャーチェ)

著者 ツェリン・オーセル、 出版 集広舎

 チベットにおける文化大革命の実情を写真とともに解説した本です。
 チベットに駐屯していた中国軍士官が熱心なアマチュア写真家として、チベットでの文化大革命の進行過程を写真にとっていたのが、その子どもを通じて世間に知られるようになったのです。つまりは偶然の産物です。
 文化大革命は、団塊の世代である私が中学生のころに始まり、高校生の頃が最盛期で、大学生の頃には終息に向かおうとしていたように思います。といっても、その実情は日本によく伝わってこなかったので、いったい中国で何が起きているのだろうかと怪しみながら仲間うちで話していました。
 というのも、権力者ナンバーワンの毛沢東が、ナンバーツーの劉少奇を実権派として打倒するなんて、まるで理解しがたいことだったからです。
 日本では、文化大革命という文字面を妄信して賛嘆する人たちがいました。いわゆる毛沢東派です。私は大学生でしたが、なんだかウサン臭いものを感じていました。それも道理でした。要するに、失政を重ねて権力の座から落ちていた毛沢東が、もう一度権力を握ろうとして、自己の名声を唯一最大の武器として発動した権力闘争でしかなかったのです。つまり、その内実は文化革命でも何でもなく、単なる勢力争いでしかありませんでした。
 ところが、その被害たるや、甚大かつ深刻なものがあり、いまもって中国共産党はきちんと総括しきれていないという人が少なくありません。
 文化大革命によって、チベットでも寺院が破壊されようとしたし、実際に寺院は破壊され、教典は燃やされていった。しかし、国際世論から批判されるのを恐れた周恩来は、寺院への襲撃を必死になって止めた。そのとき、かつての貴族階級の人々が打倒対象となり、公開の場で大衆的な糾弾を受けた。
 この本には、その様子が生々しく写真とともに紹介されています。そして、糾弾される人だけでなく、写真にうつった糾弾していた人にも40年後のいま、取材しているのです。当時糾弾されていた人でも、現在は復活していまなお活躍しているひとが少なからずいます。
 そして、当時、激しく糾弾していた人が、今では、宗教信仰の世界に舞い戻っている。つまりは、180度の大変身を遂げたわけである。
 はじめ、革命は我々に素晴らしい生活をもたらしてくれるものと思っていた。たとえば、役人になれるし、金持ちにもなれると思いこんでいた。しかし、時間がたつにつれ、そんなことはないことに気がついた。そして、年齢をとればとるほど死に近づく。本当に申し訳ないことをしてしまった。まだ死なないうちに、急いで悔い改める。さもないと、死んで鳥葬場に運び込まれても、ハゲワシが食ってくれない。まったく情けないことになる。
 チベットでは、今も中国政府と揉めているようです。
 40年前のチベットの写真、そして最近のチベットの状況をうつした写真によって、チベットという国のイメージが湧いてきました。貴重な本と写真集です。
 
(2009年10月刊。4600円+税)

2010年5月 8日

見えざる隣人

著者:吉田忠則、出版社:日本経済新聞出版社

 中国人と日本社会というサブタイトルのついた本です。在日中国人の状況を紹介しています。
 日本に住む外国人のなかでは、今や中国人が韓国・朝鮮を抜いてトップ(最多)である。
 日本に住む60万人をこす中国人のほとんどは新華僑である。新華僑とは、新中国の成立後、1978年の改革開放以降に海外にわたった人々を指す。
 中国人は1988年には13万人だったから、20年のあいだに5倍に増えた。
 一時滞在も多い。旅行、出張のために日本に来た中国人は、48万人ほど。
 中国人が集中的に住む町の一つが池袋。池袋は中国人が起業する街でもある。
 日本の大学を卒業し、そのまま日本に残って日本企業に就職する外国人が増えている。そのなかで一番多いのが中国人であり、7割を占める。日本企業に就職する留学生の急増を中国人が引っぱってきた。
 留学生の採用が増えたのは、日本企業の国際化が進んだことと関係がある。
 2007年末時点で、教授の資格で日本に滞在している中国人は2453人いる。2位のアメリカ(1167人)と3位の韓国・朝鮮(965人)を2倍以上ひき離している。
 アメリカにいる中国人留学生は2006年に9万3700人で、日本には8万6400人。
 中国の若者の留学熱は冷めていないが、日本を目ざす人は、昔ほど多くなくなった。
 日本と中国との深い関わりを多面的に論じている本です。
(2009年11月刊。1900円+税)

 連休中に近くの小山(388メートル)に上りました。左膝が居たかったので、今年になて初めての山登りです。竹林の中をあるくと、ひんやりして気持ちの良い風が吹いてきます。タケノコ掘りの跡も見えます。
 たっぷり1時間かけて見晴らしのいい頂上でお弁当開きにします。おっと、その前に、来ていた上着を全部ぬいで上半身裸になって汗を拭きとり、着替えます。さっぱりしたところで紅茶を飲み、おにぎり弁当にかぶりつきます。
 もやがかかって、まさに春霞です。遠くの山は見えますが、海の方は見えません。ウグイスが足元にある林で鳴き、涼しい風が下の方から吹き上げてきます。
 地上の人間世界を眺めながら、じっくり弁当を噛みしめます。至福のひとときです。

2010年4月20日

趙紫陽、極秘回想録

著者:趙紫陽、出版社:光文社

 天安門事件のときに中国共産党のトップ、総書記だった著者が鄧小平によって権力の座から追われ、北京の自宅に亡くなるまでの16年間の軟禁生活を余儀なくされました。
 その軟禁生活のなかで著者は、60分テープ30本に回想録を吹き込んでいました。それが2005年に著者が亡くなったあと、文書化されたものが本書です。
 趙紫陽は、広東省の党委員会第一書記に1965年、46歳という若さで就任した。しかし、やがて文化大革命によって失脚し、湖南省の機械工場で組立工として働かされた。ところが、1971年に突如として復活した。その行政手腕を周恩来に見込まれたことによる。
 胡耀邦と趙紫陽の違いは、胡のほうは政治生活の大半を中央で送ってきた。そのため、中央に多数の後援者や親しい関係者がいた。それに対して趙のほうは、中央ではなく地方の省党委員会で働いていたので、中央には鄧小平以外の後援者はいなかった。
 趙紫陽が中国について、結論としてどのようにみていたか、それを紹介したいと思います。驚きました。
 われわれ社会主義国家の民主主義は、すべて表面的なものにすぎない。国民が主役の制度ではなく、国民がひとにぎりの、あるいはたった一人の人間に支配されている制度だ。国家の近代化を望むなら、市場経済を導入するだけでなく、政治体制として議会制民主主義を採用すべきだ。
 そのためには、複数政党制と報道の自由を認めることだ。
 人民解放軍の国軍化という問題もあるが、それよりも重要な、法制度の改革と司法の独立を優先すべきである。
 すごいことですよね。中国のトップ(だった人)がここまで考えていたというのは信じられません。
 鄧小平は、中国共産党のなかで特別の存在であった。重要な事柄については、すべて鄧小平に助言を求めなければならないということが、正式な党機関で決められた。
 まさに、一党ではなく、一人独裁です。信じられない馬鹿げた決定ですよね。
 鄧小平は、西側の三権分立を絶対に取り入れてはならないと叫んでいた。
 さまざまな制限、そして抑制と均衡がなく、権力が極度に集中している体制はあらゆる時点で優れている。鄧小平は、このように考えていた。
 鄧小平は、国民が街頭デモや嘆願書や抗議行動を通じて意見を表明することをひどく嫌った。それどころか、そのような活動を禁じる法律をつくるべきだと考えた。抗議運動が発生するたび、強圧的な手段をつかって鎮圧せよと命令した。鄧小平は、スターリンや毛沢東の晩年から、あるいは文化大革命時代の自分の経営から苦い教訓を学んだ。
 党内と社会の民主化拡大、家長制の廃止などの問題を完全に解決するためには、政治体制における過度の権力集中を改める必要がある。しかし、鄧小平は、権力集中と独裁政治を非常に重視して、それを保持すべきだと考えていた。
 中国共産党の最上層にいる指導者たちの、実にドロドロした複雑な人間関係、そして泥沼のなかでの息詰まる権力抗争が実に生き生きと描かれています。
 一読の価値ある本ですが、惜しむらくは2冊買うと5200円プラス消費税と高価なことです。
(2010年1月刊。2600円+税)

2009年12月27日

中国・文化大革命の大宣伝(上)

著者 草森 紳一、 出版 芸術新聞社

 すごい本です。上巻だけで600頁近くあります。たまがりました、と書こうとしたらこれは方言でした。辞書を引くと、たまげる(魂消る)とあります。いずれにしても、よくぞこれだけの資料を集めて描いたものだと思います。
私にとって、中国で起きた文化大革命は高校生のころにはじまり、大学生そして弁護士になってしばらくまで続きましたから、大いに関心があり、それなりに関連する本を読んできました。ところが、この本は資料の集め方が半端じゃありません。恐れ入るばかりです。蔵書7万冊だということです。私も蔵書は1万冊くらいにはなるのかなあと思っていますが、数えたことはありませんので、よく分かりません。ただ、私個人のブログに『私の本棚』シリーズで写真付きで蔵書の紹介を始めています。すでに30号以上になるのですが、1回10冊ほどですし、まだまだほんの序の口程度でしかありません。ついでのときに、私のブログものぞいてみてください。
 毛沢東は自己宣伝に天才的才能を発揮した。
 ヒットラーは、オープンカーで全国の都市の中を疾走してみせた。「見たか」「見た」の効果は、「疾走」がポイントである。顔を群集に見せるためにゆっくりではダメなのだ。見えたか見えなかったか分からぬ、この危うさがヒットラー神話を作りだすのに大いに貢献した。同じように天安門上の毛沢東は、豆粒のように見えるところに大きな効果がある。天安門広場を埋める百万の群集に対して、見えたと言えば見え、見えないと言えば見えない。人間の視力では無理である。この無理が「接見効果」なのである。クローズアップはテレビにまかせればいい。テレビの中で動く毛沢東効果よりも、テレビに映る豆粒のような百万の紅衛兵に若者はしびれ、同化する。
 ふむふむ、これって、なんとなく分かりますよね。
 当時、中国の青少年は、子どものときからその頭の中に「毛沢東崇拝」の心がしみこむように絶え間ない洗脳を受けている。途中で権力を把握した劉少奇のグループも、その方針を変えなかった。統治の便法として、毛沢東を崇拝させておいたほうが良いからである。
実際には、紅衛兵の独走も多かった。彼らを操ろうとする江青らの文革小組も、指示どころか彼らの行動の後を追っかけるかたちにしばしば陥り、困惑していたのも事実である。つまり、指示による行動と独断による行動とが、見極めにくかった。独走したとき、宣伝に逆利用もできるが、逆宣伝にもなりうる。逆利用できなければ、後手に回るだけである。
 破壊という自分たちの仕事をしている紅衛兵たちは、とても幸せそうだった。
 造反という文字は従来の伝統的な漢語にはなかった。白話運動がおこってからの中国でつくられた新しい言葉である。有理も同じで、慣用の熟語ではない。このような、分かりにくい耳慣れない言葉は、かえって利用価値が高い。大衆は暴力に弱いからだ。革命とは造反のことである。造反は毛沢東思想の塊である。
 下放は都会青年にとって地獄であり、食糧を配分しなければならない農民にとっては歓迎すべからざる客でしかなかった。そして、下放青年たちは豊作踊りを余儀なくされた。この豊作踊りとは、自給自足が原則の知識青年たちが飢えをしのぐため、生産隊の食糧を盗むこと。いやはや、餓死寸前にまで都市青年は追いやられたのですね……。
 毛沢東の死の直後、その遺体を前にして江青と秘書兼愛人だった王海容が取っ組み合いのケンカをしたことが紹介されています。恐らく本当のことでしょうが、ひどいものです。
 中国の文化大革命の真実は、もっと日本人も知ってもいいように私は思います。

 
(2009年5月刊。3500円+税)

2009年12月 5日

三国志談義

著者 安野 光雄・半藤 一利、 出版 平凡社
 私は「三国志」も「水滸伝」も大好きです。胸をワクワクさせながら読みふけりました。豪傑たちへのあこがれは、今もあります。
 魏の曹操は、徹底的に悪者になっている。しかし、『正史』を読むと、立派な人だということが分かる。人材の使い方にすぐれ、適材適所の登用により各人の能力を存分にふるわせた。感情を抑え、計算をしっかりとし、その人物の過去にこだわらなかった。戦略戦術は実に見事で、天下を大きく動かした。まさに絶賛に価する。
 しかも、曹操は大武将であるうえ、息子の曹丕(そうひ)、曹植の親子三人が、いずれもすぐれた詩を残している。そして、曹操は、いつも陣頭指揮の人であった。自分の部下もきちんとほめる。
 いやあ、知りませんでしたね、曹操って本当は偉い人物だったのですか……。かの魯迅が曹操を評価しているということも初めて知りました。
 曹操は非常に才幹のある人物であり、一個の英雄として、非常に敬服している。
 なーるほど、曹操って、実に偉い人なんですね。
 うむむ、なるほど、これもたいしたことですよね。
 曹操の詩に、人生というものは、日が出るとたちまち乾いて消える朝露のようにはかないものであるというものがある。なーるほど、そういうものなんでしょうか……。
 呉の孫権は、人をつかうとき、疑いがあるなら使ってはいけない。しかし、使った限りは疑うな、こう言った。孫権はずっとこれを守った。それで、孫権は19歳のときに王になってから、71歳までの52年間、トップに居続けることができた。
 「白浪五人男」の由来。「白浪」というのは盗賊を意味する。これは、「三国志」の冒頭、黄巾の乱で、大将の張角が戦死したあと、残党の白波(はくは)賊が、白波谷に籠って抵抗したことに由来している。つまり、白波を白浪に変えたのだ。
 危急存亡の秋(あきではなく、とき)。進退谷まる(たにではなく、きわ)。日本語の読み方はとても難しいですよね。
 『三国志』をめぐって、大家の放談を聞くと、いろんなことを知ることができます。
(2009年6月刊。1400円+税)

2009年11月23日

蘭陵王

著者:田中芳樹、出版社:文藝春秋
 時代は中国の6世紀後半、南北朝のころです。随が中国を統一する少し前のことになります。
 中国の歴史書である『資治通鑑』に「北斉の蘭陵王・長恭(ちょうきょう)は、才たけくして、貌(かんばせ)美しく、常に仮面をつけ、もって敵に対す」とあることをもとにした小説です。
 同じく中国の歴史小説を得意とする宮城谷昌光と似てはいますが、文体が少し異なります。何がどう違うのか、私の貧弱な言葉では言い表しにくいのですが、宮城谷昌光のほうが一日の長があって話の深みが優っている気がします。かといって、著者の本がダメということでは決してありません。よくぞここまで調べあげ、また、想像力をたくましくしたものだと感心しながら読みすすめました。
 「蘭陵王」というのは日本でも広く知られていて、古典的な舞楽として、国立劇場で上演されているとのことです。恥ずかしながら、私は知りませんでした。
 勇壮華麗で人気の高い作品なんだそうです。知っている人には申し訳ありません。
  蘭陵王は実在の人物であり、『アジア歴史事典』にも登場する。「蘭陵王高長恭、中国は北斉の皇族。文襄帝の第4子。容貌は柔和であったが、精神は勇敢で、武成帝、後主のもとで、しばしば戦功をたてた。北周の軍が洛陽を攻囲したとき、大将軍斛律光とともにこれを救い、邙山で激戦し、500騎を率いて2度までも北周軍に突入して、ついに金墉の城壁下に達したが、城上の斉兵は高長恭であることを知らず、彼は甲を脱いで顔を示し、城中に迎え入れられた。こうして周軍は囲みをといて退走したので、北斉の将士らは、蘭陵王入陣楽なるものを作って、その勇武を歌った。
 戦功により世の威望高く、ために後主の嫌疑を受け、ついに毒薬を賜り、没した」
 この本には、皇帝が疑心暗鬼となっていて、武勲大なる功臣を次々に謀殺していく情景が描かれています。きのうまで栄華の席にあった皇族や功臣が、たちまち逆賊として殺害されていったのでした。まことに封建主義、皇帝独裁制というのは怖いものです。
 著者は熊本県生まれで、私より少しだけ年下です。これまでも中国史関連の本をたくさん書いているようですが、私は初めて読むような気がします。
(2009年9月刊。1500円+税)

2009年9月 9日

記憶に出会う

著者 大野 のり子、 出版 未来社

 中国黄土高原、紅棗(なつめ)が実る村から。こんなサブタイトルのついた写真集です。中国の辺地を紹介する写真集かなと思って手に取ると、そこはなんと、あの日本軍が三光作戦を展開した地域だったのでした。そこに、私と同じ団塊世代の女性が、単身、現地にでかけて生活しながら、地元の人々の生活と顔写真を撮り続けていたのです。いやはや、すごい勇気です。
 この村にも民兵がいた。民兵は10代後半から20歳くらいの青年で組織され、八路軍を支援した。民兵は武器をもたなかったので、日本軍が来ると隠れるしかなかった。民兵の主な任務は、村人の逃げ道を確保し、八路軍を支援すること。
 女性も婦女隊を結成した。主な仕事は、糸を紡ぎ布を織ること。八路軍が身に着けていたものは、すべて婦女隊が織った粗布だった。
 日本軍と戦って犠牲になった一人の農民兵士の生命の値段は、180元、わずか2700円でしかなかった。
 中国は公式には一人っ子政策をとっているが、農村ではだいたい2人か3人、多いと子どもが5人もいる。罰金を払ってでも子供をつくる。
 中国では子どもが2歳か3歳になって、言葉をしゃべるようになってから名前をつける(起名)のが普通。それまではドンドンとかバンバンとか適当な名前で呼ぶ。
 子どもが12歳になる前に死んだときには、棺にも入れず、服も着せず、裸のまま川に流すか、山や河原に放置して自然のままに任せる。これは、お金のあるなしとは関係ない。
 うむむ、果たして、本当にそうなんでしょうか……?
 日本軍がやってきていたとき、この村では7年間、まるまる7年間、隠れて住み続けた。
 日本人は2、3日に1回、この村にやってきた。その目的は、焼き、殺し、奪い、破壊することだった。
 日本軍は中国軍(八路軍)の倍以上いた。村を包囲し、機関銃で攻撃してきた。ある村人は、日本人と刀による白兵戦となって腕を斬り落とされた。足もやられた。日本軍は強く、八路軍の300人いた部隊は7,8人をのぞいて全滅してしまった。
 1945年夏、日本軍が投降したあと、閻鍚山はひそかに1000人の日本兵を残留させ、八路軍との戦いに参加させた。この中国軍に参加させられた日本兵が「自発的に」中国軍に参加したという不当な扱いを日本政府から受けていることは前に紹介しました。このときの八路軍兵士だった人からの貴重な聞き取りもあります。
 中国のお葬式は、にぎやかにすすめられる。お墓には墓碑というものはなく、土盛りは風雨にさらされて、やがて大地と一体化する。
 私も、敦煌の近くの砂漠地帯で、そのような墓地を見ました。人は土から生まれ、また土に還っていく存在なのですね。
 この村は、中国山西省中部にあります。北京から高速バスで7時間、そして乗り換えたあともバスに乗って、合計14時間ほどの行程のところです。
 焼き尽くし、奪いつくし、殺しつくす。残虐な三光作戦を繰り返した地に、日本人女性が一人で現れたわけですから、地元の拒絶反応はすごいものがありました。それも当然ですよね。自分の身内が殺されているのですからね。それでも次第に村の生活に溶け込んでいくのがすごいです。村の人々の生活と、おだやかな顔写真がよく撮れていました。

(2009年5月刊。1500円+税)

2009年6月12日

中国貧困絶望工場

著者 アレクサンドラ・ハーニー、 出版 日経BP社

 チャイナ・プライスはブランドと化している。そのブランド・イメージとは、安価な衣服、アメリカの流通大手ウォルマートの陳列棚に目いっぱい並べられている家電製品、職を失いつつあるアメリカ国内の工場労働者、工場で働く中国人女性などの断片を寄せ集めたもの。
 そして、このチャイナ・プライスに対してアメリカの経営者は、東方でたちあがった新興勢力としての脅威を覚える一方で、大幅なコスト削減を約束してくれる頼もしい味方のようにも感じている。ウォルマートは、中国から毎年少なくとも180億ドル相当の製品を仕入れている。韓国のサムスンは中国から150億ドル相当の部材を購入した。
 中国はアメリカ向けの輸出シェアを41分野で拡大した。2006年、アメリカの対世界貿易は、全体として1780億ドルもの輸出超過となった。
 製造業界に関しては、中国は1億400万人という世界最大の労働力を抱えており、これは、アメリカ・カナダ・日本・フランス・ドイツ・イタリアそしてイギリスの労働力を合計した人数の2倍である。
 中国には、「ガン村」と呼ばれる村が点在する。1600万社で働く2億人の中国人従業員は、危険な労働条件の下で働いている。2005年現在、中国には職業病にかかった人が66万5千人と記録されていた。そのうち9割、61万人ほどがじん肺症である。実際には、じん肺症患者は100万人をこえていると推定されている。
 中国は職業病の予防と処置に関する法律を2002年に施行している。だが、実際に法を執行するのは、地元の政府である。出稼ぎ労働者の働く工場を監視する人員は絶対的に不足している。2006年末で、7億6400万人の職場を監督するのに、フルタイムの労働検査官は2万2千人しかいない。たとえば、580万人もの人々が働く深圳に、検査官がわずか136人しかいない。
 労働争議は増加の一途をたどっている。2005年に、仲裁委員会は前年比20.5%増の31万4千件の申請を受理した。
 出稼ぎ労働者は3種類の書類を常時携帯することが求められている。身分証・暫住証・就業証である。これを持たない人は、「三無人員」と呼ばれる。「暫住証」のヤミ市場価格は3万元もする。
 1994年以来、深圳の居住者は、郵便局を通じて1600億元もの仕送りをしている。経済成長の早さは全国トップであり、1980年以降は、毎年平均28%もの伸びを示している。深圳の不動産価格は、2006年だけで30%の伸びを示すほど急騰した。
 中国の労働市場のすさまじい実情の一端を知ることができました。

浦上天主堂に行ってきました。久しぶりのことです。
 ひょっとしたら、中学生以来かもしれません。グラバー邸には何年か前に行きましたが……。浦上駅から歩いて15分。坂を登ったりおりたりして、いい運動になりました。
 天主堂の前の花壇に首の取れた聖人像があります。原爆の威力のすさまじさを感じます。聖人像のかたわらに紫陽花の青い花が咲いていました。
 天主堂のなかをのぞくと、暗い堂内にステンドグラスが怪しく輝いていました。
 オバマ大統領が原爆投下の道義的責任を認め、核廃絶への取り組みを呼びかけました。とても画期的なことです。まさしくチェンジの実践です。日本人として、拍手を送りたいと思います。ところが、なんと日本政府は核の傘をはずさないように申し入れたとのことです。明らかに逆行していると思います。
 それどころか、北朝鮮が衛星を打ち上げたり(失敗しました。アメリカはミサイルではなかったとしています)、核実験するなどひどい事をしているのに対して、自民党のなかに北朝鮮の基地を先制攻撃しろという声が出ているそうです。それって、戦争を始めろというのと変わりません。恐ろしいことです。

(2008年12月刊。2200円+税)

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