弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2020年1月17日

2030中国・自動車強国への戦略


(霧山昴)
著者 湯 進 、 出版  日本経済新聞出版社

今や世界の自動車は電気自動車、そして自動運転の時代に向かってしのぎを削っていることがよく分かる本です。
電気自動車の開発では電池がカギです。
「電池を制する者が電動化を制する」(トヨタの副社長)
トヨタは1兆5000億円を投資する方針だという。
車載電池は、2010年ころまではEVの航続距離は200キロほどだったが、現在は500キロをこえている。
電池のコストダウンを妨げている要因の一つが希少金属の価値高騰。コバルトは採掘量と使用量が他の金属に比べて少量で、埋蔵量はコンゴ民主共和国にその半分が集中している。2020年代半ばにコバルト不足が心配する可能性がある。
2030年の世界の電池市場規模は2017年の5,6倍、10兆円をこえ、中国のシェアは45%に達するという予測がある。
中国が自動運転車の開発を急いでいるのは劣悪な交通事情にも起因している。中国では、交通事故による死亡者が年に25万人をこえ、交通渋滞による経済損失が年間4兆円にのぼる。
自動運転を実現するには、クルマの位置特定、環境識別、行動制御が不可欠。とくに位置特定には、大量の路面データを収集・処理できる高精度地図が必要。高精度地図について、中国政府は安全保障上の懸念を理由として外資系企業の参入を厳しく規制している。
現在、BAT傘下の百度地図(バイドゥ)、高徳地図(アリババ)、四維国新(デンセント)がこの市場を寡占(かせん)している。
2018年に、新車販売台数が30万台以上の中国自動車グループは14社あるが、今後は主要5大グループ体制になっていき、そのなかからメガEVメーカーが生まれる可能性は高い。
2018年、日本車は東南アジア・インドで寡占状態にある。インドネシアで92%、タイで86%、フィリピンで81%、インドで60%。ここに中国勢が進出しようとしている。
日本車の中国における乗用車の市場シェアは2018年に18.8%、2019年には21.5%。2018年には500万台となった。2023年には、日系自動車ビッグ3の中国での生産能力は現在の2倍にあたる660万台を見込んでいて、欧米勢を上回ることになる。
中国大陸の大気汚染の要因の一つがガソリン車の排気ガスですから、電気自動車にかわることは日本国民にとってもいいことです。地球環境について、16歳のグレタさんが必死で訴えていることを私たちは真剣に受けとめるべきです。小泉環境大臣のようなふざけた対応は許しがたいと思います。
(2019年10月刊。1800円+税)

2019年12月 8日

暁鐘、革命家・李大釗の物語


(霧山昴)
著者 大川 純彦 、 出版  藤田印刷エクセレントブックス

第二次大戦前、革命前の中国で活動していた李大釗(りたいしょう)の物語です。
1927年4月6日、ソ連大使館に逃げ込んでいた李大釗と李を従う青年19人そして家族やソ連大使館ら60人余りが中国兵に踏み込まれて、逮捕・連行された。当時の北京政府総司令・張作霖の厳命によるもの。もちろん、外国公館への武装立ち入りを禁止する国防法を無視したものだ。ところが、欧米列強は、これを黙認した。ロシア革命が拡大、波及することを恐れていたから。
李大釗らは軍事法廷に引きずり出され、20人全員に死刑が宣告され、その日のうちに絞首刑に処された。李大釗は38歳だった。これは、軍閥政府による共産党大弾圧事件の犠牲者だった。
李は北京大学の図書館長をしていたとき、生活に困っていた毛沢東に図書館の仕事を世話した。周恩来は、北京で李から直接指導を受けていた。
魯迅は北京大学の講師として、李の同僚だった。
孫文が、「国共合作」をすすめるうえで、協議を重ね、信頼していた共産党の指導者は李だった。
李大釗は日本に留学し、早稲田大学政経学科に入学した。李大釗が日本にいたのは1913年から1916年までの3年間ほど。大学のゼミで指導を受けたのは、キリスト教社会主義者として名高い安部磯雄教授だった。安部教授によって李は社会主義への目が開かれた。安部教授は東京の下町である氷川下町でのセツルメント活動をしていて、ロビンソン牧師も一緒だった。
李は中国共産党の命名者でもあった。そして、国民党に入党し、「国共合作」をすすめた。李大釗は孫文と「国共合作」を協議して。その具体化をすすめた。
李大釗の死後、すぐには葬儀すら出来なかった。ようやく葬儀が出来たのは刑死のあと6年もたってからだった。
中華人民共和国が成立するのは1949年ですから、李大釗が亡くなって20年後のことでした。まだまだ厳しい苦難の日々が続いたのです。
李大釗の長女の回想録をもとにした自伝小説風になっていますので、とても読みやすい本です。
(2019年4月刊。1200円+税)

2019年12月 7日

幸福な監視国家・中国


(霧山昴)
著者 梶谷 慎、高口 康太 、 出版  NHK出版新書

中国の地下鉄駅ではX線による荷物検査を受ける。日本の新幹線のような高速鉄道に乗るには身分証の提示が必須。
街中いたるとこに監視カメラがあり、全国で2億台。2020年には6億台になるだろう。
中国をお訪問すると、その監視社会ぶりに驚かされる。
このように現実世界でもインターネット上でも、すべてが政府に筒抜けになっている。ところが、現状を肯定的にみている。これは驚くべきこと・・・。
中国の新・四大発明とは・・・。
1つは高速鉄道、2つはEC(電子商取引)、3つはモバイル決済、そして、4にシェアサイクル。EC、つまりネットショッピングは、全世界の40%を占め、世界一。
淘宝には、客がショップの信用評価をする仕組みがあり、このためショップは懇切丁寧に対応する。ネットショッピングの割合は日本が5.8%、中国は19%と3倍以上。
中国のモバイル決済は2680兆円に達する。そして、この巨大な資金の動きがアリババグループとテンセントの2社に把握されている。つまり、重要情報をこの2社だけで独占している。
アリババグループが展開する信用スコアの芝麻信用は、ユーザーの金融能力を点数で評価する。そのため、借りて返したという履歴を企業に引き渡すことで、自らを優良ユーザーとして証明でき、それが信用評価を押しあげる。
監視カメラは、日本ではひっそり目立たないように設置されている。しかし、中国では、むしろ、これ見よがしに、「監視しているぞ」と誇示する設置の仕方が多い。
住民の道徳的信用スコアは、どうなっているか。一切の違反がないと1000点。A級とは970点以上、850点以上はB級、600点以上をC級。それ以下はD級。
中国のインターネットユーザーは8億2900万人。全国民の60%に相当する。10年前の2008年には、まだ22.6%だった。
IT化の先進国・中国から、日本はいろんな面で大いに学ばねばならない。そう思ったことでしたが、同時に国民のプライバシー保護をどうするか、大きな課題です。
(2019年8月刊。850円+税)

2019年11月27日

満鉄全史


(霧山昴)
著者 加藤 聖文 、 出版  講談社学術文庫

日露戦争(1904年)で日本がロシアに辛勝したあと、ポーツマス講和条約(1905年)で、ロシアは東清鉄道南部支線を日本へ譲渡した。これがあとの満鉄となる。
ところが、日本政府内部では、この鉄道がどのような果実をもたらすものか、誰も分かっていなかった。すなわち戦略的な位置づけや基本的合意のないまま、満鉄という組織だけが出来あがっていった。
南満州での権限拡張に陸軍は熱心だった。そして、満州各地に領事館を設置していた外務省も熱心だった。
後藤新平は、1906年11月に満鉄総裁に任命された。満鉄は、単なる鉄道会社の範囲をこえて、多角経営をすすめた。1907年11月には「満州日々新聞」を発行したが、あわせて英字新聞まで発行した。また、ホテル経営にも進出し、「ヤマトホテル」を沿線主要都市に建設していった。さらには、調査部を設置した。
第二代総裁の中村是公(ぜこう)は夏目漱石を満州に招き、広報マンたらしめようとした。二人は学友だった。漱石が満州に着いたころ、満州では野球が盛んで、観戦している。
関東軍のはじめは、満鉄沿線の警備にあたる独立守備隊と、関東州に駐在する1個師団のあわせて1万人ほどの軍隊でしかなかった。
松岡洋右は、満鉄の理事・副総裁・総裁として11年にもわたって在職した。
松岡と張作霖は、根本的なところで思惑が違ったものの、表面的には利害が一致していたので、両者は手を結んだ。原内閣のとき、張作霖を利用しつつ、満州における日本の権益を拡張するという方針が定まり、これが1920年代の基本路線だった。満鉄の松岡総裁は積極的に張作霖を支援し、張作霖の中央政界進出を側面支援した。
ところが、これによって張作霖の政治権力が強大になってくると、満鉄ひいては日本は、満州を好き勝手にすることができなくなるというジレンマに陥った。
日本は、張作霖の性格や能力はある程度理解していたものの、その存在を支える漢人の社会的要請をまったく理解せず、あくまで一個の道具としてしか見ていなかった。
そのため、思いどおりになるとみていた張作霖の自我と自負の強さを直面すると、反感が大きく増幅され、ついに抹殺へとつながっていった。
1928年6月4日、関東軍の高級参謀だった河本大作大佐が主謀した張作霖爆殺事件が起こされた。このとき27歳だった張学良は、満鉄包囲計画を立てた。
1931年9月に始まった満州事変は、関東軍の単独・独走ということではなく、関東軍と満鉄の二人三脚によって進められていった。
満州事変の当初は、満鉄首脳部は関東軍への協力に消極的だった。それが180度方針転換したのは1931年10月のこと。1930年度、満鉄社員は3万4000人もいた。
満鉄と関東軍の蜜月時代は長くは続かなかった。
両者の立場は逆転した。ただし、満鉄は依然として満州国随一の巨大企業。満州国がひとりだちするには、満鉄の経済力と人材が必要不可欠だった。
満鉄に関する詳細な通史です。勉強になりました。
(2019年8月刊。1180円+税)

2019年11月 6日

チョンキンマンションのボスは知っている


(霧山昴)
著者 小川 さやか 、 出版  春秋社

チョー面白い本です。びっくりします。スワヒリ語の話せる著者が香港に生活するタンザニア人たちの社会に溶け込んでつかんだ、びっくりするような生態が分かる生きたレポートです。
スワヒリ語を話せることがこんなに「武器」になるなんて・・・。やはり語学は大切ですよね。
アングラ経済の人類学。このサブタイトルに異存はありません。
うまく騙すだけでなく、うまく騙されてあげるのが仲間のあいだで稼ぐうえでは肝要。
チョンキンマンションのボスを自称するカラマなる人物は、いかにも魅力的です。多くの人に一目置かれています。15ヶ国以上のアフリカ諸国の中古車ディーラーとネットワークをもっている。タンザニア香港組合の創設者で、現副組合長。
香港に長期に滞在するタンザニア人たちの主な仕事は、短期滞在型の交易人たちの輸出入のアテンド、仲介業と、インフォーマルな輸出・輸入業である。
これより先は、知りたくないという寸止めの態度がチョンキンマンションに長く暮らしている人々が実践していること。これは平穏に自らの人生をつむぐ知恵であり、いろんな事情をかかえた人々とつきあうための配慮にもなる。
タンザニア香港組合のメンバーは多かれ少なかれ「法」に違反している。それでも麻薬の売人や窃盗を兼ねて違法売春する者と、仲介業をしたり衣類や電化製品などの交易に従事する者とでは、「刑務所の近さ」あるいはトラブルの性質や頻度に違いがある。
彼らは、常々、「誰も信用しない」と断言している。
大切なのは仲間の数ではない。タイプの違う、いろんな仲間がいること。
他者の「事情」に踏み込まず、メンバーと相互の厳密な互酬性や義務と責任を問わず、無数に増殖し拡大するネットワーク内の人々が、それぞれの「ついで」に出来ることをする「開かれた互酬性」を基盤とすることで、彼らは気軽な「助けあい」を促進し、国境をこえる巨大なセーフティーネットをつくりあげている。
自分たちを対等であるとみなしていない人々に対しては、「扱いやすい人間」にならないことが肝要。そのためには、わざと約束をすっぽかし、彼らが会いたいと恋しがるころに会いに行くのがちょうどいい。
なーるほど、こんな人生哲学があるのですね・・・。
タンザニア人たちは、独立自営を好み、業者に労働者として雇われたり、他のブローカーと共同経営することは好まない。
カラマたちにとって、SNSに投稿するための写真や映像を集めるのは「遊び」であると同時に「大切な仕事」でもある。
彼らは他者に親切にすることで何らかの権力や地位を得ることには、ほとんど関心がないし、関心をもったとしても何の権力も地位も得られない。
香港のタンザニア人たちは、組合活動への実質的な貢献度や窮地に至った原因を問わず、組合員の資格や他者への支援にかかわる細かなルールを明確化せず、ただ他者の求める支援に応じるか否かを判断する。
彼らの日常的な助けあいの大部分は、「ついで」で回っている。
タンザニアに帰国するか、いつ帰国するかにかかわらず、彼らは「どこか」「いつか」のためではなく、「いまここ」にある人生を生きるために稼いでいる。
彼らの仕組みは、洗練されておらず、適当でいい加減だからこそ、格好いい。
著者は40歳の日本人女性で、立命館大学教授でもあります。すばらしいルポタージュですが、この一部は学術論文にもなっているとのことで、深みもあり、ともかく面白く読ませます。あなたも、ご一読してみてください。世界が広がりますよ・・・。
(2019年10月刊。2000円+税)

2019年10月26日

三体


(霧山昴)
著者 劉 慈欣 、 出版  早川書房

中国発のSF小説です。さすがにスケールが壮大です。
この「三体」3部作は、中国では2100万部も売れたというのですから、これまたスケールが日本とはまるで違います。
物語の始まりは1967年です。私にとっては東京で大学生としてスタートした記念すべき年でもあります。まだ大学内は嵐の前の静けさでした。ところが、隣の中国では文化大革命が深く静かに(実は、にぎにぎしく。静かだったのは報道管制下にあったことによる)進行中だったのでした。
文化大革命の本質は、実権を喪いつつあった毛沢東が権力奪還を企図して始めた武力を伴う権力闘争だった。ところが、表面上は文化革命というポーズをとっていたのでした。そこは毛沢東の巧みなところだ。そのため、この毛沢東が始めた文化大革命に全世界の文化人の一部が幻想を抱いて、吸い込まれていった。
武力をともなう残酷な権力闘争(文化大革命)の過程で、物理学教授である著者の父親は若い紅衛兵によって死に至らしめられた。
周の文王が突然登場したり、紂王(ちゅうおう)も出現したり、時代背景は行きつ戻りつします。そして、地球外知的生命体を探査するプロジェクトも関わってくるのでした。
やがて、秦の始皇帝まで姿をあらわします。いったい、この話はどんな結末を迎えるのだろうか...と心配にもなってきます。
三体時間にして8万5千時間、地球時間で8,6年後、元首が三体惑星全土のすべての執政官を集める緊急会議を招集した・・・。
ともかく、スケールの大きさが半端ではありません。縦にも横にも限りなく広がっていくのです。不思議な感覚に陥って、それを楽しむことができる本でした。
私はひたすら、すごいすごい、とてつもない発想だと驚嘆しながら読み通しました。
(2019年7月刊。1900円+税)

2019年10月23日

中国が世界を動かした「1968」


(霧山昴)
著者 楊 海英 、 出版  藤原書店

あのフランス人歴史人口学者のエマニュエル・トッドが1968年ころ、17歳でパリ郊外の高校3年生のとき、フランス共産党系青年組織の一員だったというのには驚きました。
校内では権威的な校長を面罵してストライキを打ち、校外ではゼネストの労働者と一緒だった。政治うんぬんの前に単に楽しかった。
これは、日本の全共闘シンパに共通するものだと私は思いました。
中国における紅衛兵の造反は、フランスの学生運動など世界情勢に影響を与えた。
「欧米にしろ、日本にしろ、キャンパスの内外を問わず、もっとも活躍し、威張っていたのは、みな毛沢東派だった」
さすがに、ここまで言うと、明らかに言い過ぎです。毛沢東主義者は、日本ではML派などといって、目立ちはしましたが、しょせん新左翼党派のなかでは弱小セクトの一つでしかありませんでした。東大闘争のなかでも、全共闘のなかに、そう言えばML派もいたよね、という程度でした。
中国の紅衛兵のなかに、パリ・コミューンにあこがれる人物はあらわれたが、それは中国共産党の一党独裁に脅威を与えるものとして、たちまち「反革命」とされた。
毛沢東は、1958年からの大躍進政策や人民公社という惨憺たる失策から権力政治の中枢から外れ、地方を流離するなど、孤立状態にあった。
毛沢東が反逆の狼煙(のろし)に点火したのは、日本と中国両共産党のコミュニケが破棄された1966年3月末のことだった。毛沢東は、地方にあって劣勢な権力者が、中央にあって優勢な権力者に向けて蜂起するという、権力内部のクーデターを発動した。
この毛沢東による文化大革命による犠牲者は500万人にものぼるとみられている。
学生たちを辺境の地に追いやり労働させるという「下放」事業のなかで、学生たちは現実を直視せざるをえなかった。レイプや暴行、自殺、劣悪な労働環境下での事故死が相次いだ。
人間関係のない「よそ者」の青年たちは、移送先では、まったくの「社会的弱者」だった。
現実と直面するなかで、プロパガンダに対する疑問と抵抗感を抱くようになっていった。
ドイツでは、元毛沢東主義者が今も活躍している。1人はバーデン・ヴュルテンベルグ州の首相であり、もう1人は議員である。この2人は、首相が緑の党、もう1人は今では右翼政党に所属している。
ドイツには、左右を問わず、もとは毛沢東主義だったという政治家やジャーナリストが少なくない。とりわけ、緑の党に目立っている。
西ベルリンには、北京派ドイツ共産党が存在した。かつての毛沢東主義者は、教師・弁護士・ジャーリスト・研究者・作家・経営者・政治家として成功した者が少なくない。
彼らは、政治的な一面的思考を免れ、規律正しさと自己犠牲精神を身につけていた。
中国は「革新」を全世界に輸出することを夢見ていた時期があったようですが、そんなものがうまくいくはずがありません。
国際社会の歴史的動向をうかがえて、読んで良かったと思いました。
(2019年5月刊。3000円+税)

2019年8月 1日

11通の手紙


(霧山昴)
著者 及川 淳子 、 出版  小学館

1989年6月4日に想いを馳せて・・・。
あの日、君は、分厚い法律書を、肩にかけた布鞄にしまい込んだ。
「弁護士を目指す大学院生だから、条文はしっかり覚えているよ」
君の一番のお気に入りは、憲法35条だ。そこには「自由」が記されている。
「おかしいことは、おかしい」、「それは間違っている」、そう言いたいだけ。ぼくらの声に耳を傾けてほしい、ぼくらの声が届くようにしてほしい。何のために学ぶのかって・・・。決まっているじゃないか、困っている人を助けるためさ。だから、ぼくは弁護士になる。
そんな君が、ついに逮捕されて、弁護士に資格を奪われた。信じた道を歩むことが、いったい何の罪だというのか・・・。

あの日、君はカーキ色の軍服に身を包み、銃を抱えていた。君は人民の兵士だから、人民のために働くと、そう信じていたはずだ。
君も、君の仲間たちも、疑うことなどなかっただろう。
兵士は、軍の命令に従わなければならない。けれど、人は誰にでも、自分の心の声にしたがう「自由」がある。
君は、それを学ぶ機会がなかったのだと、「あの日」気がついただろうか・・・。

銃口を突きつけられたとき、言葉は無力かもしれない。
戦車の前に立ちはだかったとき、詩は無力かもしれない。
それでも、人は言葉で生きていくものだから、ぼくは言葉の力を信じていたい。
ぼくは、ここにいる。
ぼくは、ここで書き続ける。
ぼくは、ここで生きていく。
第二次天安門事件が起きたのは1989年6月4日。
2010年12月10日、中国の民主活動家である劉暁波にノーベル平和賞が授与されましたが、授賞式は本人不在のまま実施されました。
中国の民主化は、中国の人々の課題です。そして、日本人の私たちも日本の民主化をすすめるべき責任を負っています。ところが、現実には日本人の6割が投票所に行く自由が保障されているにもかかわらず、足を運びません。そのなかで、安倍一強の「独裁」政治が進行しています。どうせ私の一票で世の中なんか変わらないというあきらめ感が日本中を覆っています。そして、嫌中・嫌悪が大手を振ってマスコミをにぎわせ、まあ、仕方がないやね、悪いのは中国・韓国であって、日本はいつだって正しいことをしてきたんだから・・・。そんな偏見から目の覚めない日本人がいかに多いことでしょう・・・。残念でなりません。
尊敬する内田雅敏弁護士から贈呈していただきました。
(2019年5月刊。1200円+税)

2019年7月12日

文化大革命五十年


(霧山昴)
著者 楊 継縄 、 出版  岩波書店

私にとって中国の文化大革命とは高校生のころに隣の中国で始まったなんだか変な運動であり、いかにも行き過ぎた出来事でした。ですから、直接体験は何もしていませんが、見逃せない重大事態が隣の中国で起きていると思ってウォッチングを続けてきたのでした。
この本の著者は、私より8歳も年長で、1966年(昭和41年)から67年末まで、清華大学において学生として文革に参加していて、1968年1月からは、新華社の記者として文革を取材しています。ですから、自分の体験と取材を通じて文化大革命とは何だったのかを語る内容には説得力があります。
現代中国当局による官製の文革史は、文革の悪しき結末は、「反革命集団によって利用された」結果だとしている。これは毛沢東に責任を負わせないためのものであって、歴史を歪曲している。
毛沢東が残した二大問題は、経済面での極度の貧困、政治面での極端な専制だった。この二つの問題を解決する方法は経済改革と政治改革である。
今日の中国では、学士、修士、博士の学位を手にしても、自分の社会的地位を高めるのは非常に難しい。
2009年に「蟻族」という言葉があらわれた。「蟻族」とは、大学を卒業したが、低収入のため、雑居生活をしている人々のこと。北京だけでも、少なくとも10万人以上の「蟻族」がいるとみられている。高知能でありながら、自信は弱小で、群れで生活している。「蟻族」の多くは農村出身で、両親と本人が大変な苦労と努力して大学を卒業したのに、依然として社会の下層にいる。
毛沢東は、はじめ半年あるいは1年から3年で文革を終えようと考えていた。
文革は疾風怒涛のごとき、大がかりな大衆運動だった。官製イデオロギーは、中国人の魂のなかにまで浸透し、多くの者がきわめて大きな政治的情熱を抱いて運動に参加した。
文化大革命以前の制度が文化大革命を生み出す根本的な原因だった。
中華人民共和国は、中国の皇帝専制の土壌の上に構築されたソビエト式の権力構造だった。
毛沢東は、中国に特権階級が出来た現実を認めつつも、文化大革命を通じて、この「新しい階級」を転覆させることができると信じていた。しかし、毛沢東としても、文化大革命を発動させることによって生まれた無政府状態を長引かせることはできず、秩序を回して「天下大治」を実現するためには官僚を必要とした。
造反派は毛沢東の左手であり、官僚体制をたたくには彼らが必要だった。官僚集団は毛沢東の右手であり、秩序回復には彼らを必要としていた。
文革は、毛沢東、造反派、官僚集団が織りなしたトライアングルのゲームであり、このゲームの最期の結末では、官僚集団こそが勝者となった。敗者は毛沢東であり、敗者のツケを払わされたのが造反派だった。
文革は、ひとたびは旧制度を破壊したが、その後期に旧制度は完全に復活した。中国人は、文革のために重大な代価を支払った。
文革の失敗は、イデオロギーという大きなビルを崩落させ、中国人は、数十年来の精神的枷(かせ)から抜け出し、荒唐無稽なイデオロギー神話から覚醒した。多くの民衆が共産主義を信じなくなった。
「階級闘争をカナメとする」という残酷な虐殺用の刀は一般庶民を傷つけただけでなく、全官僚集団、とくに鄧小平ら高級幹部を傷つけた。そこで、「経済建設を中心とする」を実行することが、すでに全社会の共通の認識となっている。
文革で打倒された官僚は、造反派への怨みを心に刻み、報復するだけでなく、文革以前にもまさる特権と腐敗をやり始めた。
文革以後の中国は、まぎれもなく権力を得たものが富裕になる世界である。
毛沢東が死んだのは1976年9月9日。もう43年もたちます。今でも、毛沢東の信奉者がいるようです。もっとも同じような現象は、スターリンにも、ヒトラーにすらありますので、世の中は複雑怪奇としか言いようがありません。
本文では文化大革命の日々を具体的に振り返っていますので、なるほど、そうだったのか・・・と思うところが多々ありました。50年前の大学生時代、アメリカのベトナム反戦運動(これは少しずつ広がっている印象でした)、中国の文化大革命の推移(その情報がほとんど入ってきていませんでした)、そしてベトナムでのアメリカへの抵抗戦争(ベトナム人民の不屈の戦いに感動して身が震えていました)に、絶えず目を配っていたものです。
(2019年1月刊。2900円+税)

2019年5月 6日

顔真卿伝

(霧山昴)
著者 吉川 忠夫 、 出版  法蔵館

唐の顔真卿(がんしんけい)は、中国の書家として、東晋の王羲之(おうぎし)と並んで、あまりにも有名です。
先日も東京・上野で顔真卿の書画展があっていました。
顔真卿が生まれたのは、唐の中宋のとき(709年)。詩人の杜甫(とほ)も、ほぼ同じころの人です。
顔真卿には「世捨て人の趣味人」というイメージがありましたが、本当は唐の王朝で高い地位についていた高級官吏でもあったのです。
その最期は、唐王朝に叛旗をひるがえした人物に派遣されたあげくの壮絶な死でした。
唐代において顔氏は、名家だったが、政治上で華々しい活躍をしたというのではなく、あくまでも学問を家業とする一家であった。
顔真卿は、26歳のとき、高等文官資格試験である科挙試験に合格した。
安禄山が突如として挙兵し、唐政府と戦うようになった。そして、安禄山は、寝ているところを息子に殺された。ときに55歳だった。
顔真卿なる人物を知ることが出来ました。
(2019年2月刊。2300円+税)

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