弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2013年6月19日

『霧社事件』

著者  中川 浩一・和歌森 民男 、 出版  三省堂

32年前に読んだ本です。映画をみましたので、書棚の奥に潜んでいたのを掘り出しました。霧社事件の原因と展開について写真つきで詳しく紹介されています。
 この霧社事件は、清朝による「蕃族」封じこめを継承したのに加えて、分割統治を基幹とする「以毒制毒」政策を工作し、そのうえ搾取をあえてした日本植民地主義にたいして、民族の誇りを守り、生存権をかけて起ちあがったのが霧社事件の本質であった。
 映画をみた人は、ぜひ、この本も読んでほしいと思います。
 休日に天神で台湾映画『セデック・バレ』をみました。人間の気高さを実感させる感動長編映画です。1930年(昭和5年)10月に日本統治下の台湾で起きた事件が描かれています。山間部の学校で運動会が開かれているところを現地セデック族が襲撃し、日本人200人あまりが女性や子どもをふくめて全員が殺害されました。その場にいた現地の人や中国人は助かっています。あくまで日本人が狙われたのです。それほど日本人は憎まれていたわけでした。
その事件に至るまで、統治者の日本人が誇り高き狩猟民族であるセデック族を野蛮人として弾圧していたうらみが一度に噴き出したのです。
 もちろん、日本当局は反撃に出ます。奥深い山中で300人のセデック族の戦士に3000人の日本軍・警部隊は近代兵器をもちながらも翻弄され、深手を負っていきます。しかし、結局は、飛行機、大砲、毒ガスによる日本警察の包囲攻撃にセデック族の戦士たちは次々に戦死し、自決していくのでした。「セデック・バレ」とは、「真の人」を意味するセデック語です。死を覚悟しながら、信じる者のために戦った者たちの尊厳が示されています。
映画は圧倒的な迫力があり、2時間あまり息をひそめ、画面にひきこまれました。実は、上映時間があわず、2部構成の後半だけみたのです。
いま、KBCシネマで上映中です。日本が戦前、何をしていたのか知ることのできる貴重な映画でもあります。加害者は忘れても、被害者は忘れないことを証明する映画でもあります。台湾で多くの賞をとったのも当然の傑作です。ベネチア国際映画祭でもワールドプレミア賞をとっています。
(1980年12月刊。2500円+税)

2013年5月26日

チベットの秘密

著者  ツェリン・オーセル、王力雄 、 出版  集広舎

中国の中のチベット独立運動が中国政府によって力で抑えこまれていることを告発している本です。
 もし、我々がチベット語の重要性を強調すれば、「狭隘な民族主義者」というレッテルを貼られる。人目に触れない中国政府の公文書では、チベット語のレベルが高ければ高いほど、宗教意識が強くて、思想が反動的で敵対的だとされている。
 チベット語を学ぶために、チベット語で授業を行う教育システムを整備することは、近代化に求められる人材を育成するために必要なだけでなく、チベット民族の最低限の人権でもあり、また民族的な平等を実現するための根本的な条件でもある。
 1959年以来、ダライ・ラマは世界の人々がもっとも尊敬する亡命者になっている。尊者ダライ・ラマへの信仰心はますます堅くなり、命を惜しまず自分の信仰を守ろうとする者が増えている。
 亡命を余儀なくされているダライ・ラマは雪国の文化の魂であり、弱小民族が大漢民族の強権に抵抗するための最高のシンボルである。敬虔な仏教徒であるチベット民族にとって40年ものあいだ、自分たちの神に謁見できないことは、チベット人の中核的な価値を剥奪したに等しい。ダライ・ラマを非難し、誹謗中傷することは、チベット人の心を刃物でえぐり出すに等しい。
 2008年3月のチベット事件のあと、チベット全域で自殺が急増した。仏教の信仰心の篤いチベット人が自殺にまで追い込まれるということは、生きることの苦しさが輪廻の幾層倍の苦しさよりも大きくて、耐えきれないからだ。
 チベットの統制支配が強まる一方なので、だからこそ抗議の焼身自殺が続いている。それは代えることのできない信仰の自由を守るためなのだ。
 チベット担当の官僚集団はチベット事件の原因を「ダライラマ集団」に押しつけ責任を回避した。文化大革命で大損した官僚集団は、独裁指導者が官僚集団を破砕するような状況を再現させまいと決心した。
 今日、中国共産党内部には既に牽制しあうメカニズムが形成されており、官僚集団もかなり多くの権力を有し、酷吏を用いる方式で党内を粛清することの再現など許されず、文化大革命のような大衆運動の再現も許されず、さらには党内を分裂させる可能性のある路線闘争も許されない。
 今や、中共党内のトップの権力闘争は、歴史上どの時期よりも弱く、権力の交代もある程度はプログラム化されている。その要員としては、深層において、「官僚集団の民主性」が作用している。
 官僚集団は、政治権力装置を熟知し、運営にたけており、ひとたび権力者のトップを牽制するメカニズムを構築すると、それを最大限に活用する。官僚たちは形を現さずに政権トップの浮沈、人事異動、政策方向を決定する。このような能力を手に入れたら、党内粛清や文革の発生を防止するだけでなく、それを延長して、自分たちの利益に不利になることすべてを未然に防止し、できるだけ多くの利益を得ようと謀る。したがって、いわゆる「党内民主」を中国民主化の歩みと見なすのは、まったくの誤りなのである。
 チベット独立運動の状況を知り、そして、中国の支配的官僚層の分析について学ぶことができました。
(2012年11月刊。2800円+税)

2013年5月24日

毛沢東と中国(上)

著者  銭 理群 、 出版  青土社

戦後の中国、そして現代中国を語るときに欠かせないのが毛沢東です。私が大学生になったとき(1967年)には、とっくに文化大革命が始まっていましたが、その実情は日本にほとんど伝えられていませんでした。断片的に伝わってくる情報は、あくまでも文化面での大きな改革がすすんでいるというもので、かなり中国を美化したものでした。権力闘争、しかも厳しい奪権闘争であると思わせるものではありませんでした。ただし、そのうちに馬脚をあらわしてきました。中国がすべてで、日本人もそれに従うべきだという押しつけが始まったのです。それは、私も、いくらなんでもとんでもないことだと思いました。赤い小型の毛沢東語録(日本語版)は、私も入手しましたが、こんな語録を振りまわして世の中が変わるだなんて思いませんでした。それでも日本人のなかにも毛沢東を神のように盲従した人たちが少なくなかったのです。今となっては信じられないところでしょうが・・・。
 この本は、自らも若いときに毛沢東主義者だった学者が自己分析をふくめて中国の戦後史をふり返っています。中国史そして毛沢東についてはかなりの本を読んだと自負する私ですが、この本の掘り下げには、まさしく脱帽です。なるほど、なるほどと、何度も深くうなずきながら、必死に700頁近くの本を読みすすめていきました。
中国人が、現在のように好戦的、熱狂的、興奮症になったのは、まさしく毛沢東文化の改造の成果である。
 毛沢東は、自らを豪傑であり、聖人でもあるとした。毛沢東が望んだのは、人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専政を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化することであった。しかも、そのための系統的な制度と方法までつくりあげた。
 毛沢東は、文化大革命の初期に、すべてを疑えと提唱したが、その裏には、越えてはならない一線があった。つまり毛沢東本人への懐疑は絶対に許されなかったのだ。ところが、すべてを疑った人は、ついに毛沢東まで疑ってしまった。そのとき、毛沢東はためらいなく弾圧した。
農民出身であり、農民運動で名を成した毛沢東にとって、自分こそが農民の利益を代表していると考えるのは当然であった。個人的な感情としても、毛沢東が自分を完全に農民の子どもとみなしていた。
 毛沢東は、1953年ころ、高崗を自分の後継者として指名するつもりたっだ。そして、「高饒事件」は毛沢東が発動したものだった。「高饒反党集団」というのは、実際には冤罪事件であり、党内闘争の産物にすぎなかった。毛沢東は高崗に手のひらを返し、高崗を「資産階級の党内における代理人」として追い出した。そして、毛沢東は高崗をつかって劉少奇の譲歩を引き出し、党内の知識人、農民革命家の両者を骨抜きにして勢力図を再編させた。
 中国の政治は瞬時に全てが一変する。1957年の整風闘争のときにもそうだった。
 ハンガリー動乱を知り、毛沢東は中国にも同じことが起きるのではないかと心配した。北京大学に大字報が貼り出されたのを知り、毛沢東は不安にさいなまれ、夜も眠れないほどだった。毛沢東と共産党の幹部がもっとも恐れていたのは、学生が労働者や農民と連帯することだった。そして、毛沢東は、軍隊で学生を鎮圧することだけは絶対に避けようと考えていた。それをしてしまえば、全体の統治が危機に陥るからである。
毛沢東は、旧知識人を消滅させることを求めていた。毛沢東は次のように語った(1957年、反右派闘争のとき)。
 「ブルジョア教授の学問などは、とるに足らないもので、まったくムダで、さげすみ、過小評価し、蔑視すべきものである」
 1958年に、モスクワで全世界共産党会議が開かれ、毛沢東も出席した。毛沢東は会議の中心人物となった。スターリン亡きあとの共産主義運動のリーダーとなった。毛沢東は、1958年に人生のもっとも輝かしいときを迎えた。
 1958年に毛沢東は、奔放に宇宙やら時空やら生死やら有限無限やらを語り、矛盾論や認識論を大いに語った。国産的問題を処理するときですら、毛沢東はまずは哲学を語った。毛沢東は、終生、孫悟空に特別な感情を抱き続けた。
 1958年8月の会議で、毛沢東は公開の場で、法制によって多数の人を治めてはいけないと語った。民法や刑法によって秩序を維持しないという。毛沢東は、恥じることもなく、個人の意思を法律、とくに憲法の上においた。
 毛沢東が戦争上手であることについて、党内で異議を唱える人はいなかった。しかし、毛沢東が経済を指導できるかどうかは、別の問題だった。毛沢東は、戦争をやるように、工業そして農業をやろうとしていた。毛沢東は詩人の想像力で国を治めようとした。毛沢東の空想的社会主義は、実際には小農原始社会主義であり、それに中国農民の近代化の想像がまざっていた。
 毛沢東が人民公社を発動したとき、食事がただ、病院がタダ、住宅がタダの三代要求は確かに中国の貧窮農民の基本的な願望を反映していた。しかし、食事と住民について解決していた富裕農民、そして、これから個人の自由労働によって富裕になろうとしていた中農民の抵抗にあった。
 毛沢東の構想では、家庭も最終的には削減するものだった。
 1958年、またたくまに大躍進は大飢饉に転じた。1959年4月。食事はタダから、わずか半年足らずだった。大飢饉と大死亡は1960年に頂点に達し、1961年まで続き、1962年にようやく好転した。3年間で餓死者が3600万人も出た。毛沢東は、1958年、完全に自己の意思によって理想の国づくりを試みたが、それはまたたくまに失敗し、災難となり、天国から地獄となった。これは毛沢東にとって、初めての挫折だった。それ以後、毛沢東の人生は、自己の権力と理想をかたくなに守りながら、総体として下降していった。
工業化、国防建設、都市の安定を保証するため、つまり富国強兵のためには農民を犠牲にする。たとえ農民が餓死しても、いとわない。それが、中国の農民が大量に死亡したことの本質だった。
中国共産党指導下の中国政権には二つの面があった。一つは強いイデオロギー性であり、もう一つは、強烈な民族性だ。毛沢東を代表とする中国共産党はマルクズレーニン主義者であると同時に民族主義者だった。現実には、最終的に本当に根をおろし、本当に民衆の支持を得られたのは、民族主義だった。民族主義の凝集力は長く続き、しかも力強かった。
 1964年、アメリカのCIA報告は興味深い。CIAの分析によると、毛沢東の後継者になりうる人間は3人。周恩来、劉少奇、林彪である。劉少奇は毛沢東と同じ世代であり、個性に欠け、ユーモアがないという欠点がある。もっとも可能性が高いのは鄧小平である。うひゃひゃ、CIAもよく見ていますね・・・。毛沢東は劉少奇を基本的に信頼していた。劉少奇は軍隊への影響力が毛沢東に遠く及ばず、軍を掌握していなかった。これが劉少奇の致命的な弱点だった。
 1964年末ごろ、毛沢東は、劉少奇を主要な打撃目標にしようという決心を固めた。
 いよいよ文化大革命がはじまります。続きは下巻で・・・。
(2012年12月刊。3900円+税)

2013年5月 3日

「中夏文明の誕生」

著者  NHK取材班 、 出版  講談社

中国の最古の王朝を追求した面白い本です。
 司馬遷が編さんした最古の正史『史記』には、中国王朝は「夏」に始まり、「殷(商)」「周」と続くと記されている。「中華」という言葉の根源にある「夏」王朝なのである。ところが、この「夏」については、考古学の裏づけがなかった。それが、近年ぞくぞくと発掘されている。「殷」についても実在が疑われていたところ、遺跡から文字が出てきて、存在が確実視されるようになった。
 「夏」王朝は紀元前2000年頃に成立し、紀元前、1000年頃に滅亡し、次の王朝「殷」が誕生した。
 「殷」王朝は「商」とも呼ばれる。次の「周」は「殷」と呼んでいたが、「商」と自称していたと考えられる。
 「殷」は強大な軍事力を有していた。青銅器の強さと鋭利は、石器しかもたない勢力を圧倒した。さらに、「殷」は「戦車」という最新兵器をもっていた。エジプトの戦車はスポークが4本なのに、「殷」の戦車は最大で26本もあった。そして、車輪を大きくしたことから、車体も大きく作ることができ、御者に加えて戦士2人が乗り、戦闘力を飛躍的に高めた。
 今から3000年前、「牧野の戦い」で、最強の「殷」軍70万は、「周」の軍4万5000人によって壊滅させられた。「周」軍には8つの異民族が従っていた。
 「周」は異民族に青銅器を贈り、文字で「契約」を保証して、連帯関係を結んだ。
中国史のなかで「中夏」「中華」という世界観はたとえ夷狄の王朝であっても、すべての王朝で引き継がれたことは驚きだ。そして、それぞれの王朝が、それぞれの事情に応じて融通無碍に意味あいを変えていった。
 「夏」の王朝の実在すること、その実情について知ることができました。それにしても中国の広大な土地は掘れば掘るほど、文明の起源を知ることができるのですね。
(2012年5月刊。1800円+税)

2013年5月 1日

鉄道遊撃隊

著者  知 侠 、 出版  龍渓書舎

日中戦争のさなか、日本軍が占領している山東省南部で鉄道線路をめぐる戦いを描いた小説です。訳者(日本人)も、そのころ山東省済南鉄路局などに勤務していたのです。
鉄道沿線民衆の福祉工作に従事していた。頻発する貨車の盗難、駅舎の襲撃、線路の破壊、電線や電柱の切断などの被害に、共通したある方式があり、内部に連絡者があることを感じつつも、その正体を的確に把握しえなかった。
 部落を巡回して知先住民と親しくなってみると、部落住民は、みな敵側と何らかの関係、ことに血縁関係にある者が多いことを知った。そして、この本を一読して、当時の疑問が一挙に解明され、煙霧が晴れた気がする。
 中国にいながら中国人の真の姿を知らず、いたずらに蔑視の念をもっていた日本人、権力を頼りに中国人を威圧していた日本人、中国には負けなかったなどと誤解している日本人に、この本を読んで謙虚に反省してもらいたいと思った。異民族が強大な武力で侵攻して暴虐を尽くすことが、いかにむなしいかを知ってもらいたいと念願し、本書を訳出した。
 鉄道沿線の民族は、一番悪いのは保安隊(日本軍につかわれた中国人)、次に日軍(日本軍のこと。皇軍と自称した)、その次は国民党軍兵士、一番よいのは八路軍兵士。どれか一つの治下に入るとしたら、八路軍の天下になってもらいたいと語った。
 日本軍の前に現れて迎合していたムラの指導者は、土豪劣紳に類する地主や富農で、日軍の命令で実施させた一切のことにあたり、その一部をピンハネしていた。
 敵の裏をかいて地元住民に密着して行動し、鉄道路線をときに破壊し、走ってくる貨物車から荷物を奪い、奇襲して敵兵を殺すなど、大変小気味のいい小説です。ところが、その敵兵とは、日本軍なのですから、少々複雑な気持ちになってしまいます。
 しかも、日本軍(日軍)は、まさしく残虐の限りを尽くすのです。実際にやっていたことなので、目をそらすわけにもいきません。
 少し前の映画『鬼が来た』(香川照之が熱演し、まさしく日本軍は鬼だと思いました)を思い出しながら読みすすめました。この本を読もうとしてネットで探しましたが、結局、近くのみやま市図書館から借りて読むことができました。福岡の図書館にあったようです。
(1980年4月刊。2500円+税)

2013年4月23日

中華民族・抗日戦争史

著者  王 秀金・郭 徳宏 、 出版  八朔社

日中戦争(1931年~1945年)を中国側から見た通史です。770頁あまりの大作ですが、日中戦争の全体像を把握するためには欠かせない貴重な歴史書として、じっくり通読しました。
 日本側から見た日中戦争の通史は読んだことがありますが、中国側からのものは初めてです。しかも、中国共産党軍のみならず、蒋介石(国民党)軍もきちんと評価しているところがすごい本です。個々の先頭における中国軍の将兵の英雄的な戦いも、名前をあげて紹介しています。
 1931年9月に起きた柳条湖事件は、日本軍が仕掛けたものでした。第三中隊の河本末守中尉が部下の兵士を率いて満鉄線を爆破した。そして、上司に対して中国軍が鉄道を爆破し、激戦中と報告した。上司の川嶋大尉は驚いた振りをして、すぐに上級に報告し、派兵支援をもとめた。ところがこのあと、南京の国民政府の不抵抗政策によって20万近い軍は戦わず撤退したため、大きな地域が速やかに日本軍に陥落した。
 1931年9月、上海の埠頭労働者3万5000人が大ストライキを決行し、日本の対中侵略に抗議し、日本船舶の積み下ろし、貨物運搬を拒否し、船舶を動きとれないようにした。
 1932年1月、第一次上海事変。関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐は、「外国の目がわずらわしい。上海で事を起こせ」という電報を打った。中国軍は、装備の劣る7万の兵力で、装備のすぐれた8万の日本軍と33日間も戦い、日本軍に司令官の度重なる交代を余儀なくさせた。
 1934年3月、溥儀の強い要求によって、満州国は満州帝国と改称され、皇帝となった。そして、日本軍は、広くアヘン栽培を誘引し、多くの良田が麻薬農地に変わった。日本侵略者が土地を奪った主要な目的は、東北への移民を準備することだった。
 1936年12月、西安事件が発生した。蒋介石は、「我々のもっとも近い敵は共産党であり、危害がもっとも差し迫っている。日本は我々から離れており、危害はなお緩やかである」と演説していた(10月27日)。
 そして、12月4日、蒋介石は張学良に対して、「紅軍を徹底的に処理し、根本的に解決する」よう命令した。これに対して張学良は全国人民の利益を重んじるよう蒋介石に要望した。西安事変に接して、多くの人々は抗日には賛成したが、張学良の行動が内戦を大きくすることを恐れて、不支持を表明した。そして、蒋介石の回復を要求した。張学良は事前に中国共産党と協議していなかった。共産党代表の周恩来らは西安に到着し、張学良と協議した。
 張学良は、西安事変を平和的に解決する中国共産党の方針を理解すると、国家・民族の大局を個人的恩讐の上に置く共産党の大義を深く理解し、心から敬服した。
 周恩来は、張学良と宋子兄弟の同席のもと、蒋介石と会見した。そして内戦の停止、共同抗日こそが唯一の活路であると語った。こうして、14日間にわたった西安事変は平和的に解決され、国共再合作に向かった。
国民党は、ドイツから大量の要塞用重砲を購入し、ドイツ軍事顧問団の援助を得て、1933年から全面的にすすめた。
 1937年7月、盧溝橋で全面的な中国侵略戦争がついに勃発した。
 1937年8月、中国共産党は、中国紅軍を国民革命軍第八路軍に改編し、朱徳、彭徳懐を正副総指揮に任命した。
国民党は対日不抵抗政策をとった。しかし、受身の内戦防御戦では、効果的に敵(日本軍)を殲滅することはできず、戦略的持久を実現することは難しかった。国民党は、大地主・大資本か階級の利益を代表していたので、人民の抗戦を利用しながら、人民の力が抗戦の中で強大になるのを恐れていた。
 毛沢東は持久戦論を提起した。抗日戦争は持久戦であり、速決線ではない。日本の強さは、日本が小国であり、退歩的で、援助が少ないなど不利な要素に寄って減殺されている。中国の弱さは、大国であり、進歩しており、援助が多いなど有利な要素によって補充されていると説いた。
 1937年9月、中国紅軍は平型関で日本軍を大破した。中国紅軍は、山地の一本の狭い道路が延々と続く場所で待ち伏せた。平型関の待ち伏せ改撃は日本軍に壊滅的打撃を与え、死者1000余人、日動車100余台などを破壊した。平型関の戦いは、人路軍の抗戦における最初の勝利であり、全国の抗戦における初めての奇襲戦による勝利であった。これによって共産党と八路軍の声望は一挙に高まった。
 1937年8月、日本軍は上海侵略を開始した(上海会戦)。9月中旬までに日本軍は兵力10万人以上となった。さらに、10月初旬までに20万人に達した。10月中旬、中国軍は勇猛果敢にもちこたえ、すでに上海会戦は2ヶ月も続いていた。そして、ついに、11月中旬、中国軍が撤退した。日本軍は10個師団20万人の兵力を投入し、中国守備軍は70個師、70万人を投入した。日本軍の死傷者は4万人、中国軍は30万人近い死傷者を出した。
引き続いて南京防衛戦が戦われた。中国軍の南京撤退後、日本軍による大虐殺が始まった。このとき、安全区内には、29万人もの難民がいた。
 1938年3月から4月にかけての台児荘の戦役で、中国軍は2万人の死傷者を出しながらも日本軍を殲滅し、大勝利を得た。
 4月からの徐州会戦は日中の双方が数千万の兵力を投入し、5ヶ月間も戦った。
 1938年の夏から秋にかけては、武漢会戦そして広州の戦いが展開した。
 この武漢会戦中には、ソ連の中国支援志願航空隊が対日作戦で協力した。武漢防衛戦争での15ヶ月の戦いによって、日本軍の戦略的進攻は停止してしまった。「速戦即決」で中国の領土を占領する計画が決定的に破綻した。
 1938年10月、日本軍は武漢を占領した。日本国民は驚喜したが、つかの間の喜びでしかなかった。
 1940年8月、八路軍は主要鉄道・自動車道路を総攻撃する戦いを開始した。参加した部隊が105個団(連隊)であったことから、百団大戦と呼ばれる規模が最大で持続時間がもっとも長かった進攻戦役であった。百団大戦、日本軍北支那方面軍の「囚籠政策」に深刻な攻撃を与え、日本軍は「華北に対し再認識すべき」との驚きの声を上げた。
 日本軍は内部で、教訓を総括し、共産党と八路軍に対する情報活動を強化し、華北における共産党軍を作戦の焦点とする指導思想をさらに明確にした。
 百団大戦の勝利は、全国の徹底抗戦の信念を鼓舞し、強化した。百団大戦の勝利は共産党と八路軍の威信を高めた。しかし、同時に巨大な犠牲も払わされた。八路軍と抗日根拠地の補給能力の限度をこえていた。疲労も甚だしかった。
 しかし、国民党の妥協的傾向を克服するうえで、重要な役割を果たした。日本軍の「三光政策」は1940年冬に下達された。その目的は八路軍と八路軍の根拠地を殲滅することにあった。
 中国軍は、麻雀戦、地下道戦、地雷戦、襲撃破壊戦、水上遊撃戦、武装工作隊などの人民戦争を展開した。
中国人が強大な侵略者である日本軍といかに戦ったかが詳細に記述されています。実は、私の父も中国へ2等兵として出兵しています。不幸中の幸い、マラリアにかかって内地に送還されて、戦病死を免れました。その中国での戦闘状況の推移を中国側からみたものですので、大変勉強になりました。
 日中戦争の実情を知りたい日本人なら、ぜひ読むべき本としておすすめします。
(2012年12月刊。8900円+税)

2013年4月16日

蒋介石の外交戦略と日中戦争

著者  家近 亮子 、 出版  岩波書店

国民政府は、日本の政界の動向にきわめて敏感であった。日本の選挙の結果は必ず国民党の機関紙に掲載された。蒋介石が日本の政治家のなかでもっとも期待し、信頼していたのは犬養毅だった。犬養は孫文の革命に援助を与え、蒋介石とも蒋の日本留学時代から親密な関係にあった。
 蒋介石は、中国において自分ほどの日本通はいないという自負を抱いていた。蒋介石は日本語に堪能だった。東京の振武学校に留学し、新潟の高田連帯に入隊した。
 1927年秋の40日におよぶ日本旅行まで、蒋はひんぱんに日本を訪れ、温泉に入り、日本食を好み、多くの知人・友人と交流していた。日中戦争期でも、蒋介石は国家としての日本国を敵としたが、決して日本人を敵とすることはなかった。
 蒋介石は、軍部の台頭は日本政治の一時的歪みであり、日本の天皇は決定権がなく、責任は軍閥にあるという主張を捨てることはなかった。日本政界に犬養毅がいる限り、軍部の台頭は押さえられるという強い信頼を寄せていた。
 1923年8月、蒋介石は訪ソの旅に出発する。帰国までの4ヶ月のあいだ、蒋介石はロシア語を学び、マルクスの著作を読んだ。そして訪ソのあいだに蒋介石はソ連人嫌いになった。社会主義革命に対する潜在的不信感は訪ソによって深まっていった。
蒋介石は宋美齢との再婚を宋家の資金援助を背景として自らの力で国民革命を完成させ、国民政府内での権力を確立しようと企図した。
 1935年、蒋介石は行政院長になると重要ポストに側近を起用して権力基盤を固めていった。そして、外交権の中央外交部への集中、実質的には蒋介石個人への集中を図っていった。
 汪精衛は蒋介石より4歳年上、胡漢民は8才年上であった。二人とも広東省の知識階級の出身でともに科拳に合格し、日本の法政大学に留学し、密接な関係にあった。
 彼らは蒋介石の軍事力を必要としたが、蒋介石が個人独裁をおこなう事には強い拒否反応を示し、集団で反蒋運動を起こしていった。
 蒋介石は、来たる日本との戦争に備えて、四川を防衛の要とする体制の準備を1935年半ばから本格化していた。蒋介石はイタリアから精力的に魚雷快艇を購入し、長江に配備していた。このため、日中戦争の勃発後、日本海軍の遡江攻撃を阻み、「不可能」とさせるほどであった。
 1936年12月、西安事件が起きた。蒋介石は張学良軍に包囲・幽閉された。このとき、蒋介石は死を覚悟し、遺言を書いていた。12月24日、張学良と周恩来とのあいだに「一致抗日」の協定が成立し、蒋介石は解放された。そのかげには妻・宋美齢の活躍があった。そのため蒋介石は、命をかけて自分を救出してきた美齢に、その後、深い信頼を寄せた。
 1937年11月、蒋介石は国民政府の首都を南京から重慶に移転した。蒋介石は、南京で徹底抗戦をおこなえばマドリードのように長期戦になり、共産党勢力が拡大することになると怖れていた。蒋介石は、日本との戦争を持久戦に持ち込めば必ずや国際世論を見方にできると信じていたため、最終的には勝利できると予測していた。そのため、一時的に撤退し、南京を日本軍の手に落としても、それは共産党の手に落とすよりは取り戻しやすいと判断したのだった。
 1938年の徐州会戦は互角の戦いとなった。徐州において、蒋介石はドイツ人軍事顧問の戦術である堅固な要塞づくりに専念した。日本軍は、空から中国軍へ「猛爆」を加えた。海軍航空隊70機による徐州大空襲が勝敗を決定づけた。ドイツ人軍事顧問国は1938年6月、ヒトラーの命令によって帰国していった。蒋介石は、フランスとソ連へ軍事顧問の派遣を要請した。
 1938年5月ころ、蒋介石は毛沢東と同じく持久戦論を展開していた。
1938年、蒋介石は、ソ連、イギリス、フランスに対して援助を得るため、新彊や雲南の利権を自ら譲る密約を結んだ。これは、あとで中国に矛盾をもたらし、蒋介石を苦しめた。
 1938年に発表された日本の近衛声明によって蒋介石は次第に追いつめられ、中国内部で孤立化していった。日本は、日本との戦争を望まず、中国の共産化および蒋介石の個人独裁化に危機感をもつ中国人達に接近し、国民政府から離脱させ、内部崩壊を図るという「以華制華」政策を露骨に推進していった。
 1939年1月、共産党は重慶に正式に中共中央南方局を設立し、周恩来を中心に国民政府への参加を積極的におこなった。この時期、共産党は公的に蒋介石支持を表明した。
 1940年7月、日本に第二次近衛内閣が設立した。このとき蒋介石は、「近衛は本当に虚名だけで、決断ができず、八方美人で中心となる思想もなければ、闘争の経験もなく、とうてい持久力もない。近衛には定見がない」と手厳しく見ていた。
 1940年9月、日独伊の三国同盟は、日米開戦を悲願とし、そこに向けての努力をたゆまなくおこなってきた蒋介石にとって願ってもかえられないほどの政治的効果をもたらした。
 蒋介石は、1943年の日米開戦と同時に抗日戦争の勝利を確信し、具体的な戦後構想を提起した。
 1944年、ソ連とイギリスは共産党とともに蒋介石と国民政府に対するネガティブ・キャンペーンをはり、蒋介石を独裁者として批判していく。蒋介石と連合軍との矛盾拡大に反して、欧米各国における毛沢東の評価は次第に上がっていった。
 蒋介石は抗日戦中、一度も日本国民を敵とする発言はしなかった。それどころか、常に深い同情の念を見せていた。
 1945年8月15日、蒋介石は自らラジオのスピーカーに向かった。「我々は報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚染を加えてはならない。彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるように・・・我々は慈愛をもって接する」必要があると説いた。
 日本国民は終戦と同時に「無辜の民」として、長年侵略してきた中国の総司令から戦争責任を「免責」されたのである。蒋介石にとって、それはあくまでも自らが大陸中国の支配を維持するための戦略であった。
対日戦争より共産党撲滅に狂奔していたとされる蒋介石について、その戦略を解明した本です。なるほど、こういう見方が必要だったのかと目を見開かされました。
(2012年10月刊。2800円+税)

2013年3月19日

チャイナ・ジャッジ

著者  遠藤 誉 、 出版  朝日新聞出版

薄熙来の失脚事件、そして妻・谷開来の殺人事件を追跡した本です。
 中国共産党中枢の奥深い腐敗の闇が暴かれています。薄熙来は1947年7月生まれ。私と同じ団塊世代だというわけです。父親は、薄一波元副首相です。
 文化大革命のときには父親を殴る蹴るの狼藉を働き、倒れた父親を足蹴りして、薄一波の肋骨を3本も折ってしまった。
 母親は、1967年1月紅衛兵に迫害され、広州に行く汽車の中で自死した。48歳の若さだった。
 薄熙来は、薄一波が秘書との不倫関係で生ませた子どもだった。
文革時代に監獄で4年間を過ごした薄熙来は、牢の中でどのようにしていれば大将になれるか、また監獄の看守とどのような関係を結べば飯にありつけるか、極道の原理を学んできた。また、共産党高級幹部の子弟として、政治権力抗争を目の前で見てきた。今に浮かび上がるチャンスをうかがいながら、自分を嫌う役人たちの中で策を練っていた。
 薄熙来の出世のスピードは、実は非常に遅い。大連市党委の副書記となるまでに8年かかっている。1993年に、ようやく大連市長になった。
 1997年9月の第15回党大会における中共中央委員選挙において、薄熙来は、ただの一票も獲得できずに落選した。
 妻の谷開来は、1988年に弁護士資格を取得し、その後、開来律師事務所を北京で運営し、支店を大連に作って投資コンサルタントとしても活躍しはじめた。
 日本留学者の多くが中国に帰国しているとの対照的に、欧米留学者の多くは帰国せずに留学先国で永住権を取得している。中国国籍は放棄せずに、いざというときの担保にしておき、永住権だけは確保しておく。日本は「裸官」の対象ではない。
 薄熙来が重慶市の書記になって、80日間に検挙した刑事事件は3万3千件近く。治安事件として取り調べた件数は5万3千件近くで、9500人を逮捕したため、刑務所は定員をオーバーした。
 薄熙来のようなやり方をすれば、中国共産党体制は一瞬で崩壊するだろう。それだけは絶対に防がなければならない。これは中国共産党トップの全員が共通する認識として決議された。これが中国の審判の基準すなわちチャイナ・ジャッジだ。ここでは腐敗問題は理由にあげられていない。薄熙来の場合、中国共産主義体制を守るためという、ほぼ全員が一致したジャッジを行った。
 2009年の全世界の留学生の総数は343万人。そのうち44万人が中国人留学生であり、最大の留学生だ。最大の留学生受け入れ国はアメリカで、外国人留学生総数は70万人。
 アメリカにいる中国人留学生の数は16万人。次に多いのがインド人、韓国人となっている。中国人留学生は前年度比23%増となっている。ところが、日本だけは前年より留学生の総数が減っている。
 薄熙来の息子・瓜瓜はロンドンの高級マンションに住んでいた。オックスフォード大学に在学していたときのこと。少なくとも3億円はするマンションを購入したとき、薄熙来は遼寧省長だったが、月収は数万円にすぎない。
 党の幹部を親にもつ太子党はコネを使って中国大陸で稼ぎ、親戚らのコネをつかって目立たないように資産を香港に移していく。
中国共産党の最高指導部の常務委員9人のうち、少なくとも5人の子どもか孫がアメリカに留学している。習近平の娘もハーバード大学に在籍中だ。
 怪しげな殺人事件の真相はいったい明らかになるのでしょうか・・・。
(2012年9月刊。1700円+税)
 桜の花が一気に7分咲きとなり、チューリップが咲きはじめました。いま、わが家の庭には、黄水仙、紅いアネモネ、パンジーが花盛りです。
 これから500本のチューリップが一斉に咲いてくれます。いよいよ春本番の到来です。

2013年3月16日

紅の党

著者  朝日新聞中国総局、 出版  朝日新聞出版

中国共産党のトップの内幕に迫っています。
 このところ久しく中国には行っていませんが、中国に行くたびに、ここが社会主義国だとはとても思えません。東京と同じか、それ以上の高層ビルが林立していて、資本主義そのものとしか思えないのです。
 裸官。公権力を使って、わいろなどの不正収入を得た党幹部がまずは子どもを留学させ、次に妻も移民させて資金を海外に移していることを示す言葉。家族や資産は海外で、幹部だけが国内に残ることから「裸の官僚」という意味。
 2008年までの10年あまりに海外へ逃げた政府や国有企業などの幹部は1万5000人から1万8000人にのぼり、流出資産は8000億元(10兆円)に達する。
 ハーバード大学で中国の指導者養成プログラムが始まったのは2001年。党人事を仕切る中国共産党組織部が中心となって始めた。コース期間は、8週間から数か月間まで、いろいろ。毎年40~50人の党中央や地方の幹部が「学生」として営んでいる。
 江沢民も胡錦濤も、後見人の鄧小平に見いだされて、総書記に選ばれた。今、中国に毛沢東や鄧小平のように総書記を指名を出来るカリスマはいない。集団指導体制の下で行われる後継指導部の人選は、難航を極める。
 薄煕来失脚事件の真相と問題点については、『チャイナ・ジャッジ』に譲ります。

(2013年2月刊。1300円+税)

2013年1月 1日

中国革命と軍隊

著者  阿南 友亮 、 出版  慶應義塾大学出版会

1920年代、30年代の中国、広東省における党・軍・社会の関係を詳細に分析し、中国革命と軍隊との関係を根本的に問い直した意欲的な本です。450頁もある大部な本なので、読み通すのに、少々苦労しました。
 1980年代以降に復活した中国での現地調査において、共産党によって抜本的に変革されたはずの農村社会における伝統的人間関係の根強い生命力を示す事例が数多く発見された。そこで、共産党が実際にどこまで農村社会を変革できたのか、疑問の声があがった。
 農村社会における伝統的な人間関係の根強い生命力の発見は、共産党による社会変革こそが国民党を圧倒する原動力の源となったという従来の定説の見直しを迫るものであった。
 1930年代までの中国の軍隊は、基本的に生産から遊離した貧民・流民を主たる兵士の供給源とする傭兵軍隊であった。軍隊に応募した兵士の圧倒的多数は、失業・破産・貧困農民出身であった。
 困窮する農民は多く、兵士になろうとする人間も多い。こうして中国では徴兵制を広く実施する必要もなく、募集すればすむ。蒋介石の国民革命軍ですら、募集して得た兵隊であった。
 20世紀前半の中国ではほぼ無尽蔵に傭兵を供給し続ける困窮した地域社会という兵士の生産地、そして兵士に対して常に一定の需要をもっていた軍閥の傭兵軍隊という消費者によって巨大な兵士市場が形成されていた。
 中国の傭兵軍隊の兵士の大半は、独身の貧困農民であり、軍隊の募兵に応募する主たる理由は、毎日食事にありつくこと、一定の給金を得ること、掠奪を通じて一攫千金を狙うことであった。それらを通じて生存の確保と貧困からの脱出を図ることであった。
平均的な兵士は、大義名分や国家に対する義務よりも利益のために戦う傭兵的性格が強く、戦場でリスクを回避しようとする姿勢が顕著で、戦況が不利になると、兵士の脱走、降伏、敵方への寝返りが頻発した。
 兵士は、往々にして各級の将校が自らの責任で募兵したため、その将校と直接的利害関係をもち、忠誠心もその将校に向けられる傾向が強かった。つまり、中国の傭兵軍隊は最高司令官を核とする一極集権的組織ではなく、多極分権的性格が強かった。このため、個々の兵士の脱走のみならず、師団長や旅団長が部隊ごと敵に寝返るという行為が頻繁にみられた。
 20世紀前半の中国において膨大な数に達していた民間の自衛団体の構成員は、匪賊とともに、軍閥の軍隊にとって重要な兵士の供給源となっていた。
 1923年末から1924年初めにかけて、共産党は農民運動を党の指導下で武装化し、それによって農民の生活水準向上に立ちはだかる既得権益層の武力に対抗すると同時に、「革命軍隊」に農民を動員するための基盤を構築するという構想を打ち出した。
 1923年6月の大会以降、共産党は都市住民に加え、農民をも兵士の重要な供給源とみなすようになり、農民の制度的武装化に関する構想を展開していった。
 ところが、1923年の終わりころになると、共産党指導部は、既存の自衛隊団体と農民運動、土地改革などによる農民の「解放」(社会変革)とが両立しがたいという社会状況を認識するに至った。
 1924年、著しく統制を欠いた軍隊を抱えた孫文は、麾下の将兵が職務に殉じる覚悟に欠け、利害を重視して職分に違反することを嘆き、革命に従事するはずの麾下の軍隊と「軍閥」の軍隊とのあいだに目立った差異がないことを認めざるをえなかった。
 1924年7月、広州に農民運動講習所(第一期)が開講した。ここは農民自衛軍の士官学校であった。農民自衛軍の拡大は、広東社会の既得権益層の強い警戒と反発を招くこととなり、広東各地で既得権益層と農民境界との確執、既存の自衛団体と農民自衛軍との衝突が顕在化した。農民自衛軍の役割は、本来、村落の防御に限定されていた。
 国共両党の推進した農民運動の過程で組織された新たな民間武装団体の農民自衛軍と旧来の民団との抗争は、一見、社会変革に伴う摩擦を象徴しているようでありながら、実は往々にして宗族間の械闘の論理に支配されていた。
 国共両党が1924年以降、普及に努めた農民自衛軍が1927年に軍隊に編入され、一つの部隊として戦闘に従事したのは画期的なことであった。それは極めて限定的ながらも、民間武装団体を通じて農民を制度的に軍隊に動員するという1923年以来の共産党の軍隊建設構想が実現したことを意味した。
 1927年ころ、国共両党が民団はもちろんのこと、農民自衛軍に対しても必ずしも末端組織に至るまで十分な指導権を確立していたわけではなかった。
 1928年、海豊における土地革命は障害に直面し、遅々として進まなかった。土地の分配に対する農民の反応が共産党の予想よりも複雑で、土地革命は多くの時間と労力を必要とする困難な作業であった。土地の分配は、決して順風満帆ではなかった。
 土地の境界の破壊に関する農民の理解を得ることは非常に難しかった。それを一因として、土地の分配がなされたのは、狭い範囲に限定された。土地境界の破壊は、少なからぬ農民の思惑・利益に反していた。多くの自作農が頑強にこれに抵抗した。土地所有権の否定は、自作農の抵抗を招いた。そして、それには宗教の論理も作用していた。宗族の共有地である「族田」が多く存在した。他の宗族に属するよそ者に土地を渡したしたくないという心理も働いた。
 一部の宗族が共産党に味方する一方、他の多くの宗族が共産党に頑強に抵抗した。
 1928年1月の時点で、共産党は県内を平定して土地革命に着手するどころか、県城を失い、陸豊から駆遂される危機に直面していた。
 土地革命は遅々として進まず、住民の蒙った恩恵は均等ではなかった。公平を重視する農村社会では、これは重大な問題であった。このころ紅軍は戦うたびに小さくなり、戦うたびに弱くなった。陸豊では、反共産党の名のもとに不倶戴天の敵同士であった黒旗と赤旗との連携が進み、複数の宗族から白旗を掲げる連合軍(白旗)が形成された。海陸豊における共産党の勢力は多分に宗族の論理に依存していた。同地の共産党には、郷神や地主が相当数ふくまれていた。
 共産党は、社会変革して新たな武力を手に入れたのではなく、前から存在した武装宗族を活用した。このように、国共の相克は、実は清代以来の宗族間の抗争の延長という側面を有していた。
 土地の没収・分配や地域社会からの紅軍兵士の獲得は、現地の共産党指導部にとって始めての試みだった。そして、着手した時点では、農民の頑強な反対と抵抗に遭うことを想定していなかった。それでもたもたしているうちに国民党軍の襲撃を受けてしまった。
 このように、国共内戦期の土地革命は、少なからぬ障害・混乱に直面し、なかなか共産党の計画どおりには進展しなかった。
 なーるほど、そういうことだったんですか。土地革命の成功イコール共産党の軍事力の増強という図式は必ずしも現実を反映したものではないということです。刮目させられました。
 40歳の若手学者による貴重な労作です。
(2012年8月刊。6800円+税)

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