弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2022年8月 5日

新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国中日関係史学会 、 出版 日本僑報社

ただいま、叔父(父の弟)が応召して満州に渡り、戦後も8年のあいだ八路軍(パーロ。
 中国共産党の軍隊)の要請にこたえて紡績工場の技術者として働いていたという手記の 裏付けをとろうとしています。その関係で大阪の石川元也弁護士の推薦で読み始めた本です。
 中国の周恩来首相は1954年に「多くの日本軍人が、日本終戦後武器を捨てたのち日本へ帰国することなく、中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官。・・・立派に働いて我々を助けてくれた。我々は深く感謝している。これが友情であり、これこそが真の友情である」との感謝の意を表明した。
 叔父は紡績工場の技師として、新工場の立ち上げに関わり、その運営が軌道に乗るように8年ものあいだ頑張ったわけです。そのころ叔父が日本の実家に送った手紙が残っていますが、千人の工場に日本人は叔父ただ一人だったそうです。いやぁ、よくぞがんばりました。 それでも、悪いことばかりではありません。同じように静岡から満州に夢をもってやってきた若き日本人女性と知り合い、結婚することになりました。同じ紡績工場で働いていたのです。
 この本を読むと、そんな日本人の青年男女が大変多かったことを知ることができます。
 私がもっとも驚いたのは、日本軍航空部隊の隊長だった人が中国空軍のパイロット養成の重責を担い、見事やり遂げていたという事実です。なにしろ、まともに飛べる飛行機もないなかで、残っていた部品を寄せ集めて、なんとか飛べる飛行機にして、それでパイロットを実地養成していたというのです。飛行中に故障が起きても脱出する落下傘もないのに空を飛んでいたというのですから、その勇気には呆れ、かつ圧倒されます。なんと、空では無事故だったというから、信じられません。
 医療分野でも、日本人は医師として、看護師として、大いに貢献したようです。負傷した中国人患者のためには、同じ血液型だと分かれば、すすんで献血もしていたというのです。本当に頭が下がります。
 北部の炭鉱でも大勢の日本人が労働者として働き、石炭増産の先頭に立っていたといいます。いやぁ、すごいですよね・・・。
 このような新生中国の誕生を助けた日本人の歩みはもっともっと広く今の私たちも知っていていいことだと思いました。三光作戦とか、帝国主義日本は中国大陸でさんざん悪業の限りをつくしたわけですが、もう一方では、こんなに良いことをした日本人もいたことを、両方とも、しっかり認識しておきたいものです。
(2006年10月刊。税込3080円)

2022年7月28日

沙飛(さひ)


(霧山昴)
著者 加藤 千洋 、 出版 平凡社

「中国のキャパ」と呼ばれた戦場写真の先駆者、沙飛の生涯を明らかにした本です。もっとも有名な写真は、八路軍の聶(じょう)栄臻(えいしん)司令官が4歳の日本人少女と手をつないでいるものです。
この女の子は、八路軍の百団大戦によって襲撃された炭鉱につとめていた両親とともに生活していたのですが、父とは生き別れ、このとき母は殺されて一人になったところを八路軍兵士に救われ、聶司令官の所へ運ばれたのでした。聶司令官は撤退するときに手紙を添えて日本軍に送り届けるよう手配し、少女は無事に救われたのです。そして、戦後40年もたって日本のマスコミが少女の現在を探しあてました。宮崎で生活していた女性は、そんな幼いころの記憶は何もなかったのです。
さて、問題は、この写真をとったカメラマンです。「沙飛」という名前のカメラマン。どんな経歴なのか、よく知られていませんでした。
沙飛は魯迅(ろじん)の生活最後の写真をとり、また毛沢東が高く評価したことで有名なベチューン医師の手術中の写真もとっています。
沙飛の本名は司徒傳。司徒は、中国では数少ない二文字の姓。1912年5月5日に生まれ、1950年3月に38歳で亡くなった。しかも、それは日本人主治医を射殺し、銃殺刑になったのだった。精神錯乱状態に陥って、八路軍に協力していた日本人医師を妄想にかられてピストルで射殺した。
1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、8月に国共合作のなかで八路軍が誕生した。
総指揮は朱徳、副総指揮に彭徳懐。第115師団(林彪・師団長)、第120師団(賀竜・師団長)、第129師団(劉伯承・師団長)の3師団態勢で、総兵力は3~4万人。
第115師団で政治委員をつとめる聶栄臻はフランスに留学し、ベルギーの大学に学び、カメラの趣味もあった。なので、カメラマンの沙飛を部下として認めたと思われる。
「4歳の女の子」は、1980年7月に訪中し、北京の人民大会堂で、聶栄臻元帥と対面した。そして、「4歳の女の子」を助け出した元八路軍の兵士まで本人が名乗り出たことによって判明したというのです。生きのびていたのですね。百団大戦のときは17歳の兵士だったとのこと。そして、写真をとったのが沙飛という中国の戦場カメラマンだということも判明しました。
「4歳の女の子」を手紙とともに受けとった日本軍指揮官は聶司令官あてに返信を送ったというのです。ええっ、本当でしょうか...。
「子どもは確かに受けとった。貴部隊の人道主義精神に感謝する。将来、平和時に面会した際、謝意を伝えたい」
いやあ、立派な内容ですね。この日本軍指揮官の氏名は判明していないのでしょうか...。
百団大戦のあったのは1940(昭和15)年8月から11月にかけてのこと。炭鉱を守備していた日本軍は全滅したようです。「4歳の女の子」はトーチカで震えているところを八路軍兵士に救出されたのでした。名前を訊かれたとき「母ちゃんは死んだ」、「死んだ」と答えたので、「死んだ」を「しん」と聞いた八路軍の兵士が女の子を「興子」(しんこ)と名づけたというのです。なんとも泣けてくる名前です。
沙飛に殺された日本人医師は、津村勝という内科主任の医師(41歳)。河北省の石家荘の和平病院には、100人の医療スタッフをふくめて200人ほどの日本人がつとめていたのでした。これが、「留用者」と呼ばれる、日本敗戦後しばらく八路軍の求めに応じて中国にいた人たちです。医療関係者が断然多かったようです。
私の叔父(父の弟)は紡績工場のたちあげと技術指導する技術員として8年ほど中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。八路軍の三大規律・八項注意の素晴らしさを聞かされたものです。今、その叔父の中国における歩みを文章化しています。
(2022年4月刊。税込3080円)

2022年6月24日

中国の現代化を担った日本


(霧山昴)
著者 西原 哲也 、 出版 社会評論社

私の叔父(父の弟)は日本の敗色濃いなか、丙種合格だったのに徴集され、25歳の2等兵として中国・満州に送られました。トンネル掘りなどをさせられているうちに日本敗戦となり、やがてやってきた八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)に招かれて、紡績工場で技術員として働くようになりました。満州に進軍してきたソ連赤軍は引き揚げるとき、大量の日本人元兵士とともに工場内の機械・設備類を根こそぎソ連に運び去ったのでした。なので、満州の工場を再建するのに、中国は日本人技術員の力を借りなければいけなかったのです。といっても、叔父は日本では百姓をしていましたので、根っからの技術屋ではありません。ところが、八路軍の将兵に文盲が多く、叔父は貴重な存在だったのです。高給優遇されました。といっても、生活に困らなかったというレベルで、貯金して、それを日本に持って帰ったというのでもありません。戦後8年たった1953年6月に帰国し、それからは農業一筋に生き、98歳過ぎてもすこぶる元気でした。
現代中国では、現在の経済的繁栄を支えている産業そして技術は中国が独自に開発し、発展させたものということになっていて、その開発・発展に日本が大きく寄与したことがまったく没却・無視されている。ここを調査・発掘した貴重な成果が本書で紹介されています。
中国側で、日本企業を受け入れたときに活躍したのが、戦後の日本に留学し、日本語ペラペラという中国人が実は中国に多数存在していたのです。一番の大物は、早稲田大学に留学していた廖承志。そして、それを周恩来が背後からリードしていた。
はじめは、中国特産三品目しか日本は中国から輸入できなかった。漢方薬、生漆そして甘栗。
日本の大手商社はダミー商社をつくって、中国との取引をすすめた。それは、台湾との取引を続けるためにも必要だった。
中国は、日本企業の一貫生産プラントをそのまま発注せず、基本設計を導入して自前でつくろうとした。しかし、それはどれも失敗した。ボーイング七〇七を分解して、見よう見まねで同じような旅客機をつくってみたものの、それが空を飛ぶことはなかった。そんなエピソードが紹介されています。ありえることですが、これって本当なのでしょうか...。
そして1966年ころから文化大革命の厳しい大波に中国はさらされ、日本企業もさんざんな目にあうことになります。日系商社マンも次々に逮捕されました。
やがて文革がおさまり改革開放がすすむなかで、新日鉄を中心とした宝山製鉄所の建設が始まった。
ガマン強く、誠実に対応した日系企業はついに生き残り、中国経済の復興に大きく寄与した。これは本当のことだと私も思います。
売った商品に欠陥があれば、無償できちんと直すという態度を多くの日本の商社・メーカーがとった。このことが日系企業への中国側の信用を積み重ねていった。
なるほど、そういうこともあったんだよね、そう思いながら、誠実そのものだった叔父を偲びつつ読みすすめました。
(2022年1月刊。税込1980円)

2022年6月 8日

中国法


(霧山昴)
著者 小口 彦太 、 出版 集英社新書

中国って、法治国家って言えるのかしらん。裏で共産党が裁判所そして判決を操作しているんでしょ...。こんな疑問にこたえてくれる新書です。
まず、何より驚かされるのは、中国の民事訴訟事件数が非常に多いという事実です。そのなかでも、契約関係の訴訟が断トツに多いのです。
著者は1700件もの訴訟の判決文に目を通していますが、判決文の形式は日本の民事訴訟とほとんど変わらず、当事者双方の主張、そして裁判所の事実認定が正確かつ詳細に記され、それをふまえて法解釈論が展開され、判決となっている。
中国の人々は、契約が守られなかったとき、決して泣き寝入りしないという人々が数多く存在する。なので、訴訟は多く、でたらめな判決文では本人がとうてい承服しない。
とはいっても、日本と中国とでは、法観念が相当に異なっている。たとえば、中国では、特別のことがないかぎり、当事者間の約定を何より重視する。約定こそ原則であるという法観念が強烈にはたらいている。むむ、これはなんだか日本とは違いそうですね。
中国の不法行為法には無過失責任の規定が多い。たとえば、中国の道路交通安全法では、運転者に過失がなくても、必ず損害額の1割の範囲内で賠償責任を負わなければならない。これは無過失責任。これも日本とは違いそうです。
中国の死刑判決は2種類ある。必ず執行される死刑と、もう一つは2年の執行延期がついていて、その2年の間に故意犯罪を行わない限り、無期あるいは有期懲役刑に減刑されるもの。知りませんでした。
中国の学者は、中国の裁判所と裁判官には、必要な独立性が欠けていると批判している。現代中国の刑事手続では、「疑わしきは被告人に有利に」という原則ははたらかない。それにかわって、「疑わしきは、軽きに従う」、つまり拷問があったかもしれないが、どうも確信がもてない。決めがたいので軽きに従う。これが現代中国での慣行をなしている。うむむ、これはいかがなものでしょうか...。
中国では、合議・独任廷での審理によって審判は完結せず、重大な事件であれば、常に上位の人間・機関の指示を仰ぐことが期待されている。こんな仕組みは、まぎれもなく行政に属すると判断される。
中国の法院の審判には確定力がない。
中国は、成立以来、30年間も法律の空白期間が続いたが、1979年の刑法典と刑事訴訟法の制定から、2020年の民法典の制定で、法体系の構築は基本的に完了した。
憲法解釈の権利は、中国では、全人代常務委員会がもっていて、法院(裁判所)ごときが憲法解釈権を行使するなど、もってのほか。これが党中央の指導部の考え方だった。
党が国家を指導する体制を前提をする限り、表の法としての「国法」に、裏の法としての「党規」が常に優先する。したがって、多様な形式から成る裏の法が姿を消すはずがない。これが中国法の常態である。やっぱりそうなんですね。
著者は、「法院」は本当に裁判所なのかと疑問を呈しつつも、私法の領域では、法は着実に機能していると認めています。この矛盾こそが、現代中国法をめぐる特色なのでしょうね...。福岡には中国語の話せる弁護士が何人もいますよね。たしたものです。ますますの活躍を心から期待しています。
(2021年11月刊。税込860円)

2022年5月22日

鄭和、世界航海史上の先駆者


(霧山昴)
著者 寺田 隆信 、 出版 清水書院

15世紀のはじめ、明の鄭和は、当時の世界最大の船隊を率いて、東南アジアからアフリカ東海岸にまで航海した。その航海は、1405年から1433年までの29年間に7回、訪問国は30数ヶ国。バスコ・ダ・ガマがインドに達したのは1498年なので60年も早い。
鄭和の航海は軍事行動というのではなく、主目的は通商にあった。明帝国の政治使節であり、通商代表だった。政府ないし宮廷直営の貿易を行うための活動だった。鄭和が来たことで、明帝国に国王みずからやってきた国が4ヶ国、使節を派遣した国は34ヶ国にのぼる。
ただし、鄭和を送り出した明の永楽帝そして宣宗が亡くなると、明帝国は対外進出が消極的になり、国力も衰えてしまった。そのため諸外国からの朝貢も自然に消滅していった。
シルクロードといっても、実は陸上よりも海路の方が、はるかに輸送力がいい。商船1隻はラクダ2000頭に匹敵した。朝貢貿易は、朝貢国に莫大な利益をもたらした。一度、入貢すると、元本の5倍か6倍ほどの利益が得られた。
成祖永楽帝は内政よりも対外政策に非常な積極性を発揮した。鄭和は宦官(かんがん)だった。宦官は、本来、皇帝個人の家庭生活に奉仕すべき存在。鄭和の大船団は、2万7千人以上の乗員を乗せた62隻から成っていた。船は大きいものでは船長150メートル、船幅62メートル。これは、発掘された船の装備から、決して誇大な数字ではないとされている。
鄭和はイスラム教徒だった。明の中国では、イスラム教徒が弾圧されたり、迫害されたことはなかった。なので、多くのイスラム教徒が鄭和の大船団に参加していた。
鄭和の船団は、中国に珍しい動物を連れて帰国した。キリン、ラクダ、ダチョウ、シマウマ、アラビア鳥など。そのなかでとくに注目を集めたのは、キリンだった。日本にキリンが来たのは明治40(1907)年なので、中国のほうが500年も早かった。
鄭和の後に続く航海者がいなかったこと、明帝国が対外進出に国力をさけなくなったことなどから、この偉大な先駆者は、今も、あまり評価されていないのが残念。
実は、この鄭和の大船団について、どんな構成だったのか、船団に女性が本当に乗っていたのか(女性も乗っていたようなのです)、もっと詳しく知りたかったのですが、そこは残念ながら書かれていませんでした。
(2017年8月刊。税込1980円)

2022年5月12日

ウィグル大虐殺からの生還


(霧山昴)
著者 グルバハール・ハイティワジ 、 出版 河出書房新社

中国の西方に新疆ウィグル自治区があります。ウルムチ、そしてトルファンには、私も一度だけ行ったことがあります。シルクロードの旅でした。トルファンは、まさしく炎熱砂漠地帯です。羊を目の前で殺してくれ、その羊肉をみなで美味しくいただきました。ウィグル族の抵抗運動が激化する前のことです。
ウィグル人は、スンニ派のイスラム教徒で、その文化は中国ではなく、トルコに起源がある。ウィグルの分離独立を目ざす運動があって、中国政府は厳しく弾圧している。街のいたるところに顔認証カメラと警官が配置されている。そして、2017年に再教育収容所が開設された。ここにのべ100万人ものウィグル人が入れられた。
新疆には、1200ヶ所もの再教育収容所があり、1ヶ所あたり250人から880人が入っている。収容所では、授業で暗記を強制され、グロテスクな軍隊風の行進をし、木製かセメント製の寝床で眠る前に、まず人格を奪われる。汚れたつなぎと布製の黒い上靴を身につけると、女性収容者はみな似かよった存在となる。そして、その瞬間から、名前ではなく、通し番号で呼ばれる。心が弱っていく。服従することによって、自分の好みや感情を押し殺す。
収容所のシステムは、生活に結びついていたものを次々に奪うことで、収容者の個性を消し去る。共産党をたたえる同じ言葉を何度もくり返す。プロパガンダづけになりながら、同じ熱心さで自分の再教育に励み、しだいに自分のアイデンティティを失っていく。みんなが一様に壊れていき、しまいには、肉体的にも精神的にも似たり寄ったりになる。無気力で、何も感じない。中身がからっぽの亡霊だ。人間ではなく、死者同然。
収容所では、まぶしい蛍光灯に照らされ、似たような授業、食事、行進の練習を続けさせられるうちに、時間の感覚がなくなっていく。
著者は、警官の暴力の前に屈してしまいました。心にもない「自白」をするほどまでに屈したのです。罪を認めるのが早ければ早いほど、ここから早く出られる、と聞かされていた。疲れ果てた末、その言葉を信じた。
その役割を受け入れたのは、無意味な再教育にしたがう境遇のなかで、ほかの出口は何もなかった。警察はきわめて巧みに人をあやつる。精神をしなわせて、無敵の盾のように使うことで、真実を決して忘れずにすんだ。
1949年に中華人民共和国が建国された。人民解放軍が新疆に進駐した。同時に漢民族の入植が本格化した。1949年にウィグル人は76%だったが、今や、ウィグル人と漢人は、40%台と拮抗している。
新疆では、「三、六、九の規則」したがって行動(申告)しなければならない。他人の訪問があったら住民は30時間以内に、地区委員会に知らせ、地区委員会は6時間以内に地元の警察署に知らせ、警察署は9時間以内にその訪問者の連絡先をファイルに保存するという決まりのこと。いやあ、すごいですね。こうやって人々の生活は隅々まで厳しく監視されているのです。
フランスからウソの名目で呼び戻され、収容所に閉じ込められたウィグル人女性が、自らの体験を実名で語った貴重なレポートです。
(2021年10月刊。税込2550円)

2022年4月27日

中国共産党、その百年


(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 筑摩書房

2021年に結党100年を迎えた中国共産党は、今9200万人の党員を擁する超巨大政権党である。結党からわずか30年足らずで中国(中華人民共和国)を建国し、70年以上にわたって中国を統治してきて現在に至っている。
中国共産党については、先日もこのコーナーで紹介しましたが、本書も一般向けの通史とは思えないほど良質であり、また大変読みやすいものです。
1945年8月の時点で、中国戦線は膠着(こうちゃく)状態にあり、日本軍が敗北するとは思えなかった。毛沢東も、この8月上旬の時点で、日本の降伏まであと1年ほどかかるだろうと見ていた。つまり、8月15日の日本降伏の知らせは突然やってきたのだった。そして、毛沢東は国民党軍との内戦を決意して、指令を出していた。ところが、スターリンがそれに待ったをかけた。
スターリンは、ソ連の在東北権益を保証してくれる蒋介石の国民党を選択した。その代わり、中国共産党に対しては、東北部への転進を認め、旧日本軍の武器弾薬を共産党側に引き渡した。このことによって、共産党は東北に広大な地域政権を樹立することができた。これによって、ようやくスターリンのソ連は中国共産党を認めることになった。
人民共和国建国当時の共産党員は450万人。内戦開始期から4倍に急増していた。そして、党員の4分の1は25歳以下という若い世代だった。ちなみに、当時の平均寿命は35歳でしかなかった。戦火のすさまじさですよね、きっと...。
指導者のほうも若い。毛沢東55歳、劉少奇50歳、周恩来51歳、鄧小平45歳だった。
中国(人民共和国)の建国のとき、共産党は旧来の六法全書を廃止し、体系ある法典をもっていなかった。刑事法の分野であるのは「反革命処罰条例」と「汚職処罰条例」の二つのみ。
中国建国(1949年)からまもなく、12月に毛沢東(56歳)は列車でモスクワに向かった。北京に戻ったのは翌年(1950)3月。新しい国家が誕生し、まだ国民党軍との内戦も続いているなかで、国家の最高指導者である毛沢東が3ヶ月も中国を離れたというのは、異例のこと。まったく同感です。
中国は国家運営について、経験豊富なソ連の専門家の派遣を要請しています。
ところが、帰国して3ヶ月後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。毛沢東の知らないところでスターリンがGoサインを金日成に送って始まった。周恩来らは、このとき参戦に反対したようです。
毛沢東は朝鮮戦争に、中国軍が義勇兵として参戦し、それなりの成果をあげたとして権威をより一層高めた。
毛沢東は、自ら暴君になったというより、暴君となることを支持された。
鄧小平は胡耀邦と趙紫陽の二人を天まで高く持ち上げていたが、あとになって、この二人を権力の舞台から引きずりおろした。
今や、2010年には、中国のGDPは日本を抜いて、「世界2位」になっている。
大変興味深い分析がオンパレードとなっている本です。ご一読ください。
(2022年2月刊。税込1980円)

 日曜日の午後、チューリップが終わりましたので、最後に咲いている1本のみ残して、全部堀りあげました。今はフェンスに色とりどりのクレマチスが咲き誇っています。赤紫色、白色、赤い筋の入った花、いろいろです。
 チューリップを掘りあげたあとには、いつもヒマワリを植えています。今度、昨年のヒマワリのタネをとっていますので、まくつもりです。
 ジャガイモの地上部分が元気よく茂っています。問題は地中なんですが...。
 庭に出ると、もう風薫る季節になったことを実感させてくれます。

2022年4月23日

明の太祖・朱元璋


(霧山昴)
著者 檀上 寛 、 出版 ちくま学芸文庫

明の太祖(朱元璋)は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格をかね備えていた。
歴代の皇帝中、明の太祖は漢の高祖・劉邦と並んで最下層の出身。
元末の反乱軍の中から身を起こし、当初は盗賊まがいの活動をし、やがて地方政権を樹立すると、一方の豪傑となり、皇帝となってからは諸々の制度を制定して聖賢の働きをした。
洪武(朱元璋)は複雑怪奇な性格の持ち主だった、だからこそ、元末の争覇戦に勝ち抜き、強大な専制国家の創設に成功した。
中国では宋代に皇帝独裁体制が成立し、明の初めに朱元璋によって最終的に確立した。そのため、10万人以上の官僚・地主等を粛清し、機構の大改革を断行し、皇帝一身に権力を集中させなければならなかった。
この本を読んで面白かったのは、皇帝となった朱元璋の地位が必ずしも強固ではなく、絶対的な権力を握って官僚たちを統制していたのではないとされているところです。朱元璋は皇帝として各集団の利害調整をしつつ、そのバランスの上で皇帝の地位を維持しているのが実情だった、というのです。
官僚は、その地位を利用して不正蓄財に務め、国家建設など眼中になかった。官僚と地主の癒着は相変わらずひどく、改善の兆しを見せず、腐敗は蔓延する一方だった。
明国の建国に功のあった功臣たちは、時間の経過とともに傲慢となり、かつて鉄の規律を誤った朱軍団の面影はすでに消え失せていた。大半の功臣は、おのれの地位を盾に傍若無人にふるまい、それがまた新たな社会問題になっていた。
朱元璋は、科挙を廃止した。科挙がわずか3年で廃止されたのは、合格者の「質」に問題があった。文詞のみに長じて、何の役にも立たない若造ばかりが合格していた。
また、科挙を廃止することで、南人層の官界への進出に歯止めをかけようとした。
朱元璋直属のスパイは検校(けんこう)と呼ばれていた。政界内部には、朱元璋の機嫌をとって出世を企むような不逞の輩が目立つようになってきた...。功臣・官僚を摘発するため、弾圧の嵐が吹き荒れていたころ、功臣・官僚を摘発するため、多くの監察官が動員された。
元璋のおこした文字の獄は、元璋個人の恣意性にもとづく。朱元璋は、自分の出自への強いコンプレックスがあった。
朱元璋にとってもっとも気がかりなのは、後継者の皇太子のことだった。
朱元璋の晩年は、まことに寂しいものだった。最愛の妻と皇太子に続き、第二子、第三子を失った。戦友の大半が死に、今いる者は朱元璋の顔色をうかがうようなものばかり。
結局、永楽帝が皇帝となるまで、大波乱があった。
いやあ、独裁者というのは、いつの世も後継者については大変な苦労を余儀なくされるようですね。
(2020年9月刊。税込1320円)

2022年4月13日

中国共産党の歴史(3)


(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶応義塾大学出版会

毛沢東が1958年に始めた大躍進、人民公社は表向きの華々しい成果とは逆に、実は、深刻な飢餓をもたらした。水利建設と鉄鋼生産に農村労働力の多くが奪われたため、食糧は豊作だったのに、収穫すべき人間がいないため、結果として食糧不足を招いた。
そこで、1959年7月から始まった廬山(ろざん)会議で、国防部長の彭徳懐が大躍進を遠回しに批判した。これに賛同する者もいたので、毛沢東は、自分に対する重大な挑戦と受けとめ、大々的な反撃に出た。その結果、大躍進の行き過ぎを是正する動きは全部吹きとばされ、300万人もの党員が「右傾機会主義分子」として打倒された。
実体のない「大躍進」は、達成できないと「右傾機会主義者」のレッテルを貼られて打倒されるかもしれないとの恐怖にもとづいて偽造された高い「生産額」に支えられていた。そして、大量の工業設備や先進的技術を取り入れて豊かな工業国になるためには、農村から徴発した食糧を輸出するしかなかった。
その結果、大躍進にもっとも積極的な姿勢を示した地方が、もっとも深刻な飢餓に直面することになった。河南省信陽地区では、総人口の4分の1にあたる100万人が餓死した。
ところが、毛沢東は食糧の絶対的不足を認めようとせず、富農による穀物隠匿のせいだと依然として思い込んでいた。
1960年11月、食糧不足を解決するための努力がようやく始まった。公共食堂の廃止、自留地、家庭内副業の拡大が認められた。そして、農業労働力を確保するため、都市住民が農村に強制的に移住させられた。1961年に1000万人、1962年に2000万人と、合計3000万人もの都市住民が農村に移住した。
毛沢東は大躍進が失敗だったとは決して認めなかった。ただ、おざなりの自己批判をしただけだった。国防部長の村彪は、「過ちは毛主席の指示に忠実に従わなかったから生じた」と発言したのを、毛沢東は称賛した。
ただ、毛沢東の権威は失墜した。そして1962年夏以降、毛沢東は反撃を開始した。文化大革命の始まりだ。
このとき、劉小奇らは毛沢東とたたかう意志はまったくなかった。「君」を諫めることすらしなかった。たたかう意志と戦略をもっていたのは毛沢東だけだった。
毛沢東の背に乗って権力を拡大しようとする人々と、彼らの背に乗って「階級闘争」を展開しようとする毛沢東がいた。誰も毛沢東という暴走列車を止める者はいなかった。
毛沢東は1964年に72歳。このころの毛沢東の精神状態はどうみても尋常ではなかった。気まぐれ、かんしゃく、虚言を繰り返した。党内でもっとも信頼するに足る人々を信用せず、信頼すべきでない人々を信じた。
毛沢東による文化大革命の悲惨は言葉で言い表せないほどひどいものがあり、中国をズタズタにしてしまったのです。
最後までぎっしり内容の濃い340頁の本です。強く一読をおすすめします。
(2021年7月刊。税込2970円)

2022年2月10日

中国共産党の歴史(2)


(霧山昴)
著者 高橋 信夫 、 出版 慶應義塾大学出版会

国共内戦で、紅軍は初めのうち後退を余儀なくされていた。蒋介石の国民党軍のほうが最新鋭の武器を持っていたから。そこで、毛沢東は、紅軍部隊に指示した。
「勝利が確信できなければ戦闘を避ける。チャンスがあれば攻撃対象を速やかに殲滅せよ」。「敵軍より少なくとも3倍の兵を終結させ、砲兵隊の大半を集中させて、敵の陣地の弱点をひとつ選び、猛烈に攻撃して確実に勝利する」
国民党軍の将軍は、最後にはアメリカ軍が助けてくれると期待していたので、懸命さに欠けていた。兵士の多くは、農村から強制的に連れてこられた男たちなので、はじめから戦闘精神をもっていなかった。そのうえ、兵士たちには十分な給料と食事が与えられていなかったので、村々を頻繁に略奪してまわった。これに対して紅軍兵士は相対的に士気が高く、略奪にもめったに手を染めなかった。
これでは、人心が国民党から離れて、紅軍に傾くのは当然ですよね。
国共内戦に勝利した毛沢東は、1950年夏に台湾解放作戦を考えていた。しかし、朝鮮戦争の勃発により消えてなくなった。それに、ソ連へ海軍と空軍(パイロット)の参加を求めていたが、スターリンはきっぱり断った。
毛沢東が1950年夏に台湾への武力侵攻を考えていたことを初めて知りました。
朝鮮戦争は1950年6月に始まりましたが、金日成がスターリンの攻撃同意を取りつけたのは1月30日のこと。毛沢東は、同年5月に金日成と北京で会ってスターリンの開戦同意を取りつけたことを知らされ驚いた。というのも、1950年の段階では、中国の沿海部分は蒋介石の空軍による爆撃にさらされていて、国共内戦はまだ終結していなかったから。
中国共産党の指導部内部でも、朝鮮戦争に参戦することには消極意見もあった。
中国の政治で驚き、かつ恐ろしいと思うのは、1950年10月ころの反革命鎮圧運動のすさまじさです。このころ開かれた全国公安会議において、中国の全人口の0.1%を殺害することが決議され、各地で、実行に移されていったということです。対象となる人物の行動から反革命分子と認定して殺害するというのではなく、まず「0.1%」を目標人数として、その分だけの氏名を特定し、そのうえで、「事実」を発見して、殺害する。
まことに手荒い、信じられない乱暴なやり方です。これで、3年間に70万人が「反革命分子」として殺害された。いやはや大変な人数です。過去のAB団、そして文革中の弾圧とその体質、手法は共通しています。
このあと、中国の農村社会では人民公社運動がまき起こり、そして、その失敗から大量の餓死者を生み出すわけですが、それでも集団化に対して大々的な抵抗運動は起きなかった。それは、「反革命分子」を鎮圧・除去していたから、共産党に抵抗する用意のある人々は除去されていたことによる。そのうえで、ソ連と違って、農村部にまで党組織が確立していたからだ。
1056年2月のフルシチョワによるスターリン批判は、中国共産党に対しても大変ショックを与えた。このとき、中国共産党はスターリン批判の大合唱に加わらず、むしろスターリンを弁護した。なぜか...。中国共産党は、当時、政権を握ってまだ日も浅く、権力基盤が盤石ではなかった。スターリンを一途に礼賛してきたのに、急に犯罪者だと決めつけようものなら、人々が共産党に背を向ける危険性がある。スターリンの偶像を簡単に破壊するのは難しかった。
毛沢東は、1958年3月の会議で、自らに対する個人崇拝を解禁した。このころ、毛沢東は「大躍進」を打ち出した。これは、製鉄熱を生み、また人民公社をつくりあげることになった。
「大躍進」は華々しく大成功をおさめた。1958年夏から秋にかけて、毛沢東は得億の絶頂にあった。しかし、実際には、深刻な飢餓が各地にあらわれはじめていた。
(2021年7月刊。税込2970円)

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