弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年12月 7日

唐...東ユーラシアの大帝国

中国


(霧山昴)
著者 森部 豊 、 出版 中公新書

 唐は、文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族から成るハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが、鮮卑(せんぴ)族の血、あるいはその文化を色濃くひくばかりか、唐の歴史をひもとくと、いたるところでチュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、あるいは朝鮮半島出身の人など、さまざまな出自の人たちが活躍していた。
 唐の歴史は、「安史の乱」をはさんで、前半と後半とでは大きな違いがある。
 唐朝は300年近い歴史を有し、その間ずっと色濃く遊牧色をおびていたというのではない。遊牧文化と中国的古典文化の融合した帰着点が唐だった。
唐を建国した初代皇帝の李淵(りえん)は隋の政権中枢にいた。この李淵の家系は、少なくとも文化面では鮮卑族。李淵の娘は軍の先頭に立って参戦したが、これは遊牧社会の気風を反映したもの。また、これは女性が活発に活動する唐という時代を告げる象徴的出来事でもある。
 李淵は、軍の教練に突厥(とっけつ)方式の騎馬戦術をとりいれていた。なので、李淵軍の進軍スピードはきわめて速く、群雄との決戦で優位に立った。
 李淵の妻は匈奴系の一族出身だった。また、ソグド人のグループも李淵に協力した。ソグド人は中央アジアのオアシス国家の住民。ソグド商人たちのネットワークは情報をやりとりしていた。ソグド人が信仰していたのはゾロアスター教。
 唐は隋の統治システムを踏襲した。その根本となるのが律令。また、唐は隋の官制も引き継いだ。唐の政策は、皇帝のもとにおかれた宰相たちの合議で決定された。
 李淵、すなわち初代皇帝・高祖には22人の子がいた。そのうち匈奴系の皇后とのあいだに生まれた次男の李世民が第二代皇帝となった。李世民は兄の李建成と仲は悪くなかったが、次第に溝が出来て、ついに先手を打った。李世民は皇帝太宗として23年ものあいだ君臨した。貞観(じょうかん)の治である。中国内に安定した平和が続いた。天下泰平となり、よく人材を登用した。
 太宗が臣下の意見をよく聞きいれる態度を「兼聴」といい、これは『貞観(じょうかん)政要』を貫くテーマとなっている。
突厥(とっけつ)とは、チュルクトというソグド語で伝わった音を漢人が写したもの。「鉄勒(てつろく)」と表記することもある。
 『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった僧・玄奘(げんじょう)は唐の太宗の時代の人。中国での仏教教義の研究に限界を感じ、唐を密出国してインドへ求法(ぐほう)の旅に出た。
 ただ、このころ唐の皇室が重視したのは仏教ではなく、道教だった。ちなみに、隋は仏教帝国。太宗が僧玄奘を重用したのは、仏教信仰からではなく、中央アジアに勢力をもつ西突厥をほろぼすため、玄奘のもつ最新の中央アジアの情報を必要としていたから。
中国史上、唯一の女性皇帝となったのは武則天。高宗は病弱だったので、そのパートナーだった武則天が一気に浮上した。武則天を日本では則天武后と呼ぶほうが多いが、これは彼女が皇帝になったことを暗に認めないという史観が反映している。
 日本は唐へたびたび使節を派遣した。遣唐使である。結局、唐にたどり着いたのは15回のみ。阿部仲麻呂もその一人。仲麻呂は日本へ戻ろうとした船が季節風で流されベトナムに浮着した。このため、結局、中国に70歳で亡くなるまで住んでいた。
 唐の歴史を概観することができて、大変勉強になりました。
(2023年3月刊。1100円+税)

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