弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2024年4月28日

徳川夢声とその時代


(霧山昴)
著者 三國 一朗 、 出版 講談社

 無声映画時代に、活弁(かつべん。活動弁士)として活躍し、戦後はラジオ朗読で美声をふるった徳川夢声に関する本です。
無声映画というのは、まったく音がありません。なので、まずは音楽をつけます。生演奏です。
 映画館の面前、スクリーンの下にオーケストラ、ボックスがあります。かすかな明りがあり、そのボックスからなまのヴァイオリン・ピアノ・セロ(チェロ)が奏(かな)でられます。この音楽によって、騒々しかった場内が静かに落ち着きます。
そして、次に正面に向かって左側のスクリーンの端の舞台にある小さなガラス箱に薄いグリーン色の灯がつき、活弁の弁士名が洒落た文字で浮かび上がる。さあ、弁士の登場です。弁士はフロックコートか黒紋付に袴(はかま)姿。
 弁士は「前説(まえせつ)」を美文調で語り始めます。この前説は、映画そのものが5分か10分なのに対して20分から30分も長く話します。そんな長い「前説」を廃したのが徳川夢声。
 徳川夢声と名乗るようになったのは、赤坂溜池にある映画館「葵(あおい)館」で語るようになってからのこと。「蔡」というから「徳川」と名乗ったのです。
 徳川夢声の弁士としての給料は80円から100円。当時としては大変な高級取りです。
 そして、さらに月給は上昇し、160円、いや400円という、とんでもない超高級取りになりました。それくらい弁士に高額の給料を払ってでも客の入りが良ければ会社としてはもうかったというわけです。27歳で400円というのですから、いったい今のお金にしたら、いくらになるのでしょうか...。
 ところが、やがてトーキーの時代になります。弁士なんて不要です。弁士のストライキも起こったりしましたが、徳川夢声は声の良さからラジオに進出するのです。私は聴いていませんが、ラジオでの「宮本武蔵」の朗読は大好評だったようです。
 徳川夢声は1971(昭和46)年8月に77歳で亡くなりましたが、その前、私もラジオやテレビでその味わい深い声を聞いたことがあります。
戦前の無声映画時代の活動弁士(活弁)のことが知りたくて読んだ本ですが、他にもいろいろ教えられることのある本でした。
(1986年6月刊。1100円)

2024年4月21日

「抵抗の新聞人、桐生悠々」


(霧山昴)
著者 井出 孫六 、 出版 岩波新書

 1933(昭和8)年8月、きびしい報道管制下に行われた関東防空大演習について、桐生悠々は、信濃毎日新聞の社説で鋭く批判しました。
 そのタイトルは「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」。
 この「嗤う」というコトバは、「面と向かって、さげすみ笑う」という意味。なんで、さげすみ笑ったかと言うと、首都(帝都)東京の上空に敵機がやって来て、爆弾を落としたときに、その防災対策を訓練するというのだけど、そんな事態は、まさに日本軍が敗北しているということではないのか。それに敵機が多数やってきて、そのうちの1機でも撃ち落とせずに東京上空から爆弾を落としたら、木造家屋の多い東京市街は一挙に焼土となり、阿鼻叫喚の一大修羅場となること必至ではないか、と指摘したのです。そんなとき、バケツ・リレーで消火作業にあたるなんて防火対策は意味のあろうはずがないと批判したのでした。
 もちろん、その後10年して、桐生悠々の指摘(予言)したとおり、アメリカ軍のB29の大編隊による焼い弾投下によって東京は焦土と化してしまいました。恐るべき先見の明があったわけです。
 先日、アメリカ映画「オッペンハイマー」をみました。ヒトラー・ナチスより先に原爆をつくろうとした科学者と、それを政治的判断で運用・利用した当局との葛藤、さらにはアカ狩りのなかでのオッペンハイマーへの糾弾で生々しく描かれています。広島、長崎への原爆投下の惨状が描かれていないことが批判されていますが、なるほどと思う反面、原爆そして水爆の恐ろしさの一端は、それなりに紹介されていますし、大いに意義のある映画だと私は思いました。
 イスラエルのガザ侵攻で3万人もの市民が亡くなっていること、餓死の危険が迫っていることを知ると、いてもたってもおれない心境です。イスラエルに対して、即時停戦・撤退を強く求めます。
(1980年6月刊。380円)

2024年4月17日

枢密院議長の日記


(霧山昴)
著者 佐野 眞一 、 出版 講談社現代新書

 倉富勇三郎といっても、今は誰も知らない無名の人物だと思います。
 でも、その肩書はすごい人です。東京控訴院検事長、朝鮮総監府司法部長官、貴族院勅撰議員、帝室会計審査局長官、そして最後に枢密院議長をつとめました。司法官僚そして宮内(くない)官僚として位(くらい)人臣(じんしん)をきわめたのです。
 久留米出身であり、背景に何もないなかで、これだけ出世したのは、野心のない人間だとみられていたからのようです。能力があって、他を押しのけて得た地位というのではありません。きっと運が良かったのでしょう。
 著者は倉富を優柔不断な男だったと酷評しています。
 枢密院の建物が今も皇居内に残っているというのには驚きました。老朽化したけれど、本格的に修繕したそうです。
 倉富の先祖は佐賀の竜造寺で、竜造寺が落ちぶれたあと佐賀から田主丸に移り住み、倉富に改姓した。
 兄の倉富勇三郎は、福岡で自由民権運動の闘士となり、福岡毎日新聞の刊行者の一人となり、戦後、社長をつとめている。
 倉富勇三郎は、刻明な日記を26年間つけ、それが保有されている。ただし、ミミズがのたうったような文字で大変読みにくい。そこで、著者は有志をつのって集団で解読していったのです。その成果がこの本に反映されています。
 日記は297冊にもなる。ひと目にノート1冊分というペース。全部を本にしたら、50冊をこえる。世界最大最長級の日記。この日記は原敬日記と違って、死後公開されることを前提としたものではない。したがって、記録として大変意義のあるもの。そこで2年分の日記を解読するのに、6人で5年間かかった。いやあ、これは大変な作業でしたね。
 著者は倉富について、超人でもスーパーマンでもなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だったとしています。
 倉富は寸暇を惜しんで日記を書き続けた。そして暇さえあれば読み返し、日記に追記し、訂正している。
 この本を読んでもっとも驚いたことは、昭和7(1932)年当時、学習院に子どもを通わせている家の全部に電話がひかれていたということです。学習院の遠足会の連絡のために子弟の住む全戸の電話網が活躍していたというのです。いやあ、これは驚きでした。このころ電話は超高級品であり、一家に一台というのはまったく考えられません。さすがに、上流華族の家庭生活はレベルが違います。私が大学生のころは下宿先の大家さんの黒電話にかかってきたのを取り次いでもらっていました。
 倉富勇三郎が、かくも膨大な日記を残してくれたことを深く感謝したいです。
(2007年10月刊。950円+税)

2024年4月 7日

「東京の下町」


(霧山昴)
著者 吉村 昭 、 出版 文春文庫

 昭和の初めころの東京の下町の様子がよく描かれています。
 先日、90歳を過ぎた山田洋次監督が寅さん映画がつくられたころと今の時代との違いを説明していました。映画が撮影されたころはみんなそこそこ貧しかったけれど、まじわりあいがありました。今では、富める人はタワーマンションにこもっていて、貧しい人は死ぬほどこき使われたり、バラバラにされていて交流がありません。昔の下町にあった長屋的な交流の場は失われてしまいました。本当に残念です。
 若者が未来に夢をもてず、結婚せず、子どもが産まれない(少子化)状況が深刻化するばかりです。そんな今こそ、寅さん的笑いが必要なんじゃないかと山田監督は訴えています(と私は理解しました)。
 たとえば映画です。かつて浅草6区には映画街がありました。両側にずらりと映画館が並ぶ長いストリートがあったのです。
 江川劇場、遊楽館、万成座、三友館、千代田館、電気館、金竜館、富士館、帝国館、大都劇場、東京倶楽部、大勝館などなどです。そして、当時の写真をみると、映画街のメインストリートが歩く人々で見事に埋め尽くされています。呼び込みする係員もいたそうですが、呼び込みなんてするまでもありませんでした。また、エノケン一座が公演し、歌手の淡谷のり子が「雨のブルース」を歌った松竹座、「あきれたぼういず」が出演していた花月劇場もありました。
 私の生まれ育った町にも、小さな映画館がたくさんありましたし、旅役者が劇を演じる芝居小屋もありました。
 嵐寛寿朗の「鞍馬(くらま)天狗」の映画のなかで、主人公が馬に乗って悪漢どもから杉作少年を救出に駆けつける場面では、館内が総立ちとなり、騒然とした雰囲気のなか、「早く、早く」と声がかかり、拍手が鳴り、主人公が悪漢どもを次々に切り倒していくのです。そのシーンはまさしくクライマックスでした。
 大人も子どもも、館内一丸となっていました。この一体感のなかで、少年は助かったという満足感に浸りながら家路に着いたのです。こんな感動を今の子どもたちに味わせたいものだと本当に思います。
 1927(昭和2)年に東京に生まれた著者による東京の下町情景は、戦後生まれの私にもまだ十分に体験として分かるところがあり、うれしくなりました。
(2018年6月刊。770円+税)

2024年3月31日

楡家の人びと(第1部)


(霧山昴)
著者 北 杜夫 、 出版 新潮文庫

 いま昭和初期の日本とはどんな時代だったのか調べていますので、そのころの状況を描いている、この本を読んでみました。
第1部の主人公・楡(にれ)喜一郎は、第1部の終わりに63歳の若さで亡くなります。大正天皇が大正15年12月末に亡くなったころのことです。直ちに改元があって、昭和となり、昭和1年は7日間だけで、1月1日を迎えて昭和2年となりました。
 楡基一郎は楡病院の院長先生。そして、この病院で働く医師・看護師そして事務職員のさまざまな生態が描かれるのです。この文庫本は第1部で主人公は死んでしまいますが、第3部まであります。
 もう一つ、私が読んでいる加賀乙彦の『永遠の都』は同じ新潮文庫で、7冊シリーズです。どちらも明治から昭和初めのころが舞台であり、主人公が医者で、その経営する病院が危機に直面していること、関東大震災が起きて被害をこうむったことなど、なかに細かい違いはいくらでもありますが、大筋としてよくよく似た状況なのには驚かされます。
 『永遠の都』の時田利平院長は病院に勤めている看護師・薬剤師など、身近な女性に次々に手を出していきます。そして子どもが出来ると、認知をしなくても、一定の援助をしていました。
 そして、体のきつさを克服するため、こっそりモルヒネを注射していたのが、ついに中毒となり、娘たちが入院して治療するように泣いて頼まれたのでした。
 楡病院の話に戻ると、入院患者の多くは精神病の人たちが占めている。
 楡基一郎が発明狂であることも時田利平医師とよく似ています。利平医師のほうも自分で発明・考案に長けていると自負し、そこそこ金銭的な収入をあげているのでした。
 このころ映画は活動写真と呼び、トーキー(音声が出るもの)ではなく、無声映画。なので、活弁(活動写真の弁士)が楽士の演奏(伴奏)とともに口上(こうじょう)を述べ立てる。
 活弁は大正時代のフロックコート姿で登場し、上映の前に「前説(まえせつ)」をやった。要するに、これから上映する映画の概要を紹介するのです。
 どちらのストーリーにも関東大震災の被災状況が登場します。そして、民衆の一部が警察のデマ(放言)に踊らされて罪なき朝鮮人を惨殺するシーンも登場してきます。本当にやり切れない話です。
 当時の民衆の生活が、どちらも実にことこまかく描写されていて、昭和前期の日本の様子が手にとるように理解できます。
(2022年11月刊。670円+税)

2024年3月30日

「昭和の恐慌」


(霧山昴)
著者 中村 政則 、 出版 小学館

 いま、昭和初期のことを勉強しています。
1930(昭和5)年3月、ロンドンで軍縮条約が成立しました。このとき、岡田啓介軍事参議官(海軍大将)は軍縮に賛成して、次のように考えていました。
 「だいたい軍備というものは、きりのないもので、どんなに軍備をやったところで、これでもう大丈夫だという、そんな軍備なんてありゃせん。いくらやってもまだ足らん、まだ足らんというものだ」
 まさしく正論ですね。今日の「抑止力」論と同じです。だいたい日本が中国に対して「抑止力」をもてるはずがありません。国土の広さがまるで違ううえに、軍事予算も軍人の人数も日本の何倍もあるのですから、かなうはずがありません。
 この軍縮条約について、反対する軍人と右翼は統帥権(とうすいけん)干犯(かんぱん)だと主張しました。要するに、天皇の専権事項だから、政府は決める権限がないというのです。またもや天皇をダシに使ったのでした。
 それにもかかわらず、なぜ政府が条約を締結できたのかというと、軍部の一部が強硬に反対しても圧倒的多数の国民が軍縮条約を支持したからです。
 6月18日、大任を果たして半年ぶりに日本に帰国した若槻礼次郎全権大使を東京駅でなんと十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えました。この本には、そのときの様子をうつした写真が紹介されています。東京駅頭に大群衆がノボリ旗を立てて熱狂的に出迎えた様子がよく分かります。
 軍縮条約の締結は、不景気な時代に、少しばかりの希望を民衆に与えるものでした。それほど、民衆は戦争ではなく平和を望んでいたのです。
 そうは言っても民衆がいつも正しく判断するとは限りません。金解禁に対して、その最大の被害者となった民衆は、幻想に踊らされて、これまた熱狂的に金解禁を支持したのです。
 ひき続く不況にあえいでいた民衆は、窮状打開の突破口として、金解禁にむなしい期待をつないだ。これには当時の大新聞がこぞって全解禁を支持し、あおり立てていたこと、金解禁したら、すぐにも好景気がやってくるかのような幻想を振りまいたのです。つまり、民衆は金解禁に世直し的幻想を抱いて(抱かされて)いました。
 同じようなことが今もありますよね。権力側のキャンペーンに乗っかかって、自分の頭で考えなくなると、とんでもない結果が待ち受けているのです。
 戦前の日本を知ることは、戦後の今を生きる私たちにとっても意味がないどころか、大いに役に立つことなのです。さあ、勉強を続けましょう。
(1982年6月刊。1200円)

2024年3月24日

「地中の星」


(霧山昴)
著者 門井 慶喜 、 出版 新潮社

 私の亡父・茂は17歳のとき、大川市から単身上京して、逓信省で臨時雇員として働きはじめました。1927(昭和2)年3月のことです。
 同じ年の12月末、東京で初めての地下鉄が営業を開始しました。浅野と上野を結ぶ路線です。2キロあまりを5分間ほど走りました。運賃は10銭です。当時、コーヒー1杯が10銭でした。イギリス・ロンドンの地下鉄のほうが断然早いのですが、ロンドンは蒸気機関車でしたから排煙に悩まされていたそうです。日本は初めから電気で動きました。
 この本は、渋沢栄一などの援助を受けながら、東京の地下に電車を走らせることに命をかけた早川徳次(のりつぐ)と技術者たちの苦闘の日々を生き生きと描いています。
12月29日には開業式ではなく、開通披露式がとり行われました。
 改札には、自動改札機があり、10銭硬貨を投入する。これまた日本初のこと。線路は複線で、車両は1両だけ。
 翌12月30日に一般向けの営業を開始すると、初めての地下鉄に乗りたい人々が殺到し、大変な行列をつくった。午前中だけで4万人の市民が乗車した。
 そして、それは年が明けて新年になっても続き、むしろ日曜祝祭日のほうが地下鉄は混みあった。もちろん、このころ亡父も地下鉄に乗ったと思います。18歳の好奇心あふれる青年が乗らなかったはずはありません。
 やがて地下鉄の線路は延伸し、神田駅が出来た。すると、省線(今の山手線)との接続が乗客にとって便利になる。それは利用者の増加につながった。そして、次は三越デパートと直結し、「三越前」駅が誕生した。
 東京市の人口200万人のうちの半分近い98万人が3日間の地下鉄祭で乗車した。
 次は、関連して、地下鉄ではなく地上を走る市電の女性車掌の話です。東京の路面電車は今も細々と残っていますが、かつては縦横無尽に走っていました。そして、その電車には車掌がいて、車内で切符を売っていました。すると、混雑したときには間違いがあり、また、たまに車掌の着服事件が起きたりして、女性車掌が導入されたのです。しかし、女性車掌だと、更衣室の整備が必要だったり、夜間には働かすことができないということで、いったん廃止されました。
 ところが、男性がどんどん兵士として出征していったので、再び1934年に女性車掌が復活したのです。
 しかし、これには男性車掌側から反発もありました。男性車掌の賃金が1円7銭であるのに対して女性車掌の賃金は90銭でしかなかったからです。こんな低賃金で働く女性が増えると男性の仕事が奪われるという意見です。それをストライキの理由とした争議まであったのでした。
 昭和のはじめの日本の状況は調べるほど、面白い世界です。
(2021年8月刊。1800円+税)

2024年3月23日

『国家試験』


(霧山昴)
著者 国家試験編集部 、 出版 育成洞

 私の亡父は法政大学法文学部法律学科の学生のころ、高等文官司法科試験を1回だけ受験しました(残念ながら不合格)。1933(昭和8)年6月のことです。このときの合格者には川島武宜教授(民法)がいます。
 いま、亡父の足取りを調べていますので、このころの司法科試験は何月に、どこで、どんな問題が出題されていたのか、口述試験はあったのか、知りたかったのです。
受験雑誌があったらしいことを知って、ネットで検索してみました。すると、出てきたのが、この雑誌です。今は、国立国会図書館にわざわざ行かなくても、いながらにしてコピーサービスを注文して利用することができます。本当に便利な世の中になりました。
今度、NHKの朝ドラの主人公になる三淵嘉子の伝記によると、当時の試験会場として貴族院も使われていたというのですが、1933年の試験会場は今のところは判明していません。それでも、6月末ころ、1日2科目の4日間ということは分かりました。試験科目は私のとき(1972年5~9月)とほぼ同じです。憲・民・刑に商法、民訴か刑訴、そして選択科目2科目(私は社会政策と労働法でした)。
論文式はどうやら事例式ではなく、抽象的な一問を論じる形式のものだったようです。
論文式を無事にパス(合格)したら、口述試験です。これも私のときと同じです。この受験雑誌には口述試験の状況を再現した合格体験記も載せられています。私のときには『受験新報』が花盛りでしたが、この雑誌にも詳細な口述試験の問答が紹介されています。
このころの試験官といえば、末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一、鳩山秀夫など、そうそうたるメンバーです。
合格するために必要な精神状態についても、先に合格した先輩が次のように書いています。
あせらず、あわてず、粛々と堅実な歩みをすすめていくしかない。
そして、試験に合格したいという希望が必要、意思が堅固でなければいけない。私のころ、そして今でも通用する心がまえが求められています。
亡父は司法科試験のために猛勉強しすぎて神経衰弱になったとこぼしていました。私もちょっぴり、そうなりました(ほとんど1日、寝て、なんとか回復しました)。
有名な伊藤塾の塾長(伊藤真弁護士)に、戦前も受験雑誌があり、口述試験の問答が詳しく再現されていると話したことがあります。さすがの伊藤弁護士も知らなかったとのことでした。調べてはみるものなんですよね...。
(非売品、国会図書館コピーサービス)

2024年3月22日

女子鉄道院と日本近代


(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 青弓社

 いま、昭和はじめの東京の状況を調べていますので、この本を読んでみました。
 東京市電(東京都ではなく、東京市でした)の女性車掌は、1925年に始まりましたが、1927年には廃止されました。ところが、1934年3月に復活しています。いったん廃止されたのは終車まで勤務させられないのと、更衣室が必要だからというのです。復活した理由は「経費の圧縮」。つまり、女性のほうが安上がりだという理由です。どれくらい安いかというと、男性なら日給1円7銭のところ、女性は90銭でした。
 そして、男性は運賃の着服横領が多いけれど、女性はそんなことしないだろうという事情もありました。このころは、車掌が車内で運賃を乗客から徴収していたのです。すると、乗客が満杯のときなど、料金の過不足が出てくるのは避けられません。それが全部、車掌の責任にさせられていました。そして、当局は、ときに密偵を車内に送り込んで車掌を監視していました。弁償させられていたのです。
 乗客のなかには今でいう「カスハラ」をするのもいて、女性だとなおさら泣かされたようです。そして、女性が働くと、女性をつけ上がらせるという世間の冷たい眼にもさらされました。
 1933(昭和8)年2月2日、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の労働者は始発からストに突入した。解雇撤回、手当を減額するな、そして、女性を採用するな、でした。低賃金の女性が採用されると、男性の職場が荒されるというのです。
 鉄道が走り出したころ、踏切番の仕事は女性が担っていた。鉄道に雇われている夫の妻として踏切番の仕事をした。ところが、この仕事は危険だった。というのは、まだ鉄道の怖さを知らないので、子どもたちまで平気で線路内に立ち入る。それで子どもを助けようとして、踏切番が犠牲になることも少なくなかった。
 踏切番として働く女性の賃金は4円。これは男性が9円81銭もらっているので、その半額以下。
 国鉄に女性の車掌が登場したのは1944(昭和19)年のこと。戦時下にあったからとされている。男性が兵役にとられて、いなかったのです。
 かつてバスには女性の車掌がいて、バスの車内で切符を売ったり、パンチを入れたりしていました。戦後まもなく生まれた私の記憶でもあります。それが、いつのまにか車掌はなくなり、ワンマンバスになってしまいました。
 鉄道とバスをめぐる、昔のことがよく分かりました。
(2023年12月刊。2400円+税)

 庭のチューリップが一気に咲きはじめました。今年はなぜか紅いチューリップが多いようです。もちろん、黄色も白もありますが...。白いスノードロップもあちこち咲いてくれています。
 雨戸を開けると、チューリップの群舞に出会えます。春を実感させる一瞬です。
 2月に植えたジャガイモが少し芽を出してくれました。こちらも楽しみです。
 春は心が浮き浮きしてきます。何かいいことがあったらいいですね。殺伐としたニュースばかりでは心が休まりません。春はやっぱりチューリップです。

2024年3月19日

戦前の日本


(霧山昴)
著者 武田 知弘 、 出版 彩図社

 私の父は17歳のときに大川市から単身上京し、24歳まで7年のあいだ東京にいました。1927(昭和2)年4月から1934年8月までのことです。
 このころの日本そして東京はまさしく激動の時代でした。大正デモクラシーという自由な雰囲気が少しは残っていましたが、次第に軍人がのさばり始め、五・一五事件が起きて犬養首相が首相官邸で「問答無用」と青年将校から射殺され、ついに政党政治が強制終了させられ、軍部独裁の政治が実現しました。
 そんな時代の様子を今いろいろ調べています。この文庫本を読み返したのも、その一環です(初版は平成28年)。
 戦前の日本は貿易大国だった。紡績業がその中心にあった。そして、なんと、自転車も重要な輸出品目でした。自転車の生産台数は大正12年に7万台、昭和3年に12万台、昭和8年に66万台、昭和11年に100万台を突破し、それ以降も同水準だった。
 次に玩具(オモチャ)。セルロイドや金属を使ったり...。昭和8年には輸出額は2000万円にのぼった。
そして、日本は中国や朝鮮半島から留学生を大量に受け入れていた。中国人留学生は5000人以上、そして朝鮮半島からは3万人ほどもいた。
 つい最近、日本政府は外国人が大学に行くときには、その授業料を日本人より高値に設定するというのです。まさか、と我が眼を疑いました。この反対に外国人学生の学費はタダにして、大いに諸外国から来てもらうようにすべきです。トマホークやオスプレイのようなものを買うお金はあっても「人材育成」のために使うお金なんてないというのです。まるでアベコベ政治です。
 昭和3(1928)年10月の人口調査によると、大阪市が233万人で、東京市は、それを下回る221万人でした。信じられません。それほど大阪市は活気に満ちていたのです。
 戦前の日本は、日本映画の黄金時代。上映される映画の8割近くは邦画だった。ドイツでは6割、英仏でも7割がアメリカ映画だったのに対比させると、いかに邦画が繁栄していたかです。おかげで有名な監督が輩出しました。
 サラリーマンは、平均月収が100円。ところが大企業では課長クラスで年収1万円(今の年収5000万円)。今は、もっと格差が大きくなっていると思います。
 寿司屋では、にぎりずしが25銭、ちらし寿司が30銭。大衆食堂では、朝食10銭、ライスカレー20銭でした。ところが、高級料理店では2円だった。コーヒーは10銭で飲めた。マイホームは4000円前後で建てることができた。
 知らなかったことが、たくさん出てきました。
(2016年9月刊。648円+税)

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