弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2023年11月28日

関東大震災と民衆犯罪


(霧山昴)
著者 佐藤 冬樹 、 出版 筑摩選書

 関東大震災のあと、官製のデマ(内務省つまり国が意図的に嘘と分かってデマを大々的に流しました)に踊らされた日本人民衆が無差別に朝鮮人など(中国人もいて、日本人の社会主義者なども含まれます)を大虐殺していった大惨事の内情を明らかにした本です。
 官製デマを発信した国の責任、そして、それを無批判に受け入れてタレ流したマスコミの責任を鋭く告発していますが、同時に、それに乗って狂気の無差別大量殺人を敢行した日本人民衆の責任も追及している本でもあります。
 この大虐殺事件について、殺人罪などで640人の日本人が起訴され、ほとんどが有罪となった。その被害者は「400人」以上。しかし、司法当局は大量殺人事件なのに、その捜査に熱心ではなかったし、犯人全員を検挙したわけでもない。民衆を刺激したくなかったからだ。
数百いや数千人の日本人民衆が警察署に押しかけ(30件)、そのうち11件では警察署内に乱入してまで留置場内に保護されていた朝鮮人を虐殺(竹槍や日本刀でなぶり殺し)した。
 朝鮮人虐殺を生み出したのは、警察だと名乗る自動車が「朝鮮人200名が押しかけてきて町を焼き払おうとしているから、それに備え、警戒しろ」と呼びかけたことにある。
 警察(正力松太郎)は、そんな事実はないことを確かめたうえで、このデマを「あっちこっちで触れてくれ」と新聞記者に頼んでまわった。デマと虐殺の拡散において、警察と新聞各社は共犯関係にある。恐怖と不安に取りつかれた民衆は男も女も凶暴そのものと化した。
 警察がデマを承知で広めたのは、このころ朝鮮独立運動が活発になって、日本が朝鮮を植民地としての支配を続けられるのか心配していたから。
 朝鮮人虐殺を敢行した日本人民衆は、「善良な国民(日本人)」だった。その職業は多種多校であって、下層民衆ではなかった。中間層か、それ以上の階層の人々も少なくなかった。
 民衆による朝鮮人大虐殺が進行するなか、9月6日、治安当局は、ようやく朝鮮人の殺害を犯罪だと明言した。
 そして、あとでは、民衆による虐殺はあったし、それは逮捕・起訴して、刑事上の責任は裁判と対象となった(ほとんどが有罪となったものの、早々に刑務所から釈放された)。
関東周辺で結成された自警団は、3700団、平均人数65人だったので、少なくとも70万人の武装民兵が組織された。自警団の中核は消防団員だった。関東の自警団員の6割以上は、消防団員だった。自警団は、人事前でも経営面でも公営団体だ。
 自警団による朝鮮人虐殺(犯罪)の4つの特徴...。
その1は、徹底した攻撃性。武器を何一つ持たず、無抵抗の人々を殺し続けた。
その2は、性別も年齢も問わず、朝鮮人すべてを襲撃した無差別性。乳幼児や妊娠中の女性さえ惨殺した。
その3は、警察への反発。警察署まで襲撃した。
その4は、群衆による犯罪。
自警団にとって、朝鮮人は、震火災にともなう、あらゆる災厄の源だった。
日本人が自警団によって殺害されたのは、無差別殺人にともなう、必然だった。
警察、そして国は、朝鮮人虐殺事件の責任一切を住民と自警団に押しつけた。マスコミも、それを受け入れて大々的に報道した。
日本人被害者の7割は、工場や会社、警察、軍隊に属する人々だった。農民や漁民はまったくいない。
善良な民衆が、ある日突然、凶暴な犯罪集団と化し、そのおかした犯罪について弁解し、合理化し、隠匿し、ひいてはそんなものはなかったとまで開き直ってしまったのです。デマって、本当に恐いですよね。
 
(2023年8月刊。1800円+税)

 晩秋の候となり、紅葉が美しく見頃です。先日、上京したとき日比谷公園のイチョウが実に見事なので、つい見とれてしまいました。
 庭にフジバカマを追加して植えました。アサギマダラが来てくれることをひたすら願っています。
 庭で掘り上げたサツマイモを2週間たったので、オーブンで焼いて食べました。小ぶりなのですが、ほどよい甘さのものもあり、法律事務所に持参して、所員のみなさんに持って帰ってもらうことにしました。
報道によると熊本に新しく立地する台湾の半導体メーカーに国は1兆円も投下するそうです。でも、肝心な部品の生産は台湾でするので、日本へ技術移転することはないそうです。日本の司法予算は3222億円なのです。その3倍も民間企業にくれてやるとは...。地下水汚染も心配です。

2023年11月 3日

森と魚と激戦地


(霧山昴)
著者 清水 靖子 、 出版 三省堂書店

 太平洋の島々で、日本軍がとても非道な残虐行為を繰り返していたことを知り、身震いする思いでした。
 1943年10月28日、ブーゲンビル島ブインの第8艦隊司令部は436人もの捕虜を銃殺してしまった。これを目撃した日本人兵士(福山孝之氏)が、戦後、戦火のなかでつけていた日記をもとに『ソロモン戦記』を出版して明らかにしている。
同じ1943年10月には、ウェーク島でも日本軍はアメリカ軍の来襲を受けたとき、民間人捕虜98人を銃殺した。
 1945年8月15日の日本敗戦のあと、8月17日、日本軍はオーシャン(バナバ)島でバナバ人160人を全員殺害した。
 1943年3月、トラック諸島のデュフロン島で、アメリカ軍の潜水艦の乗組員たち50人ほどを捕虜とし、生体実験の対象とした。第4海軍病院で、病院長の岩波浩軍医大佐の主導する生体実験だった。銃剣で突き刺し、最後に日本刀で斬首させた。この事件では、グアム戦犯裁判で岩波病院長には死刑が宣告され、1949年1月に絞首刑が執行された。
 1943年3月、ニューアイルランド島ケビアン沖の駆逐艦「秋風」船上でドイツ人宣教師など62人を日本軍は集団処刑した(秋風事件)。この事件は、戦後、横浜での軍事法廷にかけられたが、「秋風」が南東方面艦隊の指揮下にあったことが明らかとなって、「無罪」とされた。極東軍事法廷も十分な審理を尽くせなかったようですが、その有力な要因は、日本の復員局が裁判対策を尽くしていたからとのこと。
 1944年7月14日、ニューギニア本島のティンブンケ村で男性99人、女性1人の村民が集団虐殺された。
 日本軍はラバウルを10万人もの兵(海軍3万、陸軍7万)で占領していた。このとき、日本軍は各地に「慰安所」を設立した。陸軍省はコンドームを1941年だけで第17軍に334万個、南海支隊に4万個を配布した。修道院も慰安所として使った。朝鮮人女性が200人から300人もすし詰めに入れられていた。日本人女性も1棟に20人ほどで8棟あった。
 軍医が検査すると、90%の女性が性病をもっていた。女性は1人あたり1日平均で40人の兵士の相手をさせられた。1日で80人から90人という女性までいた。兵士たちは、上官から「死ぬ前に慰安所に行っとけ」と命令されていた。
この本には、戦後の日本が日商岩井などの総合商社によってパプアニューギニアの豊かな森を大々的な伐採によって荒廃させていった事実も告発しています。
 気の滅入る話が綿々と続くので、読み終えたとき、たまらない疲労感がありました。

(2023年6月刊。2970円)

2023年11月 2日

忘れられたBC級戦犯


(霧山昴)
著者 玉居子 精宏 、 出版 中央公論新社

 1945年3月、ベトナム北部の町ランソンで日本軍は300人以上の捕虜を殺害した。当時、ベトナムはフランス植民地政府の支配下にあり、頑強に抵抗するフランス植民地軍(仏印軍)に日本軍は手こずり、多くの死傷者を出した。そこで、戦闘終了後、日本軍は捕虜とした人々を集めて銃殺した。(ランソン事件)。
 このランソン事件は、日本敗戦後、フランスが事件の真相を追求し、26人(50人以上という資料もある)を容疑者とし、最終的には3人の大尉と1人の大佐、計4人が死刑(銃殺刑)となった。しかし、軍の上層部の責任は問われなかった。
 A級戦犯として東京裁判にかけられたのは100人以上いたが、死刑(絞首刑)は7人、終身禁固16人、禁固20年1人、禁固7年1人だった。これに対して、BC級戦犯のほうは1万人以上が逮捕され、4200人が死刑(絞首刑か銃殺刑)になった。
これって、明らかに不公平ですよね。下は上の指示に従った「だけ」なのですから、上の責任はもっと重いはずです。
捕虜殺害を実行した大尉たちは自らの意思でしたのではない。「捕虜は1人残らず処刑せよ」と上から厳命されたのを実行しただけ。
 戦犯裁判では、上官と部下がお互いの責任を指弾しあうのは珍しくなかった。将校は兵隊に命令なんかした覚えはないと言い、兵隊は将校の命令に従っただけと言った。これでは、共倒れになってしまう。
 戦犯法廷において、日本政府は冷酷さを示すだけだった。戦場に将兵を送りながら、敗戦後は、将兵の弁護人を派遣しようともしなかった。法廷で弁護人となった日本人弁護士は、いわばボランティアだった。ある日本人弁護士は、基本給1万1000円で、外地手当7150円、家族手当2000円を加えて、月2万150円だった。このような弁護士の待遇は決して良くはなかった。
 ランソン事件では、実際に殺害した末端の兵士は処罰されず、また、師団長・司令官・参謀などのトップも罪を問われず、連隊長と中隊長の計4人が死刑となり、銃殺された。
 この4人は、いったん日本に帰国していたのを逮捕され、ベトナムに戦犯容疑者として送還された。死刑執行は、判決から6ヶ月を置くのが慣例で、執行の直前まで本人に予告されない。そして、早朝に執行された。サイゴンでは軍人にふさわしいとされる銃殺刑のみで、絞首刑はなかった。
 ランソン事件なるものの存在を初めて知りました。人命軽視の日本軍の非道さに恐れおののいてしまいます。
(2023年6月刊。2200円)

2023年10月27日

関東大震災、朝鮮人虐殺の真相


(霧山昴)
著者 関原 正裕 、 出版 新日本出版社

 今からちょうど百年前、1923年9月1日、東京周辺で発生した関東大震災のとき、地震による火災等で何万人もの人々が死亡した。あわせて、このとき、「朝鮮人が火を付けた。井戸に毒を入れた」「不逞(ふてい)鮮人が社会主義者と一緒になって来襲する」などと、事実無根のデマが流され、数千人(6千人以上)もの朝鮮人、そして700人以上の中国人、さらには社会主義者や無政府主義者が軍隊・警察そして民衆から成る自警団によって虐殺された。
 いま、全国で上映中の映画『福田村事件』も、その虐殺の一つです。ただし、そのとき殺されたのは朝鮮人でも中国人でもなく、純粋の日本人、ただ四国は香川県から来た行商集団だったので、言葉の違いから自警団の人々によって虐殺されてしまったのでした。
 この本は、デマを流したのは誰なのか、なぜ日本人がそのデマを易々(やすやす)と受け入れたのかを資料をもとに解明しています。
日本は既にそのころ朝鮮を植民地支配していて、朝鮮人の独立運動を恐れていたということがありました。支配者としての優越感は、被支配層の自主的運動を極度に恐れるという劣等感につながってもいたというわけです。そして、現在、問題なのは、松野官房長官が歴史的事実を認めず、小池百合子都知事に至っては、追悼文の送付を止めて素知らぬ顔をするばかりだということです。この状況は教科書にも反映していて、子どもたちに歴史がきちんと伝えられていません。
 大地震の翌日(9月2日)、埼玉県内務部長は県下の郡町村長に対して「移牒(いちょう)」を発した。今でいう「通知」(通達)です。そこには、「不逞鮮人の盲動」があり、「毒手を振」おうとしているので、「速やかに適当の方策を講ず」べしとしています。これは、埼玉県独自のものではなく、内務省本省と協議したうえのものと考えられます。
 内務省警保局長が9月3日午前8時15分に全国に送った電文は、もっと具体的に書いている。
 「震災を利用し、朝鮮人は各地に放出し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市中において爆弾を所持し、石油を注ぎて放出するものあり」なので、「厳密なる取締を加えられたし」としている。
 このように、デマの震源地は内務省、つまり国そのものにあったのです。国の責任は明白です。そこで、数千人もの朝鮮人等を虐殺した実行犯たちは逮捕され、裁判にかけられたとき、なぜ国の方針に従っただけなのに、自分たちだけが刑事責任を問われるのは不公平だ、おかしいと加害者を含む人々が騒ぎ立てました。困った国は、有罪となった被告人たちをこっそりと恩赦して、事件をなかったことにし、前科も消してしまうことにしたのでした。
 そもそも、甘粕事件(大杉栄らが軍隊によって殺害された)のほかは、軍隊も警察も何ら裁判の対象になっていません。
 朝鮮人虐殺に加担した軍隊は、シベリア出兵の経験者たちであったり、内務大臣の水野錬太郎と警視総監の赤池濃(あつし)は、いずれも朝鮮半島での三・一独立運動前後に朝鮮人の独立運動の熱気に圧倒された経験を有していた。このことは大きかったと思います。
 著者は長く埼玉県で高校教員としてつとめてきました。その経験も生かして、目を背けてはいけない歴史的事実は実に明快に明らかにしています。
(2023年7月刊。1800円+税)

2023年10月22日

青春の砦


(霧山昴)
著者 大谷 直人 、 出版 新潮社

 太平洋戦争末期、静岡県の清水高等商船学校の生徒たちの日々。兵学校化しようとする動きに抵抗し、叛逆するものの、あえなく挫折、そして戦死。
昭和18年から20年の日本敗戦までの3年間、新設された清水高等商船学校の生徒たちの一連の実際の行動が小説となっています。
 作者は、その第1期生であり、生き残って戦後まもなく(昭和26年)1月から5月にかけて書き上げた。そして、さらに26年後に清書をして、400字原稿1360枚を900枚までに削った。18歳のときの話を26歳のときに書き、52歳になって刊行した本。
 本文2段組みで300頁もありますが、その息も詰まる切迫感のなか、私は飛行機のなかで暑さも忘れて必死に読みすすめました。
 吉野教官は結婚を約束する女性がいた。しかし、戦場に駆り出される前、吉野は別れ話を切り出した。それに対する返事の手紙をこっそり盗み読んだ。
 「あなたは、道連れにすることを拒否するとおっしゃられました。あなたが、この戦争で犠牲になるのを免れない覚悟は、前々から知っていました。結婚したら、私を否応なしに不幸の中に放りこんでしまうことになるから、結婚を解消してくれとの申し出は、よく分かりました。私にとって、大事なことは、20年の生涯に、あなたとめぐりあい、そして愛し愛されたということに尽きます。私にとって、愛されること以上に、愛すること、愛する人がこの地上に生きていることが喜びであり、生き甲斐でした。結婚を解消しても、この喜びも生き甲斐もなくなりはしません。あなたが、万一、戦死されることがありましても、愛した人を失った悲しさと、好きな人を愛しもせずに見送った後悔とは、どちらが深く大きいでしょうか。悲しみには耐えようとも、後悔だけはしたくありません」
 いやあ、20歳前後で、お互いに今は元気なのに今生の別れをしなくてはいけないという戦争の恐ろしさ、重圧をひしひしと実感させる文章ですね...。
 商船学校が兵学校化しようとするとき、心ある教官が生徒に次のように訓示した。
 「諸君の若い肩に、世界はあまりにも重い。それでも屈服してはいけない。諸君が倒れたら、次の者がその荷を背負うことになるのだから、諸君はわれわれ老人を越えて行け。諸君が老人を越えるときにのみ、そのために若者が生き抜くときにのみ明日がある。希望がある。若者よ、老人を越えて行け」
 そうなんですよね。後期高齢者入りを目前にした私は、いつまでも気持ちだけは若いのですが、若者が心を奮い立たせて、私たち「老人」を雄々しく乗り越えていく状況を心から待ち望んでいます。ストライキだってデモだって、多少の迷惑かけるのは気にせずに堂々とやったらいいのです。すると、私たち「年寄り」は、恐らく「まゆ」をひそめることでしょう。でも、そんなこと、たいしたことではありません。自分の思うところに突きすすめていったらいいのです。
大変な状況に置かれていた戦前の若者の息吹きに触れた思いのする本でした。
 青年劇場で劇になったようです(残念ながら、見ていません)。古い本ですが、気になったので、本箱の奥から本ををひっぱり出して読んでみました。良かったです。
(1985年12月刊。1200円)

2023年10月11日

福田村事件


(霧山昴)
著者 辻野 弥生 、 出版 五月書房新社

 映画『福田村事件』(森達也・監督)はみていません。その原作となった本です。
 関東大震災が起きたのは今から100年前の1923(大正12)年9月1日のことです。先日、NHKテレビが当時の白黒映像をカラー画像にして、その悲惨な被災状況を紹介していました。どうやって白黒をカラー化できるのか不思議でなりませんが、ともかくすごい迫力がありました。
 大地震の発生は正午になる寸前の11時58分のこと。マグニチュード7.9の直下型大地震でした。今も、この30年のうちに東京で再び直下型大地震が起きると予測されています。そのとき、タワーマンションは倒壊しなくても生活の拠点としては使えなくなるのは必至です。たとえ1室だけで数億円したとしても、周囲のライフラインが途絶してしまえば高層階に居住できるはずもありません。
 それはともかくとして、関東大震災では、大勢の人が被災し、亡くなりました。
 問題なのは、地震発生の翌日の9月2日午後2時に東京に戒厳令がしかれ、周辺に拡大されたことです。
水野錬太郎内相と赤池濃(あつし)警視総監の2人は、朝鮮総督府の政務総監、内務局長の経験者でした。この二人は、1919(大正8)年に朝鮮で起きた激しい独立運動(3.1運動)のころに朝鮮にいて、同じことが日本で起きるのを恐れ、戒厳令を早々と施行したのです。
 この本によると、日本敗戦の1945年8月の時点で、日本の刑務所に朝鮮人が2万人、朝鮮でも2万人が刑務所に入れられていて、すべて思想犯だったとのこと。それほど日本政府は朝鮮人の独立運動を恐れていたのでした。
 デマ・「流言(りゅうげん)蜚語(ひご)」をたれ流した張本人は国(内務省)でした。
 「朝鮮人が大挙して日本人を襲って来る」
 「朝鮮人が井戸に毒を入れた」
 「朝鮮人が爆弾を所持し、各地で石油を注いで放火している」
というのが9月3日午前8時15分、内務省警保局長名で各地に打電されているのです。とんでもないことです。
 このようなデマに踊らされた「善良なる」日本人は、各所で自警団を結成し、検問を始めます。そして、通行人に対して「パピプペポ」や「ガギグゲゴ」そして「10円50銭」を言わせたりして、発音がおかしいと、朝鮮人とみて、何もしていないのに、たちまち路上でよってたかって殺害していったのです。
 これによる朝鮮人の被害者は数千人にのぼるとみられています。そして、日本人なのに朝鮮人と間違えられて殺された人も60人近くいることが判明しているそうです。
 本書でとりあげている福田村事件が起きたのは9月6日、今の野田市です。殺されたのは香川県から薬売りの行商に来ていた日本人のグループ16人のうちの9人(うち1人は妊娠中でしたので、この胎児を含めると10人)です。6歳、4歳そして2歳の子どもまで虐殺されています。29歳の男性2人など、まだ若い人たちばかりで、もちろん何の武器も持っていません。それを福田村の住民など数百人が1人につき15人から20人で取り囲んで、鉄砲や刃物でなぶり殺したのです。
 大震災後の「混乱のなかとはいえ、これが同じ人間のなせるわざだろうかと、信じがたいこと」と著者は書いていますが、まったく同感です。殺害に手を下したような村人のうち8人が裁判にかけられ、懲役3年から10年の実刑となったが、2年後に恩赦で無罪放免され、そのうち1人は村長そして市民議員にまでなっている。
福田村の村人には、国家の言うとおりにやっただけなのに...という同情心があり今でも事件のことはタブーになっているとのこと。
 殺された6人の位牌のなかには、「千葉県の渡船場にて惨亡す」、「三ツ堀(福田村)にて殺せられたり」と書かれています。無念の死をとげた子ども(4歳と2歳)への寺の住職の思いやりと怒りが感じられます。
 東京都の小池百合子知事は朝鮮人犠牲者を追悼する式典への追悼文を拒絶しました。また、政府の松野官房長官も国として朝鮮人虐殺のあったことを認めていないなどシラを切りました。歴史を無視する、ひどい対応です。反省がありません。
私たちは、この福田村で起きた虐殺の事実から目をそむけてはいけません。記憶することなく忘れてしまえば、再び同じ過ちを繰り返す恐れがあるからです。このような森監督の指摘は大変重いものがあります。
(2023年10月刊。2200円)

2023年9月30日

「私は魔境に生きた」


(霧山昴)
著者 島田 覚夫 、 出版 ヒューマンドキュメント社

 日本の敗戦も知らず、ニューギニアの山奥で原始的な生活を10年も過ごしていた元日本兵の体験記です。
 原始的な生活といっても、最後のころは、現地の人々と交流もあり、山中で狩りをし、川で魚を釣り、畑で野菜をつくって自給自足生活していましたから、「魔境」から出てきた直後の上半身裸の写真をみると、いかにも健康体です。やせおとろえている姿ではありません。ただ、歯には困っていたようです。歯って大切なんですよね。
 著者たちは1943(昭和18)年11月、第四航空軍の一員として、ニューギニアのブーツに上陸した。1945年8月15日の日本敗戦を知らず、そのまま奥地にじっと潜んでいて、1954(昭和29)年9月、現地の村人からの通報によってオランダ官憲に収容され、翌1955(昭和30)年3月、日本に帰還した。
 ニューギニアへの輸送船団は、1943年3月、アメリカの攻撃によって壊滅的な打撃を受けた。第18軍は、人員7300、輸送船8隻、護衛駆逐艦8隻、護衛機のべ200機だった。そのうち、輸送船全部、駆逐艦3隻が沈没し、3664人が死亡した。
ニューギニアではマラリアが猛威をふるい、食糧不足によって兵隊の体力はおとろえていた。
 1944(昭和19)年6月、密林のなかでの籠城生活が始まった。このとき、総人員は17人。第209飛行場大隊。そのなかには、大牟田市大黒町出身の沼田俊夫兵長もいた。この本の著者は曹長。沼田兵長は籠城生活の初期にアメリカ軍と遭遇して戦死した。その遺骨は後で回収されている。
 日本敗戦時(1945年8月)には、当初17人いたのが、8人にまで減ってしまった。食料は乏しく、水も天水に頼った。散髪、ヒゲそりにも困った。柱時計のバネを砥石で研ぎあげて、刃物として、頭を痛い思いで丸ゾリした。マッチがないので、メガネのレンズ2コのあいだに水を詰め、「レンズ」として、枯葉にあてると煙を出して燃えはじめた。ただし、太陽がいるときだけ、朝や曇り空では役に立たない。
 蛙や蛇も取って食べた。蛇は「山うなぎ」と名付けた。元兵士たちはマラリアにかかって次々と死んでいった。
 甘藷(サツマイモか・・・)とタピオカそしてパパイヤの栽培に取り組んだ。バナナがとれるようになったが、甘いバナナは、それだけでは甘過ぎて、食べられなくなった。
 人間の体重を測るための大きな秤(はかり)をつくった。分銅は石で、20貫まで測定できた。これによって、毎日、4人の体重を測定して、健康を管理した。いやあ、これには感動しましたね・・・。さすが日本人です。
 現地の人々との交流が始まったのは、1951(昭和26)年5月のこと。7年ぶりに、自分たち4人以外の人間だった。どうやって会話したか。お互いにまったくコトバが通じない。そこで、日本人同士で一つの芝居をする。尻上りのコトバで名前を質問している光景をつくって、名前を聞いていることを分からせる。そして、「コレは何か?」という質問ができるようになり、品物の名前が次々に判明していった。なーるほど、こんなやり方で、少しずつ時間をかけて根気よくマレー語を身につけていったのでした。
 現地の人々と交流できるようになると、栽培する野菜がどんどん増えていきます。残った元日本兵4人はきっと性格も良かったのでしょう。現地の人々との交流は秘密保持を前提として続いていきます。でも、何年もすると、その秘密は次第に村から村へと広まっていきました。というのも、元日本兵たちは、現地の人々のもつ蛮刀を修理して、ピカピカのよく切れるものにしていったから、それを知り、うらやましく思った他村の人が、問い詰めるのは当然のことです。そして、ついには日本人の存在はオランダ官憲の知るところになったのです。
 ニューギニアの密林で、元日本兵4人が10年も生きのびた理由、その苛酷な状況がよく分かりました。貴重な手記です。
1986年8月刊。2000円)

2023年9月21日

化け込み婦人記者奮闘記


(霧山昴)
著者 平山 亜佐子 、 出版 左右社

 記者が身分を隠して特定の職場や地域などに潜入し、その実態を暴露する記事を書くというのは昔からあることなんですね。アメリカでは白人が顔を黒く塗りたくって黒人にすまし、黒人言葉で生活すると、いかに差別されるかといいう暴露本があります。日本でも、自動車製造工場の季節工として働いた体験記も読みごたえがありました。
 この本は婦人記者(今なら女性記者といいますが、当時の呼び方です)が、いろんな職業に化けて周囲の反応を記事にしたのが売れていたことを次々に紹介してくれます。
 婦人記者という新たな職業が登場したのは明治20年代ころ。これは、女性読者の増加にともない、女性向け記事が必要になったことによる。
 1907(明治40)年10月、「大阪時事新報」で、婦人記者が雑貨を扱う行商人に化け、上流階級の家庭に潜入し、その反応を連載しはじめ、大いなる反響を呼んだ。この記者は、25歳の下山京子。読者ののぞき趣味を満足させるシリーズだった。
訪問した先には弁護士の家庭もある。室内は乱雑で、自由になるお金が少ないのに、売り子に憎まれ口をたたく。すでに男性記者によるスラム(貧民街)への潜入ルポもあったが、婦人記者の化け込みは、対象の人々の境遇に同情しつつもエンタメ要素が強い。
 このころの日本では、女性(記者)が下層民や娼婦の間に入ることは果敢ではなく、むしろ「堕落」だととらえられた。
「新聞縦覧所」や「銘酒屋」なるものが、当時の風俗店だというのを初めて知りました。
よそゆき顔の訪問記と違い、化け込みには本音がある、真がある。なーるほど、ですね。
 「職業婦人」というコトバは大正期にあらわれた。女工は職業婦人とは呼ばれない。事務員や看護師、車掌や女給は職業婦人。車掌はバス・ガール、百貨店の店員はデパート・ガールと呼ばれ、若い女性のあこがれの職業だった。
 新聞記者の社会的地位は低かった。初期には、巷(ちまた)の話題を拾う探訪と、政論も書く内勤の記者の二つに分かれていた。探訪は、「羽織ゴロ」とも呼ばれ、「ユスリ」を業とするような存在として忌み嫌われていた。実際に、ユスリ・タカリをしていたようです。
 大学出にとって、新聞記者は希望してなる職業ではなく、「でもしか」職業だった。なので、婦人記者となると、さらに低く見られていた。低い男性記者の給料の半額ほどの給料でしかなかった。そこでは、今でいうパワハラやセクハラが日常茶飯事だった。
 次の化け込み記者は「ヤトナ」になった。ヤトナとは、雇女、雇仲居とも書く、派遣労働者だった。
 北村兼子という、大学生のときに大阪朝日新聞の記者になった、特別に優秀な記者が紹介されています。英語もドイツ語も、1929(昭和4)年6月にベルリンで演説できるほどです。三味線もひけ、護身術も身につけていたのですから、すごいものです。あまりに目立って活躍したため、心なき男性たちからひどく攻撃されてもいます。嫉妬心からでもあったことでしょう。1931(昭和6)年7月、27歳で病死したのが残念でした。
 1930年代の末ごろ、化け込み記事は姿を消した。このころ日中戦争が始まったからでしょう。女性記者によるなりすまし体験記が、世間に実態・真実を知らせるというのは、昔も今もいい企画だと私は思います。
(2023年6月刊。2200円)

2023年9月 1日

関東軍


(霧山昴)
著者 及川 琢英 、 出版 中公新書

 終戦1年前の夏、徴兵検査で丙種合格だった叔父が招集され、中国へ引っぱられていって関東軍の兵士(工兵)となって、満州の山地で地下陣地構築にあたらされました。戦闘らしい戦闘もしないまま、8月9日にソ連軍が大挙侵攻してきて、たちまち武装解除されました。
 関東軍の精鋭部隊は南方へ転出していって、残った兵士は「根こそぎ召集」で人数だけ合わせた、戦えない軍隊でしたので、激戦の独ソ戦を経て最新兵器をもつソ連軍の前に、ひとたまりもなかったのでした。
 そんな叔父の手記をもとに『八路軍(パーロ)とともに』(花伝社)を先日出版したところ、読んだ人からは好評でしたが、残念なことにベストセラーにはほど遠い状況です。
 そんなわけで、関東軍については、同じタイトルの本(島田俊彦と中山隆志。いずれも講談社)があり、本書は格別に目新しいことが書かれているわけではありません。
 関東軍につきものだった謀略は、そもそも陸軍の常套(じょうとう)手段だった。
 謀略は、その隠蔽的な性質上、統制を困難にする要素を含んでいる。しかも、張作霖への兵器供給にみられるように、軍事顧問や特務機関、関東軍ら出先だけではなく、陸軍中央も政府方針に反する謀略に関わっていた。その結果、陸軍中央が出先の謀略を抑えようとしても説得力を持たず、出先が独走していく結果を招いた。
 満州事変での関東軍が特異なのは、独断で緊急的な事態を謀略により自らつくり出して出兵し、攻撃を続けたことである。
 陸軍中央は臨参委命という奉勅命令に準じるもので関東軍を抑え込んだが、スティムソン事件という「幸運」によって臨参委命の権威は崩れ、関東軍は、満州国樹立というそれまでにない大規模の謀略を成功させた。
 この「臨参委命(りんさんいめい)」というのは初耳ですが、参謀総長が天皇から統帥権を一部委任されて軍司令官を指揮命令するというもの。
 そして、スティムソン事件とは、アメリカのスティムソン国務長官が日本との協議を手違いで公表してしまったことから、政府が軍機をもらしたとして大問題になったというものです。
日本が戦前の中国、そして満州で何をしたのかは、もっと明らかにされてよいことだと確信しています。
(2023年6月刊。920円+税)

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