弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年12月 6日

藤原道長

日本史(平安)


(霧山昴)
著者 山中 裕 、 出版 法蔵館文庫

 「此世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしとおもへば」
 この有名な和歌を詠(よ)んだのは道長53歳のときです。それから10年たたぬうち、62歳で道長は亡くなっています。道長は眼病に悩み、肺結核にかかり、心臓病もあったようです。
 道長の政治は太政官政治であり、いわゆる政所(まんどころ)政治ではない。道長の政所ですべてが決まり、天皇は相談役にもなっていないという説は妥当ではない。
 道長は、公に関しては、公卿会議を行い、御前定と陣定によって、すべてを処理した。朝廷に関する問題の処理は、すべて太政官で行われ、摂関家の政所では行われていない。
 摂関政治は、律令政治の延長線上にある。
 道長が『御堂関日記』を書き続けたということは、学問への情熱の深さ、漢学の知識、仮名に関しても深い造詣(ぞうけい)をもっていて、教養の深さがにじみ出ている。
 紫式部の『源氏物語』の光源氏の全盛期のモデルは道長であり、六条院は土御門亭(つちみかどてい)である。
 道長は、紫式部をはじめとする多くの女流作家たちを、娘の中宮彰子のもとに集め、そこが一大文芸サロンとなっていた。紫式部の『源氏物語』も、このころ(實永年間)書かれていたと推定される。
 道長は書籍を多く収集している。学問への関心と同時に仏事方面にも道長は大変に関心を深めた。晩年の道長は、その心に浄土をあこがれる気持ちが強くなっていた。
 一条天皇時代は25年間も続いた。このとき道長は天皇と、安泰に過ごし、次の實弘年間には、紫式部をはじめ、女流文学の華が開いた。それには道長の娘(彰子)が天皇の中宮として聡明であったことによる功績が大きかっただろう。
 1016(長和5)年に、道長は待望の、外孫である天皇の即位が、初めて実現した。まだ9歳の幼帝であることから、道長は当然に摂政となった。
 道長の一生を丹念にたどった労作です。道長と紫式部との関係をさらに深く知りたくなりました。
(2023年7月刊。1200円+税)

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