弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年5月29日

陸軍作戦部長 田中新一

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 川田 稔 、 出版 文春新書

 石原莞爾を失脚させ、武藤章と激突、佐藤賢了を殴り、東条英機を罵倒した男。このようにオビで紹介されている人物です。
 田中新一作戦部長と部下の服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦課戦力班長の3人が日米開戦の強力な主唱者だった。そして、有力な対抗者だった武藤章軍務局長は日米開戦に慎重な姿勢をとっていた。ところが、日本敗戦後、慎重論の武藤章はA級戦犯として死刑になったのに対し、開戦論の田中新一のほうは戦犯指定も受けず、1976年(昭和51年)に83歳で亡くなった。東京裁判では証人として出廷して証言しただけ。ええっ、なんて不公平なことでしょう...。
 韓国映画(たとえば「ソウルの春」)をみてると、軍部内に「ハナ会」という秘密結社があって陸軍を牛耳っていたという情況が出てきます。戦前の陸軍にも、皇道派と統制派というわけでなく、「一夕(いっせき)会」という非公然組織があって、陸軍の人事で暗躍していたようです。メンバーには、永田鉄山(陸軍省内で斬殺されました)、石原莞爾、東条英機そして田中新一がいました。
 武藤章と田中新一は陸士(陸軍士官学校)同期で、作戦課長と軍事課長をそれぞれつとめた。
 田中新一は軍事課長として、石原莞爾の不拡大方針に反対した。日本の中国大陸における権益を保持するには、不拡大方針は棄てるべきだと主張した。田中新一は、全面戦争は望まないが、協力かつ短切なる武力の行使が必要だと主張した。
 1937(昭和12)年8月、武藤作戦課長と田中軍事課長は今や田中全面戦争は避けられないと一致した。そして、上海で日中両軍は交戦状態に入った(第二次上海事変)。
 ところが、日本軍は優勢な中国軍によって苦戦した。中国軍は、ドイツ軍事顧問団の指導と援助のもとで張り巡らされたトーチカ陣地によって果敢かつ強力に抗戦してきた。日本軍は3ヶ月あまりのうちに4万人の死傷者(戦死者1万人)を出した。
 このころ、田中新一は、次のように述べた。まさしく侵略戦争だと宣言、自白したのです。日中戦争は、中国の征服に乗り出すものであり、元や清の中国支配に比肩するものだ。
なんという思い上がりでしょうか、信じられません。
 石原莞爾は日中戦争が長期戦になることを恐れていた。ところが、早期解決の可能性はまったくなくなった。1938年、陸軍中央から石原系の軍人は一掃された。
1940年10月、田中新一は、作戦部長に就任した。47歳だった。これは東条英機陸相の意向によるものだった。
 田中作戦部長は、タイ・仏印の勢力圏下を考えていた。
1941年6月22日、ドイツはソ連領内に侵攻した。田中作戦部長は独ソ戦がドイツの電撃的勝利に終わり、北方で好機が到来するとみた。しかし、その後、陸軍内でもっとも強硬な親独派の田中でさえ、ドイツとの連携を脱する「対米英親善」を再検討した。
 1941年8月、田中作戦部長は、即時対米開戦決意のもとに作戦準備を進めるべきとした。その理由としては、日本軍のジリ貧、アメリカ軍の大増強によって、比率がどんどん悪化していくということ。やるなら今のうちしかないというのは、初めから勝てるはずがないということですよね。無責任な大ボラ吹きもいいところです。でも、当時は、勇ましい決意表明だということで、批判を圧殺していったのでしょう。
海軍は、開戦して2年間は自信があるが、アメリカを軍事的に屈服させる手段はないとしていた。これは開戦前のことなんです。いかにも無責任きわまりありません。よってたかって、どいつもこいつも、軍のトップ連中はみんなそろって無責任なんですが、口先だけはいつだって勇ましいのです。
 今でも同じことですね。「日本を守る」といったって、国民のことは眼中になく、ミサイルなどの軍事産業育成だけなんです。自分がもうかったらいい。国民保護なんて、ハナから眼中にありません。嫌になってしまいます。
(2025年1月刊。1210円)

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