弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年7月 2日
志と道程
司法
(霧山昴)
著者 宮本 康昭 、 出版 判例時報社
裁判官としての再任を不当にも拒否された著者が満州から敗戦後に苦労して母と子3人で日本に帰国した体験を踏まえて、司法反動化の象徴でもあった再任拒否に至る状況をほとんど実名で紹介しています。改めて著者の人間としての芯の強さと再任拒否の不当性に思い至りました。裁判官としての著者のすごさは、転任するたびに旧任地の人々がたくさん見送りに駆けつけたことにあらわれています。
初任地の福岡から新潟地裁長岡支部へ転任したとき(1964年3月)、裁判所の職員だけでなく、大学の先輩後輩、家族、親戚、はては近所の人まで駆けつけて、旧博多駅のコンコースが見送りの人で埋まったというのです。
さらに、再任拒否されたあと、熊本簡裁の判事としてまだ身分が残っていて、著者が仕事で長岡支部に立ち寄ったとき(1972年ころのようです)、ときの支部長が「今日の午後は長岡の裁判所は休業にする」と宣言し、庁舎2階の大会議室に全職員が、電話交換手から守衛さんまで、全員が集まって、楽しい時間を過ごしたというのです。信じられません。考えられないことです。よほど印象深い支部長だったのでしょう。
青法協攻撃、司法反動化の米兵となったのが雑誌『全貌(ぜんぼう)』でした。薄っぺらな冊子ですが、このころ書店の片隅で売られていました。これに、「裁判所の共産党員」として青法協裁判官部会の裁判官の名簿を載せたのです。
この攻撃を受けて、青法協から分離独立しようという動きが出てきました。主唱者は町田顕(あとで最高裁長官になる)で、若い推進者が江田五月(あとで政治家に転身。私が横浜地裁で修習中に青法協の小さな勉強会にチューターとして役の裁判官としてきてもらったことがある)。このときまで、著者は町田顕を裁判官の活動の中での指導者だと考えていたとのこと。町田と江田の二人は、対決を回避して当面を糊塗することに頭を働かせるばかりのエリートの弱さだと著者は鋭く批判します。
最高裁の岸盛一事務総長は、裁判官が青法協を脱退するのを「業務命令」だとまで言って強引に推進した。それまで岸盛一はリベラル派の刑事裁判官だと評定があったのに、「なんという変わりよう。裁判官としては、これで終わったな」と、著者は思ったのでした。
青法協会員だった350人の裁判官は、脱退したかどうかで、その後はきれいに分かれた。「司法権力はエゲツなく、何十年たっても執拗だ」と著者は断言します。
脱会届を出した158人のうち、最高裁判事が6人(うち1人が長官)、高裁長官が12人、所長は64人。青法協に残った200人のうち、高裁長官になったのは2人だけ、地・家裁所長が3人。いやはや、歴然たる差別です。
著者に尾行がついたり、スパイ役をする裁判官までいたという話が出ています。尾行したのは素人のようですから、専門の公安刑事ではなく、裁判所の職員だったのでしょう。著者宅の電話も盗聴されていたようですが、これは高度の技術を要しますから、恐らく公安警察でしょうね。
再任拒否にあっても著者は泣き叫ぶこともなく、外から見ると、いかにも冷静沈着に行動しました。判事としての再任がなされなくても簡易判事として残れることが判明したら、その簡裁判事の仕事をまっとうしたのです。これは並みの人にできることではありません。どうして、そんなことが出来たのか。
その秘密がこの本の前半に詳しく語られています。著者の一家は戦前、中国東北部(満州)に渡り、日本敗戦時は9歳、父親はソ連軍からシベリアに連行されて、母と著者と妹2人が生命から日本に帰ってきたのでした。
父親は熊本県山鹿市出身で、満州では領事警察官でした。1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻してきたとき、父親は著者たちに青酸カリの錠剤を渡した。そして、青酸カリを飲むゆとりがないときに備えて、小型の拳銃(コルト銃)を著者に渡して、「この拳銃で、まず母を、それから妹たち2人を、最後に自分を撃て」と命じたのです。これを受けても、著者に母や妹を射殺することに何ら罪悪感はなく、恐怖心もなかった。ただ、父の言ったとおりにできるかどうかだけが気がかりだった。いやはや、なんということでしょう。9歳ですよ。
それが、ソ連軍の侵攻が予定より遅れたことで、著者たちは死なずにすんだのでした。「ボクは9歳からが余生なんだよ」と著者は思ったというのです。
一度は捨てたこの命。ここまで思い定めたら、司法反動の嵐のなかで「クール」な対応をしたのは、ある意味で当然だったことでしょう...。すごい経験です。感動そのものでした。
世の中で忘れてはいけないことがあることを痛感させられる本でした。今後ひき続きのご活躍を祈念します。
(2025年6月刊。2420円)