弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2025年6月25日
米原昶の革命
社会
(霧山昴)
著者 松永 智子 、 出版 創元社
米原昶(よねはら・いたる)という共産党の代議士がいました。今ではすっかり忘れられていますが、その娘の米原万里(よねはら・まり)のほうは、かなり知られているのではないでしょうか。私の書棚にも、5冊以上並んでいます。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』はひどく胸の打たれる本でした。
さて、父親です。東京選出の共産党の代議士として、私がまだ東京にいたころ活動していました。この本によると、1973年9月の衆議院本会議で、田中角栄首相に対してKCIAと国際勝共連合(文鮮明の統一協会の別働隊)を追求したというのです。この質疑を安倍晋三が銃撃されて死亡したあと、2023年8月16日に「ポリタスTV」で紹介されたところ、たちまち「時の人」になったということfです。
姉の米原万里と同じく妹の米原ユリ(料理研究家)もそれなりに有名です。というのは、作家の井上ひさしと結婚したからです。万里もユリも、「父(いたる)が大好きで大好きで」というのでした。これは、たいしたものですね...。
米原いたるは、鳥取の名家の生まれ。生家は国の有形文化財に登録されている。米原いたるは、鳥取中学校から東京で一高に入学し、除籍されている。
鳥取といえば、今の石破茂首相の地盤ですが、米原いたるは、1949年には鳥取でトップ当選しています。鳥取の名家出身のなせるわざですね。東京2区からも3回当選しています。中選挙区制だったからです。今の小選挙区制は民意をきちんと反映していません。
米原いたるは一高時代は柔道部に入って熱心に練習していたようです。ところが社研に入って活動するようになり、ついには、地下で党活動を始めたのでした。1928年ころのことです。私の父(茂)も、このころ東京で逓信省につとめて働いていました(『まだ見たきものあり』)。
3.15事件は小林多喜二が小説にしていますが、特高が政府に反抗的な人々に対して凄惨な拷問を加えていたのでした。1929年10月、米原いたるは一高より除籍処分を受けた。その理由は「不穏の言動」というものです。信じられない理由です。
1930年7月から1945年8月まで、米原いたるは15年間という地下生活に入ったのでした。21歳から36歳までのことです。北海道、東京、群馬、福島で偽名を使って生活していました。この間、いたるの父・米原章三は貴族院議員になっています。この15年間、造船所や鉄工所で肉体労働をし、また、雑誌の編集、返信教育に関わっていたようです。
米原いたるは1959年から社会主義国のチェコ(プラハ)に駐在するようになります。「平和と社会主義の諸問題」という雑誌の編集部員として、ヨーロッパ諸国への情報収集を任務としました。本名ではなく大山二郎(アヤーマ)と名乗っての活動です。中ソ論争が激しくなる中で、妻が日本に帰国してから、娘2人とプラハで3人暮らしをしていました。このころの娘たちの生活の大変さは万里の本のなかによく描かれています。
やがて、日本共産党はソ連との関係が悪化し、1964年11月に日本に帰国しました。そして、1969年12月の総選挙で当選して国会議員として活動しはじめました。
米原いたるは1982年5月、73歳で亡くなった。難病のALSだった。
米原いたるは家で息子の矜持(きょうじ)からか、名家(資産家)の祖父の遺産は一銭も使われなかったという。米原いたるは、島軽西高の応援歌「祝勝の歌」を作詞した。今に至るまで、100年間、うたわれている。ちなみに、この本の著者は久留米の明善高校出身とのこと。米原いたるの曾祖父・米原章三は、「世のため人のために奉仕せよ。孫の代まで見すえた仕事をせよ」と説いたという。それを米原いたるは見事に貫き、実践した。最後に米良いたるの年譜があるのを見て、私の父と同年(1909年、明治42年)の生まれだと知りました。
道理で、東京の一高生のころに時代背景が重なるわけです。
それにしても米原万里が早く亡くなったのは惜しまれます。父の地下生活の15年間を追跡していたそうですから...。
(2025年2月刊。2970円)