弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2025年6月22日

ロベスピエール

フランス


(霧山昴)
著者 髙山 裕二 、 出版 新潮選書

 フランス革命の闘士、そして恐怖政治を遂行した独裁者であったロベスピエールは、1758年に生まれ、1794年に処刑されて死亡した。
 「私は人民の一員である」と言い続けたロベスピエールは、元祖ポピュリストだった。ロベスピエールは、代表者(議員)の役割を重視し、彼らが一般的な利益を示すことで人民との透明な関係性をつくるべきだと考えた。
 同時代人から、ロベスピエールは、「清廉(せいれん)の人」、つまり腐敗していない人と呼ばれていた。ところが、ロベスピエールは、恐怖政治をすすめた「独裁者」として、ひどくイメージが悪い。
 ロベスピエールの父親も弁護士。というか、ロベスピエール家は300年前にさかのぼる法曹一家である。ロベスピエールは若くして父親を亡くしたものの、11歳のとき、成績優秀のための奨学金を得てパリの名門コレージュに入学した。ここでも成績優秀のためルイ16世に賛辞を捧げる代表にも選ばれている。
 ロベスピエールは、弁護士として活動しはじめた。ロベスピエールは、1789年、選挙人による投票で全国三部会に参加する代表の一人として選ばれた。議員総数は1200人。会場のヴェルサイユ宮殿に入るにしても、第一、第二身分は表口から、第三身分は裏口からという差別があった。
1789年7月14日、パリの民衆5万人がアンヴァリッド(傷病兵の慰安施設)に武器を求めて押しかけ、次に弾薬を求めてバスティーユ監獄に向かった。このとき監獄には、有価証券偽造犯の4人をふくむ7人しか「囚人」はいなかった。
人権宣言案は、二つの国民、つまり「能動市民」と「受動市民」という考えによって立っていた。「能動市民」とは、教養のある有産者であって、3日分の労賃に相当する直接税を支払う25歳以上の男性のみに選挙権があるとした。ロベスピエールは、これに反対した。
 1790年3月後半からの一時期、ロベスピエールは。ジャコバン・クラブの会長をつとめた。
 1791年6月、ルイ16世がパリを抜け出した。ヴァレンヌ事件と呼ばれる。フランス王が国外脱出を図った事実はフランス全土に知れ渡り、国王への信頼が大きく揺れた。
1791年5月、ロベスピエールは、議員の再選禁止法案を提案した。このときから、ロベスピエールは、「清廉の人」と呼ばれた。
 1792年4月、フランスはオーストリアに対して宣戦布告した。このとき、ロベスピエールは他の6名とともに反対票を投じた。
 革命は、人々を「陰謀」に駆り立て、対外戦争がそれを加速させた。ロベスピエールは、戦況悪化のスケープゴートとされた。
 1792年9月、国民公会議員を選出する選挙が実施された。投票権は21歳以上の男子に限られた。家内奉公人や無収入の人には与えられなかった。投票率は10%未満で、投票したのは70万人ほどでしかない。
1793年1月、ルイ16世を含む387人が死刑が宣告された。そして、死刑に執行猶予をつける案が投票に付され、賛成310票、反対380票で否決されて死刑が確定した。1月21日、ルイ16世はギロチンによって処刑された。
 1793年、ロベスピエールは一貫して私的所有権を擁護し、「財の平等」には否定的だった。それは「権利の平等」であって、その思想に共産主義思想の原型は認められない。
 1793年6月、国民公会は新憲法(1793年憲法)を採択した。
 1793年春から夏にかけて、フランスは全ヨーロッパとの全面戦争に突入した。春には、ベルギー戦線で、オーストリア軍に対する敗北とデュムリエ将軍との裏切りがあった。
 ロベスピエールより過激だったマラが7月13日に暗殺された。8月14日、国民公会は18歳から25歳までの独身男性全員を徴兵できる国家総動員令を発生した。
 1793年10月、国民公会が「革命政府」を宣言し、マリー・アントワネットやブリソ派指導者を処刑した背景には、国内外の混乱と鬱積(うっせき)する民衆の不満があった。
 9月5日、パリの民衆(サン・キュロット)が国民公会に押し寄せてきたとき、国内外の「革命の敵」が攻勢に出るなか、議会に対して「恐怖を日常に」と要求した。
 1793年3月、特別刑事裁判所(革命裁判所と呼ばれた)が設置された。これを主導したのは元法相のダントンだった。そして、ダントンも1994年4月に裁判にかけられ、3日後には死刑判決が確定して、即日処刑された。34歳だった。
 恐怖政治のなかで、30万人が逮捕され、1万7千人が処刑された。裁判によらない処刑をふくめると4万人はいるとみられている。
 貴族の処刑の割合が倍増した。革命の理想によるというより、増悪や復讐心によるもの。
ロベスピエールはこのころ、体調を崩して自宅で療養していた。精神的ストレスが加速して、心身ともに疲弊していたのだろう。
 1793年6月、全会一致で国民公会議長に選出されたロベスピエールが「最高存在の祭典」を主宰した。
 1793年3月から6月まで、死刑判決は1日3月から6月まで、死刑判決は1日3人だったのが、7月末までは1日28人に激増した。このなかで、恐怖政治に批判的な議員たちにとって、ロベスピエール一派は不安の根源であり、元凶はロベスピエールだった。
 1794年7月、ロベスピエールが久しぶりに国民公会に姿を見せ、演説した。ところが、以前のように熱狂的に受け入れられなかった。そして、ロベスピエールの逮捕が提案されると、なんと全会一致で逮捕が議決されたのでした。このとき、ロベスピエールが作ったという処刑予定者リストなるものがデッチ上げられ、今やらないと自分たちのほうが処刑されるぞと脅していた議員がいたのです。
 ロベスピエールは逮捕されるとき、顔面に銃弾が貫通して言葉を発することも出来ない状態になった。そして、裁判もなく、即日処刑された。
 ロベスピエールは、怪物ではなく、ごく普通の人だった。恐怖政治は、彼が創造したものではなく、危機的な状況に対する集団的な反応だった。自由や熱狂は、憎悪や恐怖と隣りあわせだった。フランス大革命のときの恐怖政治を考えさせられました。
(2024年11月刊。1750円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー