弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2012年2月27日

平清盛の闘い

日本史(平安時代)

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫

 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

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