弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月27日

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

日本史(鎌倉時代)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館

ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

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