弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月19日

大久保利通の肖像

日本史(明治)

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社

大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー