弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月14日

一揆の原理

日本史(江戸)

著者  呉座 勇一 、 出版  洋泉社

寛延2年(1749年)に姫路藩を揺るがした全藩一揆(寛延一揆)では、大阪城代は姫路藩に対して「飛道具(鉄炮)を用いることは無用である」と、鉄炮使用を禁じた。幕府の許可がないと鉄炮は使えなかった。鉄炮を使用するには、事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される。
 そもそも領内での百姓一揆の発生は「統治の失敗」として幕府から責任を追及される恐れがあるので、藩や代官は一揆を穏便に解散させる必要があった。
 このとき、百姓は農具をもつ権利があると主張した。鎌や鍬は百姓のシンボルである。鎌や鍬を使っても鉄炮や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないという幕府や藩に対するアピールだった。
 江戸時代の一揆では、家屋を壊すことはあっても、人を殺すようなことはいけないというのが百姓一揆のルールだった。これに対し、明治の新政府反対一揆では、新政府側の役人が殺されている例が少なくない。新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策(新政)すべてに反対していた。つまり、新政府そのものを否定しているのである。
江戸時代の百姓一揆にとって、「仁政」を標榜する幕府や藩は交渉可能な相手であった。だからこそ、一揆は幕府権力と正面からの敵対を避けた。そのため非武装だった。
 百姓たちは、自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばなかった。百姓たちは基本的に非武装を貫き、「一揆」すなわち武装蜂起と認定されないように苦心していた。武装しないほうが百姓一揆の成功率は高く、非武装は合理的な作戦だった。
 中世社会では、一揆は社会的に認められていた。だから、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
 中世では、百姓だけが一揆を結んでいたわけではなく、武士も僧侶も一揆を結んだ。だから、中世の一揆は多種多様である。中世においては一揆のイメージは決して悪くはない。本人たちが堂々と「一揆」を名乗っている。中世の「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神である。
 傘(からかさ)連判という円形の署名形式では、首謀者隠しというより署名の順番を分からなくすることに目的があった。つまり、多数の署名者に上下の区別をつけないということ。「一味神水」そして「神水を飲む」意味は何か。焼いて灰にし、その圧を神水に混ぜて飲む。それは、一揆の誓いに違反したときに発生する神罰は、起請文の灰を体内に異変が起きるということ。
 一揆の場における一味神水とは、わきあいあいとした宴会的な共同飲食ではなく、恐怖と緊張にみちた一種の試練だった。
起請文は、神に捧げると同時に人に渡すものであった。
 中世の日本社会は訴訟社会であり、裁判には証拠文書(証文)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達した。中世の一揆契状は、一味同心を約束する契約状という一面をもっていた。
 若手学者による大胆な一揆の見直し提起です。大変面白く読み通しました。
(2012年10月刊。1600円+税)

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