弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2013年1月22日

ワルシャワ蜂起1944 (下)

ヨーロッパ

著者  ノーマン・ディヴィス 、 出版  白水社

1944年8月に始まったワルシャワ蜂起は2ヶ月間続いたわけですが、その間ワルシャワ市内で文化行事が続いていたというのです。信じられません。
 パラデュム映画館では、朗読会、演奏会、演劇が連日開催された。平穏な夕方には、アマチュア劇団が野外劇場で劇を上演した。蜂起の期間中、ラジオ、映画、演劇、写真、マンガ、美術、文学などがワルシャワ市民の文化的生活を支える働きをした。
 詩が奔流のように生まれた。自然発生的に数十人もの新進詩人が現れた。
 西部戦線の英米軍は北西ヨーロッパとイタリア戦線で100万のナチス・ドイツ軍を相手に苦戦していた。東部戦線のソ連軍は200万のナチス・ドイツ国防軍と対峙して圧倒していたが、ベルリンの首相官邸の窓から東をのぞめば、ワルシャワまでわずかな距離でしかない。ワルシャワを手放すわけにはいかない。ソ連軍の到来前に、蜂起軍を粉砕しなければいけなかった。
 イギリスのメディアは、ワルシャワ蜂起について報道しなくなっていった。フランス国内のレジスタンス運動は華々しく報道されているのに、ワルシャワ蜂起の動きについては何も報道されなかった。
 アメリカのルーズヴェルト大統領は、ワルシャワ支援はソ連(スターリン)の協力を前提とするという態度をとった。ソ連はポーランド国内の抵抗運動が絶滅することを、むしろ望んでいた。
 イギリス空軍がワルシャワ蜂起支援のために空中から投下したコンテナ1284個のうち、8割はドイツ軍の支配地区に落下した。
 ソ連軍は蜂起軍を味方と考えていなかった。そして味方のはずの人民軍というのには実体がなかった。ワルシャワにおける共産党系勢力は質量ともに、とるに足りない存在でしかなかった。スターリンが戦前にポーランド共産党の幹部を絶滅していたからです。
 ついに蜂起軍はドイツ国防軍と降伏協定を結ぶことになりました。
 投降する国内軍(蜂起軍)兵士は10月3日、4日、5日の3日間、朝から夕方まで続いた。全部で1万1668人の兵士が降伏した。女性兵士2000人がふくまれていた。兵士は、対戦車ロケット砲、ステンガン、ライフル銃、拳銃をもって行進した。昂然と頭を上げ、誇り高く4列また6列で行進していった。見ていたドイツ軍士官は「あの誇らしげなポーランド人たちを見ろ」と大声で部下に向かって叫んだ。そして、数十万人の市民が歩いてワルシャワ市内を脱出した。
 その中に国内軍の予備司令部の要員もまぎれていたのです。これまたすごいことですね。ポーランド南西部の町に行き、抵抗軍の司令部を再建するという任務をもっていたのです。壊滅したかにみえたポーランドの偉大な抵抗運動は、まだ生き残っていた。
 ワルシャワ蜂起が敗北したあとも、ポーランド国内には20万人を上回る一の国内軍兵士が依然として戦闘態勢を維持し、ドイツ軍を悩ましていた。そして、1945年1月に国内軍は解散した。
 10万人をはるかにこえるワルシャワ市民がドイツ本国に送られ、降伏協定に反して奴隷労働を強制された。
 ヤルタ会談にのぞんだアメリカのルーズヴェルト大統領は死期を間近にしてうつ状態にあった。イギリスのチャーチルはもっとも弱い立場だった。チャーチルとルーズヴェルトは、スターリンによる東ヨーロッパ支配を黙認した。
 ドイツ軍青年士官が親にあって書いた手紙に、ワルシャワ蜂起軍について次のように書いた。
 「蜂起軍は実に英雄的に戦い、降伏に際しても名誉を失わなかった。蜂起軍の戦いぶりはドイツ軍よりも優れていた。学ぶべきところは、
 第一に、こんなかたちで外国を征服しても、何ら意義のある結果は得られないこと。
 第二に、不屈の精神、忠誠心、愛国心、自己犠牲の精神などはドイツの専売特許ではないこと。
 第三に、都市の抵抗は何ヶ月も持ちこたえることができる。攻撃側も重大な損傷を免れない。
 第四に、人間は戦闘精神や純粋な勇気があれば、多くを成しとげることができる。しかし、最後には、どんな精神力も物質的優位の前に屈することになる」
 「ぼく自身、もしポーランド人だったら、ドイツの支配下で生きたいとは思わないだろう」
 「降伏の行進のとき、ポーランド蜂起軍の兵士は民族の誇りを失わず、昂然と頭を上げて行進し、絶望の表情を少しも見せなかった。見上げた人々である」
 私は、この手紙を読んで、これだけでも、この書評で紹介する価値があると思いました。ポーランドの底知れぬ力強さ、不屈さには、ただただ圧倒されてしまいます。
 ワルシャワ蜂起の敗北のあとも、ワルシャワに潜伏した人が3000人以上もいたというのですから、これまた驚きです。やがてドイツ軍が去るのを待っていた。彼らの大半は、ユダヤ人であり、国内軍の医療班で働いていたユダヤ人が多かった。そして、映画『戦場のピアニスト』で有名になったシュピルマン(当時33歳)もその一人だった。
 ソ連軍がポーランドを占領すると、ワルシャワ蜂起は否定されます。そして、戦後のポーランド政府も同じでした。ソ連崩壊を待つまで、50年間、否定され、隠されてきたのです。
 下巻も500頁ほどの大作ですが、一心不乱に読み通しました。
 記念すべき歴史書として、一読をおすすめします。
(2012年11月刊。4800円+税)

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