弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2020年2月24日

明智光秀伝


(霧山昴)
著者 藤田 達生 、 出版  小学館

それほどの抵抗も受けずに甲斐の武田信玄を滅亡させた織田信長は、返す刀で一挙に中国・四国を攻撃し、天正10年中に天下統一を実現するつもりだった。
光秀は、戦後おこなわれるだろう大規模国替によって、自らの派閥が解体されることに耐えられず、加えて重臣の斎藤利三にほだされ、旧主の足利義昭を推戴してクーデターを強行した。
光秀は秀吉との派閥抗争に完敗して将来に希望がもてなくなったのに加えて、斎藤利三を頂点とする家中の長宗我部氏と親しく、幕府や朝廷にも親和性のある派閥からの突き上げを受けて、最終判断したと考えられる。
信長と秀吉とは、必ずしも一枚岩ではなかった。織田政権の西国政策を体現するとみられてきた秀吉の地位は意外に脆弱(ぜいじゃく)だった。四国そして毛利方との和平工作の裏面で光秀が動いていた。
信長は、朝廷の仲介によって足利義昭の「鞆(とも)幕府」と和解し、西国平定を早期に実現する意向だった。うまくいけば、天正8年中にも光秀主導で信長による天下統一が実現した可能性があった。
これによって絶体絶命のピンチに直面したのが秀吉だった。そこで秀吉は毛利氏との講和をつぶすため、なりふりかまわず戦争を仕かけ、毛利方の主戦派である吉川元春の参戦をけしかけた。これが功を奏して、秀吉は人生最大の危機を脱した。
天正8年の時点で、中国では毛利氏との講和による宇喜多氏の没落と秀吉の失脚、四国では長宗我部氏による統一が実現した可能性があった。そうすると、西国方面の司令官として光秀が君臨することになる。
これに対して、信長の一門と一体化をすすめ、自派の勝利を確信した秀吉は、信長の西国動座をできるだけ早めようとした。そのために敢行したのが、備中高松城の水攻めだった。水攻めは敵対勢力の後詰め勢力を誘き出すことに眼目があったが、秀吉は毛利氏本隊を戦場に引きずり出して、信長の親征の舞台を着々と用意した。こうして信長は四国政策を変更した。秀吉の要求を一方的に受けいれ、それまでの光秀の外交努力を全面否定することになった。
畿内支配に関与した光秀は、秀吉の派閥はもとより、信長の一門・近習たちともライバル関係にあった。光秀は一度ならず、二度も信長に裏切られた。信長は、秀吉の献策を受けて毛利氏と対決する道を選択した。四国においても長宗我部氏との戦闘へと外交方針を転換した。これは、光秀にとってすれば、理不尽以外のなにものでもなかった。
本能寺の変に至る光秀の行動の根拠が明らかにされていて、なるほどと私は思いました。
光秀を神社でまつっているところもあるのですね。これには驚きます。光秀を悪人に描くようになったのは最近のことのようです。知りませんでした。
(2019年11月刊。1300円+税)

2020年2月 7日

戦国時代


(霧山昴)
著者 永原 慶二 、 出版  講談社学術文庫

戦国時代は、現代日本に生きる私たちからみると、大変面白い時代です。ガラガラポンと、すべてがひっくりかえったみたいです。でも、当時生きていた人たちにとっては、先の見えない、誰を信用し、頼っていいのか不確実な世界だったのではないかと思います。江戸時代のように長く変わらないのも大変だと思いますが、毎日、日変わりだと社会も人心も安定しませんよね。
たとえば、戦国前期に登場し、下克上の典型とされる美濃の斉藤道三(どうさん)です。道三は土岐頼芸(よりなり)に仕え、のちに追放しました。次々に既存の家を乗り取りながら、ついに美濃一国を支配したのです。そして、最後は子の義竜に追われて戦死しました。義竜は、実は土岐頼芸の子とも言われています。義竜から追われたとき、道三に味方する被官や囲人が意外に少なく、孤立のうちにみじめに敗死したのでした。
細川政元は、室町将軍を完全にカイライとしていた。政元は、「いかに将軍であっても、人がその下知(げち)に応じなければ意味がない」と放言した。
1408年(大永15年)、南蛮船が若狭の小浜に入港し、「亜烈進(あらじん)」から日本国王に象・孔雀(くじゃく)などの珍獣をもたらしたという記録がある。
16世紀の半ば、中国出身でありながら、日本の平戸を根城にして縦横にあばれまわった王直という海賊の巨魁(きょかい)がいた。王直は平戸の領主の松浦氏から厚遇され、日明間の密貿易を牛耳っていた。ポルトガル人を種子島に導いたのも王直だった。
ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えた(1543年)のは、明の沿海に行くはずだったのが、暴風で流されたため。鉄砲の日本伝来は、ヨーロッパ側の史料によると1542年説が有力。
鉄砲の種子島伝来から10年ほどたつと、鉄砲は各地の実戦に使われていた。鉄砲と火薬は、戦略兵器として重視されていた。
同じように木綿も重視されている。選択に強い木綿は、はげしい合戦のときの着衣にはもってこいだった。ところが、この木綿も、朝鮮からの輸入品に依存していた。日本国内で木綿栽培が広まるのは、16世紀にはいるころからのこと。そして、この木綿のおかげで日本人の衛生条件が改善し、寿命が伸びた。
武田信玄は21歳のとき、48歳の父、信虎を駿河に追放した。48歳の働き盛りの信虎を追放したのは、家中・国人の意向があったと考えるほかない。すごい時代ですよね・・・。
戦国時代は、一つの敵を倒すと、次の不満が味方の内部からわきおこるのが常だった。竜造寺隆信が島原半島で敗戦・討死したのは珍しいことだった。ときに隆信は56歳。
文庫本で500頁という読みごたえのある「戦国」本です。
(2019年7月刊。1690円+税)

2019年12月14日

明智光秀の乱


(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版  里文出版

あの有名な本能寺の変は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が織田信長を襲って自殺させた事件です。著者は、この用語は歴史用語として不正確で、明智光秀の乱と呼ぶべきだとしています。
明智光秀は、1万3千の軍勢を動員して織田政権の転覆を企図したのだから、大規模な軍事的反乱なのだから、明智光秀の乱と呼ぶべきだとするのです。
著者は、当時の織田信長の強大な権力は、次の三つの大きな柱によって成り立っているといいます。一つは信長自身の権力。これは尾張・美濃・伊勢などの基盤を中核として京都を中心とする畿内・北信越そして西国は備中にまで及んだ。その二は、徳川家康との同盟によるもの。その三は、明智光秀が統括する足利幕府の統治機構の協力。
つまり、著者は、足利幕府の統治機構はそれなりに存続していて、明智光秀はそれなりの軍事力を体現していたとするのです。
信長は、京都での宿舎として、明智光秀の屋敷を少なくとも二度にわたって使用した。
明智光秀は、はじめ信長の家臣というより足利義昭の側近の「御部屋衆」格の奉公衆だった。明智光秀は、「御部屋衆」格の一人にすぎなかったが、信長は、「政所執事」の職責を担わせ、畿内を統括する責任者に昇格させた。
光秀は明智氏に改姓する前は、進士(しんし)だった。進士氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。
明智光秀は、安土城に次いで有名だった坂本城や亀山城を築城している。この坂本城は、安土城がつくられる前は、織田政権下で最大の城郭だった。
熊本の細川藩は、明智光秀の家臣団の相当数を受け継いでいた。
明智光秀の真の主君は信長ではなく、あくまで亡君の足利義輝だった。
信長は、「上様」と言われることはあったが、「大樹」という将軍を指す言葉で呼ばれたことはない。信長は、武家階級の代表とはみなされていなかった。したがって武家の棟梁としての征夷大将軍にもならなかった。
著者は長年の家臣である佐久間信盛を信長が追放したのは、信長の本意ではなかった。家康が妻と子を敵の武田方と内意したとして処刑した以上、自らの部下についても厳しく対応せざるをえなかった。処刑は免れなかった。佐久間信盛は、信長の苦しい青年時代から一度も裏切ったことがなかったことから、その追放は信長の本意ではなかった。そうしないと家康との同盟がもたないと家康が判断したからだった。なるほど、そういうことだったのですか・・・。改めて考えさせられました。
果たして、明智光秀は本当は進士姓だったのか・・・。
本書は5年前の2014年7月に初版が出て、この5年間の研究の成果も踏まえています。学界の反応も知りたいところです。文献は大変よく調べてあると驚嘆しているのですが・・・。
(2019年11月刊。2700円+税)

2019年9月13日

戦国日本のキリシタン布教論争


(霧山昴)
著者 高橋 裕史 、 出版  勉誠出版

戦国時代の日本でキリスト教が爆発的に信者を増やしました。現代日本に生きる私にはとても理解しがたい現象です。戦国の世の殺伐とした社会がキリスト教に救いを求めたのでしょうが、キリスト教だって軍隊式のところもあるわけですので、もう一つよく分かりません。ストンと腹に落ちてこないのです。
フランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年。ザビエル自体は2年半しか日本にはいなかった。ザビエルの所属するイエズス会は、九州から畿内地方へ拡大していった。
1593年にマニラからフランシスコ会士が日本へやって来て、イエズス会と激しく衝突した。さらに1602年にドミニコ会とアウグスティノ会が日本布教に参入し、キリスト教内の争いはますます激化していき、ついに1613年の禁教令が出るに至った。
1570年代の日本のキリスト教徒は3万人近いと想定されている。そして、1580年ころに10万人、1598年には30万人に達した。
イエズス会の背後にはポルトガルが、フランシスコ会の背後にはスペインがいた。そのことを秀吉も認識していた。
ローマ教皇と、ポルトガル・スペイン両国王のあいだで、地球全体が2分割された。それによると、日本はポルトガルの征服域に組み込まれていた。
ローマ教皇グレゴリウス13世は、1585年、日本布教はイエズス会が独占することを認める小勅書を発布した。それに違反するキリスト教徒は、「破門罪」というもっとも重い懲罰が加えられた。
日本イエズス会は、財政難を救うため、生糸貿易に手を染めた。
フランシスコ会の成立は1209年、イエズス会は、1534年に創設された。カトリック内の抗争なだけに、問題の根は深く複雑な様相を呈している。
1613年のキリスト教禁教令のころ、フランシスコ会は司祭9人、平修道士4~5人、司祭館と駐在所があわせて8棟あった。ドミニコ会は司祭9人、駐在所3棟をかかえていた。
長崎では、内町をドミニコ会とフランシスコ会が、外町はイエズス会の支配する町だった。
禁教令が発布されたあと、日本に潜伏・残留したキリスト教宣教師は圧倒的にポルトガル人イエズス会だった。
日本イエズス会は博愛をうたいながら、実践的には日本人イルマンを差別的に処遇し、学問を教授することを拒絶した。したがって、日本人聖職者の養成計画も途中で頓挫した。
カトリック宣教師内部の布教争いの実情も理解できました。戦国時代は人々が平和に生きる言葉に出会えていたことが分かった本でした。
(2019年4月刊。4600円+税)

2019年9月 7日

耳鼻削ぎの日本史


(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版  文春学芸ライブラリー

耳鼻削ぎは、「みみはなそぎ」と読みます。
耳塚としては、京都の方広寺が有名です。秀吉の朝鮮出兵のとき、討ちとった朝鮮人の耳を日本に運んできて埋めたとされる塚です。
正しくは鼻塚なのだが、江戸時代以降、「耳塚」と誤伝されている。
著者は、「耳鼻を削ぐ」ということの意味を深く追求しています。
日本中世社会において、「耳鼻削ぎ」は女性に対する刑罰だった。これは一見すると、残虐な刑罰だと思えるが、実は死一等を免除するという、宥免措置、ぎりぎりの人命救助措置だった。
ええっ、そうなんですか・・・。つまり、殺されるのに比べたら、耳鼻削ぎのほうがましだ、という切実な感覚が当時の人々にあったというのです。
日本の中世社会においては、女性を男性と同じように処罰するのは避けたいとする心理(観念)があった。浅はかな女性に男性と同じ法的責任を負わせることはできないというのが、女性の刑罰が軽減された理由だった。
このように、耳鼻削ぎは、現代の私たちが思うように残酷なものとは考えず、むしろ温情的な処罰だと考えられていた。
戦場で、大将クラスを討ちとったときには、首を戦功の証とした。しかし、雑兵については、首ではなく耳や鼻でかまわないという認識があった。
秀吉は、朝鮮人の鼻をまつった鼻塚を方広寺をつくったパフォーマンスとして鼻供養しようとしたのだった。敵兵の菩提をも弔う慈悲深いリーダーとしてのイメージを人々にアピールしようとしたのだ。
全国各地の耳塚・鼻塚は、実は、形状や立地から「耳塚」と呼ばれるようになっただけで、本当に耳や鼻を埋設したものではなかったようです。
面白い研究の本として最後まで一気に読み通しました。
(2019年3月刊。1400円+税)

2019年8月31日

金剛の塔


(霧山昴)
著者 木下 昌輝 、 出版  徳間書店

日本には、創業1400年の金剛組という会社があります。寺社建築の会社です。
各地の五重塔は戦災にあって消失したものの、その多くは再建されています。そして、大地震にも見事に耐え抜いてきました。
なぜ五重塔が倒れないかは、今もって完全に解明されてはいないそうです。知りませんでした。そして、寺社建築を手がける宮大工さんは独特の技術継承があります。そんなことを小説にして分かりやすく解き明かした歴史小説です。
宮大工に必要なことは、手先や才能よりも大切なのは、木を扱うことが好きだということ。それがなければ、どんなに手先が器用でも、つとまらない。
木を選ぶ。北の斜面に育った木は、ほとんど陽が差さない。おかげで、陽当たりが均等で、芯が中心にくる傾向が強い。陽当たりのいいところに育った木は中心が大きくずれている。木は太陽のあたる側が大きく成長するから。柱につかうと、当然に年月がたつにつれてゆがみが生まれる。
五重塔は、梃子(てこ)の原理で重い屋根を支えている。各層がスネークダンスと呼ばれる奇妙な動きで互いちがいに揺れ、それで地震の揺れを殺している。
しかし、どんなに研究がすすんでも分からないのは、心柱(しんばしら)だ。飛鳥時代に建築された法隆寺の五重塔は、震度5以上の地震に6回、震度6以上だと3回、あっているけれど、倒れなかった。なぜ心柱は存在するのか、それはどんな働きをしているのか、まだ仮説段階でしかなく、その仕組みは科学的に究明されていない。
すごいですね。そのことを歴史小説の形にして私たちに理解を迫ってくるのです・・・。
(2019年5月刊。1700円+税)

2019年8月12日

明智光秀・秀満

(霧山昴)
著者 小和田 哲男 、 出版  ミネルヴァ書房

私はテレビをみませんので、2020年のNHK大河ドラマの主人公に明智光秀が登場すると知っても何ということもありません。明智光秀が世間に復権したということですよね・・・。
でも、なぜ光秀が信長に反逆したのか、なぜ信長の遺体が見つからなかったのか、歴史上の謎は大きいと考えられています。
この本では、光秀が本能寺の変を起こすに至る経過を丹念にたどっていて、そして、学説もいろいろ紹介していますので、問題の所在と最新の到達点がよく理解できました。
ときハ今あめが下しる五月哉
有名な連歌です。この「とき」は、「時」と「土岐」を重ねたもので、「今こそ、土岐の人間である私が天下を治めるときである」として、信長に対する謀反の心のうちを吐露したものというのが通説だ。
そうではなく、横暴な平氏を源氏が討つということ、美濃源氏である土岐氏の分かれという明智光秀の意識のなかに平氏である織田信長を討つということを意味している。
信長は征夷大将軍への任官を希望していて、武士で平氏の人間が将軍になった前例はない、平姓将軍の誕生を阻止するというのも光秀の動機だったのではないか・・・。
私は安土城には2回のぼっていますが、信長が日常的に起居していた天主より下に天皇が行幸したときの宿泊所を予定していた本丸御殿がある。つまり、信長は天皇より上位に自分を位置づけていた。
ルイス・フロイス書簡によると、イエズス会の巡察師であるヴァリヤーノに対して、信長は、「予がいるところでは、なんじらは、他人の寵を得る必要がない。なぜなら予が国王であり、大内裏である」と言い放ったとのこと。
そして、馬揃えのとき、信長は中国の皇帝しか着ることのできない「きんしゃ」を着て登場した。このように信長が天皇より上に立つ、朝廷をいくらかないがしろにする気持ちをもっていることを光秀が察して、信長の態度に危惧を抱きはじめていたのではないか・・・。
信長は公家の近衛前久(さきひさ)が現職の太政大臣であるのに、馬上から徒歩の前久に対して見下ろした言葉づかいをした。これを光秀は見ていて、信長の暴走と思ったのではないか・・・。
本能寺にいて光秀の謀反を知った信長が「是非に及ばず」と言ったという言葉について、「しかたがない」というあきらめの言葉ではなく、言語道断、けしからんと光秀に怒りをぶつけた言葉だという説に著者は賛成しています。
光秀は文化人であり、領民には慕われていて、光秀を神として祀っている神社もある。
ふひゃ、これは驚きました・・・。
光秀は、その前半生は今に至るも謎だらけで、生年も確定していない。本能寺の変のとき、55歳だったというのが通説だけど、そのひとまわり上とか下の年齢だったという説もある。
ただ、美濃守護土岐氏の一族である明智の人間であったことはたしからしい。
そして、朝前の朝倉義景のもとにころがりこみ、そこで、足利義昭・藤孝主従と出会ったことから、信長の有力武将に出世していくことになる。
明智光秀という人物はなかなか複雑・不思議な人物だったようです。
著者は『武功夜話』を偽書としていないなど、疑問に感じるところもありましたが、全体として大変詳しく、さすがに勉強になりました。
(2019年6月刊。2500円+税)

2019年6月16日

戦神(いくさがみ)


(霧山昴)
著者 赤神 諒 、 出版  角川春樹事務所

面白い。ぐいぐいと戦国時代の大分県あたりに引きずりこまれていきます。歴史小説ですが、どこまで史実を反映しているのか、あまりに面白い展開なので首をかしげながら読み終えると、最後になんと、その種明かしがしてありました。
著者が、本書の末尾に、本作は書き下ろし歴史エンターテインメント小説であり、史実とは異なります、と断っているのです。なるほど、そうか、やっぱりそうなのだね・・・、それにしてもよく出来ている。私は、そう思いました。読書の楽しみをしっかり堪能(たんのう)できましたので、史実と異なっていることを知っても不満はありません。だって、やはり小説は読んで面白いかどうか、ですから・・・。
歴史的事実を平板になぞられても、ちっとも面白くありません。そこはやっぱり、どんな運命なのか、男女の愛はむすばれるのか、どんな邪魔が入って、それをいかにして乗りこえていくか・・・。ぜひぜひ知りたいじゃないですか・・・。
著者は弁護士です。前回の『大友二階崩れ』より、本書のほうが、私にはしっくりきましたし、読ませました。
戦国時代の大分を支配していた大分義鑑そして大分義鎮を当主として、その配下で敗戦を知らない日本一(ひのもといち)の武士(もののふ)、戸次(べっき)鑑連(あきつら)が主人公です。あとでは立花道雪と呼ばれた武将です。かの有名な立花宗茂の父でしょうか・・・。
舞台となるのは、大友家の支配する豊後(ぶんご。大分)と日向そして豊前です。いえ、肥後や出雲にも出陣します。
戸次八幡丸(べっきはちまんまる)。14の歳(とし)に初陣で大功をあげる。その後、生涯にわたり数えきれないほどの軍功を立てる。その采配する戦で、一度たりとも敗北しない。戦で勝てる敵はついに現れない。戦神(いくさがみ)と言ってよい。
こんな予言がことごとく的中していく運命です。ところが、預言者は次のようにも言うのでした。
「戦に明け暮れる、お前の人生は苛烈で苛酷だ。世のあらゆる災厄が次々と振りかかってくるだろう。華々しく勝利する戦で、万(よろず)の人間が生命を落とす。おまえは鬼だ。その人生で、母を殺し、父を殺し、兄を殺し、弟を殺し、妹を殺し、妻を殺し、子を殺す。あまりに深き罪業(ざいごう)のゆえ、おまえの血は後世に残らない」
いやはや、この予言が具体化するストーリー展開です。
40歳の弁護士が本格的な作家デビューしたことを心から祝福します。
(2019年4月刊。1800円+税)

2019年5月12日

斗星、北天にあり

(霧山昴)
著者 鳴神 響一 、 出版  徳間書店

秋田美人で有名な秋田市。
戦国時代、ルイズ・フロイスの書簡にも「秋田という大市あり」と書かれているそうです。蝦夷に近く、秋田人もときどき蝦夷に赴くと書かれています。
この小説のなかでは、蝦夷(アイヌ民族)だけでなく、ロシア大陸の民族・東韃(とうたつ)人との混血児まで登場してきます。恐らく古代から、そのような交流はあったことでしょう。
ブナ林で有名な白神山地を背後に控えた港町を安東(あんどう)氏は治めていた。
安東氏は、鎌倉時代後期から室町時代中期にわたって、日本海北部の海運を完全に掌握していた一族である。
天然の良港である津軽半島の十三湊(とさみなと)を根拠地に、蝦夷地のアイヌはもとより中国、朝鮮とも交易を続けていた。かつて安東氏の当主は、東海将軍、あるいは日之本(ひのもと)将軍との称号を用いていたこともある。
十三湊は、三戸(さんのへ)に根拠を置く甲斐源氏の南部家によって百年ほど前に奪われていた。安東氏から十三湊を奪った南部家は敵と呼ぶほかない。
載舟覆舟(さいしゅうふくしゅう)。海の水は安らかなるときは船を浮かべ載せる。海の水が荒れれば、直ちに船を覆す。民を海の水と考えるのだ。
枉尺直尋(おうせきちょくじん)。一尺分を折り曲げることで、一尋(ひろ。8尺)をまっすぐにできたらよい。危急に望んでは、小の虫を殺して大の虫を助けることが肝要。
安東愛季(ちかすえ)は15歳で家督を継いで檜山安東家の若き当主となった。長尾景虎と武田信玄が川中島で干戈(かんか)を交えようとしたころである。
豊臣政権下では、安東家は、出羽国内の5万石の安堵が認められたが、実高は15万石だった。そして、関ヶ原の戦いのあと、常陸国宍戸5万石に頼封されたことにともなう措置だった。
秋田における安東家の活躍を紹介する小説として、最後まで面白く読み通しました。
(2019年3月刊。1800円+税)

2019年1月30日

戦乱と民衆

(霧山昴)
著者 磯田 道史・呉座 勇一ほか 、 出版  講談社現代新書

戦乱というから戦国時代のことを論じた本かと思うと、なんと古代の白村江の戦いから幕末の禁門の変まで広く対象にしています。
豊臣秀頼の死に至る大坂の陣について、イエズス会士が詳しい報告書を書いているとのこと。イエズス会士は大坂城に滞在していて、落城前に2人が脱出して助かったそうです。知りませんでした。そして、大坂城の近郊にはオランダ人が滞在していて、彼らは主として毛織物を販売していました。
当時の大坂の人口は20万人。そこへ牢人たちが10万人も集まってきた。家族を伴って来た牢人も少なくなかった。大坂に残っていた人の大半は、豊臣方の牢人とその家族だったと考えられる。
幕末の禁門の変によって、京都の町は焼けて大変な被害にあった。
会津藩と桑名藩が一橋慶喜の指示を受けて手当たり次第に放火した。そのため、公家や大名をふくめた京都の民衆から、「一会桑」と呼ばれる一橋家、会津藩、桑名藩は恨みを買った。
そして焼け跡で何が起きたか。戦死者の胴巻に多額の所持金があり、それを遺体を片付ける人夫が自分のものとし、その後、新京極あたりで商売を始める元手として成功した人がいた。ものすごい臭気のなかでの作業だ。民衆のたくましさを示している。民衆は、ただ「やられていた」という存在ではなく、むしろ自分たちが奪う側にまわったり、戦争を機にのし上がっていこうとする、たくましい存在でもあった。
京都は幕末の騒動のため、焼け野原で空地が多かった。金融システムまで破壊されたので、再建する資金の手当ができなかった。そのため、京都は深刻な住宅不足となった。明治10年ころまで、この状態が続いた。京都が首都になれなかった理由の一つがこれだった。
明治も後半になった37年に西郷隆盛の子、西郷菊次郎が2代目の京都市長に就任した。これは、京都への資金導入を願った京都財界人が薩長との人脈に注目して要請した人事。菊次郎市長は、発電、上下水道整備、市電設置という京都三大事業を成し遂げて京都の発展を導びいた。
うむむ、民衆視点で歴史を語る話は、とても興味深いものがありますね。
(2018年8月刊。780円+税)

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