弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2018年3月10日

「反戦主義者なること通告申し上げます」

(霧山昴)
著者  森永 玲 、 出版  花伝社

 長崎県島原半島に生まれた末永敏事(びんじ)は、結核を研究する医学者であり、アメリカに留学して研究し、日本に帰国しても結核研究にいそしんでいた。
 末永敏事は、1938年(昭和13年)、茨城県知事に対して、次のように書面で申告した。
「ここに私が反戦主義者なることを、および軍務を拒絶する旨通告申し上げます」
 51歳の末永敏事は、この申告の直後、特高警察に逮捕された。
 末永敏事は、1887年(明治20年)に島原半島の北有馬村今福で生まれた。実家は代々の医家だった。末永敏事は、長崎医専(長崎大学医学部)を卒業したあと、台湾に渡った。その後、アメリカ・シカゴ大学で学んだ。内村鑑三と交流があった。そして、日本に帰国してからは、古里に戻って「村医者」となった。ところが、キリスト者として反戦主義者である末永敏事のいるところではなくなり、茨城県へ転居した。
 末永敏事の申告について、当局は不敬罪の適用を敬遠した。不敬は日本国民にあってはならないこと。当局は、不敬罪容疑の摘発にこそ取り組んだが、その送検・起訴には消極的だった。なぜなら、訴追したら、その状況が目立ってしまうから。まるで天皇制へ不信感が日本国民に広まっているように自ら認めることになりかねない。それは当局にとって不都合だった。
 そこで末永敏事は、造言飛語罪で起訴されたが、本人は法廷をふくめて無言を貫いた。その結果、禁固3ヶ月となった。そして、末永敏事は1945年8月25日に東京の清瀬村で死亡したことになっているが、その死亡状況は判然としない。
 医者として結核をアメリカに渡ってまで専門的に研究して成果をあげていた真面目な医学者が戦前の戦争推進体制の下で有罪となり、その死亡状況すら不明というのです。戦争体制による悲劇の一つだと思いました。
長崎新聞に2016年10月から連載されていたものが一冊の本となりました。価値ある歴史掘り起しの一冊です。もっと新事実が出てくることを期待しています。
(2017年7月刊。1500円+税)

2018年2月24日

信長と弥助


(霧山昴)
著者  ロックリー・トーマス 、 出版  太田出版

 織田信長にイエズス会が黒人を献上した。この黒人は信長の近習(小姓)として仕え、本能寺の変のときにも信長の側にいたが危く難を免れた。明智光秀から南蛮寺へ追放せよと言われて命は助かったが、その後の消息は不明。黒人の出身地は不明で、日本名は弥助。
 ここまでは私も知っていましたが、イギリス出身の著者が英語で書いた本が翻訳されたものです。よく調べてあるのですが、いかんせん原資料が不足ですので、決定的に解明したというにはほど遠く、読んでもどかしさが残りました。
 背丈が驚くほど高く、坊主頭で、筋骨隆々とした体は、真っ黒な色をしている。その男の名は弥助という。信長の道具持ちも務める小姓で、史上初の外国人侍だった。
 本能寺の変のあと、織田勢で唯一生存が確認されている侍が弥助だ。弥助は明智軍に刀を差し出して投降したあと、近くのイエズス会の教会堂に移送された。
 明智光秀はイエズス会を敵にまわしたくなかったので助かったと解釈されています。
弥助は物覚えが良く、すぐに日本語を覚えた。日本語は、母国語以外に学んだ4番目か5番目の言語だった。
 黒人が来るというので、京都の人々が何千人も殺到した。信長は弥助の風貌が引き起こした騒動を耳にして、誰が、何が治安を乱したのかを知りたがり、群衆が散開したあと、その黒い男と会わせろと要求した。信長のいた本能寺に黒人はやって来た。イエズス会宣教師のオルガンティーノが同行し、仲立ちした。
 信長は上半身裸になるよう命じた。弥助の黒い肌はこすられても、ひっかかれても色が落ちることはなかった。信長は、ようやく黒い肌が本物だと納得し、息子たちを呼んで、この驚くべき人間を見せた。イエズス会のヴァリニャーノは、政治的配慮から弥助の献上を申し出て、信長は受け取った。
 弥助は信長から従者付の私宅と扶持(ふち。給与)を受け取った。信長の刀持ちとして、護衛として、有能な側近の一人となった。
 弥助のルーツはアフリカ大陸にある。モザンビーク出身説が有力のようです。
 弥助は、信長をめぐるゲームにも登場しているそうですね。知りませんでした。その意味で、今どきの若者にはポピュラーな存在なのかもしれません。
 こくな日本史のニッチな話をイギリス出身の著者が英語で出版するとは、世界は広いようで狭いものですね。

(2017年2月刊。1800円+税)

2018年2月 3日

杉山城の時代


(霧山昴)
著者  西股 総生 、 出版  角川選書

 杉山城って、聞いたこともない城ですよね。でも、これが今注目されている城なんです。なぜか・・・。
 杉山城は、埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町にある「土の城」。城といっても、城主である殿様以下の武士たちが居住していたものとは、どうやら違うようです。戦国時代の戦闘に備えた砦(とりで)のような城なのです。なぜ、それが注目されているのか、そして、誰が、いつつくった城なのか、少しずつ解き明かしていく本です。
 杉山城は、標高95メートル、比高42メートル。杉山城の特徴は、土橋や虎口(こぐち。出入口)に対して徹底的に横矢を掛けていること。横矢を掛けるための工夫(施設)を横矢掛りと呼ぶ。虎口から堀を渡った対岸に設けられたスペースのことを馬出(うまだし)という。馬出は一般に、城兵が逆襲に転ずる際に攻撃の足がかりとなる場所。これを局限することによって、虎口を一気に突破されないという効果も期待できる。
 杉山城の縄張りは大変に複雑だが、塁壕や通路をランダムに屈曲させた結果ではない。縄張りを構成する各部分は、敵の侵入を効果的に防ぐという観点から、いずれも合理的な説明が可能。したがって、城兵が正常に配置され機能したとしたら、攻城軍は容易には主郭に到達できないだろう。その縄張りは、あまりに緻密で論理的であるから。
 杉山城の発掘調査は、この城が領主の日常生活とも地域支配とも無縁な、純然たる軍事施設であったことを物語っている。戦国時代の比企(ひき)地方には、純然たる軍事施設としての城が次々に築かれていたのだ。
著者は杉山城について、次にように分析しています。杉山城に与えられた任務と守備隊の人数を具体的に意識し、弓・鉄砲をもつ兵を選抜して、ここに3丁、あそこに5丁といったように決められた火点に配置し、鑓(やり)をもった兵たちは白兵戦力として、まとまって使うことを考えていた。杉山城の特徴は、障碍(しょうがい)の主体を徹して横堀に求めていることにある。
 杉山城は2017年に、日本名城100選(続)に選定されたということです。かの忍城(おしじょう)とあわせて、埼玉県には見るべき城がたくさんありますよね。ぜひとも現地に行って縄張りを実感してみたいものです。
(2017年11月刊。1700円+税)

2018年1月21日

信長研究の最前線(2)


(霧山昴)
著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書

 信長は、朝廷の外護者(げごしゃ)たる存在だった。外護者としての織田信長、政治・秩序の保障者としての朝廷。両者は、相互に補完しあって、国家の上部構造に位置づけられていた。
 イエズス会の宣教師たちは、安土築城のころから、信長について中央を治める権力者であると認識するようになっていた。
織田信長がイエズス会を厚遇したのは、彼らが自分に敵対することなく、従順な姿勢をもっていたから。
イエズス会は、信長に黒人を献上していたが、その黒人は本能寺の変で明智方と戦った。そのことから、宣教師は光秀の報復を恐れた。しかし、光秀はイエズス会を敵視することはなく、黒人はイエズス会に返されたので、宣教師たちは安心した。
イエズス会は、本能寺の変のとき、都でも安土でも非常に動揺していることから、本能寺の変を事前に予知していたとは思われない。
 織田信長については、まだまだ研究し尽くされていないところがあると思ったことでした。
(2017年8月刊。980円+税)

2018年1月 3日

戦国の軍隊


(霧山昴)
著者 西股総生 、 出版  角川ソフィア文庫

 戦国時代の戦闘の実際を詳細に紹介していて、大変勉強になりました。
 当時、早朝から戦闘を開始するには合理的な理由があった。夜間に移動・展開をすませたほうが、自軍の行動や布陣状況を秘匿しやすいし、戦闘のために昼間の時間をできるだけ長く使うことができるから。
 戦国時代の軍事力構造を考えるうえでは、火力(鉄砲)の組織的運用と、個人のスタンドプレーという二つの要素が重要なカギとなる。
 江戸時代には、大小二本の刀を腰に差すのは武士に限られていたが、刀や脇差だけなら、庶民も普通に携行していた。中世にさかのぼると、一般庶民は刀だけでなく弓や槍(やり)も普通にもっていた。
武器を所有・使用する者が武士ということではない。武士とは、「武」を生業(なりわい)とする者のこと、ひらたく言えば、戦いや人殺しを生業とする家の者、戦いや人殺しのプロ、つまり職能戦士ということ。
 中世の戦場では、武士たちは、常に顔見知りの者たちと声をかけあって、互いに相手の戦功を証言できるようにしていた。
 戦国時代の日本では、軍隊が等間隔で整然と隊列を組んで行動する習慣はなかった。そうした行動をとる必要性がなかったからだ。
 足軽は、基本的に武士でない者、つまり主従性の原理が適用されない集団だった。彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた。非武士身分によって構成される非正規部隊、これが傭兵的性格の強い集団としての足軽の本質だった。
 足軽大将のような指揮官クラスの者は、もともとが侍身分の出身か、もしくは侍身分として扱われ、騎乗して参戦していたのだろう。
 戦場での侍たちの主要な武器が持鑓(やり)になり、徒歩戦闘の頻度が高まった結果、侍たちは次第に馬上で抜刀する技術を失っていった。
 中世の軍隊は、兵糧(ひょうろう)自弁が原則だった。自分の領地から送金を受け、出入りの商人たちから、めいめい食糧や日用品等を購入して、陣内での生活を維持していた。
戦国時代の合戦の実相をめぐる論争に一石を投じた本だと思いますが、いかがでしょうか・・・。

(2017年6月刊。960円+税)

2017年8月19日

武田氏滅亡

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書

ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

2017年8月15日

大航海時代の日本人奴隷

(霧山昴)
著者 ルシオ・デ・ソウザ 、 岡 美穂子

日本人って、昔から案外、海外へ出かけていっていたようです。そのなかには、人さらいにあって海外に売られたという人もいたようですが、それ以外にもいたというのです。日本人の傭兵集団があったり、キリスト教信者が亡命したり・・・、です。多くはありませんが、世界各地に残っている日本人の記録を掘りおこした貴重な本です。
本書に登場するのは、マカオ、マラッカ、マカッサル(インドネシア)、ゴアとコチン(インド)、マドリッド、リスホンそしてセビーリャ(スペイン)。アフリカはモザンビーク、アンゴラ、サントメ、プリンシベ島。南アメリカのリマ(ペルー)、ポトシ(ボリビア)、コルドバとブエノスアイレス(アルゼンチン)、サンチアゴ(チリ)。最後にメキシコのアフカトラン、グアダラハラ、タアナファト、メキシコシティ、アカプルコ、ペラクルス、そしてカルタヘナ(コロンビア)です。このように、世界中、いたるところに日本人の足跡があるのです。
奴隷身分の日本人だけでなく、冒険心、商売人もいたのではないでしょうか・・・。
アメリカ大陸に渡ったアジア人奴隷は、「チーナ」と呼ばれたが、実際には、日本人もいた。
大分で1577年に生まれた日本人奴隷は、誘拐されて長崎へ連れていかれ、ポルトガル人に買われた。子どもの奴隷を買って従者にするのは、富貴と寛大さを周囲に知らしめる証と考えられていた。
長崎にいたポルトガル商人のなかに、実はユダヤ人がいて、キリスト教の異端し審問の対象になっていたというのを初めて知りました。
ポルトガルには、16世紀中ごろから、天正少年遣欧使節の到着より前から日本人が存在していた。1570年代初め、10歳にもならないに日本人少女マリア、ペレイラがポルトガルに到着し、20年のあいだ家事奴隷として仕えたあと、自由の身になったという記録がある。
マカオには、日本人女性だけでなく、日本人男性も少なからず存在した。船の乗組員にも日本人男性がいた。
長崎の頭人から町年寄へと出世した町田宗賀は若いころ、自分でジャンク船を操って海外貿易に従事する船長であり、マカオにも出入りしていた。
マラッカには、1600年ころ、町の警備役として、マレー人兵のほか、日本人傭兵がいた。関ヶ原の戦いのころのことです。
1608年ころ、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加した。そして、マカオ事件が起きた。1614年、マニラに33人の教会関係者と、100人の日本人が到着した。宣教師が日本から追放され、一緒に日本人キリシタンたちがやってきたのだ。マニラにいた日本人は、1595年に1000人をこえていた。そして、1619年には、日本人コミュニティは、2000人、1623年には3000人以上となっていた。
インドのゴアにも、多くの中国人と日本人がいた。
世界中の記録をよくも丹念に掘り起こしたものですね。スペインには、今もハポン(日本)の姓の人々がいるそうです。恐らく、昔の日本人の子孫なのでしょうね。世界は広いけれど、案外、狭いものでもあるようです。
(2017年4月刊。1400円+税)

2017年6月18日

城をひとつ


(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  新潮社

「城をひとつ、お取りすればよろしいか」
これが本書の書き出しの一行です。うまいですね。憎いです。この本のタイトルにもなっていますが、ええっ、何、どうやって城を取るというの・・・。むらむらと湧いてくる好奇心に勝てません。
「江戸城を取るのは容易ではないぞ」
「容易かどうかは、入ってみねば分かりませぬ」
「間者(かんじゃ)は敵にばれたら殺されるが、貴殿はそれでも構わぬのか」
「命のひとつくらい懸けねば、皆さま方に信じてはもらえますまい」
小説の問答とはいえ、すごい状況ですよね。思わず息を吞んでしまいます。
城を取ると言ったのは大藤(だいとう)信基(のぶもと)。相手の殿様は、北条早雲の後継ぎ、北条氏綱。
今まで捕まった間者は顔色を読まれて捕まっている。つまり、自信をもってことにあたれば、恐れるものは何もないのだ。
江戸城内の権力抗争につけ入って、ついに内部崩壊させていく手口が鮮やかに描かれています。小気味よいものがあります。
信基は、義明の強固な自負心と年齢的な焦りを知り、その隙間に入り込み、自ら墓穴を掘らせることに成功した。その手法は見事なものです。
入込(いりこみ)とは、何者かに化けて敵や仮想敵の内部に入り込み、信用を得たうえで、味方に情報を流したり、撹乱工作をしたりすること。
戦国の時代、武士が商人に無法を働くことは極めて少ない。武力にものを言わせて商人から荷を奪えば、そのときは良くても、その武士は二度と交易ができない。必要な物資も情報も手に入らず、領内の経済が停滞し、自領でとれた米も、容易に売りさばけなくなる。
北条家中における大藤家の役割は、家伝の「入込」の技を使って相手の内部に入り込み、敵を撹乱することにある。
戦国小説の傑作の一つだと思いました。
(2017年3月刊。1600円+税)

2017年5月21日

描かれたザビエルと戦国日本

(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版  勉誠出版

1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いがありました。その50年前の1549年8月にイエズス会の宣教師であるフランシスコザビエルが日本にやってきて、1551年11月まで滞在していました。2ヶ年3ヶ月の滞在でしかありませんでしたが、日本にキリスト教をもたらし、多大な影響を支えた宣教師の先達として今も高名です。
本書は、そのザビエルの足跡を絵画と写真とともに刻明に明らかにしています。
ザビエルの遺体が今もインド(ゴア)に保存されているというのにも驚きました。
そして、ヨーロッパに残された宗教画には、ザビエルとともに大友などの大名たちが登場しています。ただ、説明を聞かないと、まるで日本人とは思えない顔つきをしています。恐らく、絵を描いた画家は、見たこともない日本人の戦国大名たちを想像できず、身近なヨーロッパの領主を描いたのでしょうね・・・。
ザビエルは、私が学んでいるフランス語では、グザビエと発音します。なあんだ、そうだったのか・・・と思いました。
ザビエルは、ローマへの手紙のなかで日本人について、このように報告しています。
「日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲がある。
もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域のなかで、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思われる」
つまり、昔も今も、日本人には好奇心の旺盛な人が多かったということですね。何か目新しいものがあれば、すぐに飛びついて、我が物としたいという習性があるのです。
ザビエルは、1552年12月3日、46歳のとき、中国のマカオの先の小島でマラリアにかかって亡くなった。そして、その遺体が腐敗しなかったことから、インドのゴアまで運ばれて、死後400年以上たった今もミイラ化して、見ることできる(10年に1度だけ一般公開される)。
ザビエルは、山口の領主である大内義隆、そして、豊後の領主である大友義鎮(宗麟)と面会している。大分県市内にはキリスト教会が建立し、多くのキリスト教信者を迎えた。
ザビエルの足跡を、視覚的にもしっかりたどることのできる貴重な本です。
(2017年1月刊。2800円+税)

2017年4月 1日

織田信長の城

(霧山昴)
著者 加藤 理文 、 出版  講談社現代新書

安土城は、天下統一をめざす信長が築き上げた富と権力の象徴であった。
安土城の石垣の最大の特徴は、石垣上に構築物が築かれることを前提として積まれている。
安土山(標高199メートル)は、岐阜と京都の中間点の琵琶湖東岸に位置する。京へも岐阜へも、ほぼ1日を要しない利便性と、中部、北陸、畿内各所への地理的優位性からの選地だった。また、来るべき上杉謙信との戦いも想定し、北国街道の喉元を押さえることも目的の一つであった。
築城工事を急がせた信長は、わずか1ヶ月後の2月23日、早くも安土に居を移す。
瓦は、唐人一観に命じ、康様にするよう言い付けた。
天主の外観は五重七階で、青や赤、白と各階の色が異なり、最上階は青と金色で、屋根に鏡が吊るされていた。窓は黒漆。屋根は青く光る瓦で葺かれ、瓦当や鬼瓦には金箔が貼られ、光り輝いている。
安土城は、軍事的目的をもつだけの施設ではなく、政治的、文化的施設として完成を見た。軍事一辺倒で、無粋きわまりなかった城は、安土城の完成によって、この時代を代表する芸術作品として生まれ変わった。
安土城は、天下人信長の居城であって、織田宗家の居城ではない。織田宗家の居城は、岐阜城である。
本丸御殿内に「御幸の御間」があり、そこは天主から見下す場所に位置する。すなわち、信長が天皇の上に位置することを暗に知らしめる目的があった。
信長が天皇をカイライとした政権運営を考えていたのは確実である。
安土城には二度のぼりましたが、この本を読んで、もう一度、天主跡に自分の足で立ってみたいと思ったことでした。
(2016年12月刊。840円+税)

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