弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年2月18日

青年家康

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 柴 裕之 、 出版 角川選書

 NHKの大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当している著者による本です。
 家康はその少年時代、今川氏の人質としてみじめな日々を余儀なくされていたという通説を真向から否定しています。
 家康(竹千代)は6歳のとき、織田信秀へ人質として差し出された。そして、今川軍が織田勢を攻めたて、城将の織田信広を捕まえ、竹千代と交換することになり、家康は今川氏の本拠地である駿府で過ごすこととなった。
 竹千代が岡崎松平家の当主であったことから、今川義元は、駿府で竹千代を庇護することによって、松平家の上に君臨する上位権力者としての正統性を得た。
 今川義元は岡崎の松平家を解体して、岡崎を直轄領地とはせず、今川氏の政治的後見と軍事的な安全保障のもとに、松平家重臣による政治運営のもとで岡崎領の支配をまかせていた。
 駿府での家康(竹千代)の生活は、今川義元の師でもあった太原崇孚により学問の師事を得たというように、義元の庇護のもとで大事に養育されて過ごしていた。それは決して苦難の人質時代、忍耐と惨めなイメージで語られるような日々ではなかった。
 すなわち、家康は単なる人質ではなかった。それは、すでに西三河の有力な従属国衆である岡崎松平家の当主であったことによる。
 竹千代が14歳になって元服したとき「元信」と名乗ったのは、今川義元の「元」の1字をもらったものであり、これによって元服した家康(元信)が今川家の政治的、軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主であることを世間に確認させた。
 今川義元は桶狭間で敗死したとき、42歳だった。そのあと、家康は織田信長とも手を結んだのでした。それは義元亡きあとの今川家とはキッパリ縁を切って、むしろ敵対し、抗争することを選んだとうことです。今川家が力をなくしたことによる選択でした。
 さあ、家康どうする、とても考えさせられるタイトルですよね。
(2022年9月刊。税込1870円)

 1月に受けたフランス語検定試験(準1級)の合格証書が送られてきました。待ちに待った証書です。合格基準店23点のところ、28点でした。実際には、思うように話せず、冷や汗をかいたのですが...。
 なぜ、諸外国ではデモもストライキもやっているのに、日本はストライキをやらないのかと尋ねられました。みなさんだったら、何と答えますか?そして、それをフランス語で、どう表現しますか。とつとつと答えてしまいました。それでも、頭のほうは少し若返りました(と思っています)。

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