弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2016年9月17日

後藤又兵衛

(霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  中公新書

 後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政の二代に仕え、朝鮮に出兵して活躍しつつも、長政に疎まれて黒田家を去って牢人生活に入り、秀頼の招きに応じて大坂城に入って、大坂の陣で壮絶な討死を遂げた。
黒田長政にとって、後藤又兵衛は、自身が取立てたなかでも第一の家臣だった。その恩も顧みず黒田家を退去するのは、主君として許しがたい行為であった。
大坂夏の陣で没したとき、又兵衛は56歳だった。又兵衛は、黒田官兵衛に子飼いとして育てられ、14歳のとき、長政付の近習として仕えるようになった。
若き日の又兵衛は、何が何でも討死することが「御奉公」であると考えるような荒武者ではなく、冷静な判断力をもつ武将だった。
又兵衛は槍の名手として有名だが、朝鮮出兵のときの虎退治において、又兵衛は初めから刀を抜き、虎を仕留めている。
関ケ原合戦のとき、黒田長政は33歳。その供衆35人の筆頭に後藤又兵衛の名前がある。「黒田25騎」とは、近世中期になって選ばれた黒田家の功臣であるが、そのなかに黒田家にとって逆臣ともいうべき後藤又兵衛が入っているのは、それだけ存在感が大きかったということ。
黒田氏の家中形成の過程で、長政のもとで頭角を現し、長政取立家臣のトップに躍り出たのが又兵衛だった。
又兵衛の娘は、黒田家中の野林家で天寿を全うした。つまり、又兵衛の血筋は女系によって黒田家中に伝えられた。
黒田と細川は犬猿の仲にあった。そこで、細川は、又兵衛の筑前出奔を支援した。同じく池田輝政も又兵衛を支援したので、輝政と長政は仲が悪くなり、互いに音信を絶った。
大名たちは、江戸で家康から起請文の提出を強制させられ、表向きは徳川方への忠誠心を示しながら、裏では頼みとなる人物に隠し置いていた牢人たちを預けて大坂城へ差し向け、太閤秀吉の遺児豊臣秀頼を支援していた。
このように忍び潜む牢人たちを支える社会構造があってこそ、10万とも言われる牢人たちが大坂城に結集できた。日ごろから捨て扶持を与えられて忍び隠れていた牢人たちにとっては、待ちに待った表舞台が大坂の陣だった。
 大坂の陣に向かう徳川方は豊臣系大名の裏切りを心底から恐れていた。
黒田長政が又兵衛に密命を与えて大坂城に入城させたという説が成立する余地はない。
 又兵衛が大坂の陣で討死したのは、武将として見事だったと最大の賛辞が送られている。
 豊臣秀頼は、自分に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。そのような秀頼だからこそ、又兵衛は冬の陣で大坂城に入り、和議後も大坂城を去ることなく、夏の陣を死に場所として選んだ。
 後藤又兵衛は、定めなき浮世において名称というにふさわしい知術武略を用いて生き抜いたからこそ、末代にその名を残した。
後藤又兵衛という戦国武将を見直すことが出来ました。
(2016年4月刊。820円+税)

2016年8月13日

決戦!川中島

(霧山昴)
著者  宮本昌孝・矢野隆ほか  出版  講談社
 川中島の古戦場には、私も1回だけ行ったことがあります。しばし往事を愢びました。
古戦場というと、なにより印象深いのは、越前朝倉の一乗谷です。織田信長に滅ぼされて焼け野原となったあと、地中に埋もれたのが発掘され、武家屋敷の一部を復元して広大な公園として整備されています。
 関ヶ原の古戦場には二回行きました。石田三成の陣跡に立ち、家康のいた桃配(ももくばり)山を眺めました。安土城にも二回か三回のぼりました。天守閣跡に立ち、ここに信長も立っていたのかと少しばかり感傷的になりました。島原の乱のあった原城跡にも行ってみましたが、まさしく感慨一入です。
 まだ行っていませんが、ぜひ行きたいのは武田勝頼の軍勢が壊滅的な打撃を受けたという長篠の地(鉄砲の三段撃ちは本当にあったのでしょうか・・・)、そして今川義元が滅びた桶狭間の地です。やはり歴史を愛する者として、なるべく現地に行って、その場所に立って何かを考えてみたいと思います。
 この本は、7人の作家が、それぞれ異なる登場人物を主人公として書いています。競作です。武田信玄、上杉謙信、山本勘助そして真田昌幸ほかです。その心理描写がさすがにプロだけあって、いずれも見事です。もちろん動きだけでなく、合戦の状況も真に迫って活写されています。
 景虎の卓越している点は、最前線にあっても広い視野が発揮されることにあった。小高い場所で、床風に腰かけ、じっと戦況を見ているのと同じ眼差しを、自ら太刀を振るいながら保つことができた。そのような才能、あるいは阿鼻叫喚の激戦においても視野が曇らぬ胆力は、そうそう万人が持てるものではない。
 またさらに、その虎視をもって、勝機を逃さず、つかむ力もずば抜けていた。機を見る敏。機を窺うに静。機を制するに剛。好機と、みるや間髪をいれずに号令を発し、それまではひたすら冷静に戦況を見極め、いざ動いたときには圧倒的な力で、相手をねじ伏せる。常に相手の一瞬の隙をとらえて就く景虎の戦いぶりは、相対した者からすれば、いつどうやって攻められたかも分からぬほどで、気がつけば、陣形は崩壊し、味方はみな壊走しているという有様だった。
 これは、上杉謙信についての叙述です。読んでいるとむくむくとイメージが湧いてきますよね。プロ作家の想像力には圧倒されます。
 (2016年5月刊。1600円+税)

2016年3月 5日

戦国の陣形

(霧山昴)
著者 乃至 政彦 、 出版  講談社現代新書

 戦国時代の合戦といえば、魚鱗とか鶴翼、そして車懸(くるまがかり)の陣立(じんだて)が有名です。ところが、著者は、このような陣形が実際に存在したという証拠の文書はないというのです。
陣形とは、布陣の形状である。
中世の足利(室町)時代には、その軍政は騎兵中心だった。楯兵も弓兵も、騎兵が下馬して構成されていた。中世における正規の戦力は、原則として騎兵だった。そして、騎兵が下馬することなく騎兵として戦うとき、武士としての真価が発揮された。
この時代の合戦の特徴として、しばしば騎兵の集団が遠距離戦闘を介することなく、戦闘を仕掛けた。足利時代の騎兵は、頻繁に接近戦を行った。中世の騎兵は、「馬上十飛道具」ではなく、「馬上十衝撃具」で戦った。
 中世の戦場では、定型の陣形があらわれることはなかった。それは、それを実用する規律ある軍隊がいなかったからだ。中世の武士は私兵の寄り合いに過ぎず、そこには基本となる部隊教練も存在しなかった。
 武田信玄と上杉謙信との戦いのなかで、上杉軍の一翼となった上村義清の部隊は、弓隊150人、鉄砲50人、足軽200人、騎馬隊200騎、長柄のやり100人という兵種別編成で戦った。そして、武田軍の本陣に切り込み、戦傷を負わせた。
上杉謙信は、村上義清の使った隊形を常備の隊形として取り入れた。それには強い信念と大量の物量が前提となった。この兵種別の五段隊形が全国に広がった。
 文禄の役のとき、朝鮮の官軍は、日本軍の「陣法」について学んで対抗した。
 「旗持が最前列、島銃手が二列。槍剣手が三列と、三段に構え、その左右に騎兵を配した。戦いが始まると、最前列の旗持ちが左右にひらいて、二列目の銃手が発砲し、ころあいを見て槍剣手が突撃する。そのあいだ左右にひらいていた旗持軍が両方から、左右の伏兵が敵の背後にまわって包囲する」
 いま有名な定型の陣形は、戦争が日常だった戦国時代には使われなかったが、天下泰平の徳川時代になると、机上に復活しただけのこと。
 武田信玄の「八陣」が一般に広く知られるようになったのは、なんと戦後のことだと著者は指摘しています。
 なんだ、なーんだという感じです。まあ、それもそうなんでしょうね。戦場で、そんなに形ばかりにとらわれていたら、敗北してしまいますよね。大いに目を開かされました。

                           (2016年1月刊。760円+税)

2016年2月 7日

真田一族と幸村の城

(霧山昴)
著者  山名 美和子 、 出版  角川新書

真田幸村のことがよく分かる新書です。
真田一族は信州小県(ちいさかた)地方、上田盆地の北東隅の真田の里に発祥した小さい豪族。戦国時代、真田の里の四囲には、群雄が勢力を競って、ひしめきあっていた。
小豪族の真田氏は、大勢力の真っただ中をかいくぐって台頭し、戦国大名にのしあがり、激動の世に名をとどろかせた。真田三代は、すぐれた調略戦を駆使した。
真田一族は、時勢に応じて武田、織田、豊臣、上杉、徳川と同盟したが、武田のほかは主君としていない。
真田幸村の父・昌幸は、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言われた。これは、卑怯者というより、変幻自在の知略策謀による、あざやかな出前進退が興味深いというのもで、いわば戦国武将へのほめ言葉だ。
真田一族は六文銭(六連銭)の旗のもと、覇者への野望をいだくこともなく、国のごとく時代を疾走していった。
ヤマカン(山勘)というのは、当て推量のこと。山本勘助が上杉謙信との戦いのときに霧を読み誤ったことから来る言葉。
天正13年(1585年)、昌幸と家康とが戦った第一次上田合戦のとき、徳川軍の戦死者1300人、これに対して真田軍は、わずか40人のみ。真田軍の大勝利だった。
幸村が無名だったのは、次男だったから。江戸時代の前まで、長子相続は定まっていなかった。
幸村は20歳からの12年間を、秀吉の馬廻衆(近習)として秀吉のそばに仕えた。父の昌幸は、嫡子の信幸を家康に仕えさせ、幸村を秀吉の人質にした。これは、戦国の世には、よくあること。
戦国武将の多くは、世俗権力の介入を拒む高野山に菩提所をもちたいと願った。幸村の兄・信之は、93歳まで長生きし、戦国時代を知る語り部として奉公した。
真田家は、江戸時代に老中まで出して、名功として明治まで生き残った。
幸村は高野山においてたくさんの子らの声に囲まれていた。戦国武将の一人として、正室のほかに4人から5人の特定の女性がいて、子どもも10人を超えることは珍しくなかった。 
気軽に読める新書です。
(2015年9月刊。800円+税)

2016年1月24日

戦国のゲルニカ

(霧山昴)
著者  渡辺 武 、 出版  新日本出版社

 大坂夏の陣で何があったのか、「図屏風」に描かれた絵を詳細に読み解いた本です。すごいです。5071人もの人物が表情豊かに描かれています。「真田丸」の主人公・真田幸村(信繁)も当然のことながら描かれています。
いったい誰がこんな詳細きわまりない絵を描けたのでしょうか。とても想像だけで描いたとは思えません。そして、すべてはオールカラーなのです。あちこちに首をとられた将兵の身体が地面にころがっています。そして、女性が襲われ、人さらいに連れられていっています。まさしく、戦争というものの悲惨さが如実に示されています。
ここには勇壮な合戦絵巻というより、戦争(合戦)の残酷さがよくも描かれています。
大阪城天守閣の元館長によるものですので、その解説はなるほどと思わせます。
5月7日、決戦の日の真田隊は、真田幸村自身をはじめ多くの将兵が家康の本陣を目指して捨て身の突撃を繰り返したため、一時は家康本陣のシンボルたる金扇(きんおうぎ)の大馬印を倒して家康を避難させる事態にまで至った。
幟(のぼり)、旗指物(はたさしもの)、鎧具足(よろいぐそく)などを赤一色で統一した「赤備えの真田隊」の奮戦振りはひときわ目立った。「真田、日本一の兵(つわもの)」と東軍の将兵たちも賛嘆を惜しまなかった(「薩藩旧記」)。真田幸村が越前兵に討ち取られたとき、数えの49歳だった。
豊臣家の馬印が平成びょうたんだというのは、江戸時代も後期の寛政年間(18世紀末)の創作であって、本当は金びょうひとつだった。この「屏風」もそのとおり正確に描かれている。この「屏風」は、合戦の現場を生々しく描いているところに特色がある。
合戦の現場は一人ひとりが必死の殺し合い。敵の首ひとつを取るのも容易なことではなかった。殺すか、殺されるかで、まさしく修羅場だった。
徳川軍の内部でも、各部隊の軍功争いは熾烈だった。そして、各人の高名争いは、さらに切実だった。参戦した将兵のうち、実際に高名をあげられたのは、少数でしかない。それで、敗走する将兵を襲って首を取る「追い首」、武器をもたない非戦闘員の避難民を襲って首を取る「偽首(にせくび)」も横行した。さらには、「味方討ち」さえ起きていた。
この「屏風」には、婦女暴行やら略奪の生々しい状況も描かれている。目立ちにくいところに、ひっそりと描きこまれているのだ。
「真田丸」を楽しみに見ようという人にとっては必読の本であり、「屏風」は必見(私も残念ながらまだ見ていません)だと思いました。
(2015年11月刊。1900円+税)

2016年1月16日

真田丸の謎

(霧山昴)
著者  千田 嘉博 、 出版  NHK出版新書

 大坂の陣では、火縄銃だけでなく、多くの大砲が使われた。徳川方はイギリスから購入した最新式のカルバリン砲などの大砲で鉄壁の大坂城を砲撃した。当時の砲弾はまだ炸裂弾ではないので致命的な打撃を与えることはできなかったが、それでも大坂方を威嚇して戦意をくじく効果は十分にあった。とりあけ、大坂城の北側にある備前島から大坂城天守を目標として撃ち込まれた砲弾は、城内の人々、実質的に豊臣方の総大将であった淀殿を恐怖させることには成功した。
 真田丸の戦いは、大阪冬の陣(1614年)における最大の激戦として知られる。これまで真田丸は南北220メートル、東西180メートル程度とされてきた。しかし、実は、それよりはるかに大きなスケールだった。
真田丸は、単なる砦や馬出しというレベルではなく巨大な要塞だった。 
真田丸は、本体とその北側にある小曲輪(くるわ)によって構成される、二重構造だった。真田丸は、あらゆる敵の攻撃を想定し、どのような状況になっても、真田丸単体で生き残れるように設計されていた。つまり、一個の独立した域を想構の外側に新たに築いた。そんなイメージで捉えるべきものだ。
 真田信繁(幸村)の武名があがったのは、大坂冬の陣における真田丸での活躍があったからで、大坂城に入った段階では、大坂方の中での信頼度は低かったのも当然である。
真田信繁には、孤立無援の「死地」とも言える真田丸において、「敵襲を防ぎきることができる」という確信があったのではないか・・・。
 真田丸は方形で、前面は深さ6~8メートルの水堀、後方(北側)は、深い谷に守られた複雑な地形だった。真田丸は、近づくことさえ難しい、きわめて堅固な砦だった。ここに3000兵が籠もっていた。そこへ井伊直孝、松平忠直、前田利常の軍勢が攻めかかってきたが、彼らは数千人もの被害を出して敗退していった。
 著者は、真田丸が三光神社あたりではなく、明星学園を中心とした位置にあったとしています。もちろん、今は何も残っていません。
 それでも一度、現地に行ってみたいと思います。よく調べてあると感心しました。
(2015年11月刊。780円+税)

2016年1月 9日

真田信繁

(霧山昴)
著者  平山 優 、 出版  角川迸書

 真田幸村についての本格的な研究書だと思いました。真田幸村は昔からマンガ本その他で身近な存在でしたが、この本を読むと知らないことだらけでした。
 大坂冬の陣のとき、家康方の大名家臣には、関ケ原合戦以降、14年間も大規模な戦争が起きていなかったために、実戦経験のないものが多数を占めていた。そのため、戦場での駆け引きや出頭らの指揮の命令に従う要諦など、多くの点で経験に欠け、ややもすると暴走する者が少なくなかった。大名やその家臣たちは、それぞれの立場や思惑をかかえて大きな戦場にのぞんだ。そして、そこで、功績をあげ、自分たちの身上を上昇させていこうと考えていた。ここに、真田丸に攻撃を仕掛けてきた寄せ手たちが、思わぬ不覚をとった背景がある。
 真田丸や惣構に向けて、東軍の情勢は、とりわけ先手衆が功を焦り、面子を競いつつ攻め寄せる事態となった。これに釣られて後方の軍勢も先行を焦って続々と前に出てきてしまい、前田利常ら大将の命令も無視された。これが各軍の指揮系統を麻痺させ、混乱に拍車をかける結果となった。
 真田信繁が守る真田丸とその背後の惣構の連携により、東軍は甚大な打撃を蒙り、敗退した。前田、井伊、越後衆らが大敗を喫し、多大な損害を受けた。
 真田丸の戦闘で大敗を喫したことに、家康は大きな衝撃を受けた。そこで家康は穏やかに真田信繁を調略しようと試みた。真田昌幸・信繁父子は、家康が調略工作に置いて破格の条件を提示し味方につけて難局を打開すると、約束を反古した経緯をそれまで嫌というほど見せつけられてきた。それで、失敗に終わった。
外国人宣教師たちは、大坂冬の陣を徳川方の雅色が悪かった合戦だと認識していた。
大坂城の濠が埋め立てられて無惨な状況になったにもかかわらず、牢人衆たちは大坂を去ろうとせず、小屋掛けして居座り続けていた。そればかりか、全国から、豊臣家に奉公を望むものが方々から流れ込んできて、太閣在世中よりも人数が多いと言われたほどになった。豊臣方は、大坂城下に立札を出し、仕官は受け付けないと告知していたものの、実際には新参者の牢人たちを優遇していたので、彼らは妻子を連れて居座るようになった。冬の陣のときよりも多数の牢人たちが集まり、大坂方の動きは活発化していった。
 大坂方に味方する牢人が増えたのは、冬の陣における徳川方の作戦と、秀頼の主張に正当性が認められていたから・・・。
 牢人たちは、和議によって赦免されても召しかかえてくれる大名はまったくなかったので、大坂を去ることが出来なかった。牢人問題は豊臣方の責任事項であり、その召し放ちこそ和睦時の約束だった。
 家康は豊臣氏を滅ぼす気はまったくなく、あくまで国替えに応じさせて徳川将軍体制下に組み込むことで問題を解決しようと考えていた。そのため、東北、北陸、畿内のみに動員をかけ、西国大名には待機を指示していた。
大坂方には、牢人して時節を待っていただけあって、年齢は経ていても実践経験のある者が非常に多かった。
大坂夏の陣における東軍で目立ったのは、大した理由もないのに軍勢がいきなり崩れ、陣形を乱したばかりか、算を乱して逃げ崩れることになる。これを「味方崩」と呼んだ。味方崩が重大な事態を招いたのは、一部の兵卒が逃げ崩れ、味方の軍勢に逃げ込むことからであった。これは東軍の兵士たちの多くが実戦経験に乏しい者たちで占められていることから起きたこと。
 大坂夏の陣のとき、死戦を覚悟していた越前松平忠直軍の抜け駆けによって、東西両軍が望まない形で開戦することになってしまった。東軍は、兵力こそ15万を数えたというが、各軍勢は大名単位で思いおもいに活動している。家康・秀忠の指示は届きかねる状況だった。
家康は豊臣氏を最初から潰すつもりなどなかったし、大坂の陣が勃発したあとも、なんとか戦争を回避しようと秀頼の説得につとめていた。
家康は、兵糧の欠乏と寒気に悩まされ、戦闘での敗退などで諸大名が徳川から離反することを恐れていた。他方、豊臣方は、玉薬などの欠乏に悩まされ、これ以上籠城戦は困難になりつつあった。このようにして、双方の思惑が一致して、和睦は成立した。このとき、双方で問題となったのは、大坂城に籠城した牢人たちを、どう扱うかという問題だった。
敵方からも称賛された信繁は当時から大いに注目され、5月8日の首実験には多くの武将が見物にやってきた。
このようにして信繁は幸村として、軍記物のなかで大活躍するようになっていった。
 大変新鮮な切り口の幸村についての本です。NHKドラマ「真田丸」の時代考証を担当する著者の語りは明快です。
(2015年10月刊。1800円+税)

2016年1月 5日

帰蝶

(霧山昴)
著者  諸田 玲子 、 出版 PHP研究所

 織田信長の正妻は、明智光秀の従妹であり、斎藤道三の娘だったというのです。知りませんでした。織田信長の正室、つまり正妻です。
帰蝶は、斎藤道三(どうさん)の娘の濃姫(のうひめ)である。これまでの通説によると、本能寺の変のずっと以前に早世したが、離縁されたと考えられていた。ところが、近年そうではなくて慶長17年(1612年)に78歳で亡くなったという記載が見つかった。別の資料にも、信長の一周忌の法要を信長公夫人がとりおこなったと書かれている。
では、帰蝶は本能寺の変に至るときに明智光秀といかに関わっていたのか、そして本能寺の変が起きたあと、いかなる行動に出たのか、誰もが知りたいところです。
そのあたりを小説として、女性の立場でこまやかに丁寧に描いた小説です。
私は安土城には二度のぼったことがあります。やはり織田信長の「天下布武」という発想を知るためには、ぜひ一度は安土城の跡地に立つ必要があると考えました。
広い大手門の坂道をのぼっていき、あとは曲がりくねっています。天守閣を再現した博物館が近くにあって、当時をしのぶことも出来ます。
信長の周囲にいた女性たちが、栄光と恐怖の背中あわせに生きていたことを偲ばせる小説でした。
作家の想像力というのは、本当にたいしたものです。
(2015年10月刊。1700円+税)

2015年12月31日

アジアのなかの戦国大名

(霧山昴)
著者  鹿毛敏夫 、 出版  吉川弘文館

  戦国時代の大名が海外貿易に積極だったことがよく分かる本です。
  周防(すおう)山口に本拠を置く大内氏は、15世紀半ば過ぎ、それまでの対朝鮮交易に主体的に乗り出していった。大内氏は、16世紀半ばの天文7年と天文16年の2度とも、遣明船経営を独占した。
  天文7年(1538年)の遣明船は、大内船三艘で編成されていたが、各船には百数十人が乗り込み、総勢400人をこえる船団だった。
肥後の戦国大名である相良(さがら)氏も遣明船を派遣した。相良晴広は、天文23年(1554年)に、「市木丸」を明に派遣した。このとき、日本からは、銀を持っていった。豊後(ぶんご)の大友氏も遣明船を派遣した。
  これまでの通説では、大内氏が滅亡した天文20年(1551年)をもって勘合貿易が断絶されたとされているが、実は、このように相良、大友、大内ら西日本の地域大名によって遣明船は派遣され続けていた。
  ただし、それは明(中国)側にとっては、密貿易(倭冠船)そのものでもあった。
  すなわち、16世紀に日本の地域大名が派遣していた遣明船は、明政府から日本国王使船として認められたら正式な朝貢貿易船として振る舞い、認められなければ密貿易船として南方海域で私貿易活動を行うというように、裏表を使い分ける二面性を有していた。
  15世紀の遣明船が日本から中国(明)へ運んだ最大の輸出品は硫黄だった。木造帆船に軽自動車54台分の重さの硫黄を積んで東シナ海を横断した。
  宋代の中国では、火薬を兵器として利用することが拡大し、黒色火薬の原料としての硫黄の需要が急増した。11世紀の宋政府は、日本から大量の硫黄を買い付け、軍需物資として硫黄を国家的に管理した。このころの日本では硫黄が、鬼界島(硫黄島)や大分で掘られていた。
  ゴールド(金)ラッシュ、シルバー(銀)ラッシュと同じように、サルファ―(硫黄)ラッシュが出現していた。15世紀から17世紀までのこと。
  カンボジアやシャム(タイ)とも九州の諸大名は取引をしていた。カンボジア国王は、大友氏へ返礼として象を送ろうとしたようです。
  西日本で多くのキリシタン大名が生まれたのも、これらと関係がある。戦国大名で最初に受洗したのは肥前の大村純忠。その後、九州では有馬氏や大友氏、中・四国では宇喜多氏や一条氏、幾内では高山氏。このように、西日本で多くキリシタン大名が生まれている。
 戦国時代の日本の実情について知らないことがたくさんありました。

(2015年9月刊。1700円+税)

2015年11月14日

秀吉研究の最前線

(霧山昴)
著者  日本史史料研究会 、 出版  洋泉社 歴史新書Y

 秀吉についての最新の研究成果がコンパクトにまとめられた新書です。
 五大老・五奉行という呼称は、秀吉の当時は使われておらず、江戸時代に入ってから一般化した。五大老とは、江戸幕府の大老にちなんでつけられたものなので、江戸時代の呼び方。五奉行は、あるときは「年寄」ないし「奉行」と呼ばれていた。
 五大老の日常的かつ本来の職務は領地給与であった。五大老は、あくまで秀吉の代行者にすぎなかった。五奉行の職務は、豊臣家直轄領の統括であった。
そして、五大老が上位で、五奉行が下位であったというのは、安易すぎる結論であって、見直されてしかるべきもの。
 秀吉は、武家出身者として初めて従一位関白に任官した。秀吉は、死ぬまで太政大臣の地位に留まっていた。
秀吉の実父は誰なのか分っていない。実母はなか(のちの大政所)。
刀狩以降も、民衆は丸腰ではなかった。江戸時代の百姓は領主に数倍する鉄砲をもっていた。ただし、百姓から帯刀権が剥奪された。
 清須会議は有名だが、会議というのは明治になって学者が名づけたもの。当時は、「談合」と呼んでいた。このとき、信雄と信孝が争ったのは織田家の家督ではなく、「御名代」であった。
 秀吉は名護屋城における最重要拠点を家康に任せていた。つまり、秀吉は家康を警戒していなかった。
 40代、50代の学者による研究会がまとめていますので、信頼性があります。


(2015年8月刊。950円+税)

前の10件 2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー