弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

ヨーロッパ

2022年4月 8日

ロシアトヨタ戦記


(霧山昴)
著者 西谷 公明 、 出版 中央公論新社

ロシアがウクライナ侵略戦争を始めて1ヶ月あまりたって、こんなときにロシアに関する本を読んでどうするんだ...、と思いつつ読んだ本です。
まったく期待せず、さっと読み飛ばすつもりだったのですが、意外や意外、とても興味深い内容の本でした。なるほど、今のロシアって、そんな国だったのか、ウクライナへの侵略戦争を始めた理由、そして、ロシア国民の7割がプーチン大統領を支持しているという理由が、やっと理解できました。つまり、ロシアにトヨタが進出していったとき、どんな扱いを受けたのかを通じて、ロシアというのは、どんな国なのかがよく分かったということです。
ロシアという国に正義など存在しない。そのことはロシアでの苦い経験から、身をもって学んだ。裁判による企業側の勝訴率は20%以下と言われていた。下手な取引(ディール)に応じてしまえば、いずれもっと大がかりなたかりの標的にされ、将来に取り返しのつかない禍根を残してしまうことになりかねない。
当時のロシアは粗野で、不条理にみちていた。「当時」と、今では違うと言えるのでしょうか...。それが問題です。
ロシアで土地を取得し、そこに社屋を建設するとなれば、きれいごとだけですまない。これは分かっていた...。実際に社屋建設に向かって動きだしてみると、ロシア社会の実態が分かってきた。その社会の無法ぶりに泣かされた。資材や機材を輸入するとき、厄介な通関手続の代行をふくめて、巨大な輸入ビジネスのすそ野を形成していた。認証料や手数料などの名目で、あちこちへお金が落ちるしくみになっていた。どこでも「袖の下」が求められた。
ロシア人は請負師であって、自らは仕事せず、中央アジアからの出稼ぎ労働者に仕事をさせる。ロシアは、まぎれもなく階層社会だった。
ロシア経済は、原油への依存に大きく偏りすぎていた。貿易では輸出の65%以上、財政では歳入の50%以上を石油とガス、その関連製品が占めていた。
ロシアは経済危機におちいると、いっとき高級車が飛ぶようによく売れる。それは、ロシア人が自動車を換金性の高い資産と考えているから。
ロシアの人々は、家族と自分自身の日々の生活だけを重んじて、政治や社会、他人については無頓着で、無関心だった。他人を押しのけて生きるのはあたり前。
残念ながら、ロシアは、今もって成熟しておらず、欧米や日本の通念に照らして「ふつうの国」からほど遠い。
ロシアでは犯罪は容易につくりあげられ、正義はなきに等しい。
ロシアでは貧富の差が拡大し、社会のひずみが身近に感じられる。経済のそこここに利権がはびこり、行政の腐敗、汚職と賄賂が蔓延している。交通警察の陸送へのいやがらせもひどかった。
プーチン大統領は、国家に管理された資本主義の方向に向かった。それは中央集権的な政治を目ざすということ。ところが、ロシア国民にとって、プーチンは、祖国を分裂と崩壊の淵から救い出し、国家としての一体性を回復させて、ふたたび大国へと導くための道筋をつけた恩人だった。だから、支持率70%は当然だった。
ウクライナへの侵略戦争を始めた今日でも、なお70%もの支持率だといいます。マスコミがプーチンによって統制されて、ほとんど戦争の真実をロシアの人々に伝えていないからでもあるでしょうが...。
近代ロシアの歴史は、一貫して権威主義的な専制君主国家として、上からの垂直的な統治があり、下には上に従う多数の国民がいる。
トヨタは、ロシアでレクサスをふくめて多くの車の売り込みに成功したようですが、その内実がいかに、大変だったのか、この本を読むと、その大変さのイメージがつかめます。
ロシアのウクライナ侵攻の背景にある、ロシアという国の本質を垣間見ることができる本として、一読をおすすめします。
(2021年12月刊。税込2420円)

2022年4月 6日

ユダヤ人を救ったドイツ人


(霧山昴)
著者 平山 令二 、 出版 鷗出版

ナチスがユダヤ人を迫害し、大量に虐殺したことは歴史的事実です。
ところが、少数ではありますが、迫害されるユダヤ人を身の危険をかえりみず救ったドイツ人もいたのです。本書は、それを丹念に掘り起こして、詳しく紹介しています。そのような人たちは「静かな英雄たち」と呼ばれています。
映画「戦場のピアニスト」は実話を描いていますが、そこに登場しているドイツ軍将校の素顔が紹介されています。気まぐれとか偶然とかでユダヤ人ピアニストを救ったのではないことを初めて知りました。
ヴィルム・ホーゼンフェルトは、教師の父、両親とも厳格なカトリック教徒であり、本人も父と同じく教師となり、ペスタロッチの教育観の影響を受けた。ホーゼンフェルトは突撃隊に入隊し、ナチス教師連盟にも加盟しているが、次第にナチス党に違和感をもつようになった。反ユダヤ主義に共感できなかった。そして、アウシュビッツ強制収容所のガス室の存在を知り、「こんなひどいことを見逃しているなんて、なんと臆病なことか、我々も全員が罰せられるだろう」と1942年8月13日の日記に書いている。
「ユダヤ人のゲットーはすべて焼け跡になった。獣の仕業だ。ユダヤ人の大量虐殺という恐ろしい所業をして戦争に敗北するというわけだ。拭いようのない恥辱、消すことのできない呪いを自らに招いた。我々は恩窮に値しない。みんな同罪だ」(1943年6月16日)
「労働者たちはナチスに同調し、教会は傍観した。市民たちは臆病すぎたし、精神的な指導者たちも臆病だった。労働組合が解体され、信仰が抑圧されることを我々は許した。新聞やラジオでは自由な意見表明はなくなった。最後に、我々は戦争に駆り立てられた。理想を裏切ることは報いなしではすまない。我々みんなが尻拭いをしなければならない」(1943年7月6日)
これって、今のロシア、いえ、日本にもあてはまりませんか...。
ホーゼンフェルトがユダヤ人ピアニストのシュピルマンに出会ったのは1944年11月17日、そして、かくまい続けた。
ホーゼンフェルトは、ドイツ軍が敗走するなかで、ソ連軍の捕虜となり、白ロシアの軍事法廷でワルシャワ蜂起弾圧の罪で懲役25年の刑が宣告された。ポーランドで著名な音楽家となっていたシュピルマンは、ホーゼンフェルト救出に尽力したが、ホーゼンフェルトは2度目の脳卒中でついに1952年ン8月13日、死に至った(57歳)。
ドイツ軍大尉として、ヒトラーを支持しながらも、ユダヤ人救済者でもあったというわけです。
1943年2月末、ベルリンには2万7千人のユダヤ人が暮らしていた。そして、戦争中、6千人のユダヤ人が潜行していた。1人のユダヤ人を救うのに7人の救済者がいたとすると、単純計算ではベルリンだけで4万人もの救済者がいたことになる。
救済者の一人として、ベルリン警察署長がヴェルヘルム・クリュッツフェルトがいた。そして、その部下も署長とともにユダヤ人を救っていた。
多くのユダヤ人を救ったドイツ国防軍の軍曹もいました。シュミット軍曹です。大胆にも軍のトラックを利用してユダヤ人を安全地帯に移送した。それがバレて、軍法会議にかけられ、シュミット軍曹は死刑に処せられた。このアントン・シュミット軍曹は思想的背景はなく、他人の苦しみに同化し、必要とされたら他人を助けるという本能に従って行動した。処刑される寸前に妻あての別れの手紙にシュミット軍曹はこう書いた。
「私は、ただ人間たち、それもユダヤ人たちを、死から救っただけ。それで私は死ぬことになった。愛するお前たちは、私のことは忘れてくれ。運命が望んだような結果にまさしくなっているのだから」(1942年4月13日)。
この本には、保守的で閉鎖的と思われていた農村でも、ユダヤ人が隠まわれ、戦後まで生きのび例があることも紹介されています。それは、裕福な自立した農民であり、家族の絆(きずな)を大切にし、敬虔(けいけん)なキリスト教徒だった。
ユダヤ人救済に身を挺したドイツ人が少なくないことを知ると、心がいくらか安まります。
(2021年9月刊。税込3520円)

2022年3月27日

ファーブル伝


(霧山昴)
著者 ジョルジュ・ヴィクトール・ルブロ 、 出版 集英社

『ファーブル昆虫記』で名高いファーブルの評伝です。著者はフランスの医師であり、国会議員もつとめた政治家でもありますが、生前のファーブルと親交があったようです。なので、ファーブルの昆虫観察ひとすじの生活ぶりが詳しく紹介されています。
そして、とてもこなれた日本文になっていますので、476頁もある大著ですが、スラスラと読みすすめることができました(私は、日曜日の昼に読みましたが、3回で読了しました)。
ファーブルの人生においては、何もかもが真剣で、常にある一つの目標に向かっていた。
ファーブルの90年あまりの長い生涯は、3つの時期に区分できる。
その一は、60年近くにわたるもので、「荒地」を手に入れるまで、その二は、孤独と深い沈黙の時期。しかし、この時期がいちばん活発で、収穫も豊か。その三は、人生の最晩年の10年間で暗闇のなかにいきなり光があたったような時期。
ファーブルは、どんなときでも、何もしないで時間を過ごすということがなかった。
ファーブルにとって、子どもと虫、この二つこそが大きな喜びだった。子どもたちに、毎日(木曜日と日曜日を除く)午後2時から4時まで講義した。
何より必要なのは、生き物に対する強い共感。
優れた観察者というものは、実際には想像力をはたらかせてものを創り出す詩人だ。
ファーブルは、本能とは何かを定義したり、その本質を深く掘り下げたりはしない。本能は定義できないし、その本質もまたはかり知れないからだ。しかし、ファーブルは、『昆虫記』において、本能と、その無限の多様性について、多くのことを学ばせる。
昆虫は、やり慣れた作業や習慣的な行動から逸脱することができない。なので、ファーブルは、虫には知性がないとした。
ファーブルは、何事もこまかく突きつめていく性格だった。実証的で、厳格で、独立心が旺盛だった。
ファーブルは、ダーウィンと同世代の人で、手紙のやりとりをしていた。ファーブルはダーウィンの進化論を否定して賛同せず、表向きは敵というか、論争の相手だった。しかし、この二人は、互いに深く尊敬しあっていた。
ファーブルは、あらゆる動物、たとえば犬や猫、家で飼っているカメだけでなく、ぷっくりと膨れて、皮膚のべとべとしたヒキガエルとさえ仲良くしていた。
生きとし生けるものは、みな神聖なつとめを果たしている。この教えをファーブルも大切にした。
ファーブルは、ごくフツーの、誰にでも分かるコトバで語ろうと努力した。
ファーブルは、素朴でイメージの富んだ呼称や、ありふれた俗称など、一般やの人々がつかう生き生きした用語のほうを使うのを好んだ。
ファーブルの最晩年は「貧窮」のうちに生活していた。
フランスには、日本ほど大の男がチョウチョウなどの昆虫を愛していると公言する人はいないようです。日本には有名な俳優にも政治家にも、昆虫大好きだと公言してはばからない人がいますし、世間が受け入れていますよね。私も、その一人です...。
(2021年5月刊。税込4620円)

2022年3月20日

同志少女よ敵を撃て


(霧山昴)
著者 逢坂 冬馬 、 出版 早川書房

独ソ戦、ナチス・ドイツ軍とソ連・赤軍の死闘のなかで、スターリングラードなどでは激烈な市街戦も戦われ、そのとき狙撃兵が活躍しました。ソ連軍は、女性だけの狙撃兵部隊を組織し、彼女らは目を見張るほど活躍しました。この歴史的事実を踏まえたフィクション(小説)ですが、よく調べてあり、ストーリー展開も無理がなく、最後まで狙撃兵になった気分で読み通しました。
アガサ・クリスティー賞を受賞しましたが、惜しくも直木賞は逸してしまいました。
巻末に主要参考文献一覧が明記されているのは、小説と言いながらも歴史的事実に立脚していることを裏付けています。このリストにあがっているもので有名なのは最近の本では『戦争は女の顔をしていない』(岩波書店)です。これはマンガにもなりました。読みでがあります。
日本人の書いたものでは大木毅『独ソ戦』(岩波書店)が勉強になりました。
スターリングラードをめぐる攻防戦については映画もありますし、狙撃兵を主人公とする映画もありました。
ソ連の狙撃兵は、一般の歩兵師団の中に置かれる狙撃兵部隊と、第39独立小隊のように、ソ連軍最高司令部隊予備軍に所属し遊撃する狙撃兵集団に大別される。いずれにしても、狙撃兵は歩兵と相性が悪く、仲は良くない。これは職能の違いにもよる。
歩兵は前線で敵弾をかいくぐって敵に迫り、市街戦ともなれば数メートルの距離で敵を殺すのが仕事だ。そのために必要な精神性は、死の恐怖を忘れて高揚の中で自らも鼓舞し、熱狂的祝祭に命を捧げる剣闘士のものだ。
これに対して狙撃兵は、潜伏と偽装を徹底し、忍耐と集中によって己を研鑽し、物理の下に一撃必殺を信奉する、冷静さを重んじる職人であり、目立つことを嫌う狩人だ。
歩兵から見た狙撃兵とは、自分たちを全面に出して距離を置いて敵を撃つ陰気な殺し屋集団。これに対して、狙撃兵から見た歩兵とは、狙撃兵の損耗率が歩兵より高いという事実を無視して、自分たちを蔑視し、乱雑な戦闘技術で粗暴に振る舞う未開の野蛮人。
狙撃兵は、歩兵が求めるような戦友同士の同志的結合、固い絆といったものを好む精神性をあわせて重視せず、狙撃兵同士で集まり、寡黙に過ごす者が多い。
500メートル先の敵将校をスコープでとらえ、生きている人間と分かって銃撃して殺すというのが狙撃兵の任務。自分の指の引き金で目前の人を殺すことにためらうことがないというわけです。ふつうの神経の持ち主にできることではないでしょう。私は、もちろんできません。そこらをふくめて、いろいろ考えさせられる本でもありました。
(2021年12月刊。税込2090円)

2022年3月16日

黒人と白人の世界史


(霧山昴)
著者 オレリア・ミシェル 、 出版 明石書店

フランスは奴隷制と植民地制度を、おそらくもっとも高度に強力に推進した国。
フランス革命のあと、画期的な人権宣言をしたフランスは、別の顔をもっていたのです。
そして、2001年のトビラ法(トビラという国会議員が法務大臣になって制定した法律)は、学校では歴史の学習指導要領に大西洋地域の奴隷や奴隷貿易についての教育を導入するよう義務づけた。
戦前の日本が中国大陸や朝鮮半島から人々を強制的に連行して日本国内の鉱山等で労働させていた事実を学校で教えるよう義務づけたようなものです。佐渡金山で強制連行してきた朝鮮人等を労働させていた事実は、地元の史書にも明記されている史実なのに、自民党政府は躍起となって否定しようとしています。まさしく恥ずべき政府というほかありません。
モンテスキューは、黒人奴隷制に反対する立場から、皮肉をこめて次のように言っている。
「この人たちが人間であると想像するのは、我々にとっては不可能だ。なぜなら、人間だと認めれば、我々自身がキリスト教徒ではないと思い始めるだろうから...」
アメリカ征服の初期には、ヨーロッパ人は自分たちを「キリスト教徒」と定義すれば、現地のインディアンと区別するのに十分だった。ところが、次第に混血児が増えてくると、白い色は支配階級の印になっていった。
非白人は、次のように分類された。ムラートは、白人と黒人の混血。メスティーソは白人とインディアンの混血、カルトロンは黒人の血が4分の1、オクタロンは黒人の血が8分の1。いずれも、社会の上層部に上ることを妨げられた。
奴隷制の極端なまでの暴力は高くつく。それによって引き起こされる反抗や反乱を抑止して労働強制する体制を維持するだけでも、大変な代償だ。表面的には繁栄していても、奴隷制は身体的暴力や法律によって絶えず再構築しなければならない脆弱な制度だった。そのため、奴隷制は非常に利益が上がっていても、その擁護者でさえ急速に廃止を受け入れざるをえなかった。
紀元後1世紀のローマ帝国には、200万人の奴隷がいた。同じ時期の漢王期にも100万人の奴隷がいた。日本でも少なくとも10世紀までは奴隷がいたとされている。これって、平安時代の日本に奴隷がいたということですよね。「安寿と厨子王」も奴隷の話だったということでしたっけ...。
インドでは、1860年にイギリスが禁止するまで900万から1000万人の奴隷がいた。
2016年ですら、本質的に奴隷とみられる人が世界中に2500万から4600万人いる。
7世紀から19世紀にかけて、1700万人のアフリカ人がアフリカ東部ルートで売られた。さらに1200万人が大西洋地域に売られ、900万人が北アフリカに送られた。
奴隷は、生産はするが、再生産のサイクルには貢献できないので、親族とみなされない。これは人間性からの永久追放に相当する。
奴隷は子どもを持ったとしても、親の資格は与えられない。子孫を持つこともできない。奴隷である父親や母親は、自由な子に対して親権を行使できない。
奴隷は象徴的かつ決定的に排除されると同時に、慣れ親しんだ人、召使であり、犬のように割り当てられた立場にとどまる。
奴隷制をつくり出すのは戦争だ。また、奴隷売買は商業経済の一部でありうる。
奴隷船には500人から600人が積み込まれた。2ヶ月半の航海で18%から11%の死亡率。反抗や逃亡の試みは日常茶飯事。乗組員の6倍の奴隷がいた。あまり残酷に扱って商品を死なせてはいけないし、反抗する力をもたせてもいけなかった。水と食事は最小限に抑え、病気を避ける必要があった。
目的の港に到着すると、男女各1人、子ども1人で4人か5人でひとまとまりとして売られる。これは実際の家族関係でないことが多い。
アメリカ独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、奴隷制を肯定し、奴隷を厳罰化する法律をつくった。
「博物学の観点から、赤い人種と黒い人種は、肉体と精神のあらゆる完成度において白人に劣っている」とジェファーソンは書いた。
人種とは、あいまいな概念で、ほとんど無意識であるため、奴隷制よりもさらにいっそう暴力を生み、本来は筋道をつけるべき社会関係を常に攪乱する。つまり、人種は奴隷制のあとを引き継ぐとしても、奴隷制に相当するものではない。
ニグロの家族をつくること、自由労働者を再生産し定住させることは、解決不能な矛盾だ。住民の定着・増加と奴隷労働は両立しない。
奴隷制は人種差別から生まれたのではない。正確に言えば、人種差別が奴隷制に由来するものだった。
奴隷と人種との関係をふくめて、いろいろ考えさせられる本でした(難解なところも多々ありましたが...)。
(2021年12月刊。税込2970円)

2022年3月13日

輝ける闇の異端児、アルチュール・ランボー


(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版 書肆侃侃房

ランボー没後130年。
アルチュール・ランボーが生きたのはパリコミューンが誕生したころ。ヴィクトル・ユーゴ―も生きていた。ランボーは、コミューン兵士にもぐり込んだ。しかし、コミューン兵士のなかで、ランボーは挫折を味わった。澱んだ空気の充満する兵舎の中で、ランボーは詩を書けなかった。
1871年5月、ランボーはコミューン兵舎から逃げ出した。残った兵士たちは政府軍に虐殺された。
パリの詩人たちの前でランボーは自作の詩を朗読し、賞賛の歓声を受けた。ポール・ヴェルレーヌの紹介だった。しかし、ランボーは誌人たちとなじめなかった。
著者は私とフランス語をともに学ぶ仲間です。先に上梓していた『ロッシュ村幻影』を大幅に修正し、再構成してまったく新しい本となり、贈呈をうけました。
アルチュールは、幼少のころから教会に反抗し、神を愚弄し憎悪していたと言われている。そして、最期のとき、アルチュールは弱りきった肉体のかすかな力で、それでも必死の力で反抗した。何のために己は存在して生きてきたのか。俺は神を信じない。しかし、神が存在するなら、それを激しく憎む。そして、己の存在をも憎む。しかし、司祭は、アルチュールの中に深い信仰心を見た。
なかなか不可解なやりとりです。これが神への信仰の本質なのでしょうか...。宗教心の乏しい私には理解できません。
(2022年1月刊。税込1650円)

2022年3月 3日

アウシュヴィッツ生還者からあなたへ


(霧山昴)
著者 リリアナ・セグレ 、 出版 岩波ブックレット

13歳のとき、ユダヤ人少女としてアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、そこで父と死別し、死の行進もなんとか生きのびたというあまりにも苛酷な体験を90歳になって最後に語った内容が小冊子になっています。わずか50頁ほどのブックレットですが、これまで私が読んできた多くのアウシュヴィッツ強制収容所の実情を紹介する本にまさるとも劣らない強烈な内容です。
著者は映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を批判しています。強制収容所に夢なんてないし、家族のドラマもない。小さな子どもは働けないから、収容所に着いたら、すぐ殺された。子どもが母親と再会するのもありえないし、おとぎ話にすぎない。あり得たことは、ただひとつ、「死」だけ。まあ、そうなんでしょうね。でも、映画としては、やっぱり救いがほしいわけです。
収容所では眠った。眠りにつきたかった。外の音なんて聞きたくなかった。何も感じたくなかったし、何も知りたくなかった。日に日に心を閉ざし、自らの感情を殺した。焼かれる死体の山など見たくなかった。理由もなく罰を受け、ガス室に送られる人たちの姿など見たくなかった。知りたくもなかった。こんなところにいたくなかった。自らの中に閉じこもり、考えるのをやめた。
女性は誰も生理がなくなり、下着もはいていなかった。女性としての尊厳を奪われ、人間性を否定された。そんな状況では、自ら感覚をまひさせ、考えることをやめ、生きのびることだけを欲するしかなかった。
私たちはみな、友だちを失うことを恐れていた。友情を求めることをやめた。その友だちをいずれ失うことが怖かった。だから、ひとりでいることを選んだ。ただ怖かった。すべてを失ったあと、また何かを失うのが怖かった。
収容所の中で、助け合いや友情というものは、残念ながら、なかった。あんな状況で友情を築くなんて、とても難しいこと。
誰もが死の恐怖をかかえていた。「はい」と言っても、「いいえ」と答えても殺された。冷酷な支配者が望むような、もはや「人」とは呼べない、卑劣なエゴイストに変わっていった。
収容所で自ら死を選んだ人はごくわずかだった。誰もが生きようとした。生きること、ここを出て生きのびることを選んだ。
外の世界のことを思い浮かべた。遊びに夢中になってはしゃぐ子どもの声、子猫のこと、緑の野原と白い雲、そして美しい何かを思いうかべた。
収容所という恐ろしい場所には、人を自己中心的にさせ、人間性をうしなわせるよう仕向けるものだった。その瞬間だけを考えて生きていた。
「死の行進」で、誰も手を貸す人はいないし、誰かにすがろうともしなかった。途中で死んだ馬を見つけると、爪を立て、歯を使い、そこらに落ちていたものを手にして、死んだ馬の肉を生のまま食べた。食べられそうな部分を見つけ、少しずつ飲み込み、なんとか胃の中にのみ下した。そのとき、人間性は死んでいた。そうしてでも生きのびたかった。
「死の行進」のとき、道のわきに茂る木に手をのばし、葉をむしりとって口に入れた。栄養失調のため歯ぐきがうんで歯はぐらぐらしていた。葉っぱをかむのも大変なので、葉っぱの成分をすするようにして飲みこんだ。
ドイツの敗戦が明らかになり、収容所の所長が制服を脱いで下着ひとつになって拳銃を投げ捨てた。拾って所長を殺すこともできる瞬間だったが、彼女はしなかった。愛しか知らずに生きてきた彼女は、自分が人に対してひどい振る舞いをする人間ではないことを思い出し、所長を殺すことはしなかった。これが生まれ変わる瞬間だった。
そして、15歳のとき解放され、18歳で夫となるべき彼と知りあい、20歳で結婚し、90歳までの30年間、自らの体験を語った。無関心と無知を今の若い人々に克服してほしいと訴えていますが、これにはまったく同感です。
いやあ、すばらしいスピーチです。2020年10月9日の彼女のスピーチはイタリアのコンテ首相、外務・文部各大臣、上院議長なども会場にいて耳を傾けていて、イタリア国営放送は生中継したというのです。これまたすばらしいことです。日本のNHKに、こんなことができるでしょうか...。ぜひ、やってほしいものです。ぜひ、あなたも手にとってご一読ください。わずか63頁、ワンコインほどで買える冊子ですから...。
(2022年11月刊。税込572円)

2022年2月25日

チェチェン化するロシア


(霧山昴)
著者 真野 森作 、 出版 東洋書店新社

ポスト・プーチン論序説というサブタイトルのついた本です。
チェチェン共和国は、人口百数十万人、岩手県と同程度の面積。首長ラムザン・カディロフの独裁政治が長く続いている。
小さなチェチェンは、ロシアの命運を左右してきた歴史がある。プーチン、ロシア大統領が2000年に最高権力を握るときの鍵となったのがチェチェンだった。身近な場所でのテロに脅えていたロシア市民にとって、プーチンは「仲間のように気さく強い指導者」の登場だった。
チェチェンの首長カディロフはプーチンに個人的忠誠を誓い、見返りに首長の地位と地域統治のフリーハンド、連邦予算の投入を得ている。通算4度目のロシア大統領当選を果たしたプーチンにとって、大事なのは忠誠と安定であり、チェチェン内部がどうであろうと関係がない。
チェチェンでは、プーチンへの忠誠やロシアに対する愛国心が強調される反面、イスラム教とかカディロフへの個人崇拝が合わさった黒色の文化が形成されつつある。
チェチェン人は、コーカサス最古の民族の一つ。イスラム教を受容したのは17世紀以降で、比較的最近のこと。「スーフィー」と呼ばれるスンニー派のイスラム教新主義の進行が主流。歴史的にチェチェン社会は150ほどのテイブと呼ばれる民族、父系の血縁集団を基盤としている。
2002年10月のモスクワ劇場占拠事件(人質100人以上が死亡)、2004年2月のモスクワ地下鉄爆破テロ(40人以上死亡)、同年8月の旅客機2機の爆破テロ(90人死亡)、同年9月の北方オセアチア・ベスラン学校占拠事件(400人死亡)と、相次ぐテロ事件が起きた。また、現首長の父親のアフマト・カデイロフも2004年5月の爆弾テロで死亡している。
カデイロフ首長は、嘘や心にもないことを平気で語る。大言壮語や過激な脅し文句をよく口にする。存在感を誇示し、注目を集めることを好む。プーチンとの関係が生命線だと自覚しているため、忠誠心を露骨にアピールする。これって、関西で注目を集めている地域政党のリーダーたちによく似ていますよね...。
カデイロフは反対派を許容できない。狡猾(こうかつ)で、自分との競争相手は全部排除した。犯罪に対しては、犯人本人だけでなく、家族全員が罰せられる。
カデイロフは、自分の私的な親衛隊、カデイロフツィをもっている。武装した彼らは4万5千人もいて、治安当局とともに強権的な統治を支えている。
チェチェンには人権が存在していない。唯一の法律が首長カディロフの命令。
チェチェンは、全ロシアでもっとも失業者が多く、もっとも平均時給が低い地域だ。
チェチェン共和国の予算はロシア連邦中央の支援に依存している。共和国予算の8割がロシア連邦からの補助金で占められている。
チェチェンがらみでプーチン政権やカデイロフ体制を批判する政治家やジャーナリスト、活動家が暗殺されてきた。
チェチェンの民主化は、はるか彼方にあるようだというのが、本書を読んだ率直な感想です。
(2021年9月刊。税込2530円)

2022年2月17日

小説ムッソリーニ(下)


(霧山昴)
著者 アントニオ・スクラーティ 、 出版 河出書房新社

なぜか戦後日本ではムッソリーニは人気がない。悪玉としてヒトラーは一流の人物として評価されているのに、ムッソリーニは二流とみなされている。これは訳者があとがきに書いている文章ですが、そのとおりです。ムッソリーニについて日本人はよく知らない人が多いのではないでしょうか。ファシスト、黒シャツ党。そして、敗戦後、一時はナチス・ドイツから救出されたものの、結局は民衆のリンチにあって逆さま吊りで殺された。私もその程度の知識しかありません。
ところで、ファッショとは何か...。イタリア語では「東」とか「まとまり」を意味する。要するに、集団、団体の意味。議会外の戦闘的な運動によって政治に変革をもたらそうとする勢力を指す言葉だった。ファッショは「細い木」を意味すると書いた本があるが、それは間違いだと訳者は断言しています。
1922年10月ころ、イタリア共産党はファシストに打ち負かされ、社会主義者と袂(たもと)を分かち、内部は分裂をかかえていた。共産党の多数派は「統一戦線」に反対していた。民主主義とファシズムは同意語だった。このころ、イタリア共産党のもっとも明敏な知性を有するアントニオ・グラムシは最悪の健康だった。
1922年11月、ムッソリーニの率いる国民ファシスト党の議席は35だけなのに、イタリア議会は議会の信用を失墜させたムッソリーニ政権を圧倒的に信任した。賛成306、反対116、棄権7だった。
公衆の前に姿をさらしているときは、常に頑強な専制君主のポーズを崩さないムッソリーニも、ひとたび私的な場にとじこもれると、苦悩にもだえ、ささいなことに腹を立て、ぐずぐずと煮えきらない態度を示すことも珍しくなかった。
ムッソリーニは、正規の王国軍とは別の特定政党に従属する第二の軍隊の創設を目ざした。
ここではムッソリーニ首相への忠誠のみが紐帯(ちゅうたい)となる。ただ、これはかつての仲間たちから不評だった。
1924年5月の選挙で、ファシスト党の名簿の得票率は実に65%。有権者は、われ先にとファシスト党に票を投じた。社会主義者は123議席から46議席へ大きく減らした。わずか共産党のみが15議席から19議席は増やした。ところが、ファシスト党の内部で抗争が起きて、勝利を台なしにしつつあった。
ムッソリーニは不安だった。政敵ジャコモ・マッテオッティを抹殺するしかない。ファシスト党のトップグループたちが白昼、路上でマッテオッティを拉致し、車に乗せて連れ去った。目撃者となった少年の話は具体的かつ詳細だった。ファシスト党の財務部長は拉致犯たちに2万リラを渡していた。マッテオッティ失踪は直ちに大きなニュースとなった。
議会でムッソリーニは憤りと恐れで一杯の議員たちに迎えられた。自分たちも一歩間違えば王国の首都の中心で、白昼堂々、暴行され、誘拐されるかもしれないという心理が議員たちを襲った。そして、政治的な立場に関係なく、広く怒りが共有され、ファシスト党の内部をふくめ、いたるところから抗議の声が上がりはじめた。いたるところで、怒りが沸騰した。
突然、ムッソリーニのまわりに空白ができた。義勇軍は動員をかけてもろくに反応しなかった。町では市民がファシストのバッジをはずした。それでも6月26日、上院はムッソリーニ政権を信任した。賛成225,反対21,棄権6。政府は圧倒的に信任された。これでムッソリーニは、なんとか事態を乗りこえられる、党をふたたび掌握できると思い直した。
8月、マッテオッティの無惨な遺体が森で発見された。ファシズムに背を向ける人々が増えた。はじめに動いたのは、ファシズムを支えていた大企業家たちだった。自由主義者たちも距離をおくことにした。
そこで、ムッソリーニは、議会は政権が必要と判断した場合にのみ召集されることになった。ファシズム独裁が始まった。
ファシズム独裁というのは、ドイツでもイタリアでも、むき出しの暴力、凶暴な集団による暴行が横行するなかで誕生する(した)ということがよく分かる本でした。
(2021年8月刊。税込3135円)

2022年2月 4日

ヒトラー(その2)


(霧山昴)
著者 芝 健介 、 出版 岩波新書

1933年のヒトラー首相の誕生は、棚ぼた式に舞い込んだ僥倖(ぎょうこう)だった。1933年は権力安定には不安定な局面が続いた。ナチ大衆(ナチ党を支持する民衆)は、全国のユダヤ系商店や百貨店への攻撃を開始した。ナチ大衆の暴力が激化したが、それは、ナチ党機関紙や集会で煽動されたものだった。
1933年5月、左翼の抑圧、国会の屈服、ユダヤ人排除の次は諸政党の解体だった。7月にはナチ党以外の全政党が消滅した。また、ドイツにおけるカトリック教会の存続は認められたが、聖職者が政治に関わることは禁止された。
ヒトラーは内閣の閣議を1938年2月に開かれたのを最後とし、開かなかった。法の制定は合議によらず、回覧方式となった。そして、ヒトラー自身は命令をサインして文書に残すのを避けた。
ヒトラーは、政権を握ると、国防費をみるみる増大させた。ドイツの国防軍の支出は財務省の予算統制から除外され、国民の眼から見えなくされた。国家支出総額に占める国防軍支出の割合は、1933年の41%。34年の18%、36年の39%、そして38年には50%へと急伸した。いやあ、これはたまったものではありませんよね。いま、日本の軍事予算は5兆円を軽く突破して6兆円へと近づいています。自民党タカ派は、これを10兆円にしろと要求しています。もちろん、福祉・教育予算を削るのとだきあわせです。「人材」育成はお金をかけずに管理・統制でやって、戦争のための武器・装備には湯水のようにお金をつぎこんでいる日本の現状と同じです。軍事予算の急増させていったため、1938年8月ころ、ドイツの国家財政は危機に瀕していた。ついに財務大臣がたまりかねてヒトラーあてに警告した。こんな国家破産を国民に見すかされないよう、ヒトラー政府は躍起となった。
そのとき、1938年11月、「水晶の夜」が発生した。ヒトラーは崩壊寸前の国家財政状態を、ユダヤ人と非占領地住民に背負わせて隠蔽することにした。つまり、ヒトラーによるユダヤ人絶滅策の推進と、オーストリアやポーランド侵攻は、軍字予算の野放図な増大による国家財政危機を乗りこえる方策でもあった。
ヒトラー・ドイツの戦争方式は「電撃戦」として有名です。機械化された機動部隊による、敵軍の抵抗を即刻粉砕するもの。空軍と陸軍(わけても装甲部隊)の一挙投入による速攻で、最短期間に勝利を得ようとする奇襲作戦というイメージが強烈です。しかし、近年では、実は、そのイメージほどのことはなかったとする研究成果が次々に発表されています。長期総力戦の準備がされないままヒトラーの指導により戦争に突入したのが、ヒトラー・ドイツ軍の実際だったというのです。ここでも、言葉のイメージにひきずられてはいけないようです。
ヒトラー52歳のときに始めた対ソ連攻撃のバルバロッサ作戦は、ボリシェヴィズムは殲滅すべきものと宣言したものだった。人種とイデオロギーにもとづく忌まわしくも犯罪的な絶滅戦争にドイツ国防軍は関わらされた。道義性をかなぐり捨てた無法の戦争だった。
ヒトラーは、戦前は神格化され、カリスマ的指導者像、総統神話だったが、敗戦後は、180度逆転して悪魔視されるようになった。そんなヒトラーが精神病にかかっていたというのは否定されている。
ヒトラーは、慢性の胃腸の不調、けいれんによる痛みをかかえ、また、足には、ひどい湿疹に苦しんでいた。ヒトラーにはお抱え医師がいた。ヒトラーが自殺する直前までの8年半のあいだヒトラーに投薬していた内科医のモレル医師だ。頭痛、不眠、耳鳴り、めまい、視力障害等をさまざまな病気と結びつけて思い悩む心気症的傾向の強かったヒトラーに、モレル医師は、ブドウ糖やホルモン、ビタミン等をふくんだ注射ですぐに効果を感じさせる治療法で好印象を与えた。
モレルは、麻酔剤、刺激剤、睡眠薬、催眠剤等を多用し、ヒトラーを薬漬けにしていった。ヒトラーの演説時には、メタンフェタミンなど、中枢神経を刺激する興奮剤も用いた。
ドイツ軍は、自軍兵士にメタンフェタミンの戦時覚醒錠剤を配布・服用させていたことも明らかになっています。ただ、この本では、モレル医師の薬調合は不適切であったことを指摘すると同時に、ヒトラーにはパーキンソン病の進行があったとしています。
ヒトラーには、私的(個人的)生活がないに等しく、ヒトラーから政治を差し引いたら、ほとんど、いや何も残らない。このようにヒトラー研究者たちは見ているようです。いわゆる家族生活がなかったのです。それに代わるものとして、ヒトラーを取り巻く「内部集団」があり、それが重要な「代替家族」機能を果たしていたと推測しています。まあ、人間的には、とても寂しい生活だったというわけです。
ヒトラーは日記をつける習慣がなかったし、私的な文書を残さないよう意識していた。
ヒトラーは56歳で死亡していますが、スターリンと並んで大量の罪なき人々の明日を奪い、奪い尽くしたという点では、悪魔の所業をした「奴」(あえて人間とは言いません)として歴史の記憶の残すべき人物、忘れてはいけない人物だとつくづく思います。
(2021年10月刊。税込1276円)

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