弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月 1日

ジャンヌ・ダルク復権裁判

著者:レジーヌ・ペルヌー、出版社:白水社
 ジャンヌ・ダルクが処刑裁判によって破門・火刑に処せられてから25年たって、復権のための尋問が開かれました。フランス国王シャルル7世の命令によります。1450年のことです。しかし、教会裁判の結論を破棄することは国王の裁判所ではできませんでした。
 1450年4月15日、フランス西北部のフォルミニーの戦闘で、イギリス軍はフランス軍に完敗しました。かつてのアザンクールの戦い(シェークスピアの「ヘンリー5世」で有名です)のお返しをフランスは果たしたのです。
 1452年5月から、教会による調査が始まりました。そこでは、ジャンヌが処刑されたただ一つの理由は、彼女が男の服装を再度着用したことだということが明らかになった。
 そして、被告ジャンヌに弁護士がおかれなかったことは、法規に違反するとされた。
 教会による復権裁判が始まったのは、1455年11月7日。裁判に出頭した証人の尋問調書が残っています。
 ジャンヌは、たった1人で被告席にすわり続けていた。審理の最後まで、指導者も、助言者も、弁護士もいなかった。
 ジャンヌは非常に用心深い答弁をしたので、陪席者たちは感嘆していた。
 あるイギリスの高官がジャンヌの牢獄に入ってきて、暴力で彼女をものにしようとした。これが彼女が男の服装に戻った理由だとジャンヌから聞かされた。
 一緒にいた兵士たちに屈しないためでなければ、彼女は男の服装をすることもなかっただろうと言われていた。
 ジャンヌは火刑台に連行され、柱にしばられながらも、神や聖者への讃辞や信仰に支えられた嘆きの言葉をはき続け、その死の間際には、高い声で「イエズス様」と最期の叫びを残した。
 ジャンヌの遺骸の灰は集められたうえ、セーヌ川に捨てられた。
 復権裁判における証人尋問が終わったのは1456年5月14日。判決は1456年7月7日に下された。処刑裁判の判決は無効であるとして、破棄された。オルレアンの町では、町主催で7月21日に祭典が開かれた。15世紀の裁判なのに、こんなに詳しく過程が分かるというのも、本当に不思議な気がします。
 先日、ジャンヌ・ダルクの遺骨を称するものが残っているので、DNA鑑定にかけて真偽を科学的に調査するという新聞記事を読みました。セーヌ川にすべて捨てられたわけではなく、火刑台に残っていた骨を拾って持ち去った見物人がいたというのです。ジャンヌの残っている衣類と照合するのだそうです。いったいどういう結果が出るのでしょうか・・・。

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