弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月27日

観光都市 江戸の誕生

著者:安藤優一郎、出版社:新潮新書
 江戸に住む人々が今日の日本人と同じく観光が大好きであり、成田山参りもそこから始まったことを知ることができました。
 山本一力の「峠越え」(PHP研究所)を前に紹介しましたが、そこに出てくる出開帳(でがいちょう)は、江戸で江の島の弁財天の出開帳を苦労して成功させる話から始まります。珍しく成功した話だと思っていましたが、この本を読んで、江戸時代に寺社の経済活動として広く行われていたものであることを知りました。
 開帳には、居開帳(いがいちょう)と出開帳の2つがある。居開帳は、その神仏を所持する寺社で開帳するもの。出開帳は、地代を支払って他の寺社(宿寺、やどでら)の境内を借り、開帳するもの。諸国の寺社が多額の臨時収入を期待した江戸開帳とは出開帳のこと。江戸開帳を実現するには、江戸を直轄地とする幕府の許可が必要だった。たとえば、成田山新勝寺の場合、居開帳なら直属の支配者である佐倉藩の許可が必要であり、深川永代寺での江戸開帳には、それに加えて幕府の許可も必要だった。
 江戸出開帳の7割が隅田川をはさむ本所・深川・浅草エリアの寺社を宿寺としておこなわれた。もっとも多い宿寺は本所の回向院で、次いで深川永代寺、浅草寺となる。回向院での出開帳は幕末までの200年間に166回が記録されている。
 幕府は江戸開帳を年間20件以内に制限していた。開帳が許可されるためには実に煩雑な手続を必要とした。しかし、江戸開帳による臨時収入があまりにも魅力的なものだっただけに、寺社は、何かと理由をつけて開帳しようとした。
 安永7年(1778年)の回向院での善光寺出開帳への人出は、一日あたりなんと27万人近く、60日間で160万人をこえたというのですから、半端な人気ではありません。
 浅草寺の文化4年(1807年)の本尊開帳による収入は2628両、支出は528両で、差し引き2100両の利益があった。今のお金で2億円以上となる。1年間のお賽銭が3000両ほどだったので、開帳の威力のほどが分かる。
 神仏の開帳に加えて、寺社が所持する宝物のうち人の関心をひくようなものを公開して集客力を強化した。たとえば、泉岳寺は寛政8年(1796年)に居開帳をしたが、そのとき赤穂浪士の遺品も陳列している。大石内蔵助は合図用の呼子笛、大石主税の討ち入り時の着衣と頭巾というもの。このようにして開帳は、神仏だけでなく、奉納物や見世物の評判で人々を集めるようになった。見世物、芝居、馬の曲芸などの興行が非常に多かった。
 成田山への参詣旅行は、江戸市民に大変人気のある観光旅行だった。成田山は江戸での出開帳を企画した。1泊で江戸まで行けるのに、3泊4日の行程で、出発時に130人の行列が江戸・深川に到着するころには1000人もの大名行列にふくれあがっていた。江戸の繁華街を大きな幟を何十本も立ててにぎにぎしく巡回していった。その開帳行列は人々の目を引き、江戸市民の度肝を抜いて話題性は高かった。
 江戸時代に10回もおこなわれた出開帳によって、成田不動は江戸市民のなかにしっかりと根づいた。
 柳川藩の浅草下屋敷内にあった太郎稲荷は麻疹にかかった若殿様をなおしたということで、霊験あらたかということで人々が殺到した。
 江戸には専門の観光案内人がいた。昼の案内料は銭250文(1万円弱)、夜だと  130文が相場だった。観光ガイド業が成り立つ江戸だった。
 江戸時代を観光という側面から知ることのできる、楽しい本でした。

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