弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月10日

戦陣訓の呪縛

著者:ウルリック・ストラウス、出版社:中央公論新社
 終戦までの日本人捕虜は3万5000人。ドイツ軍捕虜が94万5100人、イタリア軍のそれ49万600人に比べると、はるかに少ない。ただし、終戦による日本軍捕虜は160万人以上いる。
 アメリカ軍は真珠湾攻撃を受けてから、数千人のアメリカ人に日本語を習得させはじめた。そして、強制収容所から引き抜いてきて、数千人の日系2世を捕虜の尋問に活用した。
 パールハーバー攻撃のとき、特殊潜水艇に乗っていた10人の1人、酒巻和男海軍大尉は潜水艇の故障により海に投げ出されて、泳いでハワイの海岸に上陸して捕まった。
 残る9人は全員死亡して、「九軍神」として祭られた。アメリカ政府は赤十字を通じて酒巻捕虜の存在を通知したが、日本海軍は対応に困った。戦死公報を出さず、家族にも知らせなかった。士官名簿には予備役と書きこまれたが、海軍将校の間では公然の秘密となっていた。戦後、酒巻は日本に帰国し、東京裁判に証人として召喚された。トヨタに入社し、ブラジル・トヨタの社長にまでなった。捕虜第1号だった。
 戦陣訓は、天皇の承認を経て1991年1月8日に東条英機陸軍大臣によって公布された。日本兵は捕虜になってはならないと命じられた。ただ、海軍は戦陣訓のような規則は公布しなかった。
 日本軍においては戦闘で死亡した兵士に比べ、捕虜となった兵士の割合は、海軍で3.0%、陸軍で2.3%しかいない。投降を決心したら、投降するまでに友軍に殺されないよう気をつけなければいけなかった。
 日本兵は全員が日記をつけていた。ここには兵士たちの内面の心理や倫理観が読みとれた。軍務に関する指令や作戦などの貴重な情報もあり、まさに宝の山だった。
 日本軍当局は、日本語を理解できる白人などいないだろうし、アメリカ軍は日系2世なんて信用していないし、太平洋の戦地に送りこんではこないだろうとタカをくくっていた。しかし、真実は、多くの日系2世が太平洋の戦地に送りこまれ、死んだ日本兵や捕虜の日記を翻訳してアメリカ本国へ送っていた。
 捕虜になった日本兵をソフトに優しく扱うと、成績良好で、いとも簡単に軍事情報を話しはじめるのだった。日本兵は機密情報の必要性について十分に教育されていなかった。日記をふくむ文書情報の管理は手薄だった。捕虜となった日本兵はまさか戦場で、日本語のうまいアメリカ軍兵士と遭遇するなど、想像もしていなかった。
 捕虜たちは、自分の国を裏切ったみじめな存在だと考え、無意識のうちに、より人間的な結びつきを求めるのだった。捕虜がアメリカ兵と同様に扱われている事実、そして、共通する人間性という認識は、大いなる感銘を与えた。このことが、アメリカ側の情報収集を促進することになった。
 1944年3月に、古賀峯一連合艦隊司令長官たちを乗せた輸送機のうち古賀司令長官をのせた1番機は台風にあって遭難し、2番機は太平洋に突っこんだ。3番機のみ無事に到着した。2番機に乗っていた福留中将は現地のゲリラに捕まった。しかも、機密文書まで押収されてしまった。ゲリラと人質交換の交渉が成立して福留中将は無事に日本へ帰国できたが、文書はアメリカ軍の手に落ちた。このとき、海軍省は、福留中将は潔白であると裁定し、何の処分も行わなれなかった。日本軍部のご都合主義を典型的に物語る話です。
 捕虜になったらいけないと定めた「戦陣訓」なんて、本当に非人道的なものです。そもそも戦争を始めること自体が人命軽視ではありますが・・・。

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