弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月14日

指揮官の決断

著者:山下康博、出版社:中経出版
 明治35年1月、八甲田山の雪中行軍が敢行された。青森歩兵第5連隊210名のうち、生き残ったのは11名のみ、しかも元の健康体で社会復帰できたのは3名だけだった。そして、実は、このとき同時に、もう一つの雪中行軍隊がいた。弘前歩兵第31連隊の37人である。この37人は、3日間、八甲田山中を歩き続け、1人の落伍者も出さずに、無事に全員が青森に生還した。
 新田次郎の「八甲田山死の彷徨」(新潮文庫)であまりにも有名な八甲田山の雪中行軍の実際が描かれています。生き残った弘前隊には新聞記者(東奥日報)が1人加わっていました。ですから、写真もよく残っています。
 青森の1月は新雪の時期。雪は軟らかく、人が踏み込めば、胸まで雪に沈んでしまう。一歩まちがえば、窒息死する危険性は高い。寒冷地で凍傷におかされる危険の第一歩は汗をかくこと。
 私が、この本を読んで初めて知ったことは、当時の日本軍は、ロシア軍が青森に上陸することを想定して対策を講じようとしていたということです。これには驚きました。ロシア軍の想定上陸先は北海道ではなかったのです。ロシア軍は、陸奥湾に侵攻して青森に上陸するか、太平洋側の八戸に上陸すると想定していました。そこで、青森第5連隊の雪中行軍は、酷寒の八戸港に上陸したロシア軍に対し、物資輸送と救援隊の派遣のため八甲田山の豪雪をおかして青森との中間にある十和田湖(三本木原)に急行し、これを迎え撃つという想定のもとに行われた。今からすると、まるで荒唐無稽の話ではあります。
 遭難した青森隊は、案内人をつけるように地元からすすめられて、断った。どうせ、お金ほしさだろうという理由で。行軍してまもなく、前途に大いなる不安を覚えた。そこで、山口大隊長は幹部を集めて進退を協議した。このとき、将校は慎重論をとったが、見習士官や長期伍長たちは軍の威信を全面に押したてて強硬に進軍を主張した。山口大隊長も、ついに進軍を決した。将校たちも部下の強硬論をはね返すだけの勇気はなかったのです。これが悲劇をうみました。いつの世にもカラ威張りの強硬論が幅をきかします。今の自民党若手代議士のタカ派がまるで同じです。
 青森隊は、行軍初日から、いきなりひどい寒気のなかを13時間にわたって峠をのぼりおりした。隊員のなかには、出発前夜のふるまい酒で夜明かしに近い状態も少なくなかった。この日、最高気温がマイナス8.5度。凍傷者の発生は、最低気温が異常に低いことより、最高気温が低く、風力が激しいという条件下で多い。人間の体温は28度以下になると蘇生が困難な状態に陥り、20度以下になると死をもたらす。
 弘前隊は、行軍の途中で青森隊の死者2人を発見し、歩兵銃も発見した。しかし、たとえ戦友が負傷しても、それを介護してはならない。自分の任務に向かって突進せよ。この精神で何もすることなく、そのまま行軍し、脱落者を出さなかった。
 そして、弘前隊の教訓は日露戦争で中国大陸における戦闘のときに生かされた。しかし、弘前隊の福島隊長は、このとき戦死してしまいました。
 八甲田山の死の雪中行軍の実情と、そこから何を教訓として学ぶべきか、実によく分かりました。

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