弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2006年3月31日

久留米藩難から新選組まで

著者:松本 茂、出版社:海鳥社
 オビに次のように書かれています。
 動員数十万人ともいわれる宝暦の大一揆、幕末有数の海軍国だった久留米藩、九州の士族反乱の先駆け「久留米藩難」、久留米出身の新選組隊士、西郷隆盛自死の真相など、トピックで読むふるさとの歴史。
 私は、母が久留米(高良内)の出身であり、母の伝記をその江戸時代生まれの祖父の代から読みものとしてまとめようと考えて少しずつ筆をすすめています(このところ少し中断していますが・・・)ので、興味をもって読みすすめました。ただ、自由民権運動、そして代言人の活躍の部分の記述があまり見当たらないのが残念でしたが、改めていろいろ知ることができました。
 関ヶ原のあとに柳川城主となった田中吉政は三河国岡崎の城主だったこと、このとき久留米を支城としたことを知りました。また、そのあとに久留米城主となった有馬豊氏が丹波福知山から来たというのも初耳でした。さらに、関ヶ原までの久留米城主だった毛利秀包(ひでかね)は、妻引地(大友宗麟の七女)とともに熱心なキリシタンだったそうです。
 久留米藩の農民一揆は、その規模の大きさでは全国有数です。享保一揆は享保13年(1728年)に起きましたが、5700人余の農民が立ち上がって増税を撤回させ、一人の犠牲者も出しませんでした。
 次の宝暦一揆は、宝暦4年(1754年)に起きましたが、総参加者は10万人以上とみられています。今回は成果は半分だけで、一揆参加者のうち37人が死刑となりました。庄屋も7人がふくまれています。弾圧した藩主の方は日本数学中興の祖といわれる関孝和の高弟7人の筆頭格という数学の大家であったそうです。
 ただ、この本では旧来の百姓一揆についての見方にとらわれている気がしました。百姓はひたすら忍従し窮乏していた、だから一揆を起こして反抗した、としています。しかし、最近の研究によると、必ずしもそうではなかった。年貢の取り分も百姓は相当なものを確保していたし、むしろ自分の権利(既得権)を侵害されることへの怒りから権力に刃向かったというものです。これは「七人の侍」に出てくる、ずるい百姓たちの姿に通じるものです。
 久留米藩難というのは、明治になって久留米藩の有志たちが明治政府から処罰された事件です。久留米藩は倒幕の戦いに従軍しています。遠く函館の戦闘にも参加しているのです。ところが、幕府が崩壊したあとは新政府の政策に反発した若者たちがいたのです。
 西南戦争のころ、今の明善高校あたりに久留米軍団病院があり、官軍の負傷者の治療にあたっていたようです。そのなかには乃木希典少佐もいました。
 ところで、この西南戦争のとき、西郷隆盛は自決する寸前、桐野利秋から撃たれ、自首できなくなったんだという説が紹介されています。裁判を受けて自分だけで罪をかぶって、他の若者の助命を願うという考えだったというのです。さもありなんと思いました。

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