弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2007年3月 5日

タケ子

著者:稲光宏子、出版社:新日本出版社
 私はそのニュースを聞いたとき、耳を疑いました。参議院選挙で自共対決となって、共産党が自民党に逆転せり勝ったというのです。田中角栄首相のとき、1973年6月のことでした。共産の沓脱(くつぬぎ)タケ子70万票、自民の森下泰68万票。いやあ、世の中は変わるものなんだなあと、つくづく思ったことでした。それまで、自民党支配は永遠に続くものと思いこんでいたのです。
 この本は、そのタケ子の若いころの奮闘記、いわば青春編というものです。
 沓脱タケ子は医者でした。3期16年間の議員生活のなかでは、横山ノックや西川きよしというタレント候補とも互角にたたかったのですから、たいしたものです。どうして、そんなに大阪で人気があったのか、この本を読んでその秘密が少し分かった気がしました。
 もうひとつ、今では遠い昔話となった気がしますが、日本には占領軍命令によるレッドパージがありました。そのレッドパージがどのようにしてすすめられたのか、それに対して当事者がどんなたたかいをすすめたのか、その様子が手にとるように分かる本でもあります。ぐいぐいと引きずられ、一気に読み上げてしまいました。読んで元気の出てくる本としておすすめします。
 タケ子は1922年(大正11年)に現在の大阪府阪南市に生まれた。母子家庭に育ったタケ子は、戦争中は典型的な軍国少女だった。女学校でも女子医専でも学生報国隊の熱血隊長として頑張っていた。
 何ごとにつけ、着手するからには徹底的にきわめないとおさまらない性質、負けず嫌いでエネルギッシュな一途さは、幼女のころからだった。
 タケ子は終戦の前の年に結核療養所に医師として着任した。そのころは戦争中であったから大変な食糧難であり、栄養を必要とする結核患者は次々に死んでいった。入院患者 400人のうち、1年間に150人が死んだという記録が残っている。そんな悪条件のもと、タケ子は医師として必死に働きはじめた。
 終戦後、結核療養所は国立病院となった。そのなかで労働組合づくりがすすめられ、医師のタケ子は青年部長に就任した。
 やがて逆コース現象がはじまった。1949年3月のドッジプランによる官公庁の人員整理、1950年7月のマッカーサー書簡による共産党員と支持者の首切りがすすめられた。レッドパージである。この年6月に朝鮮戦争が始まった。7月から8月にかけて、下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、反共宣伝キャンペーンがけたたましくかなでられた。今では、これらはいずれもアメリカ軍などによる謀略とされています(もっとも全容が解明されたというわけではありません)。
 タケ子たち18人も病院当局から免職通告を受けました。さあ、どうするか。ここからが、実は、この本のハイライトです。すごいんですよ。結核患者と連帯して不屈のたたかいを粘り強くすすめていくのです。本当に、そのバイタリティには感心してしまいます。
 当局側の手先のように動いている人たちのなかにまで支持者が大勢いました。やはりタケ子たちの日頃の献身的な診療態度が魅きつけたのですね。
 それにしても、当時の結核患者というのは若い人だったことを知って、実は、驚いてしまいました。てっきり、おじいさんやおばあさんばかりが患者だと思いこんでいたのです。昔は、若者も結核にかかって早や死にしていたのですね。残念なことです。
 このあとタケ子はどうするのだろう。ぜひ続編を読みたくなるような最後でした。続編を待っています。

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