弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2005年6月 2日

御家騒動

著者;福田千鶴、出版社:中公新書
 この本を読むと、日本人って、実に裁判が好きな民族なんだなとつくづく思います。殿様に能力がなかったら、ことをオーバーに言いたててまで幕府に書面で殿様を交代させる裁きを求めるのです。そんなことはちっとも珍しいことではありませんでした。幕府の方も、御家騒動があったら待ってましたとばかりにお家断絶(改易)ということではなく、なんとかお家を存続させようとあの手この手をつかいました。
 これって、なんだか、これまでの私たちの常識と違いますよね。この本によると、将軍家光の寛永末年(1644年)までの御家騒動80件のうち、そのため改易されたのは18件でしかありません。10万石以上だと、堀(越後福島)、最上(出羽山形)、生駒(讃岐高松)の三家のみだったのです。幕府が御家騒動を大名統制の口実として利用したという説は成り立たない。これが、この本の結論です。うーん、そうだったのか・・・。まいりました。
 いま福岡の裁判所は上ノ橋(かみのはし)門から入って左側のところにあります。そこに栗山大膳の屋敷がありました。そうです、黒田騒動の立て役者です。寛永9年(1632年)、筑前福岡藩の黒田家を揺るがす大騒動が勃発しました。主君黒田忠之はまだ30歳にもならぬ若さでした。藩主は側近を重用するばかりですから、当然のことながら家老の大膳たちは面白くありません。
 忠之は大膳を手討ちする手はずをととのえたものの、大膳が病気を理由として出仕せずに失敗します。ついに大膳の屋敷を兵力で取り囲みました。このとき大膳の屋敷に立て籠もった将兵は600人ほど。鉄砲200挺、大砲も6門ありました。一触即発の状態でしたが、幕府が調停に入り、大膳は退去に応じました。この退去の様子がすさまじいのです。火縄に点火した状態の鉄砲20挺、大膳は棒を突きたてた侍50人と、火縄に点火した鉄砲250挺、槍100本とともに退出しました。まさに武装集団そのものです。大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなったものの、五里四方歩行自由の身でした。もちろん、黒田家は安泰です。黒田騒動のとき、あやうく市街戦が始まるほどの状況だったというのを、私ははじめて知りました。
 対馬宗家の重臣柳川調興との紛争も興味深いものがあります。宗家の主君(宗義成、30歳)は要するに凡愚だったようです。一つ年長の柳川調興はすこぶる怜悧(賢い)と朝鮮通信使からも評価されていました。しかし、国書書き替えが発覚してからも、結局のところ宗家は安泰で、柳川の方が津軽へお預けとなったのです。お家大事というか、幕府は秩序維持を重視したのです。
 承応4年(1655年)には、久留米の当主・有馬忠頼が参勤途上の船中で小姓に殺害されたそうです。幕府は病死の届けを認めて、3歳の子に遺領相続を認めました。
 肥後人吉の相良家でも寛永17年(1640年)にお下(した)の乱が起き、人吉城の三の丸が焼け落ちるほどの戦闘がありました。これは、なんと主君の相良頼寛が重臣の相良清兵衛が従わないとして、幕府老中に訴え出たというのです。まるであべこべですよね。何十人もの死傷者が出たというのに、清兵衛は弘前藩に配流されただけで命は助かっています。将軍お目見えを許された身だったからです。
 17世紀の前半までは、主家が滅亡しても、すぐに従臣の家が滅亡するという観念はなく、主家の代わりに従臣が立つことも認められていたというのです。
 江戸時代についての常識が、またひとつ化けの皮をはがされた思いがしました。

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