弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2014年5月21日

「日露戦争史」1


著者  半藤 一利 、 出版  平凡社

 日露戦争で日本がロシアに勝ってしまったことが、その後の日本をダメにしたのではないか。そんな反省を迫る本だと思いました。
 この本を読むと、著者の博識には驚嘆させられます。日本国内の上から下までの動き、官から民、学者そして作家の日記まで幅広く収集し、幅広くかつ奥深い叙述なので、とても説得的です。
 それにしても世論操作というか、世論誘導は、案外に簡単なものなのですね。
 いま、現代日本では、反中、反韓ものが、けたましく売れているようです。毎週の週刊誌がそれをあおっているのを見るたびに暗い気持ちにさせられます。
日露戦争を開戦する前、明治天皇は勝算の確信がなく、最後の最後まで軍事的解決を避けようとした。
 日清戦争の後、日本は軍備拡張が国策の中心となった。日本帝国は、臣民に苦難の生活を強いて、軍備拡張費をしぼり出し続けた。日清戦争直後の明治29年の日本の総歳出は2億円。うち軍事予算は43%だった。ところが、明治33年の軍事費は1億3000万円。これは租税収入の1億3000万円をそっくり投入したということ。
 海軍は、戦艦を次々に購入していく計画をたてた。その総額は2億1000万円超。これは日清戦争の全線費に相当する。
ロシア帝国のニコライ2世は、明治35年(1902年)当時は34歳。誠実ではあるが、ごくごく意志の弱い、ややもすれば人の言に右に左にと動く、「便所のドア」的人物だった。ニコライ2世のうしろに、野心家のドイツ皇帝カイゼルがピタリとご意見番としてついていた。ドイツ帝国の魂胆は、ロシア帝国を勇気づけ、いっそうアジアに深入りさせて、その国力をそいでやろうという意地の悪さがあった。
 このころ(1903年)、日本の人口は4400万人ほど。東北地方では深刻な飢饉が広がっていた。そして、「東洋永遠の平和のための戦争」という言葉が流行語となった。これは社会全般をおおっている不景気に対する国民的不満を背景としていた。
 民草(民衆)の不満が、ロシア憎悪の温床だった。そして、戦争こそが積年の不景気を吹き飛ばす好機たらん。ゆえに、爆発すべしと思いやすいのが国民感情である。
 世論が沸騰したのに対して、軍の最高指導層は、いざとなったときの戦費調達が心配なうえ、総合戦力で劣る日本軍の実情をふまえて不安があった。日本とロシアでは、面積において50倍、人口で3倍、国家予算において10倍、常備軍で5倍という、大きな差があった。
 新聞各社は、主戦論的、好戦論的な主張をばんばん紙面に載せて、販売部数を増やしていった。
 非戦論の万朝報(よろずちょうほう)も10万部以上の大台を誇っていた。ほかの非戦論としては、東京の日々新聞と毎日新聞があった。
 およそ世に大受けする大言壮語のなげかわしきことは、いつの世にも変わらない。万朝報も、ついに非戦の旗を全面的におろしてしまった。
日露戦争の前、日本の暗号は、他国によって解読されていた。しかし、日本の当局はそのことに気がついていなかった。
ロシア帝国ニコライ2世は、参謀長の「一撃で矮小な猿どもは木っ端微塵」という言葉を信じ切っていた。
 ええっ、これって、第二次大戦前に帝国陸海軍の首脳部がアメリカ軍の「弱兵」ぶりを思込んでいたのと同じですよね。
 そして、このころの日本軍の暗号による情報伝達は、すべて解読されていたのでした。なんと、間の抜けた話でしょうか。その「失敗」が、第二次大戦中の暗号解読による最高司令官撃墜事件に結びつくのです。第二巻が楽しみです。
(2012年6月刊。1600円+税)

2014年3月23日

米国特派員が撮った日露戦争


著者  「コリアーズ」 、 出版  草思社

 アメリカのニュース週刊誌『コリアーズ』が特派員を派遣して、日露戦争の現場でとった写真集です。
 8人の従軍記者、カメラマンを派遣したとのこと。なるほど、よく撮れています。
日本は開戦にそなえて万全の準備を備えていた。その用意周到ぶりは、各国の従軍記者や観戦武官たちを驚倒させ、ロシアとの違いを際立たせた。表面的には平和を維持しながら、実際には何ヶ月もかけて、開戦に向けて準備していた。
「朝鮮半島に出征する日本軍部隊」という説明のついた一連の写真があります。東京から列車に乗り込む若い兵士たちがうっています。その大半が戦病死したのでしょう・・・。
 同じように、ロシア皇帝がニコライ2世が歩兵連隊を閲兵する写真もあります。
 仁川(じんせん)沖海戦では、ロシアの巡洋艦「ワリァーク」と砲艦「コレーツ」が降伏を拒否し自沈します。あとで、ロシアは生きて帰国した兵士たちを大歓迎しています。
日本軍の仁川上陸の状況をうつした写真もあります。仁川に上陸した日本軍は、すぐに平壌へ向けて進軍を開始した。1日25~40キロの早さで朝鮮半島を北進した。途中、韓国人による抵抗はなかった。侵略者をただ呆然と眺めるのみだった。
 日本軍の弱点は駐兵部隊だというのが観測者たちの共通の意見だった。
日本の軍馬は小柄で、騎兵は乗馬が得意ではない。ロシア軍騎兵の優秀さは、日本軍騎兵をはるかに上まわっていた。騎兵の大半はコサックから徴用されているか、持って生まれた気質、日頃の訓練から斥候騎兵という仕事にうってつけだった。
戦闘の間合いに、日本赤十字社の活動を視察するため、イギリス王室から二人の女性が派遣されたときの写真があります。
 また、鴨緑江渡河作戦について、外国の観戦武官に日本軍の少佐が説明している状況を写した写真があります。信じられない、のどかな光景です。
 遼陽の大海戦は5日間続いた。日露両軍あわせて40万から50万。両軍の死傷者は3万人。ロシア軍は退去を余儀なくされた。
日本軍の大本営写真班による『日露戦争写真集』(新人物往来社)とあわせてみると、日露戦争の戦況がよく分かります。
(2005年5月刊。2800円+税)

2014年1月19日

維新政府の密偵たち

著者  大日方 純夫 、 出版  吉川弘文館

 江戸時代には、忍者や隠密(おんみつ)と並んで御庭番がいた。御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けつ、諸大名の実情調査、また老中以下の役人の行状、さらには世間の風聞などの情報を収集していた。そして、明治中期になってからは、内務省警保局が情報収集にあたっていた。では、その間はどうしていたのか・・・。それが本書で取り上げている「監部」(かんぶ)です。
 明治維新の当初、弾正台(だんじょうだい)が置かれ、探偵の仕事をさせた。弾正台は、1871年(明治4年)に刑部省(ぎょうぶしょう)とともに廃止され、司法省に吸収された。同時に中央政府の最高中枢機関として正院(せいいん)が設置され、その課の一つとして監部が出現した。監部の下に密偵が動いた。その人数は1874年ころ50人ほどだった。
 第一は、恒常的に探索活動する諜者(ちょうしゃ)、第二に異宗教掛諜者、第三に臨時雇諜者、第四に、探偵。
 1876年4月、正院の密偵機構の廃止以降も、密偵機能はその規模を縮小しながら、大臣・参議のもとで維持されていた。明治政府はキリスト教禁止政策をとり、そのためキリスト教宣教師のもとに密偵を潜入させその動静を探らせていた。
 そして、キリスト教の禁止がやむと、諜者は失職してしまった。
 大隈重信には、お抱えの密偵集団がいた。
密偵たちは、政府要人の目や耳として、世上の噂に耳をすまし、それにもとづく通報活動を自らの生活の糧としていた。
 自由民権運動の内部にも密偵がした。内局第一課の配下にあった密偵たちは、「仮面」をかぶって民権派の内部に潜入し、スパイ活動を展開していた。密偵たちが潜入していたのは、東京の民権運動だけではない。福島事件の安積戦、高田事件の長谷川三郎、群馬事件の照山峻三のように、自由民権運動には常に密偵の影がつきまとっている。
 自由党や立憲改進党の会議の様子などが、発言者と発言内容までふくめて克明に記録・報告されている。警視庁が集めた情報は警視総監から大臣に報告され、各府県の警察からもたらされた情報は、内務卿から大臣に報告されている。
 密偵たちの末路は哀れだったようですが、なかには表街道に出て、出世した者もいます。明治維新政府の裏面の一端が分かる本です。
(2013年10月刊。1800円+税)

2013年9月15日

レンズが撮らえた幕末明治・日本紀行

著者  岩下哲典・小沢健志 、 出版  山川出版社

幕末から明治にかけての日本各地の写真が集められています。京都の太奉映画村に江戸時代の町並みが再現されていますが、まるで同じ風景が写真で残されています。
 しかも、初めの写真はカラー写真になっていますので、とても生々しく再現されています。横浜弁天通り(横浜市中区)には、大八車が路上にありますが、なぜか人物がいません。
 東海道杉並木という写真には、カゴがきとともに人物がうっています。
 金沢八景の平湯湾の料亭から小舟が出ようとする、のどかな光景もあります。古き良き時代の雰囲気が、たしかにここにはあります。
 しかし、なんといっても圧巻は厚木宿(神奈川厚木市)の写真です。大通りの真ん中に水路が走り、手ぬぐいで頬がむりした男が縁にすわり込んでいます。
 道の両側には木造の店や家が建ち並んでいて、店先には男たちが立って話しています。中央には、火の見の木ばし子ご立ち、火事のときの半鐘を鳴らす仕掛けが見えます。浪人かヤクザの連中が向こうから一陣の風のなかにやって来そうな気配です。まるで時代劇の舞台です。
明治初めの浅草の芝居小屋の風景写真もあります。
白黒写真で興味深いのは熊本城の写真です。西南戦争の前の熊本城です。堂々たる天守閣が見えます。そして、城の石垣の高さには圧倒されてしまいます。
 明治初めにタイムスリップしてしまう貴重な写真集です。
(2011年12月刊。1600円+税)

2013年8月 3日

「坂本龍馬」の誕生

著者   知野 文哉、 出版  人文書院

維新の会の「なんとか八策」のもととなった「船中八策」が、実は後世のものであったというショッキングなことが書かれた本です。今や代表の連発する非常識な暴言によって、すっかり落ち目の維新の会ですが、まだまだしがみついている人も多いようです。この本を読んだら、きっと目がさめることでしょう・・・。
 司馬遼太郎が坂本龍馬について本を書くまで、つまり昭和38年頃までは、龍馬を「りょうま」というルビをふらないと 読めない人が多かった。それほど世間には知られていなかったということだ。
 「船中八策」は、慶応3年に坂本龍馬が書いた(書かせた)ものではない。いわゆる「船中八策」には、龍馬自筆本はもちろん、長岡兼吉の自筆本も、長岡本を直接写したという保証のある写本も存在しない。
 また、同時代の後藤、西郷、木戸が「船中八策」を見たという記録もない。
 「船中八策」という名称が初めて登場するのは、坂本龍馬遭難50回忌にあたる大正5年(1916年)の講演会でのこと。そして、昭和4年に、「船中八策」が確定した。
 「船中八策」の用語のなかには慶応3年の時点で一般的に通用していなかったと思われる漢語がいくつかある。たとえば「議員」。これは明治初期に使われはじめた新しいコトバ。
この本によると、龍馬がおりようと二人で新婚旅行として霧島に登ったのも史実ではないとのこと。なーんだ、と思いました。出来すぎた話だと思ってきましたので、ナゾが一つ解けた気がしました。
龍馬暗殺が誰だったのか、明治3年9月の時点では正式に「落着」していた。見廻り組の今井らによる犯行だったというのは広く知れわたっていた。
 「船中八策」はなかった。龍馬は西郷隆盛を一喝していない。龍馬は新政府に入るつもりだった。こんな話が盛りたくさんに出てくる興味津々の本でした。
(2013年2月刊。2600円+税)

2013年6月22日

西郷隆盛と明治維新

著者  坂野 潤治 、 出版  講談社現代新書

西郷隆盛について、再認識すべきだと考えさせられる本でした。
 イギリスの外交官アーネスト・サトウは幕末の西郷隆盛について次のように回顧した。
 「西郷は、現在の大君(タイクーン)政府の代わりに国民議会を役立たすべきだと大いに論じた。これは私には狂気じみた考えのように思われた」
 ええーっ、西郷が国民議会を提唱していたなんて、聞いたことがありませんでした。
 西郷隆盛は、「攘夷」論にあまり関心をもたず、「国民議会」論者であった。
 西郷隆盛は「征韓論者」として有名だが、明治8年(1875年)の江華島事件については、「相手を弱国と侮って、長年の両国間の交流を無視した卑怯な挑発」だと非難した。
 ええっ、そうなんですか。ちょっと、これまでのイメージに合いませんよね。
西郷隆盛は薩摩藩によって2度も流刑(島流し)させられている。1度目は1859年、2度目は1862年。このころの西郷隆盛の主張は「合従連衡」。つまり、朝廷と幕府と有力諸大名とその有力家臣による挙国一致体制の樹立だった。その最大の障害となる開国と攘夷の対立を封印することが前提となっている。
 1869年(明治2年)から70年(明治2年)にかけて全国230の藩代表を集めて開かれた公議所、集議院の意向は、驚くほど保守的で身分制的なものだった。たとえば「四民平等」や「文明開化」のための施策はほとんど否決された。
 明治3年(1870年)12月末、天皇側は薩長士三藩に対して藩兵の一部を「官軍」として差し出すよう命じた。ところが、島津久光は激しく抵抗した。
 西郷隆盛は、廃藩置県を自らの一貫した「尊王倒幕」の実践の到達点として位置づけていた。
 明治4年(1871年)7月、西郷、木戸、板垣、大隈重信の4人が参議に任命され、政府の実権を握った。そして西郷隆盛は7000人の御親兵を握っており、参議筆頭として明治政府の最高権力者と言えた。ところが、西郷には統治経験が欠如していた。
 征韓論の急先鋒は、旧土佐藩兵を率いる板垣退助であった。
 西郷の腹心というべき黒田清隆や桐野利秋は「征韓論」に反対していた。西郷は「征韓」を唱えたのではなく、朝鮮への「使節派遣」を求めたにすぎず、自分が全権使節として訪韓して「暴殺」されたら「征韓」の口実ができると西郷が主張したのは、本当の「征韓」論者だった土佐出身の参議、板垣退助を説得するためだった。
 西郷隆盛は「征韓論者」ではなかったという本です。本当に、そうなんでしょうか・・・。
(2013年4月刊。740円+税)

2013年6月 2日

博徒と自由民権

著者  長谷川 昇 、 出版  平凡社ライブラリー

幕末から明治10年代にかけて博徒集団の動き、そして自由民権運動との結びつきを解明した本です。清水次郎長が一家を構えていたのは清水地方です。尾張と三河の違いが強調されています。
尾張は徳川家62万石が全域を支配していたのに対して、三川には8つの小藩そして、いくつもの飛地や天領や、さらには60余家に及ぶ旗本の知高地があった。先祖発祥の地として、飛地をもちたがっていたことによる。その結果、小藩、小知行地が乱立して、警察権力が弱体化した。次郎長は尾張藩の警察力の強大さに驚倒したといいます。
幕末の尾張藩は、「強力な武力」として博徒集団に着目し、それを利用しようとした。今後どのように展開していくのか予測しがたい倒幕出兵にあたって、可能なかぎり正規の藩兵の温存をはかり、まずは補充的に集めうる民兵を先鋒として利用しようとした。そして、そのとき博徒組織は、団結力、統制力、さらには戦闘力と戦闘経験において、ただちに実践につかえる武力集団であることに着目した。前科を黙認し、士族採用を餌として尾張藩の勤王実績づくりのための先鋒に転用しようとしたのであった。
 明治13年6月、安政年間以来、東海道の博徒集団を二分して前代未聞の大喧嘩を重ね、もつれにもつれた平井一家と清水一家の手打ち式が浜松の料亭「鳥屋」で開かれた。この日、浜松に繰り込んだ双方の関係者は1000人。清水一家は、次郎長を先頭に、大政以下の主だった乾分(子分)などが参集した。
 その後、自由民権運動が発展していきます。当時の博徒の多くが、「半農半博」であり、中貧農だった。そして、博徒は、耕作農民であると同時に博徒集団という特殊な「党派」に所属するという特殊性をもった存在であった。
 明治17年、集中的に各地で蜂起が続いた。困民党・借金等に類する反体制的激化事件に博徒はさまざまなからみあいをもって関連していったが、それには必然性があった。親分が検挙されて一家は壊滅し、費場所に賭場が立てられず、寺銭に寄食する糧道を絶たれ、検挙の網を逃れて他府県に遁走せねばならないという実情のもと、反体制運動の組織者となっていた。このことを過小評価すべきではない。
自由民権運動と代言人とのかかわりも興味深いものがありますが、博徒も、そのなかで大きな役割を占めていたと言うのです。大きく目を開かされました。
 本書の冒頭に、清水一家とのあいだの血なまぐさい出入りの状況が生々しく描かれています。次郎長映画をみている気分になりましたが、あれって、本当にあっていたことなんですね・・・。
(1995年4月刊。1068円+税)

2013年3月28日

加藤拓川

著者  成澤 栄寿 、 出版  高文研

原敬(後の首相。暗殺されました)とともに司法省法学校に学び、ストライキをして放遂された人物が主人公です。朝鮮で外交官として活動し、伊藤博文を激怒させたことで有名なのでそうです。私は知らなかった人です。
中江兆民は大久保利通に直訴して政府派遣留学生に加えてもらい、1872年2月からフランスに留学した、フランス語の読解は抜群だったが、会話のほうは上手ではなかった。
 兆民のフランス留学は、1871年3月にパリ・コミューンが成立し、5月に政府軍から鎮圧されて間もないころのこと。「レ・ミゼラブル」の時代ですね。
 兆民は、3つの政治体制、すなわち王制、ブルジョア共和制、社会主義体制の存在を深慮しつつ、帰国したのである。
 兆民の学僕となったのは幸徳秋水。あの大逆事件で処刑された幸徳秋水が兆民の学僕だったとは驚きです。
中江兆民は、衆議院議員選挙に大阪4区から立候補し、定員2名1位で当選した。
 兆民が被選挙人に必要な条件をみたすために、収入も財産も乏しい兆民に資産などの名義を貸したのは末解放部落の業者だった。兆民は未解放部落の代弁をもする代議士になったのである。
秋山好古はフランスに4年あまり留学した。軍人として異例の長さであった。好古は騎兵についてはドイツよりフランスのほうがはるかに優秀であると学んで帰国した。
 兆民は1901年12月に食道がんで死亡した。その前、医師から余命1年半と告知されたあと、「生前の遺稿」と題する『1年有半』を執筆した。現実の政治批判を加えた随想集は20数万部も売れ、福沢諭吉の『学問のすすめ』以来のベストセラーになった。兆民の葬儀は、兆民の遺言どおり、一切の宗教的儀式を伴わない、わが国最初の告別式が参列者1000人のもとに拳行された。遺言によってお墓も建てられていない。ただし、友人による碑は建っている。
 宗教的儀式を伴わない葬儀と言えば、故池永満弁護士(福岡県弁護士会の元会長)の葬儀も遺言によって、そのようになされました。私はお通夜だけしか参加できませんでしたが、関係者が思い出を語るのを聞いて献花して終了となりました。故人らしいお通夜で、さすがだと思いました。
 日本海海戦で、日本海軍が大勝利したのは、敵前で180度回頭して同航戦(併行して走り戦う)を展開した初戦の砲撃戦術にあると強調されている。しかし、実は、この完勝を決定づけたのは、秋山真之・参謀も後に指摘しているとおり、多数の駆逐艦、ことに水雷艇の活躍だった。ええーっ、そうだったんですか。知りませんでした。
 伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
 外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。
 日本国内の矛盾のあらわれだと受けとめました。知らなかった日本の外交官の存在を認識しました。
(2012年11月刊。3000円+税)

2013年3月27日

兵士たちがみた日露戦争

著者  横山篤夫・西川寿勝 、 出版  雄山閣

日本人は、まことに昔から日記を書くのが大好きな民族です。
日露戦争のとき、個々の兵士は戦場に筆記用具を持ち込み、日記や手紙を自ら記し、見聞記録をつけることが常態化していた。
 本書は、その日記などにもとづいて、日露戦争の知られざる実情をことこまかく具体的に明らかにしています。
 日本軍は沙河の戦いのころ、大変な事態に陥っていた。遼陽の戦いで、日本軍は銃弾・砲弾を撃ち尽くし、これから生産する分も旅順要塞攻略用に手いっぱいで、補給の目途がたたなくなっていた。しかし、戦地の兵站倉庫に弾薬がないことは前線には知らされなかった。戦意喪失どころか、陣地防御も不可能だったからである。
 そこで、日本軍はロシア軍から奪った大砲で盛んに攻撃を仕掛け、砲弾の致命的欠乏をロシア軍に悟られずにすんだ。
 日本は日露戦争に17億円の戦費を投入した。このうち12億円は外国債にたよった。
大連から350キロも戦線がのびた奉天会戦では、大部隊が急速な行軍を行い、各部隊は常に前線で弾幕にさらされた。そうすると、兵站基地からの供給が途絶えてしまった。しかも、平原の前線では炊飯のために火をおこすと狙い撃ちされ、米が届いても炊くことができなかった。これに対して、ロシア軍は東清鉄道を使って開戦前から大量の食糧などを輸送して、各拠点に兵站基地をもっていた。
 日露戦争で、60万の兵が出征し、その兵站は重要な問題となった。しかし、満州軍に兵站組織はなく、場当たり的な対応だった。そのため、食料調達の不公平や遅滞が問題になった。輸送した総運搬量の3分の2は食糧だった。
 日露戦争は世界史上初めての国民総動員の戦争だった。日露戦争の特徴として、多数の後備聯隊が偏された。その主役は32歳までの後備の兵卒。現役は将校と下士官だけで、兵卒は30歳前後だった。
 私は旅順にツアーで行ったことがあります。有名な203高地にのぼりましたし、東鶏冠山と盤龍山のロシア軍堡塁跡地も見学しました。203高地の上からは、なるほど旅順港は真下によく眺めることができました。
 旅順戦の惨状は将兵の戦意低下を増幅させた。うまく負傷して戦列を離れることが「第一の幸福」と認識されていた。
 与謝野晶子の詩「君死にたまうことなかれ」は有名ですが、その弟が本当に旅順戦に参加して戦っていたのか疑問視する声もあるそうです。本書は、晶子の弟は宇品港(広島)から出航して旅順港戦に参加したとしています。それも前線兵士ではなく、輜重兵として、つまり兵站部隊の一員だったのです。
 1905年3月の10日間、奉天会戦が激しくたたかわれた。60万の将兵が東西100キロ、南北40キロにわたる満州の平原で激闘を繰り広げた世界史上空前の大会戦である。奉天会戦に参加した日本軍兵力は25万人、死傷者は7万人。ロシア軍のほうは総数31万人、死傷者6万人、行方不明7千人、捕虜2万人。この過程で及木第三軍は危機的状況に陥っていた。
 しかし、ロシア軍が奉天城から撃退していった。このとき、奉天には、中立である清国民が普通に日常の暮らしを営んでいた。ロシア軍が籠城していたわけではない。
 そして、ロシア軍の大半が撃退したあと、日本軍が入ってきた。
日露戦争に従軍した兵士の陣中日記などをもとにしていますので、その実情がリアルに分かる本になっています。
(2012年11月刊。2600円+税)

2013年1月19日

大久保利通の肖像

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社

大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

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