弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2009年12月14日

漱石の長襦袢

著者 半藤 末利子、 出版 文芸春秋

 夏目漱石は熊本にいるときに結婚した。妻の鏡子は20歳。漱石は鏡子に対して、こう言った。
「俺はこれから毎日たくさんの本を読まねばならないから、お前のことなどかまっていられない」
 それに対する返事は……、「よござんす。私の父も相当に本を読む方でしたから、少々のことではびくともしやしません」。
 ええーっ、こんな会話が新婚家庭で本当にかわされたのでしょうか……?信じられません。
 鏡子はおおざっぱで、がむしゃらで、尊大であった。それは育った家庭環境によるところが大きい。鏡子の父・中根重一は、東大医学部を卒業して医師になり、その後官吏となってついには貴族院書記官長にまでなった。ただし、56歳で亡くなっている。
 鏡子が漱石とお見合い、結婚した頃の明治27、8年ごろは、父・重一の絶頂期だった。鏡子は鹿鳴館の華やかなりしころ、舞踏界にも出席している。
 鏡子は小学校を卒業すると、女学校に通わず、全科目に家庭教師がついて自宅で勉強した。だから、友人関係から学ぶところがなかった。鏡子も下の妹たちも、人に頭を下げたり、気兼ねしたりする必要のない境遇で育った。
 だから、男性に隷属していない。これが漱石の小説にも反映され、男性と対等に接する女性が登場している。うへーっ、そういうことだったんですか……。なるほど、ですね。
 漱石はイギリス留学の前後はひどいうつ状態であり、妻・鏡子や幼い娘2人にまで手を出していた。DV夫であり、父親だった。幼い子供を庭に放り出したほどひどかったというのですから、信じられません。
 漱石は、あの明治時代にアイスクリームの製造機を自宅に買い込んで作るほどの美食家だった。対する鏡子は、外食するか店から取り寄せる主義だった。
 漱石は、享年50歳で病死した。鏡子は、漱石の死後、ぜいたく好きの妹たちや娘からもあきれ果てられるほどの並はずれた浪費をしまくった。
 漱石の弟子たちと折り合いが悪くなってから、鏡子の悪妻ぶりが定着してしまった。
 ところで、この本のタイトルです。
 漱石が女ものの長襦袢を着た事実はないのに、あたかもあるかのように事実に反する新聞記事が書かれた(朝日。2007年10月17日)からです。
 著者は漱石の長女・筆子の娘であり、有名な歴史モノカキの半藤一利氏の奥さまです。明治の文豪・夏目漱石の知らなかった人間性の一面にふれることができました。
 
(2009年10月刊。1429円+税)

2009年11月 8日

無人島に生きる十六人

著者 須川 邦彦、 出版 新潮文庫

 小学生のころ、『十五少年漂流記』を読みました。この本は、日本版の『十六人おじさん漂流記』です。
 いやはや、明治の日本人の偉大さに、ほとほと感心しながら、一気に読んでしまいました。最後はレストランでランチを食べながら、頁を繰るのがもどかしいほどでした。
 『十五少年漂流記』はフランスのジュール・ヴェルヌによる、実体験を基にした創作です。ところが、このおじさん漂流記のほうは、あくまでも実録なのです。そして、著者が生存者から聞き書きしたものですから、とても読みやすいのです。
 なにより、16人の大人たちが難破して無人島に上陸したあと、どうやって生き延びたか。そこで、どんな工夫をして全員が生き残ったのか、実に分かりやすいのです。最後まで、何年かかろうと生き延びようとしたという執念には感動に心がうち震えてしまいます。
 16人は、無人島で規則正しい生活を送ります。決して生存をあきらめません。仕事は全員が順番にこなします。
 見張りやぐらをつくり上げます。その当番を毎日、交代でします。炊事、たきぎ集め、まき割、魚とり。かめ(海亀)の牧場をつくり、その飼育当番も決めます。海水から塩もつくります。宿舎掃除、洗濯、万年灯(いつでも火ダネは絶やしません)、雑用そして臨時の仕事。近くにみつけた宝島までの往復。よくぞ16人全員が病気せずに生き残ったものです。
 そして、感心することには、この無人島に学校まで開設したのでした。船の運用法、航海法そして、漁業水産、さらには数学と作文までありました。さすがは、わが勤勉なる日本人です。といっても、実は全員が生粋の日本人ではなく、もとはアメリカ人で、日本に帰化した海の男もいました。だから、英語と日本語の授業まであったんです。
 明治31年秋、ハワイの近く、ミッドウェー島の近くで遭難し、翌明治32年12月に日本に全員が帰国できました。
アオウミガメ(正覚坊)の肉は美味しい。それは、海藻を食べているから。アカウミガメの肉はにおいがあって、食用にはならない。魚など、肉食しているから、においがする。
野生のアザラシと仲良くなって、一緒に遊んでいたというのにも驚きます。
 ぽかんと手をあけて、ぶらぶら遊んでいるのが一番いけない。夜の見張り当番は、若い者にはさせられない。月を見ていると、急に心細くなって、懐郷病にとりつかれてしまう。
 無人島で16人の大人が生きのびたのは、次の4つの約束を守ったことによります。
 一つ、島で手にはいるもので暮らしていく。
 二つ、出来ない相談を言わない。
 三つ、規律正しい生活をする。
 四つ、愉快な生活を心がける。
すごいですね。明日、死ぬかもしれないという状況に置かれながら、絶えず笑いを忘れないように心がけたというのです。
 アザラシと友だちになれたのも、そんな約束を実践していたからでしょうね。
 毎日あくせく暮らしているあなた、南の島で一人取り残されたとき、こうやって生き延びられるというのを空想してみるのもいいことなんじゃないですか。

(2008年6月刊。400円+税)

2009年8月 2日

もう一つの日露戦争

著者 コンスタンチン・サルキソフ、 出版 朝日選書

 日本海海戦。東郷平八郎の対戦したロシアのバルチック艦隊の提督が、ロシアから日本海へ向かうまでの20日間に、ロシア本国にいる家族あてに出した手紙30通が残っていました。すごいことですね。しかも、その内容を読むと、ロシア側は敗戦必至を覚悟していたというのです。「無敵」と言われたバルチック艦隊のボロボロの内実があからさまにさらけ出されていて、憐れみと同情すら感じさせます。
 ロジエストヴェンスキー提督に対して、無残な敗北となった結果をふまえて、臆病者と激しくののしる声がロシア国内でかまびすしかったようですが、この本を読む限り、臆病者と決めつけるのはあたらないように思われます。ロシアのほうの皇帝以下、全般的な準備不足を提督一人の責任にしてしまうのは、公平を欠くというほかありません。
 バルチック艦隊がロシアを出たのは、1904年の10月2日。イギリスをまわり、ポルトガルを経て、アフリカをずっと南下していきます。南アフリカから喜望峰を経てマダガスカル島へたどり着いたのは、その年の暮れのこと(12月25日)。そして、ここになんと3月3日まで、2か月以上も滞留します。これも提督の意思によるものではありません。ロシア本国の指令なのです。そして、ようやくインド洋を経て、インドネシアからベトナムを経て、5月14日、ついに対馬海峡にたどり着きます。もうその頃には、バルチック艦隊は全員がへとへとの状態にありました。うへーっ、いくらなんでも、それでは勝てませんよね。
 日本との開戦前、クロパトキン陸軍相は、「朝鮮が原因でロシアが戦争をはじめるのは、ロシアにとって大きな災厄だ」と述べた。アレクサンドル皇帝は見直しを誤った。側近たちが皇帝の見直しを誤らせた。
 「日本には、戦争に打って出るだけの度胸がない」。このように、日本や中国との交渉では、一切の妥協を排する姿勢こそ最良の方法だとロシア皇帝は信じ込んでいた。ロシアは、戦争を望んではいなかったが、開戦したら勝利するとの見込みは持っていた。この戦争でロシアが勝てば、東アジアにおけるロシアの支配領域の範囲は大きく拡大するとロシア指導者の一部は想定していた。
 ロジエストヴェンスキー提督の個人的資質について、次のように高く評価する研究者がいる。
 彼は、部下が絶対的に信頼する司令官である。部下たちは、提督の勇敢さ、能力、人間性、持って生まれた清廉潔白さを疑うことはなかった。
 バルチック艦隊の実態について、アメリカの研究者(フォーク)は、次のように述べている。
 バルチック艦隊と呼べるほどの艦隊は存在しなかった。この艦隊には、未完成の新造艦もあれば、時代錯誤というべきオンボロ船も含まれていた。すべての船で、乗組員は訓練不足のうえ、定員も満たしていなかった。にわか作りで編成された艦隊は、種々雑多な艦船の寄せ集めにすぎず、これを文書の上に船の名前を並べ、軍事力として編成したに過ぎない。
 うひゃひゃ、そ、そういう実情だったのですね……。
 次に、ロジエストヴェンスキー自身の手紙を紹介します。
 「一歩すすむごとに問題が起こる。艦艇での故障、失策、拙劣な指揮、命令の不実行、無知、無能力、怠慢。この世に存在するありとあらゆる罪だ。なんとか蓋を閉めなければならない。次から次へと何かが起こり、もう耐えられないような状況だ。
 バルチック艦隊の艦艇のほとんどが長期航海の設備を整えておらず、石炭を十分に蓄えておけるだけの貯炭庫がなかった。一戦艦で、一昼夜に110トンもの石炭を消費したのに……。ひと言でいえば、今、目隠しで前進しているようなものだ。訓練も教育もない連中が、いったい何の役に立つのか、私にはわからない。それどころか、余計な負担であり、弱点になるだけだろう」
 艦隊には、反乱に近い騒ぎの空気が生まれていた。航海生活の厳しい諸条件、耐えがたい猛暑、炭じんに汚れる毎日の生活、ひどい食事がその背景にあった。しかし、最大の理由は、この先の航海に展開が開けないことだった。
 艦隊が崩壊しなかったのは、ひとえにロジエストヴェンスキー司令長官の功績だった。
 ロジエストヴェンスキーはあらかじめ弁解した。
 「私は悪党でもごろつきでもない。任務を遂行するために必要な人材、資材を与えられなかった司令官だっただけなのだ……」
 バルチック艦隊の前には、間違いなく破滅が待っていると確信していた。
 敗北は必至という予感にも関わらず、ロジエストヴェンスキーは目的地への航行を急いだ。間違いなくやってくる終焉を待つことの方が、終焉そのものよりも苦しいと感じていたのだ。次も提督が手紙に書いた言葉です。
 「マダガスカルに2ヶ月間停泊していたために、それから先の行動に蓄えておいた強力なエネルギーはすべて使い果たした。陸軍が完敗したという最新のニュースを知り、わが艦隊の乗組員たちの弱っていた精神力は、完全に参ってしまった。すっかり意気消沈してしまった者もいる」
 バルチック艦隊の大部分の指揮官たちは、無気力になるか、飲酒にふけるかのどちらかだった。ただ一人、ロジエストヴェンスキーだけが、思わしくない健康にもかかわらず、自分をしっかり律していた。彼だけが、艦隊内に生まれつつあった精神的瓦解をおさえることができた。
 ゴルバチョフ大統領の訪日団の一員であり、現在は日本で大学教授をしているロシア人の研究者による貴重な労作です。

(2009年2月刊。1500円+税)

2009年7月28日

世界史の中の日露戦争

著者 山田 朗、 出版 吉川弘文館

 私は旅順に行き、203高地にのぼったことがあります。何の変哲もない、低い灌木のまばらに生えた丘のような山でした。203高地というのは、高さが203メートルということから名付けられたものです。
 そして、ロシア軍の築いた堅固な要塞である東鶏冠山堡塁の内部にも足を踏み入れました。とても頑丈な作りでした。フランスの築城技術に学んで、ロシア軍が念入りに作り上げた要塞です。日本軍はこの要塞を攻めあぐねて、大変な死傷者を出しています。
 1904年(明治37年)2月9日、日本軍は旅順軍港にいたロシア軍艦に奇襲攻撃をかけた。日露戦争の始まりである。欧米の新聞は、この戦闘を翌2月10日の新聞で詳しく報道した。今から100年以上も前なのに、どうして可能だったのか。それは、海底ケーブルと電話線によって、世界の主要な都市、軍事拠点が接続していたから。というのも、イギリスは、50年かけて世界を結ぶ海底ケーブル網を完成させていた。
 海底ケーブルの敷設と地上優先通信網の整備、無線電信の導入は、日露戦争における情報力において、日本がロシアに対して優位に立つ大きな要因となった。情報戦の分野では、日英同盟にアメリカが加わり、それと露仏同盟が戦っていた。
 日露戦争のとき、日本軍は機関銃を持っていなかったという俗説は全くの間違いである。日本は、すでに日清戦争のときにイギリス式のマキシム式機関砲を保有していた。日露戦争のときには、フランス式のホチキス式機関銃を保有していた。ただし、日本軍はあまり最前線の陣地では使用しなかった。
 日露戦争で使用された日本の戦艦6隻、装甲巡洋艦8隻は、戦艦はイギリス製、装甲巡洋艦はイギリスやイタリア・フランス・ドイツ製であった。日本はまだ自国で建造する能力がなかった。
 ロシアは、新旧雑多な軍艦で編成されていたのに対して、日本側は新鋭艦を中心に構成されて連合艦隊として佐世保に集結していた、
 ロシアと日本と、戦力はほぼ互角で、総合砲戦力では日本がやや劣るが、快速性の点では日本側が優勢だった。
 日本軍は旅順要塞の総攻撃で大損害を被った。5万7000人が参加して、1万6000人ほどの死傷者を出した(戦死者5000人)。ロシア側の野砲や機関銃に対して、ひらすら白兵攻撃を敢行して人海戦術で突破口を作ろうとするばかりだったからだ。ロシア側の火力にさらされたときの防御陣地や遮蔽物の構築がまったくできていなかった。日本側は、本格的な要塞攻撃のノウハウを知らなかったし、旅順要塞の堡塁の構造やロシア側火器の配備状況の情報収集も十分ではなかった。
 203高地をついに占領したとき、日本軍は6万4000人の参加人員のうち、1万7000人もの死傷者(戦死5000人)を出した。結局、日本側はロシア側の総兵力をはるかに上回る6万人に近い死傷者を出した。ロシア側は4万7000人の兵力で防衛し、2万8000人の死傷者を出した。
バルチック艦隊が今どこにいるのかというのは、マスコミによって刻々と伝えられていた。
 日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝利したのは、双方の戦力データを比較検討したら、日本側の勝利は順当なものだったといえる。日本艦隊にとって有利な条件がそろっており、逆にロシア側はきわめて不利な状態で戦闘に突入した。
 ロシア艦隊はのべ3万キロ、7ヶ月の航海を経て、極度に疲弊しており、途中に寄港できる同盟国もなく、将兵の士気は低下し、小暴動が頻発していた。日本側は、いつごろロシア艦隊が到着するかつかんでおり、鑑定の整備と将兵の訓練を十分に行うことができ、準備万端整えたうえで海戦に臨むことができた。
 日露戦争、そして日本海海戦の実相をよく知ることができる本です。
 よく雨が降りました。
 日曜日、昼から雨が止んだので、少し庭の手入れをしました。ネムの木がピンクの花を見事に咲かせています。誰かがネムの花は水彩画がよく似合うと書いていましたが、なるほど、そのとおりですね。ボワボワとふくらみのあるピンクと白の混じった花で、見ているだけでも心が浮き浮きしてきます。
 連日の雨で鳴くヒマがなかったせいでしょうか。セミが薄暗くなった7時半まで鳴いていました。
 
(2009年4月刊。2500円+税)

2009年6月 1日

カラカウア王のニッポン仰天旅行記

著者 荒俣 宏(訳)、 出版 小学館文庫

 ハワイの王様が、明治時代の日本を訪問したときの見聞録ですが、目新しい話が盛りだくさんでした。
 ときは明治の初めころです。ハワイにとても陽気で学問好きの王様がいました。カラカウア王といいます。いまも日本で流行のフラダンスを復活させた王様でもあります。
 カラカウア王は、カメハメハ大王によって成立したハワイ王国の最後の王です。その死後、妹のリリウオカラニ女王が誕生したのですが、アメリカ人がクーデターを起こし(1893年)王位を追われ、ハワイはアメリカ合衆国に併合されてしまいました。
 そして、このカラカウア王は世襲で王様になったというより、議会の投票によって民主的に選ばれた王様なのでした。ちなみに、先代のルナリロ王も選挙で選ばれています。日本でも幕末のころは、選挙でこそありませんが、将軍は有力幕臣が話し合って決めていたことを思い出します。
 投票したのは立法府の議員、場所はホノルル市裁判所。カラカウアが39票対4票の大差でアメリカべったりのエマ妃を破ったのでした。
白人が持ち込んだ病気によって、ハワイに住んでいたポリネシア人が次々に亡くなり、1778年に38万人いたのが、100年後には4万5000人になっていたのです。
 1881年(明治14年)3月、カラカウア王様御一行は江戸湾に入り、明治政府から盛大なる歓迎を受けたのでした。
 日本人は、フランス人のシェフがつくる料理なら何でも真似てつくれる。ただ、肉と野菜はヨーロッパのよりも味が落ちる。
 むふふ、これって、なんだか現代日本のフランス料理ブームを皮肉っているように聞こえてきますよね。つい、おかしくって笑ってしまいました。
 カラカウア王は、明治天皇と会い、肩を並べて歩いたりしています。
 明治政府がハワイの王様を最大限のもてなしで処遇したのは、欧米列強に押しつけられていた不平等な条約を改正したいという願望があったからでした。そして、日本政府の願望をハワイの王様はいち早く受け入れてやったのです。
 ハワイ政府は、条約問題に関して、日本帝国の主権を十分に理解し尊重し、現在の条約における治外法権的権利から生じる特権を、すべて放棄する。
明治政府は、この対応に大喜びしたのです。そして、カラカウア王は、明治天皇に対して、縁結びを提案したというのです。王の姪で、王位継承者であるカイウラニ姫を、明治天皇の親戚の親王の一人(東伏見宮彰仁親王)と結婚させようとしたのです。
 明治天皇は返事を保留して、御前会議を開いて検討しました。賛成意見が大勢を占めた時期もありましたが、天皇家に国際結婚の例がないこと、アメリカとの関係悪化を恐れて、翌年、正式に断りの返事を出しました。
 このとき、ハワイの王家と日本の皇室との結婚が成立していたら、ハワイ王国がアメリカに併合されることはなかったかもしれない。著者はこのように書いていますが、果たしてどうでしょうか……?
 日本の政治家は、世界に出しても立派に通用する能力を持っているなどと高く評価されています。この点は、現代日本とまるで違いますね。
 ろくに漢字も読めず、一時的なバラまきはしても、相変わらずアメリカのいいなり、というか、アメリカが核廃絶を提唱しても、それに賛成するどころか、唯一の被爆国であることも忘れて、アメリカに核の傘をなくさないようにと、ひたすら嘆願しつづける哀れな政府です。日本政府が世界平和のためのリーダーシップを発揮するのは、いつのことでしょうか。こんなていたらくなのに、常任理事国にだけは立候補し続けようというのですから、呆れたものです。絶版になっていた本なので、インターネットで注文して入手しました。
 歩いて5分とかからないところにホタルが飛び交うところがあります。今年はそこがホタルの里と名付けられて整備され、土曜日の夜、ホタル祭りがありました。
 行ってみると、例年以上に人が出ています。子ども連れの家族が押し寄せてきていました。携帯でパシャパシャとフラッシュをたきながら写真を撮っています。ホタルはうつらないんじゃないかなと心配もします。それより、ホタルがフワリフワリと明滅しながら空中を漂っている様を味わうべきと思うのですが、これは独りよがりでしょうか……。
 ホタルより見物の人間のほうが多いかなという冗談が冗談でないほどの人出でした。
 ホタルの里と整備されたというのは、道の両側に切った竹筒を並べ、その中にローソクを灯しておいたり、昼間は花壇をととのえていたり、という環境がつくり上げられたということです。私の好みにはまったく合いませんが、地元の人たちが良かれと思ってやったというのなら、黙っているしかありません。
 でも、あんまり人工的に整備しすぎるのは、大自然のなかをたゆたうホタルに似つかわしくない気がするのは私だけなのでしょうか……。
 
(2000年7月刊。676円+税)

2009年5月26日

山県有朋

著者 伊藤 之雄、 出版 文春新書

 この本を読むと、天皇がときの権力者からおもちゃのように扱われていたこと、天皇の意思より権力者の都合のほうが明らかに優先していたことがよく分かります。天皇というのは、権力者にとって都合のいい、隠れ蓑でしかなかったのですね。
 そんな権力者が、「万世一系、天皇は神聖にしておかすべからず」などと国民に向かっては唱えているのですから、まさしく笑止千万です。
 山県有朋の父は、下級武士(蔵元付仲間組。ちゅうげんぐみ)だった。武士の中では身分の低い家に生まれながらも、吉田松陰の松下村塾に入門し、高杉晋作のつくった奇兵隊では、隊長(総管)に次ぐ地位(軍監)となって、幕末の動乱を戦った。
 山県は、4歳までに母を亡くし、父も若くして亡くなっていて、祖母も明治になる前に自殺している。このように家庭的には寂しい少年・青年時代を過ごした。そこで、心を許せる友は少なく、国民的な人気も高まらなかった。
 明治に入って西郷隆盛らが征韓論を唱えて下野したとき、山県有朋は長州藩出身という義理から木戸を支持して動くのが自明であった。しかし、尊敬し世話になった西郷と面と向かって対決するのがつらく、山県は積極的に動くことができなかった。このとき、山県は病気になったが、これも木戸への義理と西郷への人情に引き裂かれたストレスからきたものだった。
 山県は陸軍卿となって徴兵制を積極的に導入しようとした。しかし、それに対して士族の誇りから徴兵制に反感を持つナンバーツーの山田顕義少将らとの対立があった。
政府にとって佐賀の乱以上に困難な問題だったのは、台湾出兵である。征韓論に反対した岩倉・大久保らが4か月もしないうちに台湾出兵を決意したのは、全国的に広がるような士族反乱を恐れたからである。台湾出兵の欲求は、陸海軍の少壮将校の間にすらあった。台湾出兵を求める声をむやみに抑圧したら、現に佐賀の乱がおこったように、国内で大きな反乱を引き起こすかもしれなかった。
 1874年の台湾出兵以来、伊藤が大久保の後継者として地位を固めていき、西南戦争の前年には木戸に勝るとも劣らない実権を持つようになり、山県はこのような伊藤の支援で政府と陸軍内での地位を確保することができた。
 山県有朋は、37歳にして権力志向の強い人間に変わりはじめた。自らの理想を実現するために、人脈や派閥を構築しようと考えはじめたのだ。
 山県は、西郷隆盛と、人情に流されやすい優しい性格という点で、大きな共通点を持っていた。
 1873年から西南戦争がはじまる1877年までに徴兵し訓練されていた兵士は3万3700人であり、西郷軍1万6000人の2倍以上の動員能力を持っていた。しかし、山県は西郷軍を甘く見ず、心配症といえるほど気を配った。山県は南関(熊本県)に到着し、田原坂そして植木をめぐる攻防戦を指揮した。山県の採用した戦法は、奇策に頼らない正面攻撃だった。これは山県の真面目な性格を反映していた。
 山県にとって西郷隆盛は、尊敬とあこがれの対象だった。西南戦争の最中(1877年5月)に、木戸孝允が病死した(43歳)。山県は木戸の死より、西郷の死がはるかに悲しかった。
 明治天皇は1884年から85年にかけて、政務をサボタージュした。それは、監軍任命などについての天皇の意思が伊藤らに無視されたからである。そして、1886年(明治19年)、明治天皇は条例の裁可をしぶった。33歳の明治天皇は、まだ十分な権威を備えていなかった。山県や大山は、明治天皇が軍政に関与することに抵抗し、伊藤も天皇の政治関与を抑制する立場から、これを支持していた。明治天皇は、このような経験を重ねて、危機のときだけ君主は調停的に関与するものだということを学んでいった。
 明治維新以来、山県は何度も失脚しそうになりながら、屈辱に耐え、気合いと誠意で日本陸軍と自らの地位を築いてきた。桂太郎にはそのような苦労をさせまいと、自分の権力を使って陸軍省総務局長・次官や陸相というエリートポストにつけ、後継者としての地位を固めさせた。その桂が、自分の陸軍にかける思いをまったく理解せず、時勢に迎合して政党をつくる。山県には承服できなかった。山県は桂への怒りを煮えたぎらせるとともに、桂に期待し、桂の成長を陸軍や日本の将来と重ね合わせて楽しみにしてきた自分の愚かさが腹立たしかった。
 新書版といいながら、500頁近くもある大著です。山県有朋を通して、明治の政治が浮き彫りにされ、最後まで大変面白く読み通しました。

 新緑溢れる信州・白樺湖に久しぶりに行ってきました。湖の周りを歩いて一周するのに1時間ほど。ちょうどいい散歩コースです。もっとも、マラソンを愛する玉木昌美弁護士(滋賀)は1周20分ほどで走り、気持よかったよとのたまわっていました。まあ、これは好き好きですよね。ゆっくり歩くと、小鳥のさえずりのバリエーションを楽しむことができます。ウグイスのほか、いくつも聞こえてきますが、その姿を見ることはほとんどできません。
 板でできた野趣あふれる遊歩道が作られているところもあります。そこをゆっくり歩くと、湖面に悠々と鴨がペアで泳いでいるのが見えました。湖畔には白水仙がたくさん咲いています。九州では3月に咲き終わる花です。
 ここらで一休み、一服しませんか。そんな看板に引き寄せられて喫茶店に入りました。その都度、コーヒーメーカーを作動させるようです。やがて、香り高くもやわらかい味のコーヒーを堪能することができました。
 白樺湖の周囲の山々は冬にスキー場になるのが草原のようになっています。おだやかな湖面に吹き渡る風も涼しく、ついつい深呼吸してしまいました。

(2009年2月刊。1300円+税)

2009年2月23日

日本紀行

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫

 明治のはじめ、日本を女性ひとりで旅行した女性の日本観察記です。
 日本ほど、女性がひとりで旅しても危険や無礼な行為とまったく無縁でいられる国はないと思う。著者はそう断言しています。うひゃあ、そ、そうなんですかねー・・・。
 日本は花々が大変豊富で、とくに花の咲く灌木に富んでいる。つつじ、椿、アジサイ、モクレン、あやめ、牡丹、桜、梅など。そうなんですよね。我が家の庭にも、椿、アジサイ、モクレン、牡丹、桜、梅があります。四季折々に見事な花が咲き誇り、目を楽しませてくれます。なんとなく心に潤いを感じます。これこそ田舎に住む良さです。
 日本の馬は貧弱で哀れな獣。恨みがましく狡猾な動物で、のろのろと動く、寝ころがる、よろめくの3つの動きで、人間の忍耐力を試そうとする。ひゃあ、そんな……、ここまでいったら、なんだか可哀想ですよ。
 臆病な日本の黄色い犬は、夜間に吠える癖が強い。ええーっ、そうですかね……。
 日本の内陸に住む人々は親切でやさしくて礼儀正しい。ふむふむ、なるほど。
 物乞いや暴徒が日本にはいない。女性は男性のいるなかを、まったく事由に動きまわっている。子どもは父親からも母親からも大事にされている。女性は顔を隠さず、地味な顔だちをしている。だれもが清潔で、きちんとした身なりをしている。みんな、きわめておとなしい。礼儀正しくて、秩序がたもたれている。いやあ、そうですね。日本の女性って、昔から強いのです。弁護士になって35年間、日々、それを実感しています。
 日本人の鼻はぺったんこで、唇は厚く、目は斜めに吊り上がったモンゴル人種のタイプ。これまで会ったなかで、もっとも醜くて、もっとも感じのいい人たちであり、もっとも手際がよくて器用だ。うむむ、これは納得できそうで、できませんが……。
 日本の商店で、買い物をするとき、うるさい値引きの交渉はひとつもない。ふむふむ。
 秋田県の久保田にも地方裁判所がある。司法制度の改革とともに、弁護士が続々と誕生している。ここは、えらく訴訟好きの町ではないかと思えるほど弁護士がいる。法律関係の職業は、たいがいペンをつかうことに長けた士族の好む職業となりつつある。弁護士の免許料は約2ポンド。これは、もうかる職業に違いない。うむむ、昔の秋田にそれほど弁護士がいたなんて……。今は少ないです。
 学校のない地域で子どもたちは教育を受けないままになっていると思っていたが、それは間違いだった。おもだった住民が子どもたちに勉強を教えてくれる若い男を確保し、ある者は衣服を、別のある者は住居と食事を提供する。それより貧しい人々は、月謝を支払い、もっとも貧しい人々は無料で子どもたちに教育を受けさせられる。これは、とてもよくある習慣のようだ。小繋(こつなぎ)では、30人の勉強熱心な子どもたちが台所の一隅で授業を受けていた。ここは、あとで、入会権の裁判で有名になったところです。
 日本の女性や子どもたちが伸びのびと生きていたことをよく教えてくれる本です。
 きのうの日曜日の朝、春雨が降りだす前に春告鳥(はるつげどり)が美しい音色の声を爽やかに響かせてくれました。そうです。ウグイスです。ホーホケキョと済んだ声でした。梅の花も満開、やがて春の初市の季節です。
 今朝の新聞の書評コーナーに私の本が紹介されていました。あまり売れていない本なので、とてもうれしく思いました。元気の出てくる朝でした。

(2008年4月刊。1500円+税)

2009年2月 7日

森鷗外と日清・日露戦争

著者:末延 芳晴、 発行:平凡社

 森鷗外は、夏目漱石と並ぶ明治の文豪であり、同時に、文学者でありながら陸軍軍医官僚であるという矛盾をかかえ通したことで、謎の文学者でもある。そもそも軍人でありながら文学者であることが可能なのか。
 私は、『五重塔』や『阿部一族』など、森鷗外の重厚な文体に強く惹かれるものがあります。その森鷗外の実態に迫る本書は、私の知的好奇心をますますかき立ててくれました。森鷗外は、日清・日露戦争に軍医として従軍し、日記や妻への手紙を書き、歌まで詠んでいたというのです。戦争の残虐さを実感し、綱紀がいいはずの日本軍が罪なき市民を大虐殺したことも現地で実見しながら、立場上そのままを日本に伝えることはできませんでした。それでもストレートでは伝えられなかったものを、それなりに伝えているようです。
 日清戦争のとき、日本軍は旅順に入って一般市民を無差別に殺戮した。旅順虐殺事件として世界に広く知られた。しかし、日本国内ではほとんど知られていません。乃木将軍も関わっている虐殺事件です。
 森鷗外は、軍医として台湾侵攻作戦にも従軍している。このとき、現地住民によるゲリラ的反撃にあい、予想もしなかった苦戦を強いられた。戦争の過酷さ、恐ろしさを体験させられた。
 森鷗外は、実家にいる妻あてに、実にこまめに手紙を書いて送った。ヒラの兵士だと月に2回という制限がある。しかし、鴎外は1年10ヶ月のあいだに妻へ133通もの手紙を書いて送った。1週間に1回のペースである。妻は鷗外より18歳も年下だった。1年10ヶ月というのは、日露戦争に鷗外が従軍した期間である。
 森鷗外は、しばらく小倉で軍医をしていました。それが初めての挫折といわれるほどの左遷であったことを初めて認識しました。明治32年(1899年)6月のことでした。
「左遷なりとは、軍医一同が言っており、得意な境地はない」
「実に危急存亡の秋(とき)なり」
小倉での鷗外の軍医としての仕事は、徴兵を忌避しようとする若者をチェックすることにあった。
 明治42年2月、森鷗外は朝日新聞の記者によると、怒鳴りあい、取っ組みあうという喧嘩沙汰までひきおこした。偉大な文豪と呼ばれる人でも、こういうことってあるんですね。よほど記者がカンに触るようなことを言ったのでしょうか……。
 森鷗外は軍医として最高峰の地位にまでたどり着き、元老の最長老として政・軍に絶大なる影響力を行使していた山県有朋とも交流を深めた。
 明治43年5月に大逆事件が起きた。逮捕された幸徳秋水らは、翌1月に処刑された。大逆事件は、「時代閉塞の状況」(石川啄木)をさらに決定的にした。
 いやあ、よくよく考えさせられる森鷗外の評伝でした。

(2008年8月刊。2600円+税)

2008年10月31日

イザベラ・バードの日本紀行

著者:イザベラ・バード、 発行:講談社学術文庫

 イザベラ・バードが日本を訪れたのは1878年(明治11年)、47歳のときです。
 日本人は非常に良く手紙を書き、手紙として良い文章や達筆は大変に評価される。イザベラに同行した伊藤は週に一度とても長い手紙を母親に宛てて書く。そのほか、大勢の友人そして、ちょっとした知り合いにまで手紙を書く。いたるところで、若い男性や女性が余暇の多くを手紙を書いて過ごしている。また、装飾の入った紙や封筒をデザインするのは重要な商売で、その種類は無数にある。ペンとして用いられるラクダの毛の筆を巧みに扱えるのは、教育の肝要な成果とみなされている。日本人が物書きに熱心なのは、昔からなのです。ですから庶民レベルまで日記がよく書かれています。
 日本人は、イザベラ・バードがこれまで出会ったなかでもっとも無宗教の人々である。日本人の巡礼はピクニックで、宗教的な祝祭は単なるお祭りである。
 日本人は自然を愛好する気持ちが非常に強い。
 日本人の性格で評価すべき2点は、死者に対して敬意を抱いている点と、あらゆることに気を配って墓地を美しく魅力的なものにする点である。
 東京は冒険心と活気に富んだ、すばらしい都会である。物乞いはおらず、貧困で不潔な街区もなければ、貧困と不潔さが犯罪と結びついていることもない。また、不幸や窮乏でうみただれた芯のような場所は一切見当たらない。売春は合法化されているとはいえ、通常の市街で客を誘惑するのは禁じられており、ふしだらな遊興は特別な街区に限られている。
 花祭りは、首都・東京でもっとも魅力的な光景の一つである。律儀に刈り込まれた生垣のある郊外のよく手入れされた庭などは、日本人の性格の特徴の中でもっとも喜ばしいものの一つである。自然の美しさへの日本人の愛好は、特定の場所に咲く特定の花が最盛期にあるときに眺めに出かけて、さらに規律正しい満足感を覚える。桜のころに花見が盛んなのは、昔からなのです。
 富士山は、東京の絶景の一つである。中間層・下層民は戸外ですごすのが好きな傾向がある。
 汽車に乗ると、日本人乗客の親切心と礼儀正しさにつくづく感心する。日本人は、きちんとした清潔な服装をして旅行し、自分たちや近所の人々の評判に気を配る。
 日本の妻は、上流階級より下層階級のほうが幸せのようだ。日本の妻は良く働く。単調で骨の折れる仕事をする存在というより、むしろ夫のパートナーとしてよく働く。
 未婚の少女たちは世間から隔離されておらず、ある程度の範囲内で完全な自由を持っている。女の子たちは男の子と同じように愛情と世話を受け、社会で生きていくために男の子と同様きめ細かくしつけられる。
 明治はじめのころの日本って、こんなにも現代日本と違うのですね。驚きです。
 朝、雨戸を開けると、純白に輝く秋明菊の花が目に飛び込んできます。茎がすっくと伸び、神々しいまでに気高い白い花弁です。その隣に不如帰の薄紫色の花がひっそりと咲いています。秋も深まり、朝晩には寒さを感じるようになりました。室内を素足で歩くのに冷たさを感じて、スリッパを履いています。
(2008年6月刊。1250円+税)

2008年4月 4日

富豪の時代

著者:永谷 健、出版社:新曜社
 明治維新以降、一部の実業家たちは、莫大な富を蓄えていた。三井家の一族、三菱会社の岩崎一門、そして大倉喜八郎、安田善二郎、森村市左衛門といった財閥の創始者たちである。
 彼らは、必ずしも明治初年から傑出した資産を保有していたわけではない。とくに、一代で財閥の基礎を築いた実業家たちにとって、明治初年はいわば駆け出し実業家の時代だった。たとえば、安田善二郎が両替店から質商兼業とし、事業の拡大を図りつつあったのは明治2年。大倉喜八郎が鉄砲商として得た財をもとに商会・大倉組を設立し、輸出入委託販売業を本格的に始めたのは明治6年だった。
 明治29年に営業税法が公布された。このとき、日清戦争の軍功による叙爵者にまじって、実業界の岩崎久弥、岩崎弥之助、三井八郎右衛門に初めて爵位が授けられた。これは、実業の分野で国家に対して顕著な貢献があれば、途方もない威信の上昇がありうることを社会に周知させるメッセージとなった。
 明治20年代半ばまで、成功した商人は、「奸商」イメージで語られることが多かった。しかし、多額納税者議員が現れたあと、彼らは新時代で巨富の蓄積に成功した稀有な階層としてとらえられるようになった。しばしば、富豪や紳商と呼ばれるようになった。つまり、前の時代よりダーティーなイメージが薄められたのだ。
 明治17年以降、華族でない実力者士族の華族への割り込みが急速にすすんだ。華族という呼び名で制度的に一括された集団は、メンバーの社会的・文化的出自の多様性の点で、そして異質な選抜基準をふくむ点でも、ひとつの社会的身分として定義するのが難しいほどの雑居状態にあった。
 すなわち、ひと口に華族といっても、それは経済的にも出自の点でも、決して等質な集団ではなかった。階層としての実体性がなかった。
 茶道は、明治20年代後半から大正期にかけて、リッチな実業家たちの正統文化へと成長していった。同じ時期に、能楽も流行した。能楽は、明治9年4月に岩倉具視邸への行幸で天覧に供された。能楽が大流行したのは、やはりそれが代表的な天覧芸であったからだろう。
 茶室は、重要な事案にかかわる面会や人脈形成の場として利用されていた。商談策謀は、茶室以外では出来ないとまで言われた。実業家の茶事は、必ずしも超俗的で、高踏的なものではなかった。
 明治時代にあった長者番付表を見ながら、いろいろ考えることのできる本でした。
(2007年10月刊。3400円+税)

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