弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2008年2月 1日

旅順と南京

著者:一ノ瀬俊也、出版社:文春新書
 日清戦争(1894年、明治27年)に従軍した軍夫の絵日記と上等兵の日記をもとに日清戦争の実際を再現した本です。第二次大戦がなぜ起きたのか、日本人が戦争で何をしたのか、改めて考えさせられる本でした。
 朝鮮半島を制圧すべく日本から送られた第2軍(司令官は大山巌大将)は、3万5000人。うち1万人以上が軍夫だった。絵日記をかいた軍夫は東京出身で、1894年10月に遼東半島に上陸し、ずっと後方輸送に従事した。軍夫の賃金は日給50銭。当時、日本の日雇い賃金は21銭だったので、かなりの高給だ。
 もう一人、日記をつけていた上等兵は千葉県柏市の出身であり、漢文調の日記だった。
 朝鮮半島へ渡る出征軍の歓送はすさまじいものがあった。夜間にもかかわらず、大勢の住民が沿線にまで出ていて、励ました。
 兵士には蒸した米を干した保存食である糒(ほしい)が支給された。定量は1人1日3合。
 日清戦争で、日本軍は旅順で人々を虐殺しました。加害者は歩兵第一旅団(旅団長は、あの乃木希典少将です)をふくむ日本軍です。陸軍は、基本的に捕虜をとらず、無差別に殺害したのです。従軍していた英米の記者がこの事実を世界に向けて発信したため発覚しました。
 ご承知のとおり、乃木希典は、10年後の日露戦争のときにも旅順攻略戦にも参加している。日清戦争のときには、清軍(中国軍)が半日であっけなく抵抗を止めた。もう少し苦戦を余儀なくされていたら、日露戦争で日本軍は強襲したら一挙に陥落できるとは思わなかったのではないかという説もあります。
 日清戦争のときの旅順虐殺事件の実態をみてみると、日本人の道義が日露戦争のときまでは良くて、その後、低下した、ということは決して言えないことがよく分かります。やはり、戦争は人間を鬼に変えてしまうのですね。
(2007年11月刊。870円+税)

2007年12月14日

ゴードン・スミスの見た明治の日本

著者:伊井春樹、出版社:角川選書
 イギリス人のリチャード・ゴードン・スミスは1858年生まれ(1920年死亡)、41歳のとき、日本にやって来た。日露戦争のとき、日本に滞在して、日本兵と日本人を観察した。
 明治37年(1904年)11月の203高地の日本軍の空貫突撃の様子が、日本兵の故郷への手紙で紹介されています。現代文のほうを紹介します。
 11月26日に突撃隊が編成され、「突貫」との命令のもとに午後4時に山腹より突進する。上部の堅固な塹壕を築いた要塞からは、容赦のない弾丸の雨が降り注ぎ、どうにか敵の陣地に近づいたとはいえ、犠牲者は増えるばかり。中隊長の戦死、次々と命を失い負傷する友軍、気がつくと残った中隊は自分を含めて10人ばかりというありさま。しかも、その死者の姿は実に残酷で、弾薬に焼けただれていた。あー、湯上がりにせめて一杯の白米のご飯が食べたい。ロシア軍による上からの容赦のない攻撃、自分が生きながらえたのは奇跡というほかなく、無数の屍(しかばね)をこえての二〇三高地の占領だった。その悪夢が、今では毎日毎晩のシラミ虫の攻撃に悩まされている。
 次に、ロシア兵の手紙も紹介されています。
 朝6時。日本兵は縦列になって接近し、第一隊砲火を浴びて倒れても、次の第二隊が、さらに第三隊が前進してくる。我々は銃剣を手にして20分もの死闘を続け、日本兵は 4000人ばかり戦死し、あたりにはおびただしい死体の山が築かれた。日本兵が退却したあと、死体を片づけるのだが、その光景はとても表現できない有り様だった。負傷者は水を求めて泣き喚き、ある者はもう一度、戦闘に加わって死にたいという。
 スミスは大英博物館の標本採集員という任務を帯びていました。新種の魚や動植物を発見したいという冒険心が行動に駆り立てていたのです。
 日記を8冊残していて、当時の日本人の生活や考え方を記録していました。
(2007年7月刊。1600円+税)

2007年9月28日

西南戦争従軍記

著者:風間三郎、出版社:南方新社
 明治10年(1877年)の西南戦争に病院係として従軍した久米清太郎(25歳)の7ヶ月間の日記を読みものにした本です。西南戦争の悲惨な実情がよく伝わってきます。
 著者は久米清太郎の子孫です。久米清太郎は幸いにも生きのび、屋久島に渡って、製糖事業をおこしました。
 2月14日、大雪のふるなか、大将・西郷隆盛の前に1万をこえる兵士たちが勢ぞろいした。一大隊は10小隊から成し、一小隊は200人の兵士からなる。したがって、一大隊は2000人規模。小隊の中心的存在は、城下士。郷士は、城下士の絶対的統率に従わねばならない。
 清太郎は大砲隊二番隊病院掛役を命じられる。砲隊は200人を二隊に分け、保有する砲は山砲28門、野砲2門、臼砲30門であった。
 2月15日、一番大隊長の篠原国幹以下4000人が先陣を切って出発した。
 2月19日、前日から降り出した雪は大雪となった。薩軍兵には制服はなく、大半が着物に草履と脚絆を巻いただけの軽装だった。大砲を引いての雪中行軍は遅々として進まない。
 山門砲や臼砲などの重装備を人力で運搬せざるをえなかった薩軍は雪を甘くみていた。これは誤算だった。
 2月22日、午前4時から熊本で戦争が始まった。
 3月7日、薩軍の大砲が一斉に熊本城へ向かって撃ちこまれた。
 3月10日、田原坂での激戦が続いていて、負傷者が次々に運ばれてきた。田原坂では17日間も決死の闘いが繰り広げられた。
 3月19日、官軍の別働隊が八代に上陸した。官軍の新鋭艦「春日」「鳳翔」「清輝」などが八代湾に入港し、4000人が上陸した。黒田清隆の考えた作戦である。
 4月21日、官軍は3万人にふくれあがり、薩軍は人吉に逃げた。御船で激戦となった。
 5月27日、薩軍は人吉城跡地で、住民の手もかりて、一日2000発の鉛弾をつくった。
 5月29日、清太郎の弟(18歳)が戦死した。この日の清太郎の日記には何も書かれていない。空白は弟の死を哀しむ気持ちのあらわれだろう。
 そのあと、清太郎たちは宮崎県の都城へ逃げた。都城でも、薩軍は追ってきた官軍に大敗した。近代装備を施した官軍2万の前に、心意気だけで戦う薩軍に勝ち目はなかった。
 8月11日、清太郎は、西郷隆盛の息子、17歳の西郷菊次郎に会った。母親の愛加那に似て、目の大きい彫りの深い顔立ちをしていた。
 8月15日、西郷隆盛が和田越の決戦のとき初めて戦場に立った。率いる兵は3500。対する山県有朋の率いる官軍は5万。午後2時、薩軍は全軍が敗走を始めた。菊次郎も官軍に捕らえられた。この菊次郎はその後どうなったのでしょうか?
 清太郎は、8月13日の官軍の延岡総攻撃のとき捕まっていた。
 9月24日、西郷隆盛は49歳で自決した。別府晋介が西郷の首をはねた。
 この日、薩軍の戦死者160余人、降伏した者200余人だった。
(1999年6月刊。1800+税)

2007年6月15日

南方熊楠

著者:飯倉照平、出版社:ミネルヴァ書房
 明治時代の巨人として有名な南方熊楠の伝記です。私はミナカタという読み方をずっと知りませんでした。ナンポウとかミナミカタと読んでいました。この本によると、ミナカタということですが、南方をナンポウと読ませる人もいるそうです。
 信濃守護についていた小笠原家に北方、南方、東方、西方という四家老がいて、その庶出の孫などが各地に分かれて南方を名乗ったということです。明治維新の前はみな小百姓だったが、のちに商家となったものもあり、その一人が父親の婿入りした南方家を起こした。もともと、あまり格の高い家ではない。このように紹介されています。
 熊楠の和歌山中学での成績は、とくに目立つような優等生ではなかったそうです。偉人にも昔から、そういう人っているんですよね。
 熊楠は博覧強記で有名ですが、そのもととなったのが、小学生のころから『和漢三才図会』でした。中学生のとき、原本105巻を借り受けて、最後まで全巻を書き写したというのです。15歳夏に写し終えました。これはすごいことです。さらに、中国の『本草網目』そして、『大和本草』まで書き写したのです。並の人間にはとても出来ません。
 熊楠は和歌山中学を卒業すると、上京して東京大学予備門に入学した。第一高等学校の前身です。明治19年(1886年)から熊楠はアメリカに留学します。
 さらに、イギリスに渡り、1898年12月までの3年半は、大英博物館に通い、さまざまな書籍を書き写しました。大英博物館は、一切が無料公開され、亡命者のたまり場となっていました。不遇な立場にある者や貧しい勉学者にも居心地が良かったようです。
 イギリスで熊楠は中国の孫文とも親しい交流がありました。夏目漱石は熊楠と入れ替わるようにロンドンに留学しています。漱石は国費留学生として月150円が支給されていました。熊楠は、日本の弟からの送金が月80円でしたから、生活は大変だったようです。
 熊楠は1900年(明治33年)10月に14年ぶりに日本に帰国しました。
 熊楠は1911年から1914年まで、大蔵経を抜書する作業に没頭しました。
 4000頁をこえる膨大な量の抜書があるそうです。これだけの努力をするのですから、博識になるのも当然ですよね。
 それにしても私が驚いたのは、大蔵経のなかに、おびただしい数の男女の愛欲や逸脱した性の態様、とくに禁じられた事例としての自慰、不倫、同性愛、近親相姦、獣姦などがあったということです。ええーっ、まさかー・・・とつい唸ってしまいました。経典というから、高邁な理論が述べられているだけと思っていましたが、そうではないのですね。
 熊楠の一世一代の晴れの舞台は、1929年6月に昭和天皇に対して進講したことです。粘菌について話したようです。
 熊楠を知ることのできる伝記でした。

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー