弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年4月26日

リーダーたちの日清戦争

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館

日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

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