弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2012年11月23日

落花は枝に還らずとも (上) (下)

著者   中村 彰彦 、 出版   中公文庫 

 会津藩士、秋月悌次郎の一生を追った本です。会津藩が幕末の京都でどんな動きをしていたのか、白虎隊に象徴される戊辰戦争の実情、そして明治になってからの会津藩士の歩みなど、興味深く読みすすめていきました。
ところが、会津藩士の中核として活躍した秋月悌次郎が、なんと明治になってから熊本で高校教師になっていたのを知って、腰が抜けそうになりました。
 熊本の高校生たちに風格ある漢文教師として慕われていたというのです。幕末といっても、そんなに遠い世界のことではなかったんだなと、このエピソードを知って改めて認識を改めたことでした。
 そして、この秋月悌次郎が熊本の五高で教えていたときの同僚の教授に末広厳太郎がいたというのです。民法学の大家であり、東大セルツメントの創始者でもある末広厳太郎が登場してくるとは夢にも思いませんでした。
 明治33年1月、77歳で息をひきとった秋月悌次郎は、若き日には「日本一の学生」といわれ、松平容保の京都守護職就任に際しては会津藩公用方として活躍した。会津藩の開城降伏式を宰領した。熊本で教育者になってからは、ラフカディオ・ハーンに「神のような人」とまで言われた。
 2005年に、この本で新田次郎文学賞を受賞したとのことですが、私と同世代の著者の調査力と筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。
(2008年1月刊。762円+税)

2012年10月 6日

筑前竹槍一揆研究ノート

著者   石瀧 豊美 、 出版    花乱社選書 

 明治6年(1873年)6月に福岡県内で起きた竹前竹槍一揆は、参加者20万人とも10万人とも言われ、処罰されたものが6万4000人にもなる最大規模の一揆です。
 明治6年6月、大旱魃(かんばつ)を背景として、嘉麻郡の一角に起こった農民一揆は、たちまち筑前全域に広がった。一部は筑前地方をまきこみつつ、一揆の参加人員は30万人(少なくとも10万人)と言われる。福岡城内にあった福岡県庁の焼打ちにまで発展する空前の大一揆となった。
 福岡城内にあった福岡県庁といえば、現在、舞鶴中学校のあるところですから福岡の地裁・高裁のあるところの近くですよね。
 この一揆が何を要求していたかということについて、著者は「解放令」反対を揚げていた事実を直視すべきだとしています。この一揆は、その過程で、被差別部落2000戸以上の家屋を意図的に焼き払った。そして、そのとき、部落外に類焼しないよう細心の注意を払っていたことを明らかにしています。
 「解放令」が出た後の被差別部落民の積極的な行動が、一般民衆の目には傲慢とうつり、次第に発火点に達して、一気に爆発したのが竹槍一揆なのである。解放令が出たのは、明治4年のこと。
 一揆勢は、部落は有無をいわさず焼くが、部落以外は一軒も焼かないように、失火にすら気をつけるという見事な統制ぶりを示した。
 「解放令」は農商民と被差別民との間に妥協なき日々の戦いを強いることになり、筑前竹槍一揆勃発の直前まで、差別・反差別のせめぎあいが、ときに竹槍・刀で武装する戦いにまで至っていた。
 民衆が新政に反対し、ことに被差別部落の焼き打ちに及んだ背景には、政府が文明開化政策についての啓蒙を怠っていたこと、あまりにも急激な変化が矢継ぎ早に相次いだことがあげられる。民衆にとっては、これまで安住できた生活空間が破壊される恐怖感につながった。明治6年の筑前竹槍一揆については、私たちはもっと認識してよいと思います。昔の人は政府への怒りをストレートに行動に示していたのですから・・・。
(2012年5月刊。1500円+税)

2012年9月14日

明治維新 1858-1881

著者   坂野潤治・大野健一 、 出版   講談社現代新書  

 明治維新のとらえ方について、ステレオタイプ的な見方を一新させられる思いをした刺激的な本でした。
 明治天皇は名目的な最高権力者であったが、政治の実権は多数の藩閥政治家が入れ替わり立ち替わり握っていた。そして、このことは当時の日本政治の弱点ではなく、むしろ世界史にほとんど類をみない長所だった。
明治天皇は国民統合の象徴としての重要な政治的意義を担い、ゆえに明治期の指導者にとっては尊崇し、権威を付与し、正当性の由来となる存在ではあったが、実権をもつ独立した政治力ではなかった。
 明治初期には、開発派(大久保)、外征派(西郷)、議会派(板垣)、憲法派(木戸)の四派があり、各派とも単独では十分な政策実施能力を欠いているため、絶えず他派と「連合」していた。そして、連携と牽制の関係は固定的でなく、状況変化に応じて数年ごとに組み換えられた。いったん対立したグループ間に、修復しがたい遺恨が生じることもなかった。
 佐賀(肥前)藩出身者は、大熊重信にかぎらず、江藤新平、大木喬任、副島種臣らも含めて、旧藩単位でグループを形成することはなく、単独行動が多かった。
 これは、幕末期の佐賀藩が自藩だけで「富国強兵」を実践し、それがかなり成功したために他の雄藩と連携する必要を感じなかったからである。そのため、旧佐賀藩士は、共同作業や連携組み替えの訓練を受けていらず、その母体となる枠組みも存在せず、それ故に自己主張のためには過激性や単独プレイに頼る傾向があった。これって、何事によらず、いいことばかりをもたらすわけではないっていうことですよね・・・。
幕末の佐賀藩は、富国強兵の優等生だった。軍艦を毎年一隻購入し、アームストロング砲16門、スペンセル銃1000挺を購入している。しかし、それにもかかわらず、佐賀藩は倒幕勢力としても、新政府勢力としても変革にはまったく貢献できなかった。
 江戸時代末期の武士は45万人。その1%の4300人が明治維新という社会変革に積極的に関わった。武士は、エリートとしての使命と誇りに燃えて政体編成にあたった。
 そして、新政権の確立と維持のためには所期の目的を大きく逸脱する行動は不可欠となった。政治改革を意図してはじまった運動は、ついに政治改革にまで及んだ。
 西郷隆盛は、幕末期に鹿児島藩の商社化による富国強兵と、他藩と協力しながらの封建議会の設立の双方のために奔走したから、大久保と木戸が、欧米視察で学んできた工業化と憲法論を十分に理解できたであろう。封建制を前提とする議会論は、明治維新の維新者たちのあいだでは、幕末以来の共通了解であった。
 明治初期の農村地主の突然の政治参加をもたらした要因は、第一に西南戦争インフレによる農産物価格の急騰が彼らの交通費と滞在費と書籍費を支えたこと、第二に、唯一の納税者で使い道に関心をもつようになったことにある。
変革期の連携に組み換えが収拾不能な混乱に陥ることなく、また長期にわたって継続したのは、王政復古に先立つ10年間の藩内での上下の交流による協働経験があった。指導者たちは、相互に抜き差しならない対立に追い込まれたときも、衝突する寸前まで、互いに相手の善意を信じこんでいた。
 西郷隆盛は、平均して年に11通の手紙を大久保に出していた。今日の我々には想像もつかないほどの筆まめさに支えられて、西郷隆盛や大久保利通らの薩摩藩改革派は、鹿児島にあろうと京の藩邸にいようと、江戸屋敷に住もうと、朝廷、幕府、有力諸藩の動向をお互いに共有することができた。
 やはり情報こそカギなのですね。いい本でした。さすがです、学者はすごいものです。
(2010年1月刊。740円+税)

2012年3月11日

イザベラ・バードを歩く

著者   釜澤 克彦 、 出版   彩流社

 明治11年(1878年)夏に、東京から東北を旅行し、北海道に渡ってアイヌ部落まで視察したイギリス人の女性旅行家による『日本奥地旅行』(平凡社ライブラリー)は、江戸時代末期から明治初期の東日本をまざまざと紹介している貴重な本です。
 この本は当時47歳のイギリス人女性がたどったのと同じコースをアマチュア(素人)がカメラ片手にたどった旅を再現した本です。写真がふんだんにあって、昔と今のイメージの違いを知ることもでき、興味深く読み通しました。
イザベラ・バードの旅は今と同じ好奇心旺盛の日本人に取り巻かれて、プライバシーの欠如、悪臭、ノミや蚊に苦しめられた旅行でした。
 日本人の物見高さのすごさには呆れますね。バードを見ようとして、家の中に60人、外には1500人も集まっていたというのです。いわゆる白人女性の姿を一目でも見てみようという日本人の群衆です。今だって同じですよね。
 「こんなすばらしい見世物を自分ひとり占めしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国人の女をみる機会もなく一生を終えるかもしれないから・・・」
 泊まった宿屋では、深夜まで芸者や酔客の騒音で睡眠もままならない状態でした。今も昔も、日本人の団体客は騒々しい限りなんですね・・・。
 バードの通訳として同行した伊藤鶴吉について、バードは不信感をもっていましたが、わずか20歳でバードの旅行を無事に完遂させたのですから、偉いものです。
東北の人々は、自らの貧しさを詫びながらも、外国人客を精一杯もてなそうとし、決して余分のお金は受けとろうとしなかった。すごいですよね、これって・・・。
そして、実り豊かに微笑する東北の大地をみて、イザベラ・バードはここをアジアのアルカデカ(桃源郷)と名付けたのでした。
 各地のカラー写真がありますので、バードが旅行した当時をしのぶ手がかりとなります。バードの勇気もたいしたものですが、それを130年後にたどってみた著者の努力も大いにたたえたいと思います。
(2009年6月刊。1800円+税)

2011年11月13日

衝撃の絵師・月岡芳年

平松 洋 新人物往来社

 おどろおどろしい絵に度肝を抜かれます。しかし、我慢して頁をめくっていくと、江戸時代の浮世絵調になって救われます。幕末・明治を生きた最後の浮世絵師。血みどろの無残絵、迫力の妖怪絵から麗しき美人絵、気品あふれる歴史絵まで・・・。
 これがオビのうたい文句ですが、実にそのとおりです。
 目をそむけたくなる無残絵は目をつぶって通り過ごしましょう。
 歴史絵として、桜田門外の変が描かれています。まさしく血みどろの闘いであったことが手にとるように分かります。目撃したわけでもないでしょうに、あたかも実況中継のように氏名入りで活写されているのに驚きました。
 月岡芳年は天保10年(1839年)の生まれ。12歳で浮世絵師の歌川国芳の門をたたいた。芳年が「血みどろ絵」を描いたのには、その当時の時勢の影響も大きい。安政の大獄、桜田門外の変、安政の大地震、コレラによる大量死、大政奉還、明治維新というなかで、多くの人が実際に血みどろの屍を目にしていた。
 その後、新聞社に入って時事絵を描き、また絵入新聞で活躍した。このときには時給100円という破格の待遇だった。
 そのドラマチックな場面構成は、現代の劇画に通じる。
 「血みどろ絵」は三島由紀夫が愛好していたそうですが、なんとなく分かるような気がします。
 芳年は精神の病を得て、54歳という若さで生涯を閉じた。
一見の価値ある絵です。ただし、お化け屋敷なんて絶対にのぞかないという人にはおすすめしません。気分が悪くなると思いますので...。
(2011年6月刊。2100円+税)

2011年11月 9日

明治維新と横浜居留地

著者   石塚 裕道 、 出版   吉川弘文館

 幕末から明治の初めにかけて、横浜に大量の英・仏軍兵士が駐屯していたこと、アームストロング砲はともかくとしてガットリング機関銃のほうは、まだまだ欠陥が多くて、実戦ではそれほど役に立たなかったことなどを知りました。世の中って、本当に知らないことだらけだとつくづく思います。
 英仏両軍の横浜駐屯は文久3年(1863年)から明治8年(1875年)までの12年間に及んだ。その間、この横浜のフランス山、トワンテ山一帯は、いわば外国軍隊による占領に近い異常事態のもとにあった。
 横浜には、明治11年(1878年)ころ、中国人1850人をふくめて外国人が3200人、進出している外国商社は60社に及んでいた。横浜港は日本全国の小銃輸入量の6割を占めていた。20万丁をこえ、小銃取引の一大拠点となっていた。相手かまわず利益を追求する、ヤミ空間に暗躍した外国商人がそこにいた。
 文久3年(1863年)、イギリスとともにフランスにも駐屯権が承認され、それまで公使館の護衛兵程度にすぎなかった兵士たちに加えて、大規模な英仏共同の軍事行動のかたちで、続々と両国軍の士官・兵卒が香港や上海などから横浜へ進駐を開始した。
 四国連合艦隊による下関砲撃事件は文久3年(1863年)から翌年にかけてのこと。長洲藩が合計6回にわたって外国艦隊を砲撃して交戦したが、結局、敗北した。英国陸軍の制式砲に採用された最新鋭の後装式施条砲であるアームストロング砲の攻撃力により、4日間の交戦で長州藩の敗北に終わった。その長い射程距離、高い命中精度、旧型球弾に代わる尖頭型炸裂弾の使用など、アームストロング砲は薩摩と長州側からすれば、地上最強の究極兵器に見えたことだろう。
 列強艦隊の中心は英・仏の兵力であったが、その6割を占めたのはイギリス海軍であった。この対外戦争の実態は「日英戦争」であった。英国公使オールコックは強硬派であり、対馬占領そして彦島の占領、さらには城下町萩まで侵略する作戦を主張した。これについて、英仏の現地軍司令官は兵員不足と不利な地形から反対し、占領侵略作戦は実施されなかった。かの有名なオールコックが、日本占領・侵略を主張していた強硬派外交官だったとは知りませんでした。
 オールコックは、基本的にはイギリス本国の自由貿易政策の保護者でありながら、当面の戦略では、ロシアの南下作戦に対する危機感から対馬ついで彦島の占領を提案したのだった。
 戦時に、アームストロング砲は故障が続出するなど、装備に欠陥があった。
 イギリスは、極東で保有する軍事力の3割を日本へ派遣していた。さらに日本で緊急事態が発生すれば、英仏軍合計6600あまりの横浜駐屯軍に加えて、日本への増派可能な軍事力として、2、3日中にも上海から、その3倍ほどの増援部隊を移動・派遣することが可能であった。
 ところが、日本の市場価値の低さもあって、イギリスには幕末日本を植民地化するという永続的・長期的な方針はなかった。それが幸いしたのですね。市場価値があるとみられた中国に対しては、イギリスはアヘン戦争を仕掛けたわけです。
 戊辰戦争のなかで長岡藩家老「軍務総督」河井継之助の戦力とその指揮力が近年高く評価されている。河井総督の最後の切り札はアームストロング砲とともに高性能のガットリング機関銃だった。これは、手動回転式6銃身、弾薬後装360発、砲架(砲車)に搭載移動、1門の価格6000両だった。ところが頼みの最新兵器ガットリング機関銃の性能は期待はずれ、陣頭指揮者であり射手として銃の手動回転を操作した河井総督も狙撃されて負傷し、更迭されてしまった。
このころは外国人の武器商人が双方の陣営に深く入りこんでいたのでした。アメリカでガットリングが新型銃を完成して売り出したが、不評だった。そのため、内乱列島の日本が兵器売り込み市場の一つとして注目され、海外市場の開拓として日本に売り込まれた。
 ガットリング機関銃は南北戦争でもわずかしか利用されず、南北戦争のあとにアメリカ陸軍が制式採用した兵器であった。ヨーロッパでは、まだ試用段階で、その性能は疑問視されていた。
 立ったまま銃身を手動回転させるので、敵から狙撃されやすく、毎分200発も発射できるといっても、それに必要な大量消費できる弾薬補給・輸送体制が確立していなかった。
幕末・明治にかけて、アメリカでは南北戦争が、フランスでは、パリ・コミューンがあって、日本どころではなかったというのが明治維新による変動が国内要因だけで成功した条件だったようです。まさに、昔も今も世界は連動しているのですね。
(2011年3月刊。2700円+税)

2011年8月24日

日露戦争諷刺画大全(下)

著者    飯倉  章  、 出版   芙蓉書房出版

 日露戦争とは一体いかなる戦争だったのかを知りたいと思ったら必読の本だと思いました。当時の世界各国のとらえ方がポンチ絵(政治マンガ)として紹介されているのですから、見逃すわけにはいきません。
 1904年に始まった日露戦争で、1905年1月下旬、ロシア軍が突如として大規模攻撃を満州にいる日本軍に仕掛けてきて黒溝台(こっこうだい)の戦いが始まり、1月25日から29日まで続いた。これは、ロシアの血の日曜日事件の3日後に始のことである。ロシア国内では、世界の注目を血の日曜日事件からそらす目的でツアー(ロシア皇帝)がクロパトキンに攻撃を命じたのではないかと推測されている。
 うむむ、なんと、そういうこともありうるのですね・・・。
 この戦いでは、日本側は対応を誤った。ロシア軍大移動の情報を軽視し、厳冬期で積雪もあるので、ロシア軍による大掛かりの攻撃はないと判断して油断していた。
このあと、奉天会戦が続きます。日露戦争中の最大の陸戦である。3月10日、日本軍は奉天を占領して勝利したが、敵ロシア軍に一大打撃を与えて戦争の勝敗を決するという目的を果たすことはできなかった。
 日本軍の黒木将軍は奉天を陥落後まもなく61歳の誕生日を迎えた。現役の勇猛な将軍と評価されていた。奉天会戦は、日露両軍ともに多大の死傷者を出した。日本側の戦死者は1万6千人、ロシア側は2万人。負傷者は日本側が6万人、ロシア側は4万9千人。ロシアは2万人が捕虜となった。
日本海海戦についても、いくつものポンチ絵で紹介されています。
 日本側は、バルチック艦隊の動向を把握していて、戦術開始前に十分な準備をし、訓練を重ねていて、士気も盛んだった。
 ロシア側は、ニコライ皇帝が講和を拒んでいた。なぜか?賠償金の支払いには強い抵抗感があった。それに応じたら、ロシアの体面は維持できないとニコライは考えていた。そして、強気だったもう一つの理由は、軍事的な情勢判断だった。ロシア側にはまだ戦力に余裕があった。
 他方、日本側は、辛勝が続いているので、いつ戦況が逆転しないとも限らないという心配があった。
 写真だけでなく、マンガ(画)でも事の本質はよく捉えることができることを実感させられる良書です。
(2010年11月刊。2800円+税)

2011年8月 2日

日露戦争・諷刺画大全(上)

著者    飯倉 章  、 出版   芙蓉書房出版

 日露戦争は、東アジアの地域強国に過ぎなかった日本が、大国ロシアに果敢に挑んだ決死の闘いでした。その戦争の推移が世界各地の新聞・雑誌に掲載された諷刺画(ポン千絵)で紹介されています。文字だけの歴史・分析書とは違って視覚化(ビジュアル化)されていますので、とても面白く読めました。
 諷刺画は、戦争をリアルに伝えることを意図したものではなく、また戦場の様子をリアルに伝えるのに優れていたわけでもない。諷刺を生業とする画家は、常に戦争や戦闘を斜に構えてとらえる。そこで、諷刺画は、奥深く幅広い人間の精神がとらえた戦争の一面を表象している。
 日露戦争は避けることの出来た戦争だった。それは日露の対立を背景とし、日露両国が相手の動向を相互に誤解したために起きた戦争だった。日露戦争の原因をロシアの拡張主義のみに求めることは出来ない。その他の深層原因として、日清戦争後の陸海軍における日本の軍拡もあげることができる。
 ロシア側は、日本から戦争を仕掛けることはないと勝手に決め込み、日本側に弱腰と受けとられないため、譲歩を小出しにした。他方、日本側は、戦うなら早いほうがよいという考えもあって早期決着を求めていた。ロシア側が、非効率なうえ、回答を遅らせることに無頓着であったことも、日本の誤解を増幅させた。
 日露交渉では、お互いに政治外交上の妥協点をはっきり示していれば、ロシアが満州を支配し、日本が韓国を支配することをお互いに認める形で決着がついていた可能性もある。日本軍、とくに陸軍の戦略思考を拘束したのは、シベリア横断鉄道が全通したときの動員力の増強だった。日本陸軍としては、相手側の動員力が増強されないうちに優位に戦いをすすめたかった。
 ロシアのツァーは戦争を望む性格ではなく、戦争を欲してはいなかった。そして、明治天皇も、日露開戦をもっとも心配し、開戦に消極的だった。明治天皇は対露戦争に乗り気ではなかったが、国内の主戦派に押し切られた。
 アメリカの世論は、日露戦争の期間、おおむね親日的であり、とくに戦争初期の段階ではその傾向が強かった。
 日露戦争はメディアを通じて、戦争が数日の間隔はあるものの、リアルタイムに近い形で報道された。
 開戦当初、ロシア社会は熱狂的に戦争を支持した。しかし、この戦意高揚も長くは続かず、春ごろから戦争支持は急速に下火になった。敗戦が続いて士気がそがれ、しかも戦争の目的が不明確であったからである。
旅順総攻撃で日本軍は第1回のとき1万6千名もの死傷者を出して悲惨な失敗に終わった。このときロシア軍の死傷者は、その1割以下の1500名でしかなかった。そこで、ミカドが機関銃を操り、機関銃弾として「日本の青年」が次々に発射されていく絵が描かれています。まことに、日本軍は人間の生命を粗末に扱う軍隊でした。
 日露戦争の実相をつかむためには必須の本だと思います。
(2010年11月刊。2800円+税)

2011年7月12日

韓国戦争(第6巻)

著者    韓国国防軍史研究所  、 出版   かや書房

 ついに韓国戦争シリーズも第6巻、最終巻となりました。休戦の成立です。貴重な人命が惜しげもなくうち捨てられて、犠牲となっていく情景描写は、戦争のむごさを痛感させ、胸を痛めながら最後まで読み通しました。
 1952年夏、戦線が膠着した状況で、共産軍側の軍事力は日ごとに増強されていった。7月、中共軍63万人、北朝鮮軍28万人の計91万人だったが、9月には合計100万人をこえた。兵力だけではなく、砲兵火力も大幅に増強させた。共産軍の装備補充のなかでもっとも不足していたのは、通信装備の部門だった。
 国連軍司令官クラーク大将は、最小限の犠牲を持って最大限の軍事的圧迫を駆使できるのは空軍力だけだと強調した。航空圧迫作戦の主要な特徴は、第一に制空権の獲得、第二に、敵に最大限の犠牲を強いるものであること、第三に、地上軍の脅威を減少させること。
 そこで、国連軍は北朝鮮の発電施設に対する大々的な攻撃を実施した。韓国内の500機以上の航空機を総動員して編成された大規模作戦だった。7月には、米第五空軍と米海軍の航空機822機が三派に分かれて平壌大空襲を実施した。11時間のうちに
1400トンの爆弾と2万3000ガロンのナパーム弾が平壌に投下された。これってすさまじい量ですよね。
 1953年3月5日、ソ連のスターリン首相が脳出血のため突然死亡した。このスターリンの死は、国際情勢と朝鮮戦争に大きな変革を意味した。スターリンの死後、ソ連政府は朝鮮戦争を終結させるとの結論を出した。金日成もそれに従った。
 5月、国連軍は北朝鮮軍捕虜5194人、中共軍1030人、民間人拘留者446人を共産軍側に引き渡した。このとき、共産軍側は、684人の捕虜を引き渡しただけだった。
 1953年5月から最後の攻勢と呼ばれる軍事作戦が展開された。アイゼンハワー大統領は、板門店での膠着状態を打開するため、核兵器の使用を考慮していることを中国側に暗示した。この核兵器戦略は、作戦交渉に決定的な影響力をもっていた。アメリカ軍は、40キロトン核爆弾で平壌を攻撃する計画を立てていた。うひゃあ、これってとても怖いことです。つかわれなくて幸いでした。
 1953年4月、共産軍の総兵力は180万人。そのうち中共軍が19コ軍135万人、北朝鮮軍が6コ軍国45万人だった。
 中共軍は午前2時ころ、砲撃に続き、笛を吹き鉦(かね、ドラ)を打ち鳴らしながら、気勢をあげつつ、闇をついて攻撃してきた。
 アメリカ軍が待ちかまえる近代戦の最前線でこのような非情な捨て身作戦が敢行されていたという事実に戦慄を覚えます。
 韓国戦争は、その実情に照らして内戦とは規定できない。韓国軍63万人、国連軍55万人をふくむ119万人の戦死傷者を出した。それに対して、北朝鮮軍80万人、中共軍
123万人、計204万人の死傷者を出した。このほか民間人の死傷者は249万人に達し、323万人の避難民が発生した。
 統一は、平和的な手段によって成し遂げなければならないという貴重な教訓を得た。
この最後の言葉は重いですよね。これで何とか6巻を読み通すことができました。お疲れさまです。朝鮮半島で再び戦争が起きることのないことを心から願います。いずれ近いうちに平和に統一が達成されることを願うばかりです。
(2010年12月刊。2500円+税)

2011年3月15日

日露戦争を世界はどう報じたか

著者  平間  洋一、   芙蓉書房出版 
 
 日露戦争について、世界がどう見ていたのかという面白い視点でとらえた珍しい本だと思いました。日露戦争の前、ロシアの新聞では極東の日本の珍しさについての報道が多く、遠い国であり、ロシアと利害関係が衝突するというイメージの記事はなかった。日本は韓国における今の利益を守ろうとしているだけで、それ以外のことは追及していない。ロシアとの摩擦は無意味だ、と伝えていた。その後も、ロシアのマスコミは、読者に、日本との戦争は起きないという希望的観測を流し続け、ヨーロッパからの日本が戦争を準備しているとの情報を否定していた。いよいよ情報が緊迫してくると、白人キリスト教の精神文化と異教徒の黄色い人種の精神文化とのすさまじい衝突に直面している。白色人種が勝利をおさめるだろうという記事がのった。開戦当初は、案外に日本兵士はよく整備され、勇ましく、毅然とした積極果敢な兵士であると評価する記事がのった。
 1904年6月、イギリスの『タイムズ』にレフ・トルストイが戦争を批判する文章を発表した。「戦争がまた起こった。何人もの無用無益なる疾苦、ここに再び人類の愚妄残忍また、ここに再び起きる」
 そして、日本でもトルストイの影響を受け、与謝野晶子が『明星』に「君、死にたまうことなかれ」を発表し、論争が起きた。与謝野晶子とトルストイが同じようなことを世間にアピールしていたとは知りませんでした。
 旅順が陥落したあと、バルチック艦隊の行動が新聞の注目をあびた。イギリスのある提督は、東郷とロジェストウェンスキーの戦いは日本が勝つ。艦船の数が多くとも、砲手の技量は日本兵のほうがロシア兵よりも優れているからだと、その理由を述べた。うへーっ、見る人は見ていたのですね・・・・。
 意外なことに、文豪のマクシム・ゴーリキーは、戦争の継続を支持した。しかし、それは、愛国主義の立場からではなく、国内の政治改革に役立つからというものだった。なるほど、そういう視点もあるわけですね。
中国では新聞社が壊滅状態だった。若い光緒帝の支持の下にすすめられていた戊戌維新は、かの西太后の弾圧によって失敗し、活気をみせていた新聞も、そのほとんどが閉鎖され、停刊に追い込まれた。1902年ころ、中国には、わずか20数社の新聞社しか残っていなかった。それも中国南部に集中し、北部中国には4~5社しか新聞社はなかった。4億人の人口を有する中国に20数社の新聞紙しかないことは、中国政府の言論に対する取り締まりの厳しさが反映している。いやはや、閉鎖的な言論統制は国の発展を妨げるのですね。
アメリカ国民は、日露戦争のあいだ、 日本が利他的な動機、つまり門戸開放原則を守るために戦っていると信じていた。だから、戦後の日本が満州利権を独占しようと動いていることを知ると、対日世論が悪化する一因となった。ふむふむ、イメージというのは騙し騙されやすいものなんですよね。
 開戦の前から黄禍論はヨーロッパのメディアをにぎわしていた。開戦と同時に、黄禍の脅威の主張がロシアだけでなく、フランスやドイツでも高まった。日露戦争において、日本はヨーロッパの当初の予想をこえて海陸で戦勝を続けた。このため、新たな黄色人種によるアジアの列強の登場を心配する声が増えていった。
 日露戦争を世界史のなかでとらえるうえで大いに目を開くことのできる本です。
(2010年5月刊。1900円+税)

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