弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(明治)

2013年6月 2日

博徒と自由民権

著者  長谷川 昇 、 出版  平凡社ライブラリー

幕末から明治10年代にかけて博徒集団の動き、そして自由民権運動との結びつきを解明した本です。清水次郎長が一家を構えていたのは清水地方です。尾張と三河の違いが強調されています。
尾張は徳川家62万石が全域を支配していたのに対して、三川には8つの小藩そして、いくつもの飛地や天領や、さらには60余家に及ぶ旗本の知高地があった。先祖発祥の地として、飛地をもちたがっていたことによる。その結果、小藩、小知行地が乱立して、警察権力が弱体化した。次郎長は尾張藩の警察力の強大さに驚倒したといいます。
幕末の尾張藩は、「強力な武力」として博徒集団に着目し、それを利用しようとした。今後どのように展開していくのか予測しがたい倒幕出兵にあたって、可能なかぎり正規の藩兵の温存をはかり、まずは補充的に集めうる民兵を先鋒として利用しようとした。そして、そのとき博徒組織は、団結力、統制力、さらには戦闘力と戦闘経験において、ただちに実践につかえる武力集団であることに着目した。前科を黙認し、士族採用を餌として尾張藩の勤王実績づくりのための先鋒に転用しようとしたのであった。
 明治13年6月、安政年間以来、東海道の博徒集団を二分して前代未聞の大喧嘩を重ね、もつれにもつれた平井一家と清水一家の手打ち式が浜松の料亭「鳥屋」で開かれた。この日、浜松に繰り込んだ双方の関係者は1000人。清水一家は、次郎長を先頭に、大政以下の主だった乾分(子分)などが参集した。
 その後、自由民権運動が発展していきます。当時の博徒の多くが、「半農半博」であり、中貧農だった。そして、博徒は、耕作農民であると同時に博徒集団という特殊な「党派」に所属するという特殊性をもった存在であった。
 明治17年、集中的に各地で蜂起が続いた。困民党・借金等に類する反体制的激化事件に博徒はさまざまなからみあいをもって関連していったが、それには必然性があった。親分が検挙されて一家は壊滅し、費場所に賭場が立てられず、寺銭に寄食する糧道を絶たれ、検挙の網を逃れて他府県に遁走せねばならないという実情のもと、反体制運動の組織者となっていた。このことを過小評価すべきではない。
自由民権運動と代言人とのかかわりも興味深いものがありますが、博徒も、そのなかで大きな役割を占めていたと言うのです。大きく目を開かされました。
 本書の冒頭に、清水一家とのあいだの血なまぐさい出入りの状況が生々しく描かれています。次郎長映画をみている気分になりましたが、あれって、本当にあっていたことなんですね・・・。
(1995年4月刊。1068円+税)

2013年3月28日

加藤拓川

著者  成澤 栄寿 、 出版  高文研

原敬(後の首相。暗殺されました)とともに司法省法学校に学び、ストライキをして放遂された人物が主人公です。朝鮮で外交官として活動し、伊藤博文を激怒させたことで有名なのでそうです。私は知らなかった人です。
中江兆民は大久保利通に直訴して政府派遣留学生に加えてもらい、1872年2月からフランスに留学した、フランス語の読解は抜群だったが、会話のほうは上手ではなかった。
 兆民のフランス留学は、1871年3月にパリ・コミューンが成立し、5月に政府軍から鎮圧されて間もないころのこと。「レ・ミゼラブル」の時代ですね。
 兆民は、3つの政治体制、すなわち王制、ブルジョア共和制、社会主義体制の存在を深慮しつつ、帰国したのである。
 兆民の学僕となったのは幸徳秋水。あの大逆事件で処刑された幸徳秋水が兆民の学僕だったとは驚きです。
中江兆民は、衆議院議員選挙に大阪4区から立候補し、定員2名1位で当選した。
 兆民が被選挙人に必要な条件をみたすために、収入も財産も乏しい兆民に資産などの名義を貸したのは末解放部落の業者だった。兆民は未解放部落の代弁をもする代議士になったのである。
秋山好古はフランスに4年あまり留学した。軍人として異例の長さであった。好古は騎兵についてはドイツよりフランスのほうがはるかに優秀であると学んで帰国した。
 兆民は1901年12月に食道がんで死亡した。その前、医師から余命1年半と告知されたあと、「生前の遺稿」と題する『1年有半』を執筆した。現実の政治批判を加えた随想集は20数万部も売れ、福沢諭吉の『学問のすすめ』以来のベストセラーになった。兆民の葬儀は、兆民の遺言どおり、一切の宗教的儀式を伴わない、わが国最初の告別式が参列者1000人のもとに拳行された。遺言によってお墓も建てられていない。ただし、友人による碑は建っている。
 宗教的儀式を伴わない葬儀と言えば、故池永満弁護士(福岡県弁護士会の元会長)の葬儀も遺言によって、そのようになされました。私はお通夜だけしか参加できませんでしたが、関係者が思い出を語るのを聞いて献花して終了となりました。故人らしいお通夜で、さすがだと思いました。
 日本海海戦で、日本海軍が大勝利したのは、敵前で180度回頭して同航戦(併行して走り戦う)を展開した初戦の砲撃戦術にあると強調されている。しかし、実は、この完勝を決定づけたのは、秋山真之・参謀も後に指摘しているとおり、多数の駆逐艦、ことに水雷艇の活躍だった。ええーっ、そうだったんですか。知りませんでした。
 伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
 外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。
 日本国内の矛盾のあらわれだと受けとめました。知らなかった日本の外交官の存在を認識しました。
(2012年11月刊。3000円+税)

2013年3月27日

兵士たちがみた日露戦争

著者  横山篤夫・西川寿勝 、 出版  雄山閣

日本人は、まことに昔から日記を書くのが大好きな民族です。
日露戦争のとき、個々の兵士は戦場に筆記用具を持ち込み、日記や手紙を自ら記し、見聞記録をつけることが常態化していた。
 本書は、その日記などにもとづいて、日露戦争の知られざる実情をことこまかく具体的に明らかにしています。
 日本軍は沙河の戦いのころ、大変な事態に陥っていた。遼陽の戦いで、日本軍は銃弾・砲弾を撃ち尽くし、これから生産する分も旅順要塞攻略用に手いっぱいで、補給の目途がたたなくなっていた。しかし、戦地の兵站倉庫に弾薬がないことは前線には知らされなかった。戦意喪失どころか、陣地防御も不可能だったからである。
 そこで、日本軍はロシア軍から奪った大砲で盛んに攻撃を仕掛け、砲弾の致命的欠乏をロシア軍に悟られずにすんだ。
 日本は日露戦争に17億円の戦費を投入した。このうち12億円は外国債にたよった。
大連から350キロも戦線がのびた奉天会戦では、大部隊が急速な行軍を行い、各部隊は常に前線で弾幕にさらされた。そうすると、兵站基地からの供給が途絶えてしまった。しかも、平原の前線では炊飯のために火をおこすと狙い撃ちされ、米が届いても炊くことができなかった。これに対して、ロシア軍は東清鉄道を使って開戦前から大量の食糧などを輸送して、各拠点に兵站基地をもっていた。
 日露戦争で、60万の兵が出征し、その兵站は重要な問題となった。しかし、満州軍に兵站組織はなく、場当たり的な対応だった。そのため、食料調達の不公平や遅滞が問題になった。輸送した総運搬量の3分の2は食糧だった。
 日露戦争は世界史上初めての国民総動員の戦争だった。日露戦争の特徴として、多数の後備聯隊が偏された。その主役は32歳までの後備の兵卒。現役は将校と下士官だけで、兵卒は30歳前後だった。
 私は旅順にツアーで行ったことがあります。有名な203高地にのぼりましたし、東鶏冠山と盤龍山のロシア軍堡塁跡地も見学しました。203高地の上からは、なるほど旅順港は真下によく眺めることができました。
 旅順戦の惨状は将兵の戦意低下を増幅させた。うまく負傷して戦列を離れることが「第一の幸福」と認識されていた。
 与謝野晶子の詩「君死にたまうことなかれ」は有名ですが、その弟が本当に旅順戦に参加して戦っていたのか疑問視する声もあるそうです。本書は、晶子の弟は宇品港(広島)から出航して旅順港戦に参加したとしています。それも前線兵士ではなく、輜重兵として、つまり兵站部隊の一員だったのです。
 1905年3月の10日間、奉天会戦が激しくたたかわれた。60万の将兵が東西100キロ、南北40キロにわたる満州の平原で激闘を繰り広げた世界史上空前の大会戦である。奉天会戦に参加した日本軍兵力は25万人、死傷者は7万人。ロシア軍のほうは総数31万人、死傷者6万人、行方不明7千人、捕虜2万人。この過程で及木第三軍は危機的状況に陥っていた。
 しかし、ロシア軍が奉天城から撃退していった。このとき、奉天には、中立である清国民が普通に日常の暮らしを営んでいた。ロシア軍が籠城していたわけではない。
 そして、ロシア軍の大半が撃退したあと、日本軍が入ってきた。
日露戦争に従軍した兵士の陣中日記などをもとにしていますので、その実情がリアルに分かる本になっています。
(2012年11月刊。2600円+税)

2013年1月19日

大久保利通の肖像

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社

大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

2012年11月23日

落花は枝に還らずとも (上) (下)

著者   中村 彰彦 、 出版   中公文庫 

 会津藩士、秋月悌次郎の一生を追った本です。会津藩が幕末の京都でどんな動きをしていたのか、白虎隊に象徴される戊辰戦争の実情、そして明治になってからの会津藩士の歩みなど、興味深く読みすすめていきました。
ところが、会津藩士の中核として活躍した秋月悌次郎が、なんと明治になってから熊本で高校教師になっていたのを知って、腰が抜けそうになりました。
 熊本の高校生たちに風格ある漢文教師として慕われていたというのです。幕末といっても、そんなに遠い世界のことではなかったんだなと、このエピソードを知って改めて認識を改めたことでした。
 そして、この秋月悌次郎が熊本の五高で教えていたときの同僚の教授に末広厳太郎がいたというのです。民法学の大家であり、東大セルツメントの創始者でもある末広厳太郎が登場してくるとは夢にも思いませんでした。
 明治33年1月、77歳で息をひきとった秋月悌次郎は、若き日には「日本一の学生」といわれ、松平容保の京都守護職就任に際しては会津藩公用方として活躍した。会津藩の開城降伏式を宰領した。熊本で教育者になってからは、ラフカディオ・ハーンに「神のような人」とまで言われた。
 2005年に、この本で新田次郎文学賞を受賞したとのことですが、私と同世代の著者の調査力と筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。
(2008年1月刊。762円+税)

2012年10月 6日

筑前竹槍一揆研究ノート

著者   石瀧 豊美 、 出版    花乱社選書 

 明治6年(1873年)6月に福岡県内で起きた竹前竹槍一揆は、参加者20万人とも10万人とも言われ、処罰されたものが6万4000人にもなる最大規模の一揆です。
 明治6年6月、大旱魃(かんばつ)を背景として、嘉麻郡の一角に起こった農民一揆は、たちまち筑前全域に広がった。一部は筑前地方をまきこみつつ、一揆の参加人員は30万人(少なくとも10万人)と言われる。福岡城内にあった福岡県庁の焼打ちにまで発展する空前の大一揆となった。
 福岡城内にあった福岡県庁といえば、現在、舞鶴中学校のあるところですから福岡の地裁・高裁のあるところの近くですよね。
 この一揆が何を要求していたかということについて、著者は「解放令」反対を揚げていた事実を直視すべきだとしています。この一揆は、その過程で、被差別部落2000戸以上の家屋を意図的に焼き払った。そして、そのとき、部落外に類焼しないよう細心の注意を払っていたことを明らかにしています。
 「解放令」が出た後の被差別部落民の積極的な行動が、一般民衆の目には傲慢とうつり、次第に発火点に達して、一気に爆発したのが竹槍一揆なのである。解放令が出たのは、明治4年のこと。
 一揆勢は、部落は有無をいわさず焼くが、部落以外は一軒も焼かないように、失火にすら気をつけるという見事な統制ぶりを示した。
 「解放令」は農商民と被差別民との間に妥協なき日々の戦いを強いることになり、筑前竹槍一揆勃発の直前まで、差別・反差別のせめぎあいが、ときに竹槍・刀で武装する戦いにまで至っていた。
 民衆が新政に反対し、ことに被差別部落の焼き打ちに及んだ背景には、政府が文明開化政策についての啓蒙を怠っていたこと、あまりにも急激な変化が矢継ぎ早に相次いだことがあげられる。民衆にとっては、これまで安住できた生活空間が破壊される恐怖感につながった。明治6年の筑前竹槍一揆については、私たちはもっと認識してよいと思います。昔の人は政府への怒りをストレートに行動に示していたのですから・・・。
(2012年5月刊。1500円+税)

2012年9月14日

明治維新 1858-1881

著者   坂野潤治・大野健一 、 出版   講談社現代新書  

 明治維新のとらえ方について、ステレオタイプ的な見方を一新させられる思いをした刺激的な本でした。
 明治天皇は名目的な最高権力者であったが、政治の実権は多数の藩閥政治家が入れ替わり立ち替わり握っていた。そして、このことは当時の日本政治の弱点ではなく、むしろ世界史にほとんど類をみない長所だった。
明治天皇は国民統合の象徴としての重要な政治的意義を担い、ゆえに明治期の指導者にとっては尊崇し、権威を付与し、正当性の由来となる存在ではあったが、実権をもつ独立した政治力ではなかった。
 明治初期には、開発派(大久保)、外征派(西郷)、議会派(板垣)、憲法派(木戸)の四派があり、各派とも単独では十分な政策実施能力を欠いているため、絶えず他派と「連合」していた。そして、連携と牽制の関係は固定的でなく、状況変化に応じて数年ごとに組み換えられた。いったん対立したグループ間に、修復しがたい遺恨が生じることもなかった。
 佐賀(肥前)藩出身者は、大熊重信にかぎらず、江藤新平、大木喬任、副島種臣らも含めて、旧藩単位でグループを形成することはなく、単独行動が多かった。
 これは、幕末期の佐賀藩が自藩だけで「富国強兵」を実践し、それがかなり成功したために他の雄藩と連携する必要を感じなかったからである。そのため、旧佐賀藩士は、共同作業や連携組み替えの訓練を受けていらず、その母体となる枠組みも存在せず、それ故に自己主張のためには過激性や単独プレイに頼る傾向があった。これって、何事によらず、いいことばかりをもたらすわけではないっていうことですよね・・・。
幕末の佐賀藩は、富国強兵の優等生だった。軍艦を毎年一隻購入し、アームストロング砲16門、スペンセル銃1000挺を購入している。しかし、それにもかかわらず、佐賀藩は倒幕勢力としても、新政府勢力としても変革にはまったく貢献できなかった。
 江戸時代末期の武士は45万人。その1%の4300人が明治維新という社会変革に積極的に関わった。武士は、エリートとしての使命と誇りに燃えて政体編成にあたった。
 そして、新政権の確立と維持のためには所期の目的を大きく逸脱する行動は不可欠となった。政治改革を意図してはじまった運動は、ついに政治改革にまで及んだ。
 西郷隆盛は、幕末期に鹿児島藩の商社化による富国強兵と、他藩と協力しながらの封建議会の設立の双方のために奔走したから、大久保と木戸が、欧米視察で学んできた工業化と憲法論を十分に理解できたであろう。封建制を前提とする議会論は、明治維新の維新者たちのあいだでは、幕末以来の共通了解であった。
 明治初期の農村地主の突然の政治参加をもたらした要因は、第一に西南戦争インフレによる農産物価格の急騰が彼らの交通費と滞在費と書籍費を支えたこと、第二に、唯一の納税者で使い道に関心をもつようになったことにある。
変革期の連携に組み換えが収拾不能な混乱に陥ることなく、また長期にわたって継続したのは、王政復古に先立つ10年間の藩内での上下の交流による協働経験があった。指導者たちは、相互に抜き差しならない対立に追い込まれたときも、衝突する寸前まで、互いに相手の善意を信じこんでいた。
 西郷隆盛は、平均して年に11通の手紙を大久保に出していた。今日の我々には想像もつかないほどの筆まめさに支えられて、西郷隆盛や大久保利通らの薩摩藩改革派は、鹿児島にあろうと京の藩邸にいようと、江戸屋敷に住もうと、朝廷、幕府、有力諸藩の動向をお互いに共有することができた。
 やはり情報こそカギなのですね。いい本でした。さすがです、学者はすごいものです。
(2010年1月刊。740円+税)

2012年3月11日

イザベラ・バードを歩く

著者   釜澤 克彦 、 出版   彩流社

 明治11年(1878年)夏に、東京から東北を旅行し、北海道に渡ってアイヌ部落まで視察したイギリス人の女性旅行家による『日本奥地旅行』(平凡社ライブラリー)は、江戸時代末期から明治初期の東日本をまざまざと紹介している貴重な本です。
 この本は当時47歳のイギリス人女性がたどったのと同じコースをアマチュア(素人)がカメラ片手にたどった旅を再現した本です。写真がふんだんにあって、昔と今のイメージの違いを知ることもでき、興味深く読み通しました。
イザベラ・バードの旅は今と同じ好奇心旺盛の日本人に取り巻かれて、プライバシーの欠如、悪臭、ノミや蚊に苦しめられた旅行でした。
 日本人の物見高さのすごさには呆れますね。バードを見ようとして、家の中に60人、外には1500人も集まっていたというのです。いわゆる白人女性の姿を一目でも見てみようという日本人の群衆です。今だって同じですよね。
 「こんなすばらしい見世物を自分ひとり占めしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国人の女をみる機会もなく一生を終えるかもしれないから・・・」
 泊まった宿屋では、深夜まで芸者や酔客の騒音で睡眠もままならない状態でした。今も昔も、日本人の団体客は騒々しい限りなんですね・・・。
 バードの通訳として同行した伊藤鶴吉について、バードは不信感をもっていましたが、わずか20歳でバードの旅行を無事に完遂させたのですから、偉いものです。
東北の人々は、自らの貧しさを詫びながらも、外国人客を精一杯もてなそうとし、決して余分のお金は受けとろうとしなかった。すごいですよね、これって・・・。
そして、実り豊かに微笑する東北の大地をみて、イザベラ・バードはここをアジアのアルカデカ(桃源郷)と名付けたのでした。
 各地のカラー写真がありますので、バードが旅行した当時をしのぶ手がかりとなります。バードの勇気もたいしたものですが、それを130年後にたどってみた著者の努力も大いにたたえたいと思います。
(2009年6月刊。1800円+税)

2011年11月13日

衝撃の絵師・月岡芳年

平松 洋 新人物往来社

 おどろおどろしい絵に度肝を抜かれます。しかし、我慢して頁をめくっていくと、江戸時代の浮世絵調になって救われます。幕末・明治を生きた最後の浮世絵師。血みどろの無残絵、迫力の妖怪絵から麗しき美人絵、気品あふれる歴史絵まで・・・。
 これがオビのうたい文句ですが、実にそのとおりです。
 目をそむけたくなる無残絵は目をつぶって通り過ごしましょう。
 歴史絵として、桜田門外の変が描かれています。まさしく血みどろの闘いであったことが手にとるように分かります。目撃したわけでもないでしょうに、あたかも実況中継のように氏名入りで活写されているのに驚きました。
 月岡芳年は天保10年(1839年)の生まれ。12歳で浮世絵師の歌川国芳の門をたたいた。芳年が「血みどろ絵」を描いたのには、その当時の時勢の影響も大きい。安政の大獄、桜田門外の変、安政の大地震、コレラによる大量死、大政奉還、明治維新というなかで、多くの人が実際に血みどろの屍を目にしていた。
 その後、新聞社に入って時事絵を描き、また絵入新聞で活躍した。このときには時給100円という破格の待遇だった。
 そのドラマチックな場面構成は、現代の劇画に通じる。
 「血みどろ絵」は三島由紀夫が愛好していたそうですが、なんとなく分かるような気がします。
 芳年は精神の病を得て、54歳という若さで生涯を閉じた。
一見の価値ある絵です。ただし、お化け屋敷なんて絶対にのぞかないという人にはおすすめしません。気分が悪くなると思いますので...。
(2011年6月刊。2100円+税)

2011年11月 9日

明治維新と横浜居留地

著者   石塚 裕道 、 出版   吉川弘文館

 幕末から明治の初めにかけて、横浜に大量の英・仏軍兵士が駐屯していたこと、アームストロング砲はともかくとしてガットリング機関銃のほうは、まだまだ欠陥が多くて、実戦ではそれほど役に立たなかったことなどを知りました。世の中って、本当に知らないことだらけだとつくづく思います。
 英仏両軍の横浜駐屯は文久3年(1863年)から明治8年(1875年)までの12年間に及んだ。その間、この横浜のフランス山、トワンテ山一帯は、いわば外国軍隊による占領に近い異常事態のもとにあった。
 横浜には、明治11年(1878年)ころ、中国人1850人をふくめて外国人が3200人、進出している外国商社は60社に及んでいた。横浜港は日本全国の小銃輸入量の6割を占めていた。20万丁をこえ、小銃取引の一大拠点となっていた。相手かまわず利益を追求する、ヤミ空間に暗躍した外国商人がそこにいた。
 文久3年(1863年)、イギリスとともにフランスにも駐屯権が承認され、それまで公使館の護衛兵程度にすぎなかった兵士たちに加えて、大規模な英仏共同の軍事行動のかたちで、続々と両国軍の士官・兵卒が香港や上海などから横浜へ進駐を開始した。
 四国連合艦隊による下関砲撃事件は文久3年(1863年)から翌年にかけてのこと。長洲藩が合計6回にわたって外国艦隊を砲撃して交戦したが、結局、敗北した。英国陸軍の制式砲に採用された最新鋭の後装式施条砲であるアームストロング砲の攻撃力により、4日間の交戦で長州藩の敗北に終わった。その長い射程距離、高い命中精度、旧型球弾に代わる尖頭型炸裂弾の使用など、アームストロング砲は薩摩と長州側からすれば、地上最強の究極兵器に見えたことだろう。
 列強艦隊の中心は英・仏の兵力であったが、その6割を占めたのはイギリス海軍であった。この対外戦争の実態は「日英戦争」であった。英国公使オールコックは強硬派であり、対馬占領そして彦島の占領、さらには城下町萩まで侵略する作戦を主張した。これについて、英仏の現地軍司令官は兵員不足と不利な地形から反対し、占領侵略作戦は実施されなかった。かの有名なオールコックが、日本占領・侵略を主張していた強硬派外交官だったとは知りませんでした。
 オールコックは、基本的にはイギリス本国の自由貿易政策の保護者でありながら、当面の戦略では、ロシアの南下作戦に対する危機感から対馬ついで彦島の占領を提案したのだった。
 戦時に、アームストロング砲は故障が続出するなど、装備に欠陥があった。
 イギリスは、極東で保有する軍事力の3割を日本へ派遣していた。さらに日本で緊急事態が発生すれば、英仏軍合計6600あまりの横浜駐屯軍に加えて、日本への増派可能な軍事力として、2、3日中にも上海から、その3倍ほどの増援部隊を移動・派遣することが可能であった。
 ところが、日本の市場価値の低さもあって、イギリスには幕末日本を植民地化するという永続的・長期的な方針はなかった。それが幸いしたのですね。市場価値があるとみられた中国に対しては、イギリスはアヘン戦争を仕掛けたわけです。
 戊辰戦争のなかで長岡藩家老「軍務総督」河井継之助の戦力とその指揮力が近年高く評価されている。河井総督の最後の切り札はアームストロング砲とともに高性能のガットリング機関銃だった。これは、手動回転式6銃身、弾薬後装360発、砲架(砲車)に搭載移動、1門の価格6000両だった。ところが頼みの最新兵器ガットリング機関銃の性能は期待はずれ、陣頭指揮者であり射手として銃の手動回転を操作した河井総督も狙撃されて負傷し、更迭されてしまった。
このころは外国人の武器商人が双方の陣営に深く入りこんでいたのでした。アメリカでガットリングが新型銃を完成して売り出したが、不評だった。そのため、内乱列島の日本が兵器売り込み市場の一つとして注目され、海外市場の開拓として日本に売り込まれた。
 ガットリング機関銃は南北戦争でもわずかしか利用されず、南北戦争のあとにアメリカ陸軍が制式採用した兵器であった。ヨーロッパでは、まだ試用段階で、その性能は疑問視されていた。
 立ったまま銃身を手動回転させるので、敵から狙撃されやすく、毎分200発も発射できるといっても、それに必要な大量消費できる弾薬補給・輸送体制が確立していなかった。
幕末・明治にかけて、アメリカでは南北戦争が、フランスでは、パリ・コミューンがあって、日本どころではなかったというのが明治維新による変動が国内要因だけで成功した条件だったようです。まさに、昔も今も世界は連動しているのですね。
(2011年3月刊。2700円+税)

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