弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年12月22日

東アジアからみた「大化改新」

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 吉川弘文館

 大化改新なるものが本当にあったのか最近まで疑問視されていましたが、今ではやはりあったということになっているようです。
 曽我入鹿(いるか)と父の蝦夷(えみし)が殺害され、また自死して曽我大臣家は滅んだ(645年)。これは乙己(いつし)の変と呼ばれる。大化改新は、その後に続く政治改革のこと。
 公地公民の原則、班田収授法、統一的な税制がその内容。
 この本は、日本の動きを、東アジア諸国における、随・唐帝国の動き、高句麗の泉蓋(せんがい)蘇文(そぶん)へ、新羅(しらぎ)の義慈(ぎじ)王への権力集中といった動きのなかで、位置づけてみようという本です。
 皇極(斉明)と中大兄は、百済との交渉を継続し、国土防衛を重視して飛鳥遷都(653年)や大律遷都を行い、不本意なままの強制退位に抵抗すべく斉明女帝として復位(重祚、ちょうそ)する。ところが、倭国は白村江(はくすきのえ)で大敗し、唐・新羅の侵攻軍に備えて山城や水城を築いて守りをかためた。
 唐は、隋の滅亡が高句麗遠征の失敗を名分に成立した王朝であったから、内政へ波及するのを恐れ、当初は高句麗への軍事行動に慎重だった。それでも644年、ついに唐の太宋は高句麗征討を決意した。
 新羅では、唐依存派と自立派の対立が激化した。このころ、日本(倭国)における大王の即位適齢期は40歳とされていた。
百済からの先進文物の安定的供給と豪族らへの再分配が蘇我氏政権の権威の源泉だった。大化期は、それまでの親百済色が強かった曽我氏政権に比較して、親唐・新羅的政策が強まった。
大化のころは、唐・新羅と結んで国力を強化しようと考え、孝徳擁立を画策した右大臣の蘇我石川麻呂・中臣鎌足らのグループと、皇極(百済)・中大兄と白雉期の左大臣巨勢須太臣らの反新羅・親百済・高句麗路線が対立していたと考えられる。
大化期には、親唐・新羅派が優勢だった。その後、両者の勢力は拮抗していた。新羅との交流再開を前提として、金春秋氏の仲介により唐との断絶状態は解消され、白雉(はくち)4年と5年という、連年の遣唐使派遣につながっていく。これは、大化の新政権の新たな外交立場として新唐・新羅政策が採用されたということ。
その後、親百済派の台頭により政権内の対立が顕在化し、対外的に明確な新百済や新新羅という外交族を示すことができなくなった。
日本における大化改新を考えるうえでも、日本の外にある随・唐の大帝国の存在、朝鮮半島内の政権(統治者)の動向をきちんとみる必要があるようです。考えさせられました。
(2022年9月刊。税込1870円)

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