弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年12月23日

兵士の革命、1918年ドイツ

ドイツ


(霧山昴)
著者 木村 靖三 、 出版 ちくま学芸文庫

 1915年から始まった食糧配給制は、二重の意味で戦時体制の維持に打撃を与えた。一つは、不十分な量に対する不満。第二に、食糧統制が、巨大なヤミ市場の存在(生産量の3分の1がヤミに流れた)によって制度の実効性に疑義が出され、高額なヤミ価格に手の出せない労働者や低所得者層の反発は一層つのった。すなわち、「平等な」制度が、かえって社会の不平等を他の統制制度の不備を際立たせる目安として作用した。社会対立は、飢えた者と飢えざる者の対立として現れた。
 重工業の大企業には黄色組合(御用組合)が多かった。経営側と、その御用組織は、末端の労働者にとって、いずれも敵だった。
 1918年以降、ドイツ軍の兵士たちが集団的に前線への移動を拒否した。
 事実上の叛乱だが、軍当局は叛乱とすると、兵を逮捕し、それによって前線行きを免れさせることになるのを懸念して、ともかく部隊を前線に送り出すことに全力をあげた。そのため護送部隊が付いていった。
 ドイツでは、将校の権威が急速に低下していった。高級将校が街頭で脅迫的野次をあびせられ、列車内の軍人用と民間人用の仕切りが無視され、軍人用の席が民間人によって占められるようになった。
 ドイツには、もともと海軍力の伝統はなかった。陸軍の将官が海軍の指令官の地位にあった。軍の主力は圧倒的に陸軍だった。
 海軍将校団は、ブルジョワ層出身者が多数を占めた。主力艦では、比較的高齢の将校が若く未経験の将校が多くなり、乗組員がベテラン化するのと対照的に艦内の士気は低下していった。
 食事は将校用、下士官用、一般兵士用と、別立て。6月初め、戦艦「ルイトポルト」の乗組員が乾燥野菜の昼食を拒否して、ハンガーストライキに突入し、代わりの食事を要求した。そして、叛乱実行の罪で5人が死刑を宣告され、うち2名が銃殺された。
 兵士たちの内情は、乗組員の半数は無関心で、4分の1が憤激し、気の毒な連中に心から同情し、4分の1が即時行動と償いへの覚悟をもっている。死刑という厳罰に震えあがったのは、ごく少数だけ。
 海軍の兵士の不満の根拠は艦内生活への不満であり、将校への増悪だった。
 海軍の水兵は蜂起という行動に気力を見いだし、行動の正当性に確信をもった。緊張感にみちた態度と、それに蜂起鎮圧部隊は圧倒され、解体していった。11月5日、もはや水兵の蜂起に対する組織的抵抗はなかった。市内のゼネストは予定どおり実施された。将校は武装を解かれた。蜂起後の将校団の無抵抗と退却の姿勢はあとあと大きな影響を及ぼした。
 兵士評議会のメンバーは次々に交代した。そして活動的兵士の多くが、早くに軍を離れた。革命を開始し、数日で成功へと導いた海軍水平の大部分は、クリスマス前にはその家族のもとにいた。そして、兵士運動の特徴の一つに外部からの指導・監督を嫌う傾向がある。部隊構成員の意思のみを唯一の行動基準とし、それ以外の権威を認めなかった。領域的自律を志向する陸軍兵士と、横断的に行動する海軍水平は日常的に対立していた。兵士評議会が軍事的な領域から排除して、兵士の苦情処理機関に限定されていった。
 労働者評議会メンバー200人のうち、あとでナチ党のメンバーになったのは2人しか確認できていない。兵士評議会300人のうち48人(16%)がナチ党員が関連組織のメンバー6人が存在していた。
 ドイツ陸海軍兵士による1918年の革命の実際を丹念に詳しく究明していった貴重な労作だと思いました。
(2022年8月刊。税込1650円)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー