弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2015年11月 3日

戦国武将

(霧山昴)
著者 小和田 哲男  、 出版 中公文庫

  戦国時代というのは、後世の歴史家が命名したのではありません。武田信玄が定めた分国法のなかに、「今は天下が戦国だから」と書かれています。
戦国時代ほど個人の能力や力量が重視された時代はほかにない。それを中世では、器量という言葉で言いあらわしている。
今では、器量よしというと、美人をさす言葉になっていますよね・・・。
上杉家では、感状をたくさんもらっている武将が上座にすわり、感状が少ないと下座にすわることになっていた。感状は、そのまま戦国武将の器量の認定証になっていた。そして、子どもに父ほどの器量がなければ、結局、家禄を没収されてしまった。
戦国時代においては、主君から恩義が得られなければ、その主君のもとから離脱するのは自由だった。器量ある者が人の上に立つという観念が支配的な風潮だった。
合戦をするにあたって、占いやら方角にとらわれず、合理的な考えをする武将がいた。武田信玄とか朝倉孝景が、そうである。
重臣たちが協議したうえで主君の承認を得るという方式が多かった。主君の恣意は認められなかった。戦国大名と重臣の関係は、近世におけるような絶対的な上下の関係ではなく、比較的に対等に近かった。戦国大名における重臣の力は、今日の私たちが想像する以上に強かったのである。
戦国期の足利将軍は、偏諱(へんき)を与えることで、擬制的な親子関係を結ぶというより、戦国大名からの見返りとしての献金の方を重視していた。
男の世界である合戦に、戦国女性は自ら加わっている。夫の死後、城主となって城を守ったという「女城主」も戦国期には珍しくはなかった。
30年前の本がアップトウーデイトに改訂された文庫本です。面白く、すらすらと読めました。

(2015年8月刊。800円+税)

2015年9月26日

豊臣大坂城

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書

 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

2015年9月20日

太閣の巨いなる遺命

(霧山昴)
著者  岩井 三四二 、 出版  講談社

 ときは戦国時代。江戸時代がまだ始まる前のこと。日本人は、東南アジアとの交易を盛んにしていたのです。タイのアユタヤに出かけていきます。
鹿皮はシャムの国の特産品。ほかには、染料のもとになる蘇木(そぼく)、高価な香料の沈香(じんこう)、象牙、絹などが買い付けられ、日本からは刀や塗り物、銅などが持ち込まれる。支払いに一番喜ばれるのは銀だ。
 日本で生み出される大量の銀が、アユタヤとの交易を回している。だから、銀を積んだ朱印船が年に何十艭も日本を出航し、アユタヤばかりでなく南洋の各地をめざして海を渡っている。南蛮船や明国の船も、日本の銀を求めて南洋各地と日本を往反(おうへん)している。
 アユタヤには日本町があり、1000人近くの日本人が住んでいる。チャオプラヤ川に沿って南北に5町、東西の幅が2町ほどの矩形の中にある。アユタヤ産の鹿皮は、革袴や革羽織、馬に乗るときにつける行膳(むかはぎ)、甲冑(かっちゅう)の飾りなどに使われ、日本の武士のあいだで人気が高い。少し前まで鹿皮はルソンから日本に持ち込まれるものが多かったが、いまはアユタヤが最大の産地である。
 イエズス会は、バテレンの元締めであるローマ教皇に忠誠を誓った熱心な信徒の集まりだ。いわば、ローマ教皇の直参馬廻り衆である。デウスの教えを世界に広めるために設立されたのだが、ポルトガルとイスパニアという世界に覇を唱えた強国の力を背景にし、信仰のためには、どんな危険な地域にも入り込む、忠実で優秀な人材を抱え、なおかつ軍勢のように上意下達の仕組みを持っている。
 イエズス会が現にやっていることは、神の教えを広めるという崇高な建前とは裏腹に、ずいぶんと世俗の塵にまみれている。南蛮人が行く先々で、その地の人々に神の福音を説き、人々を手なずけて南蛮船が着く湊をしつらえ、商人が交易できるよう手助けする。
 果ては、ゴアやマカオのように、他国の領土に南蛮人の居留地をつくってしまう。そして、宣教師たちも、当然のように商売をし、ぜいたくも蓄財もするのだ。
 宣教師たちは、京都など宣教に訪れた日本各地では清貧な暮らしをして見せていたが、おのれの領地である長崎では下僕を使い、ポルトガルから運んだ酒や食物を飲み食いするなど、贅沢な暮らしをしていた。
 宣教師になるのに必須であるラテンの言葉や教養を学ぶのは、資力に余裕のある家に生まれなければ出来ないこと。だから、宣教師たちは、もともと貴族か裕福な商人だった者ばかり。貴族だから、召使を身辺におき、贅沢するのは当たり前だと思っている。そこは、日本の位の高い坊主と変わらない。
 しかも、南蛮の貴族は武人の一面も兼ね備えている。戦いとなれば、馬に剰従卒をひきいて出陣する。イエズス会が長﨑を守ろうとして大筒鉄砲を持ち込んだのも、もともと武人でもあった宣教師たちの目からすれば、何の不思議もない。
 手に汗にぎる大海洋冒険小説です。著者のたくましい想像力によって海賊船とのたたかい、そして海上戦闘をしっかり堪能することができました。
(2015年7月刊。1800円+税)

2015年8月22日

織田信長「天下人」の実像

(霧山 昴)
著者  金子 拓 、 出版  講談社現代新書

 織田信長の実像に迫った新書です。
 信長は、秀吉とちがって、全国統一をかかげて権力をふるおうとしていたとは考えられない。信長の行動基準は、あくまでも天下静謐の維持という点にあった。
 信長においては、官位によって彼の「天下」の外にあって好意的・従属的な関係を結んでいる諸大名までをも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
 しかし、将軍推任を受け、信長は、それまでの天下静謐の維持という大義名分を自己否定するかのように、征服欲をむき出しにしたいくさを中国・四国方面に仕掛けるという最終決断をしたのではないか。
 だから、光秀が、それまで一貫していたはずの天下静謐のための戦いという目的から逸脱しつつある信長の動きを頓挫させようとしたのではないか。となると、天下静謐を根底から揺るがせたのは、光秀ではなく信長だったことになる。
 本能寺の変の直後、朝廷は光秀を天下人とみなして、京都の安全保障を要請する使者を遣わすなど、謀叛人扱いをせず、それなりの対応をしている。基本的に朝廷は、自分たちを保護してくれる人間であれば誰でもよく、武家権力者が誰であるべきだという理念を前提として動くことはなかった。
 信長が印章につかった「天下布武」(てんかふぶ)というのは、将軍を中心とする幾内の秩序が回復することを指す。戦国時代の室町将軍において、維持すべき支配領域とは京都中心の「天下」であった。それは、日本全国を意味していない。
 信長は、天下静謐を維持することを自らの使命とした。信長の勢力拡大は、天下静謐に歯向かう敵と戦った結果として生じた。
 信長は官位に対してみずから選択するほどの知識はなかったし、また執着心もなかった。
 信長は積極的に左大臣任官を希望していない。
 譲位についての天皇の頑張な拒否があり、逆に積極的な譲位推進の思惑もない。信長は、どうにかして左大臣を辞退しようとしたものでもない。任官がないことを承知のうえで、信長は天皇の譲位延期を受けいれたはず・・・。
 信長の実像を明らかにしようという、意欲的な内容にあふれた新書です。
(2014年8月刊。880円+税)

2015年8月15日

化け札

(霧山昴)
著者  吉川 永青 、 出版  講談社

 真田昌幸を描いた小説です。面白く、一気に読み通しました。
 境目の者、敵との最前線にある者は向背勝手、つまり危うくなったら寝返りも致し方なしとみなされる。武士だけではない。百姓も自らの身を守るため、双方の勢力に年貢を半分ずつ納めることが認められていた。戦乱の世ならではの習いである。
 岩櫃や沼田は真田昌幸が武田勝頼から引き継いだ地である。その武田を見限って北条に擦り寄り、織田軍が兵を向けたと知るや、そちらになびいた。織田信玄が横死すると上杉に付き、上杉の苦境を知って北条に帰順する。そして、真田は徳川に鞍替えした。実に5度目の寝返りだ。
武田を見限って、北条、上杉、そして徳川、果ては豊臣に付き、付いては離れ、騙し化かしてきた。それでも兵や政は武田流を貫いている。
 軍においては無駄口をきかず、戦においては敵の出鼻をくじき、勢いありと見れば一気に叩く。
歌留多札には幽霊が描かれているものがある。化け札、鬼札、幽霊札、いろいろの呼び方がある。ほかの全ての札に変えて使える。相手を化かす札である。
 「ならば、この真田昌幸、化け札になってやる」
 巷間にそしられることを承知で、真田家のため、民百姓のために武田を見限るのだ。誰に分かってもらえずとも構わない。だが、本領の安堵のみ、生き残りのみに汲々とするのみでは終わらせない。
 北条が、織田が恐れる真田は、そこまで安くない。真田一族が、北条、上杉、武田、徳川、そして織田、秀吉という大勢力のなかでしぶとく生きのびていく様を見事に描いていて、読ませる本です。
(2015年5月刊。1850円+税)

2015年8月 8日

豊臣秀次

(霧山昴)
著者  藤田 恒春 、 出版  吉川弘文館

 かの秀次について、著者は次のように評しています。
 戦いの場における獅子奮迅の活躍もなければ、一領主として領地支配に専念した形跡もなく、といって秀吉の影法師的役割を果たせたわけでもない。要するに、至って凡庸なる青年にすぎなかった。
 秀次28歳の人生をかえりみると、操り人形のごとく操られていたとはいえ、秀次なりに公家たちへの学問の奨励をとおして、自らも漢和連句などに関心を見出し、また古典の蒐集などへも関心を示し、それが軌道に乗り始めたと思う矢先に降って湧いたような事件に巻き込まれてしまった。志半ばにして、汚名を着せられたまま葬り去られたことは、無念だったろう。
 秀次は、生前から悪者に仕立てられてきたきらいがある。本人の行状に帰するところでもあるが、秀次が書き残した書状には、世評とは別の細やかなる心をもちあわせた青年の一面をのぞかせている。不出来の甥子が叔父(秀吉)になんとか気に入ってもらおうと努力はしていたのである。
 いずれにしても、秀次を葬り去ることによって一番の痛手を蒙ったのは、ほかでもなく、当の秀吉本人だった。
 これは、まったく同感です。我が子(秀頼)が可愛いばかりに甥をばっさり冷酷・無惨に殺してしまったら、その一家に未来はありえません。
秀吉は、家康との小牧・長久手の合戦のとき、みじめに敗退した。そのときの秀吉側の大将が秀次だった。
秀次は、剣術や射術へ人並み以上に関心をもち、腕前も人並み以上だった。それは、秀次の失態に激怒した秀吉が、鍛錬のために、それぞれの武芸者を秀次につけた成果と考えられる。
 中納言秀次は、ひと月のあいだに、秀吉が体現していた関白職を、みずから望むことなく譲られた。秀吉は、みずから天下人として関白職を体現していたが、秀次には、その度量も器量もないままで関白職を継職したことになり、ここに秀吉の理解しえないムリがあった。
 禁裏内の手練手管に富んだ年上の公卿たちを相手の矢面に立たされたら、何人といえども、気が滅入ってしまうだろう。武士としての実績も少なく、叔父の秀吉に担ぎ出されただけの、しかも年若の秀次には、あまりにも重すぎる荷であったろう。
 秀次は切腹させられ、その秀次の首を前にして、秀次の妻妾30数人がことごとく首をはねられた。この秀吉のとった行動は、「悪魔の仕業」以上のものだったが、次第に秀吉の行為は問われることなく、秀次のみ「殺生関白」の異名が定着・形成していった。しかし、秀次の武将たちがほとんど処罰されていないことは秀次事件が冤罪であったことを裏付けている。
なるほど、なーるほど、そうだったのか、そうだよね・・・、と思いながら、一気に読み通しました。
(2015年3月刊。2200円+税)

2015年5月 3日

冬を待つ城

                                (霧山昴)
著者  安部 龍太郎 、 出版  新潮社

 戦国時代の東北、陸奥(みちのく)九戸城に立てこもって豊臣秀吉勢15万を相手に見事にたたかった九戸(くのへ)政実(まさざね)が主役の小説です。なかなかに読ませます。
 秀吉は朝鮮出兵のためには、寒さに強い東北の人々を朝鮮で働かせるつもりだった。人狩りだ。ところが、それを察知した九戸政実たちは、あの手この手を使い、盛んに謀略を用いてまで、ついに自分の生命と引き換えに人狩りを実現させなかった。
 東北のたたかいが秀吉の朝鮮出兵と結びついたなんて、知りませんでした。本当に史実を反映した話なのでしょうか。それとも小説という創作なのでしょうか、誰か教えてください。
 かつては南部家と九戸家、久慈家は対等な親戚につきあいをしていた。それが秀吉の指示により南部信直の配下に九戸も久慈も立たされることになった。
 東北の雄である伊達政宗、蒲生(かもう)氏郷(うじさと)も登場します。話は謀略に次ぐ謀略として展開していきますので、面白いことこのうえありません。地形をふくめて、よく調べて書かれているので、本当に読ませます。
 3000の城兵で15万の包囲軍と戦う。しかも、玉砕ではなく、勝てるという、なんと、それも3日間で・・・。
 本当ですか、信じられません。そして、それが現実のものになっていくのです。
 二戸市、久慈市のそれぞれ市史が参考文献に上がっていますので。よく調べたことが分かります。
 クライマックスは九戸城を大軍の秀吉勢が包囲する戦いです。これにも『骨が語る奥州戦国九戸藩城』という本が参考文献としてあがっています。
 史実を基本として、あまり曲げることなく読みものに仕立てあげる。私も、ぜひ挑戦してみたいと思っています。450頁もの大作です。2日かけて、じっくり読み通しました。
(2014年10月刊。2000円+税)

2015年4月25日

織田信長、その虚像と実像

                                 (霧山昴)
著者  松下  浩 、 出版  サンライズ出版

 織田信長は尾張の戦国大名として登場することが多いが、これは正確ではない。信長の家は、下守護代織田大和守家に仕える奉行人の家であった。つまり、信長の出自は尾張の戦国大名ではなく、尾張守護代の家臣だった。
 織田家のルーツは、越前国織田庄(現・福井県越前町)にある。
 信長の正室は、美濃の戦国大名である斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)である。
桶狭間の戦いは、国境付近における小規模な戦闘に過ぎなかった。
 今川義元の出陣は、大軍を率いて上洛するとか、尾張を征服するといったものではなく、尾張国境付近の拠点確保という領国支配の安定を目的としたものだった。
 信長軍が義元の本陣を切り崩し、大将の義元まで討ちとったのは、多分に偶然の要素が大きかった。今川勢の先陣に戦闘をしかけたつもりが、それがたまたま義元本陣だったのである。結果だけをみれば、織田軍が奇襲をしかけたように見えるが、当初から計画されていたものではなく、偶発的なものだった。
 信長が「天下布武」の印文を使いはじめたときの「天下」とは、決して日本全国を意味するものではなかった。その「天下」とは、京都を中心とした朝廷・幕府などの中央政治の再建といった意味に理解される。
 永禄13年(1570年)の浅井長政の離反は信長にとって信じがたいものだった。しかし、浅井氏からすれば、自身の領地は、信長によって与えられたものではなく、父祖伝来の地である。本来、対等であるはずの同盟者・信長が上位に立つような態度を浅井氏は受け入れがたかったのではないか・・・・。
 信長の寺社への基本的な対応は保護であり、宗教弾圧などは一切していない。信長が上洛したときに宿舎としたのは、本能寺や妙顕寺といった法華宗寺院であったことからも、信長が法華宗に敵対していたのではないことが分かる。
 信長の宗教勢力に対する態度は、あくまで政治勢力として自分に敵対するか否かが基準となるのであり、宗派や信仰自体を問題とするものではない。信長が比叡山を焼いたのは、浅井・朝倉軍に味方して信長に敵対したからであり、決して天台宗という宗教自体に対する弾圧ではない。信長は敵対する寺社に対して厳しい攻撃をしたことはあっても、宗教そのものを弾圧したことはない。
 信長が一向一揆と戦い、さらに本願寺と対立したのは、本願寺が六角氏や三好三人衆など反信長勢力に協力していたからである。
 天正4年(1576年)に築城が始まった安土城は、その構造からも、天下人の居城として築こうという信長の意図がうかがえる。城郭が合戦のための拠点ではなく、政治的シンボルとして意識され始めたことを意味している。
 楽市楽座令があるが、自立的に存在していた在地の商業拠点を安土城下へと集中させようとする意図が認められる。つまり、商人の自立性を解体し、権力に奉仕する存在として位置づけようとしたのだ。
 安土行幸は、天皇との結びつきを視覚的に広く知らせることによって、信長の戦争に大義を与え、信長軍に天皇の軍隊としての位置づけを与えるためのセレモニーだと考えられる。すなわち、信長と天皇との深い結びつきを広く視覚的に印象づけ、信長の統一戦が天下静謐のために行われていることを広くアピールする狙いがあった。
 信長は、決して天皇制を打倒するというようなことは考えておらず、あくまで天皇制の枠組みを維持したなかで、自身が天下を成敗する権限を振るう国家を構想していたのではないか・・・。
 信長は決して革命家ではなく、旧秩序の破壊者でもなく、新しい時代の創造者でもない。信長は旧来の秩序に基本的に従い、自らが生きた中世という時代に向き合って、その枠組みの中で、合理的・現実的に対応したリアリストであった。
 信長の文書発給にしても、礼を尽くすべき相手には価値の高い紙を使い、文書の目的や相手によって、きちんと文書を使い分けている。
 信長と家臣とのあいだには、人格的な結びつきはほとんどなく、家臣たちは自立して大名への道を進んでいく。信長が家臣からの裏切りを何度も経験しているのは、信長と家臣との人間的関係の希薄さの表れだろう。
織田信長の実像に迫った、面白く読める本です。
(2014年6月刊。1200円+税)

2015年4月19日

豊臣秀頼

                               (霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  吉川弘文館

 秀頼の実像に迫った本です。
 秀頼は秀吉の実子ではないという説は誤りだと断言しています。
 秀頼の頭蓋骨ではないかと思われるものが、1980年に、大坂城三の丸跡の発掘調査で発見されています。秀吉の遺骨もあるそうですので、ぜひDNA鑑定をしてほしいものだと思いました。
 いずれにせよ、当時の戦国武将たちは、秀頼が秀吉の実子だということはまったく疑っていなかったようですね。そうでなければ、関ヶ原の戦いも、大坂冬の陣も、夏の陣も、違った話になってしまいます。
 そして、秀頼についても、「バカ殿」ではなかったからこそ、家康が恐れ、抹殺するしかないと考えたとされています。
 豊臣秀吉の死後、凡庸な秀頼と、その母親である茶々が淫乱な悪女であったことから、自ら滅亡した、いわば自業自得なのだというのが定説のようになっている。果たして、本当にそうなのか・・・。
 秀頼の生母は、浅井茶々。茶々は、近江小谷(おだに)城主の浅井長政を父に、織田信長の妹である市(いち)を母に、浅井三姉妹(茶々、初、江)の長女として生まれた。
 茶々は、一般には「淀殿(よどどの)」、「淀君(よどぎみ)」として知られているが、これは江戸時代になってから定着した呼び名であり、茶々の生存中には呼ばれていない。
 茶々が、独立した御殿をもち、居所にちなむ名前で呼ばれたことは、天下人である豊臣秀頼の妻の一人であったことを内外に示すものである。
 茶々が男子を産んだことを知ると、秀吉は、朝鮮出兵を放り投げて名護屋をあとにした。8月15日に出発して、25日には大阪に到着した。秀吉にとって、朝鮮出兵の凱旋パレードなどは二の次でしかなかった。秀吉は出発予定を10日も早めているのである。
 茶々が、懐妊の時期に名護屋に在陣している確かな証拠がある。それは、高極高次の書状である。
高極高次は、名護屋在陣中に待女を懐妊させてしまい、それが生母を怒らせてしまった。それで、大坂に向けて、とりなしを願う手紙を出した。
 名護屋では、茶々が懐妊した事実を誰もが知る状況となったが、まだ大阪にはその情報が伝わっていないと書いている。このことから、茶々は名護屋にいるとするのが妥当な解釈だ。こう書いています。なるほど、と思います。
 茶々は、秀吉の第一夫人である寧(ねね)と同等の妻である。優先順位は寧が先であっても、茶々も秀吉の妻なのである。決して「愛妾」というものではない、あくまでも茶々も「妻」なのである。天下人であり、武家関白である秀吉の妻が一人でなければならないとする理由は、制度・経済・倫理・慣習・歴史などの、あらゆる観点からみて存在しない。
 茶々を秀吉の妾(側室)とするのは、江戸時代になってからの史料にしかない。秀頼は、秀吉の正妻である茶々から生まれた嫡出子であり、秀吉自身が秀頼のことを実子かどうかを疑う要素はまったくなかった。多くの人々が秀頼に対して、秀吉の遺児として崇めたことも、これを裏付けている。
秀頼は文禄2年(1593年)8月3日、大阪城二の丸で生まれた。そして、生母の茶々が母乳を与えて育てた。
 茶々と寧は、対立関係になく、協調する関係だった。
 秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いにおいて、豊臣恩顧の武将たちは、「秀頼様」のために石田方と戦ったのであり、「家康様」のためではなかった。つまり、西も東も、ともに秀頼守護を大義名分として戦った。
 家康は関ヶ原合戦の勝利によって天下人となったが、それは秀頼が成人するまで天下を預かる場としてであった。そこで、家康は合戦が生じた原因は起請を破った秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことの正当化を図った。
 この家康に対して、秀頼は冷静な頭脳戦で応じた。
 大阪冬の陣、そして夏の陣において秀頼側が敗北したのは、徳川方が大坂方の勢いを挫くため、総大将の秀頼を出陣させないように謀略を仕組んだためだった。このことは徳川方の日誌から読みとれる。すなわち、秀頼敗北の最大の原因は、大坂城内の意思決定が分裂していたことにある。
 秀頼は、家康にとって、「凡庸」ではなく、「賢き人」だったので、抹殺するしかなかったということを実証した、画期的な本です。
(2014年11月刊。1700円+税)

2015年4月11日

再検証・長篠の戦い


著者  藤本 正行 、 出版  洋泉社

 長篠の戦いで、織田・徳川連合軍が武田勝頼軍の騎馬隊を敗退させたのは、3千挺の鉄砲を3段構えで迎え撃ったからとするのが通説でした。しかし、そんなことは考えられないという批判説が有力になっていました。そこへ、当時すでに鉄砲3段(列)撃ちもあったことが証明されているという有力な反論が出てきました。
 これに対して、本書は、やっぱり鉄砲3段撃ちなどなかったと反論しています。文献の読み方の解説もあって、なかなかに説得的です。
 戦場を設楽原(しだらがはら)と呼ぶ必然性はない。むしろ「あるみ原(有海原)というのが正しい。しかし、この戦いは、古くから「長篠の戦い」と呼ばれてきたし、長篠城の攻防戦が戦いの原因であって、決戦も長篠方面で行われたのだから、「長篠の戦い」と呼んでいい。この長篠の戦いで武田勝頼が惨敗したことから、勝頼を「バカ殿」視する見方が有力ですが、著者は必ずしもそうとは言えないと勝頼を擁護しています。勝頼を評価する本は先に紹介しています。
 前方の織田軍は少なそうだし、臆病風が吹いているようだ。味方の長篠城包囲軍は、織田・徳川連合軍の別動隊に蹴散らされてしまい、後方からの攻撃がありそうだ。ならば、無傷の主力軍をぶつけて敵の増援軍の来る前に織田・徳川軍を叩いたほうが有利だと判断しても何ら不思議ではなかった。なーるほど、と思いました。
長篠の戦いは、日の出から始まったものの、最初は小競り合い程度だった。ところが、別動隊が武田軍の背後にあらわれ、主戦場では、徳川軍が柵から押し出した。これで前後をはさまれた武田軍は午前11時ころに総攻撃を開始し、午後2時ころには総崩れとなった。
武田軍は、主だった武将が少数の騎馬武者と多数の歩兵で構成された部隊を率いて攻撃するという通常のやり方をとった。それに対して織田軍はそうした部隊を出さず、銃兵ばかりを追加投入して、武田軍を迎撃した。
 『信長公記(しんちょうこうき)』などの信頼できる史料には、信長が3千挺の鉄砲隊が3列に配置し、千挺ずつの一斉射撃で勝頼の軍勢を破ったという戦術は登場しない。そんな事実はなかったのである。
 『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)を書いた平山優について、著者は批判の仕方がなっていないと厳しく批判しています。
 たしかに、批判するときには、相手の言っていることを正確に引用し、批判の論拠を明確にすべきですよね。 歴史の資料の読み方にも厳密さが当然求められるものです。
 平山優が依拠した『甫庵信長記』は長篠の戦いにおける徳川軍の活躍を顕彰するために書かれているのであって、長篠の戦いを正確に再現し、伝えるために書かれているものではない。
 この本は論争のあり方についても一石を投じています。
 私と同じ団塊世代の著者です。今後とも知的刺激にみちた本を書いてください。期待しています。
(2015年2月刊。1800円+税)

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