弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年10月23日

明智光秀

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 早島 大祐 、 出版 NHK出版新書

 明智光秀は医者だったようです。光秀は牢人時代に医者をして食べていたようだ。つまり、越前で牢人医師をしていた。光秀は、京都代官のとき、医者である施薬院全宗のところによく泊まっていた。
 足利義昭が没落したあと、光秀は織田信長の家臣となった。そして、京都の市政を担当する代官となった。村井貞勝と2人で代官の職務をとった。
 光秀の妹、御妻木殿(おつまきどの)が信長に側室として仕えていた。
 これは、知りませんでした。そして、この妹は光秀と信長とを結ぶ重要な役割を果たしていたというのですが、天正9(1581)年8月に死んでしまったのでした。妹は機転がきいていて、信長の意向全般に通じていたそうです。そんな重要な位置にいた妹を失ったことが本能寺の変を光秀が決断する遠因となっている、とのこと。これはまったく初めての知見です。
 信長は、訴訟の基本方針だけを示し、あとは信長の意向を忖度(そんたく)して、光秀らが裁許した。信長の指示は、「当知行安堵(あんど)」、すなわち現在、管理、運営している者を優遇せよ、というものだった。
 本能寺の変の前、信長は一族優先等に切り替え、着々と実行していた。つまり、織田一族に連なる、重代の家臣、直属の家臣たちの権威を高めていた。一族を中心に織田家中が序列化されていっていて、その意味で信長の周囲には、組織の自由な雰囲気は失われ、硬直化しつつあった。「外様」の光秀は、これによってはじき出されつつあったようです。
土地調査の方法として、秀吉は現地に出向いて調査して土地台帳をつくるようにした。これを検地という。これに対して光秀は、自らは現地に行かず、現地からの報告にもとづいて土地台帳を決定した。これを指出という。
いろいろ知らないことが書かれていて、勉強になりました。
(2020年1月刊。税込968円)

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