弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2022年10月19日

松川事件と「諏訪メモ」

司法


(霧山昴)
著者 北大生・スパイ冤罪事件の真相を広める会 、 出版 左同

 松川事件が起きたのは1949(昭和24)年8月17日未明のこと。団塊世代の一人である私が生まれた翌年です。国鉄(もちろんJRではありません)の東北本線で旅客列車が脱線転覆し、乗客は無事だったが、乗組員3人が死亡。線路を固定するための枕木に打ち込んである犬釘(いぬくぎ)が抜かれ、カーブ外側のレール1本が外されていた。
 警察は共産党の犯行だとして容疑者20人(うち共産党員14人)を逮捕し、検察庁は全員を起訴した。裁判所の判決(1950年12月6日)は全員有罪で、5人が死刑、5人に無期懲役刑が宣告された。
 このパンフレットは、毎日新聞福島支局にいた24歳の新米(しんまい)記者が松川事件で被告人たちにアリバイがあることを裏づける団交メモ(諏訪メモ)を掘り起こすまでの苦労話を生々しく紹介したものです。
 当時は、記者の「サツ回り」ものんびり、人間的で、おおらかだったのでした。地検の検務課で「赤銅鈴之助」のマンガ本を借りて記者が読みふける、次席検事は麻雀が大好き。そして、諏訪メモを個人的に預かりもっていた鈴木久学検事が福島地検に戻したのを目撃し、その足で受けとった検事正に正面突破で諏訪メモの存在を問いかけたのです。
 「あったのですね?」
 「うん、あった」
 「佐藤(被告人)が出席していますか?」
 「いる」
 「何時までいましたか?」
 「午前中いた」
 このやりとりだけで、諏訪メモの現物を見ることもなく、著者は毎日新聞福島版(1957年6月9日)のトップ記事として、「諏訪メモ発見さる」を一面トップで大きく報道したのです。記者は若かった世間知らず。だからこそ正義感に燃えて、(メモの現物を見なくても)踏ん切れた。
 この大スクープのあと、警察・検察官で食事をしていると、警部補から、「お前はいつからアカの手先になったのか」と大声をあげ、著者が酒をつごうとすると「アカの酒なんか飲めるか」と徳利を払いのけた。
 「なんとかメモなどと屁にもならんことを書きやがって、アカからいくらもらったのか」
 いやはや大変な大立ち回りがあったのでした。この警部補は少年の赤間被告を追い込んで「赤間自白」をとった男です。
 被告人たちの「共同謀議」が成立するためには午前11時15分松川発の列車に乗って福島に行かなければいけない。しかし、会社と労組の団交は正午ごろまで続いていて、最後に発言したのは佐藤被告。この経過を団交の場にいた会社側の人間(諏訪氏)が詳細にメモしていたのです。ということは、佐藤被告が午前11時15分発の列車にのることはありえない。つまり、「共同謀議」に参加できない。なのに有罪、しかも死刑を宣告された。そんな馬鹿な。
 この記者も「アカの手先」として警備部によって身元調査がなされていた。怖いですね。
 松川事件の被告弁護団には、地元の自民党有力者であり、県の公安委員会をつとめている袴田重司弁護士、そして田中耕太郎最高裁長官の実弟・田中吉備彦弁護士も加わっていた。まさしく超党派から成る弁護団だった。
 1959年8月10日、最高裁は原判決を破棄して差し戻す判決を言い渡した。
 宮本検事正は、諏訪メモを消滅させることは可能だった。でも、私にはできなかった。最高検から消滅せよという指示が来る前に世間に公表すれば、もはや消滅させられない。毎日新聞の記者が権力をはねのけて追及してくれることを信じて、諏訪メモの存在を認めたのだ、と語った。いやはや、どこの世界にも良心を大切にしたいと考えている人はいるものなんですね...。
 倉嶋記者と大学時代からの友人である石川元也弁護士(大阪)からいただきました。
(2022年2月刊。無料)

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