弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2014年9月 6日

戦国大名


著者  黒田 基樹 、 出版  平凡社新書

 戦国大名と織豊大名・近世大名とは、領域権力ということで、基本的な性格を同じくし、社会状況の変化に応じて、その様相を変化させていったもの。
太閣検地、兵農分離、石高制などは、研究上の世界におけるある種の幻想でしかなかった。
戦国大名とは、領国を支配する「家」権力である。大名家の当主は、「家」権力の統括者という立場であり、権力体としての「戦国大名」は、大名家の当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員をふくめた組織であり、いわば経営体ととらえるべきもの。
 戦国時代について、当時の人々は、まだ「室町時代」と認識していた。当代とは室町幕府の治世を指し、「先代」とは鎌倉幕府の統治時代を指した。
 戦国大名は、領国内において、平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。
 中世における自力救済のキーワードである「相当」(同量報復)、「兵具」(武装)、「合力」(援軍)の禁止によって領国内の平和が形成・維持された。
 検地は、個々の百姓の土地所有権を決定するものではなかった。個々の百姓の所有地は、むしろ村によって決定されていた。
 通説では、石高は生産高となっているが、誤りである。近世の石高も、年貢賦課基準高でしかなかった。検地によって決定された村高が、そのまま年貢高になるのではなかった。村高から、いろいろの「引方」と呼ばれる控除分が差し引かれて、その残りが年貢高(定納高)となった。それこそが、大名と村との間における高度な政治交渉の反映だった。村高に対する引方の割合は、おおよそ2~3割におさめられていた。
 一反あたりの年貢量は、田地一反あたり五斗二升。平安時代後期の反別三斗の2倍にあたり、江戸時代の85%にあたる。
 したがって、織豊・近世大名の検地が戦国大名の検地より多くの富を収奪したというのは幻想なのである。こうした検地は、主に大名の「代替わり」ごとに行われた。
村という組織は、決して固定したものではなく、人員構成も領域も変動する可能性を常にもっていた。
 棟別銭は、屋敷地に対する賦課役で、屋敷地の家数に応じて賦課された。
 陣夫役は、先陣のたびごとに人・馬を徴発するもの。
 戦国大名の領国支配のなかで、大きな歴史的意味をもった政策が目安制による裁判制度の構築だった。
 目安は訴状のこと。評価衆が組織され、目安制による訴訟の審理にあたった。双方の出頭が求められ、出頭しなければ、無条件で敗訴とされた。
 目安制の全面展開について、北条氏康は、「百姓に礼を尽くす」政策の筆頭にあげている。そして、これが他の戦国大名に広がっていった。
 この目安制の意義は、領国を構成する社会主体である村のすべてに対して、大名家への直接訴訟権を認めたことにある。それは、すべての人々に訴訟権を認めた、万人に開かれた裁判制度がここに始まったと言ってよいもの。現代の裁判制度は、この延長線上に位置している。
 戦国大名の実際を知ることが出来ました。
(2014年1月刊。780円+税)

2014年8月29日

明智光秀の乱


著者  小林 正信 、 出版  里文出版

 明智光秀とは何ものだったのか?
この本は、明智光秀の正体を執拗に追跡し、明らかにしています。その立証過程は実に詳細であり、こまかすぎで辟易するほどです。
 でも、それがいかにも研究者による真面目な学術的研究なので、最後まで、何とかおつきあいさせていただきました。推理小説ではありませんので、ネタバラシしてもいいでしょう。
 著者の結論を紹介します。
 ①明智光秀とは、室町幕府の奉公衆であった進士源十郎藤延である。その父は、進士(しんし)美作守(みまさかのかみ)晴舎(はるいえ)である。
 ②室町幕府の将軍・足利義輝の側室の小侍従は、明智光秀の妹のツマキである。
 ③ツマキの子・明智光慶は、足利義輝の遺児・小池義辰である。
著者は、「本能寺の変」と呼ぶのは誤りだと主張します。明智光秀が動員した軍勢1万3千という規模、織田政権の転覆を意図したことから、これは大規模な軍事的反乱であった。つまり「乱」であって、小規模な兵力による襲撃を指す「変」とは言えない。なーるほど、ですね。
 織田信長は、足利義昭を追放しておらず、室町幕府を滅ぼしたわけでもはない。
 室町幕府の統治機構を実際に統治していたのは明智光秀である。
 明智光秀は、天正10年(1582年)6月2日に信長、信忠親子の殺害に成功はしたものの、徳川家康とその重臣たちを取り逃してしまった。これが光秀の破滅をもたらした。
 この乱の直接的な要因は、信長の政権構想をめぐる家康の処遇をめぐっての信長と光秀のきわめて深刻な対立にある。
 光秀は、室町幕府の官僚機構の中心的存在であった「奉公衆」の出身者であったからこそ、「奉公衆、奉行衆」などを統括する存在として、織田政権においても重きをなしていた。
 織田政権における光秀の役割とは、事務方全体をまとめる官房副長官として幕府の官僚機構全体を取りまとめ、信長の幾内統治を円滑に担うことにあった。信長の要請・命令に応じて幾内の軍事力として室町幕府の幕臣たちを動員することが、織田政権内における光秀の高い地位を規定していた。
 明智光秀は、奉公衆・奉行衆など将軍直臣としての信条、武家社会における名門としてのエリート意識、そして歴史的に形成された伝統・慣習にもとづく室町幕府のカルチャーを代表する存在だった。
 明智光秀の乱を主導した勢力は、京都を中心として信長の強大なカリスマ的支配を支えてきた基盤であるとともに、その実態は室町幕府機構そのものであった。光秀は、このような既存の奉公衆・奉行衆などによる伝統的かつ官僚的支配層の利益を代表することにより将軍・足利義昭の出奔後も織田政権を支えていた。
 幕府の周辺勢力を動員して兵力にも転用しうる、即戦力として、あるいは潜在的にその能力が十分にあったからこそ、光秀は信長から格別の地位を与えられていた。
 織田政権の全期間にわたって室町幕府は存在していた。足利義昭は、信長の死後もなお、天正16年(1588年)正月まで将軍であり続けた。
 明智光秀は、その前半生、そして父母兄弟も妻も不明である。
 この本を読んで驚いたことの一つとして、昔の武将が、何度も姓名を変えていることです。これでは、うわすべりに歴史の本を読んでいても、同一人物が名前を変えているだけかもしれないというわけですから、歴史の迷路にさまよいかねません。
 私のご先祖様だと勝手に思っている上杉謙信は、虎千代、平三、長尾(平氏)、上杉(藤原)、上杉政虎、輝虎、謙信と変遷しています。大変です。
 信長は、これを利用して、家臣に九州の名族を名乗らせ、九州の国々にちなんだ官を受領させた。東国の者がそれを聞けば、信長は既に九州の土地を併合しているかのように錯覚させることを目論んだ。それで畏服させようというのだ。
 同じく、光秀も改姓によるものでは・・・。
 信長の側近には「秀」の字が目につく。秀吉も、その一人だ。
 光秀の享年は不明である。54歳、いや67歳と、いろいろあって定まってはいない。
 進士(しんし)氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家の故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。進士氏は、「御前奉行」としても知られ、武家儀礼において特に重要な将軍が重臣や守護大名の邸宅を訪問する「御成」の際の手順、その料理に関する総合プロデューサーという役割を代々になってきた式法の家である。
 幕府官僚機構を統括していた光秀が信長の「御成」を認めることは、信長を足利将軍に代わる武家の棟梁として認知することになり、それは足利(室町)幕府体制の否定を意味するものだった。
 大変刺激的であると同時に、説得力のある本でした。400頁のずっしりした本に、ついつい読みふけってしまったことでした。
(2014年7月刊。2500円+税)

2014年8月 2日

風の海峡(下)


著者  吉橋 通夫 、 出版  講談社

 秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮の人々に多大の苦難をもたらしました。
 その一つが、人さらいです。日本軍は朝鮮の子どもたちを奴隷のようにして日本へ連れ帰り、日本国内だけでなく、遠く海外へ売り飛ばしたのです。
 子どもたちは首を縄で巻かれ、全員がひとくくりになっている。一人ずつ逃げられないようにしているのだ。
 人取りだ!
 戦国乱世の日本では、捕らえた敵方の男は軍夫にし、女は妾にし、子どもは召し使いにした。文禄の戦のときは、太閣から人取り禁止の触れが出ていたが、今回は出ていない。
 太閣自身も、「裁縫や細工物などに堪能な手利きの女たちを連れ帰って差し出せ」と諸将に命じた。
 日本に連れていって、長崎で売り飛ばす。ポルトガル人と、鉄砲や絹、白糸など南蛮の品々と交換する。ポルトガル人は、世界中の奴隷市場へ商品として連れていって、競りにかける。若い娘や子どもは、いい値で売れる。
 京都には、いまでも耳塚があるそうです。日本兵たちは、朝鮮人を皆殺しにして、その鼻を切り取って塩漬けにして、日本へ送っていました。耳は二つあるけれど鼻は一つしかないからです。
 秀吉が死んで、徳川幕府の時代になって、朝鮮王朝は捕虜を連れ戻すための「回答兼刷還使」(かいとうけんさつかんし)を送り、7500人を朝鮮に連れ戻った。その後、通信使として朝鮮使節団が日本にやって来るようになった。
 子どもの目から見た、無謀なかつ悲惨な朝鮮出兵のありさまをよく描いた小説です。
(2011年9月刊。1300円+税)

2014年7月20日

風の海峡(上)


著者  吉橋 通夫 、 出版  講談社

 秀吉の朝鮮出兵について、児童文学の傑作があるというのを知りませんでした。本当に、世の中は、いつだって、知らないことだらけです。
対馬に生まれて、朝鮮は釜山に渡った日本人14歳の少年、梯(かけはし)進吾がもの物語の主人公です。母を亡くし、対朝鮮貿易業に従事する父のもとで、朝鮮語も自由に話せます。
 釜山には、日本人商人の住む倭館がありました。大勢の日本人が、日本と朝鮮の貿易に従事していたのです。そして、その元締めは対馬藩主でした。当時の対馬藩主の宗(そう)義智(よしとし)は、小西行長の娘婿でもありました。
 平和な朝鮮半島に、突然、日本軍が襲いかかってきます。進吾の友人である朝鮮人の俊民と勢雅と、生命を賭けて戦わなければいけないなんて、進吾には理解できない話です。ところが、秀吉の派遣した日本軍は破竹の勢いで朝鮮半島を北上して侵攻していくのです。
 4月13日に釜山鎮城で戦いを始めてから5月2日までに、東莱(トンネ)、梁山、密陽、大邸(テグ)、尚州と、次々に攻め落とし、ついに王都・漢城(ハンソン)に迫った。
 日本軍が勝ち続けたのは、火縄銃のおかげ。朝鮮軍の武器は、おもに弓矢や刀剣など。火縄銃は弓矢の3倍の射程距離がある。朝鮮軍も火砲類を持ってはいるが、射程距離は短く、城を守るには役立たなかった。
 日本では、ついにこのあいだまで戦国大名同士の領地を奪いあう戦乱の世が100年も続いて、兵士が戦(いくさ)慣れしている。
 ところが、朝鮮では、武力支配ではなく文治政治が続いていた。戦った経験のないもの同士が集まって謀議をこらす。そのうえ、王朝の重臣たちが二つに分かれて勢力争いをしている。
 朝鮮の人々の反撃が始まるなか、日本軍の将兵が集団で投降してきた。朝鮮軍は、これを受け入れた。「沙也可」(さやか)という名前の将軍と部下の兵士たち、あわせて30人の兵が、30挺の火縄銃とともに朝鮮軍へ投降してきた。
 児童文学書ではありますが、また、それだからこそ、きちんと歴史的事実を踏まえています。そして面白い本です。
(2011年9月刊。1300円+税)

2014年5月31日

加藤清正の生涯


著者  熊本日日新聞社編 、 出版  熊本日日新聞社

 加藤清正の発給した文書をもとに、加藤清正の実像に迫った本です。意外な人間像に接し、驚きました。
 加藤清正って、最前線の戦場で戦う勇将とばかり思っていました。しかし、実は後方で最前線を支援する智将として秀吉に重用されていたようです。わずか49歳で病死した清正ですが、晩年は茶の湯や連歌をたしなむ文化人でもありました。
加藤清正が10代までの少年期は、秀吉と同じ名古屋市中村区(尾張国愛知郡中村)で過ごしたことは間違いない。しかし、それ以上は不明で、謎に包まれている。
加藤清正は秀吉の下の武将として名をあげていくが、軍事力より物資調達能力や事務処理能力を期待されていたのではないか。加藤主計頭(かずのえかみ)となり、財務担当者となった。清正は、戦よりも、そろばん勘定に長けていた。
大陸進出をもくろむ秀吉にとって九州は重要な軍事拠点だった。佐々成政が肥後国一揆を招いたとして、その失敗から切腹させられ、その後任として清正は4千石から19万5千石の大名へ一気に大出世した。
秀吉の朝鮮出兵で、加藤清正も朝鮮半島に渡った。そして、加藤清正は朝鮮北部まで進出し、そこで、逃げていた朝鮮王子2人を捕縛した。
しかし、1万人いた清正の軍勢は、逃亡が相次ぎ、漢城(ソウル)に撤退した時点では5500人にまで減っていた。
 清正の虎狩りは有名だが、実のところ、朝鮮に在陣していた多くの武将が虎狩りをしていた。それは、秀吉の養生のため、虎の頭、肉と腸を塩漬けにして送るように指示されていたから。当時、虎は不老長寿の薬として重用されていた。要するに、朝鮮での虎狩りは、秀吉の滋養強壮の薬を調達するためのものだった。ところが、虎の捕獲は危険で、人命をなくすことがあったため、秀吉の命令で中止された。
 要するに、清正が勇敢だったから一人、虎狩りをしていたというのではなかったのです。
関ヶ原の戦いの後、清正は家康に忠義を尽くすようになった。そして、キリスト教の禁圧令が出る前から、家臣団についてはキリスト教の信者であることを認めず、改宗に応じないものは家族ともども見せしめのために処刑した。ただし、一般庶民の信仰は認めていた。
 この本には、加藤清正が夢でみた情景をつづった自筆の書状が紹介されています。これは本当に珍しいものですね。その内容は、秀吉が登場してくるものです。そして、清正は僧に祈祷を依頼しているのです。今でも、ありそうな話です。大恩のある秀吉を、その死後に裏切ったという、うしろめたい気分のあらわれではなかったでしょうか・・・。
 今も、清正公(せいしょうこ)と呼んで加藤清正を愛敬する人の多い熊本県民の愛するシンボル的存在を新聞連載で紹介し、一冊の本になっています。たくさんの写真もあって、とても読みやすいブックレットでした。
(2013年12月刊。2000円+税)

2014年5月18日

黒田官兵衛、軍師の極意


著者  加来 耕三 、 出版  小学館新書

 今や時の人、黒田官兵衛については、たくさんの本が本屋に並んでいます。
 官兵衛は、決して約束はたがえない、行動に一貫性があるという評判は、その一生に大きな宝となった。
 官兵衛は、生涯、妻を一人しかもたなかった。側室をもたなかった。織田信長には、男子12人、女子12人の子があった。徳川家康には男子11人、女子5人の子があった。
 官兵衛には2人の男の子がいたが、次男は水難事故で亡くなり、長男の長政(松寿)一人だった。
黒田家でお家騒動が起きたのは、官兵衛が功労ある重臣たちへ惜しみなく多額の家禄をはずみすぎたからだった。
 官兵衛の新しさは、この時代の流行であるキリシタンだったことが大きかったと考えられる。キリシタンになった官兵衛は息子の長政、そして弟の直之にもキリスト教を勧め、この二人は天正15年に豊前・中津で洗礼を受けている。
 この年、秀吉がバテレン追放令を発布した。官兵衛たちは、ただちに表向き棄教した。だが、キリシタン大名の小西行長の家来が追放されると、密かにこれを召し抱えた。
 弟、直之は自領の秋月においてキリスト教をその後も保護し続け、領内に司祭館(レジデンシア)を建設している。
本能寺の変で、信長が倒れたとき、秀吉は「中国大返し」といわれるように、毛利軍と和睦を結び、一気に上方へのぼった。このとき、秀吉は以下の将兵は、おのれの野心、出世を夢見て血相を変え、走り去った。
 秀吉に叱咤激励されたから、というのではなく、おのれの私利私欲を胸に抱いて、欲心を大いにふくらませ、上洛の道を我先にと急いだ。
 まさしく、官兵衛の入れ知恵によって、秀吉は断固としてやり遂げたのです。だからこそ、官兵衛は秀吉から警戒されたのでしょうね。
(2013年10月刊。740円+税)

2014年5月 3日

黒田官兵衛


著者  諏訪 勝則 、 出版  中公新書

 滋賀県や岡山県にある黒田氏発祥の地といわれるところは、福岡黒田氏とは関係がないと見られる。
 官兵衛が人質になっていたとき、その子・松寿(長政)の殺害を命じたかどうかは不明である。竹中半兵衛を通じて、黒田家中はしっかり一つにまとまっていると信長に報告がなされ、これを聞いた信長は大いに喜んだと記されている。つまり、信長は黒田家中を信頼しており、松寿(長政)の殺害までは指示していないと推察される。
 秀吉の九州平定過程において、官兵衛は、二度の大きな失敗をしている。一度目は、島津氏を豊後から逃したこと、二度目は豊前国内で一揆を発生してしまったこと。それでも、秀吉から格別のとがめはなかった。
 官兵衛は、高山右辺や蒲生氏郷の勧めによりキリスト教に入信した。そして、領国のある播磨国でキリスト教を広め、秀吉の家臣たちに改宗を促した。官兵衛は、洗礼名をシメオンといった。官兵衛の息子・長政は17歳で洗礼を受け、ダミアンといった。長政の洗礼を官兵衛は大いに喜んだ。
長政は秀吉による禁教令が出てもキリスト教から離れることなく、自分の妻や重臣たちに教えを説き、自分はキリシタンであると公言していた。
 官兵衛は、宣教師にとって非常に力強い存在であり、官兵衛も彼らの要望に対応した。官兵衛は、多くの人々をキリスト教に入信させた。
 ところが、秀吉は官兵衛がキリシタンになったことについて、非常に憤りを感じていた。
 ルイス・フロイスの報告書(1592年10月1日付)によると、秀吉は官兵衛の話をさえぎって言った。
 「おまえは、性懲りもなく伴天連どものことを話すのか。おまえがキリシタンであり、伴天連らに愛情を抱いていたために、私はおまえに与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことが、まだわからないのか」
 官兵衛は、終生、キリシタンであり続けた。高山右辺はキリスト教から離れなかったために処罰された。官兵衛も棄教せず、九州遠征では二度も失敗したのに、秀吉から追求されることがなかった。そして、小田原合戦や朝鮮出兵などで重用された。
 官兵衛は、秀吉の意向にしたがって朝鮮に渡り、豊臣軍のいわば「軍事顧問」として活動した。
 交渉・調整にたけていた官兵衛が音をあげるほど、朝鮮出兵では指揮・統制が混乱していた。官兵衛は、この状態を憂え、秀吉に進言するために参上したが、門前払いにあった。
 しかし、それでも、官兵衛に対して秀吉は格別の処罰は下されなかった。それだけ、秀吉にとって官兵衛は必要不可欠な存在だったのだろう。
 黒田官兵衛が終生キリシタンだったことなど、意外な一面を知ることができました。
(2013年12月刊。780円+税)

2014年4月 5日

長篠合戦と武田勝頼


著者  平山 優 、 出版  吉川弘文館

 とっても面白く、一心不乱に読了しました。著者は山梨県の高校教諭ということですが、これほど深い学識のある教師に教わる生徒は幸せですね。私は、この本を読んで、武田勝頼をすっかり見直しました。といっても、長篠合戦で決定的な敗北を喫したことの意味を軽視しているわけではありません。なぜ、これほど重大な決戦になったのかということが、よくよく理解できたということです。
 この本は、通説を否定する最近の学説をさらにひっくり返しているという点で、画期的な本だと思います。
 まずは、勝頼が凡愚の将ではなかったということです。そして、鉄砲の三段(三列)撃ちがあったかもしれないということ。その「三列」とは限らず、「三グループ」を意味していた。「三段撃ち」は、秀吉の朝鮮出兵のあと、中国に輸入されて、そこで同じことが図解されている。この点については、前に書評として紹介しています。
 長篠合戦(ながしのかっせん)ほど、数多くの謎に包まれ、その謎解きを巡って百家争鳴、百花斉放という状況になっているのも珍しい。
 武田勝頼は、同時代の人々から暗愚の主君とは見られていなかった。武田の家臣たちにとって、勝頼は「強すぎた大将」だった。父の武田信玄を超えるために無理を重ねていった。勝頼は、武勇に優れた武将だった。
 勝頼は父の武田信玄時代よりも領国を拡大していた。勝頼は、諏訪勝頼として誕生した。
 諏訪勝頼は、武田姓になったものの、官途もなく、武田氏の通字である「信」もいただかなかった・・・。
 武田信玄は53歳で亡くなった(1573年。天正元年)。そして、信玄は自分の死を3年間は秘密にしろと言い残していた。織田信長は、4月になくなった信玄の死を7月には確信していた。
勝頼は、古くからの武田家臣のなかには溶け込めなかった。
 織田信長は、信玄が死んだとき、その後継者である勝頼を完全に見くびっていた。ところが、勝頼の攻勢が成功すると、「若輩ながら、信玄の掟を守り、表裏を心得た油断ならぬ敵」だとして、高く評価した。
武田信玄・勝頼は、全軍の寄親にたいし、軍事に関する厳格な方針(軍法)を定め、しばしば通達している。
武田軍の騎馬武者には、「貴賤」が混在しており、それが騎馬衆を構成していた。身分の上下にかかわらず、装備は同じような完全装備にせよとしていた。
 武田軍では、騎馬武者は侍身分や一揆合衆のような小身の侍などのみで構成されたのではなく、被官、忰者、傭兵、軍役衆など、実に多様な身分の人々によって構成されていた。
 長篠合戦において武田軍に騎馬衆が存在していたことは、織田信長が警戒して「馬防」柵を構築させたことで証明できる。東国の平原を戦場とした人々は、騎馬武者が馬を疾駆して敵陣に乗り込み、続く足軽に働きどころをつくることにかけて、実に巧みだった。
 騎馬武者は、家来や指揮下の足軽衆と共同して戦った。
 武田軍の騎馬衆の突入は、敵の備えが万全で乱れのないときには実施されることがなく、合戦のとば口からいきなり乗込をかけるような運用法はなかった。鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し突撃を仕掛ける攻撃法は、当時として正攻法だった可能性がある。
 武田軍の兵力が少なく、織田軍の鉄砲を制圧することが出来なかったのが敗因となった。
当時、「三段」を「三列」と解する考え方はなかった。「段」とは、部隊の将兵を列に配置することを意味せず、「三段」を「三列に並べる」というのは、明らかに誤解であり、誤読である、織田軍の鉄砲衆3千挺は三部隊(備)に分割され、5人の奉行の指揮の下、三カ所(三段)に配備された。そして、その部隊内部で銃兵は、複数列に構成していた。
武田軍の重臣たちは、合戦の前、こぞって撤退を主張した。ところが、勝頼は決戦を決めた。勝頼は、織田・徳川軍の動きを誤認していた。勝頼は、信長と家康の二人が眼前に出てきた好機を逃さず、ここで撃破し、「本意」を遂げることだけに固執していた。つまり、勝頼は、信長・家康と戦って勝ち、不安定な当主の地位を一挙に確立させたかったのだ。
 織田軍の大半は、武田軍に隠れて待機していた。
 また、勝頼の判断ミスは、織田・徳川両軍の情報部門の情報不足に起因していた。
 信長は、馬防柵をかまえ、軍勢に対して柵の外へ出て戦わないように指示した。
 織田・徳川軍の擁する3千挺に及ぶ鉄砲と、それを間断なくうち続けることができるほど用意された玉薬、そして鉄砲衆を脇から援護する多数の弓衆は、武田軍がそれまでに対峙したことのない圧倒的な数量であり、数で劣る武田方の鉄砲衆、弓衆は徐々にうち倒されていった。また、支度した玉薬の量も、織田・徳川軍よりもはるかに少なく、全弾うち尽くしてしまい、対抗する余地がなくなった場合もあっただろう。
 武田軍の猛攻が始まるのは、背後の味方が壊滅した情報を知ってからだった。
武田勝頼の作戦は、武田勢が鉄砲や弓の攻撃をしのぎながら敵陣に突入し、これを無力化し、さらに後方から続く軍勢が続々と乗り込みをかけて勝機を見出すという浸透戦術だったと推察される。しかし、武田軍には、敵の火力をしのぎつつ、敵軍を制圧できるだけの兵力に欠けていた。このように、長篠合戦の帰趨を決定づけたのは、両軍の火力はもとより、兵力差にあった。
 勝頼が退去したあとも、これを狙う織田・徳川軍と武田軍は2時間に及ぶ殿(しんがり)戦を展開していた。
 勝頼は、長篠合戦での敗北からわずか2ヵ月あまりで、1万3千とも2万ともいわれる軍勢の組織・編成に成功した。しかし、軍勢の質的低下はいかんともしがたかった。
 勝頼の無謀な突撃作戦が失敗の根本というのは間違っている。突撃は、当時の合戦において常道だった。
 よくよく、ここまで調べつくしたものだと驚嘆しました。戦国時代に関心のある人に一読をおすすめします。
(2014年2月刊。2600円+税)

2014年1月25日

裏切り淳山


著者  中路 啓太 、 出版  講談社

 裏切り者というと、いやなイメージですよね。私も、裏切り者とは呼ばれたくありません。
 戦国時代は、主君を裏切ることが横行していた時代でもあります。下克上の世界です。
一年をこす兵糧攻めでも落ちない難攻不落の三木城。業を煮やした秀吉が送り込んだ、最後の使者。
 それが、この本の主人公です。朝倉義景が本拠地の一乗谷を織田信長より攻め滅ぼされ、浅井長政も自害したころのことです。
 秀吉は信長に命じられて中国道に進出するのですが、なかなか思うように成果が上がらず焦っていました。尼子氏の再興を願う山中鹿介ら尼子十勇士も結局、見捨ててしまうのです。
 竹中半兵衛そして黒田勘兵衛が脇役のように登場します。秀吉も、ちょい役でしかありません。
 戦国時代にタイムスリップ気分に浸ることのできた本でした。
(2007年12月刊。1700円+税)

2014年1月12日

変り兜


著者  橋本 麻里 、 出版  新潮社

 こんなにいろんな形と色のカブトがあるなんて、ちっとも知りませんでした。
 戦場のオシャレは命がけ、とありますが、大将たちはまさしく命がけの戦場で精一杯のおしゃれをしたのです。
徳川家康の19歳のときの甲冑(かっちゅう)はゴールド尽くしです。戦場で光り輝いたことでしょう。
 「井伊(いい)の赤備(あかぞなえ)」で有名な井伊直政のカブトは朱塗りです。戦場に朱塗りで固めた一団が現れたら、さぞかし脅威だったことでしょう。
 伊達政宗の重臣の伊達成実(しげざね)の南蛮鎖兜(くさりかぶと)は、なんと、巨大なムカデをその前面につけています。ムカデは怪異なる動物で、毘沙門天の仲間だった。
 蝶兜(ちょうかぶと)もあります。こちらは、優美な蝶のイメージです。
毛利家伝来の兜には、孔雀の羽で装い、ヤクの白い毛がついている。
 ウサギの頭がそっくりカブトになっているのもあります。ウサギの耳がピンと立っています。
 サザエの形をしたカブト、しゃちほこ形のカブト。いろんなものがあります。なんと、ハマグリをのせたカブトまであります。
見るだけで楽しいカブトの写真集です。
(2013年9月刊。1600円+税)

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