弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2014年4月 5日

長篠合戦と武田勝頼


著者  平山 優 、 出版  吉川弘文館

 とっても面白く、一心不乱に読了しました。著者は山梨県の高校教諭ということですが、これほど深い学識のある教師に教わる生徒は幸せですね。私は、この本を読んで、武田勝頼をすっかり見直しました。といっても、長篠合戦で決定的な敗北を喫したことの意味を軽視しているわけではありません。なぜ、これほど重大な決戦になったのかということが、よくよく理解できたということです。
 この本は、通説を否定する最近の学説をさらにひっくり返しているという点で、画期的な本だと思います。
 まずは、勝頼が凡愚の将ではなかったということです。そして、鉄砲の三段(三列)撃ちがあったかもしれないということ。その「三列」とは限らず、「三グループ」を意味していた。「三段撃ち」は、秀吉の朝鮮出兵のあと、中国に輸入されて、そこで同じことが図解されている。この点については、前に書評として紹介しています。
 長篠合戦(ながしのかっせん)ほど、数多くの謎に包まれ、その謎解きを巡って百家争鳴、百花斉放という状況になっているのも珍しい。
 武田勝頼は、同時代の人々から暗愚の主君とは見られていなかった。武田の家臣たちにとって、勝頼は「強すぎた大将」だった。父の武田信玄を超えるために無理を重ねていった。勝頼は、武勇に優れた武将だった。
 勝頼は父の武田信玄時代よりも領国を拡大していた。勝頼は、諏訪勝頼として誕生した。
 諏訪勝頼は、武田姓になったものの、官途もなく、武田氏の通字である「信」もいただかなかった・・・。
 武田信玄は53歳で亡くなった(1573年。天正元年)。そして、信玄は自分の死を3年間は秘密にしろと言い残していた。織田信長は、4月になくなった信玄の死を7月には確信していた。
勝頼は、古くからの武田家臣のなかには溶け込めなかった。
 織田信長は、信玄が死んだとき、その後継者である勝頼を完全に見くびっていた。ところが、勝頼の攻勢が成功すると、「若輩ながら、信玄の掟を守り、表裏を心得た油断ならぬ敵」だとして、高く評価した。
武田信玄・勝頼は、全軍の寄親にたいし、軍事に関する厳格な方針(軍法)を定め、しばしば通達している。
武田軍の騎馬武者には、「貴賤」が混在しており、それが騎馬衆を構成していた。身分の上下にかかわらず、装備は同じような完全装備にせよとしていた。
 武田軍では、騎馬武者は侍身分や一揆合衆のような小身の侍などのみで構成されたのではなく、被官、忰者、傭兵、軍役衆など、実に多様な身分の人々によって構成されていた。
 長篠合戦において武田軍に騎馬衆が存在していたことは、織田信長が警戒して「馬防」柵を構築させたことで証明できる。東国の平原を戦場とした人々は、騎馬武者が馬を疾駆して敵陣に乗り込み、続く足軽に働きどころをつくることにかけて、実に巧みだった。
 騎馬武者は、家来や指揮下の足軽衆と共同して戦った。
 武田軍の騎馬衆の突入は、敵の備えが万全で乱れのないときには実施されることがなく、合戦のとば口からいきなり乗込をかけるような運用法はなかった。鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し突撃を仕掛ける攻撃法は、当時として正攻法だった可能性がある。
 武田軍の兵力が少なく、織田軍の鉄砲を制圧することが出来なかったのが敗因となった。
当時、「三段」を「三列」と解する考え方はなかった。「段」とは、部隊の将兵を列に配置することを意味せず、「三段」を「三列に並べる」というのは、明らかに誤解であり、誤読である、織田軍の鉄砲衆3千挺は三部隊(備)に分割され、5人の奉行の指揮の下、三カ所(三段)に配備された。そして、その部隊内部で銃兵は、複数列に構成していた。
武田軍の重臣たちは、合戦の前、こぞって撤退を主張した。ところが、勝頼は決戦を決めた。勝頼は、織田・徳川軍の動きを誤認していた。勝頼は、信長と家康の二人が眼前に出てきた好機を逃さず、ここで撃破し、「本意」を遂げることだけに固執していた。つまり、勝頼は、信長・家康と戦って勝ち、不安定な当主の地位を一挙に確立させたかったのだ。
 織田軍の大半は、武田軍に隠れて待機していた。
 また、勝頼の判断ミスは、織田・徳川両軍の情報部門の情報不足に起因していた。
 信長は、馬防柵をかまえ、軍勢に対して柵の外へ出て戦わないように指示した。
 織田・徳川軍の擁する3千挺に及ぶ鉄砲と、それを間断なくうち続けることができるほど用意された玉薬、そして鉄砲衆を脇から援護する多数の弓衆は、武田軍がそれまでに対峙したことのない圧倒的な数量であり、数で劣る武田方の鉄砲衆、弓衆は徐々にうち倒されていった。また、支度した玉薬の量も、織田・徳川軍よりもはるかに少なく、全弾うち尽くしてしまい、対抗する余地がなくなった場合もあっただろう。
 武田軍の猛攻が始まるのは、背後の味方が壊滅した情報を知ってからだった。
武田勝頼の作戦は、武田勢が鉄砲や弓の攻撃をしのぎながら敵陣に突入し、これを無力化し、さらに後方から続く軍勢が続々と乗り込みをかけて勝機を見出すという浸透戦術だったと推察される。しかし、武田軍には、敵の火力をしのぎつつ、敵軍を制圧できるだけの兵力に欠けていた。このように、長篠合戦の帰趨を決定づけたのは、両軍の火力はもとより、兵力差にあった。
 勝頼が退去したあとも、これを狙う織田・徳川軍と武田軍は2時間に及ぶ殿(しんがり)戦を展開していた。
 勝頼は、長篠合戦での敗北からわずか2ヵ月あまりで、1万3千とも2万ともいわれる軍勢の組織・編成に成功した。しかし、軍勢の質的低下はいかんともしがたかった。
 勝頼の無謀な突撃作戦が失敗の根本というのは間違っている。突撃は、当時の合戦において常道だった。
 よくよく、ここまで調べつくしたものだと驚嘆しました。戦国時代に関心のある人に一読をおすすめします。
(2014年2月刊。2600円+税)

2014年1月25日

裏切り淳山


著者  中路 啓太 、 出版  講談社

 裏切り者というと、いやなイメージですよね。私も、裏切り者とは呼ばれたくありません。
 戦国時代は、主君を裏切ることが横行していた時代でもあります。下克上の世界です。
一年をこす兵糧攻めでも落ちない難攻不落の三木城。業を煮やした秀吉が送り込んだ、最後の使者。
 それが、この本の主人公です。朝倉義景が本拠地の一乗谷を織田信長より攻め滅ぼされ、浅井長政も自害したころのことです。
 秀吉は信長に命じられて中国道に進出するのですが、なかなか思うように成果が上がらず焦っていました。尼子氏の再興を願う山中鹿介ら尼子十勇士も結局、見捨ててしまうのです。
 竹中半兵衛そして黒田勘兵衛が脇役のように登場します。秀吉も、ちょい役でしかありません。
 戦国時代にタイムスリップ気分に浸ることのできた本でした。
(2007年12月刊。1700円+税)

2014年1月12日

変り兜


著者  橋本 麻里 、 出版  新潮社

 こんなにいろんな形と色のカブトがあるなんて、ちっとも知りませんでした。
 戦場のオシャレは命がけ、とありますが、大将たちはまさしく命がけの戦場で精一杯のおしゃれをしたのです。
徳川家康の19歳のときの甲冑(かっちゅう)はゴールド尽くしです。戦場で光り輝いたことでしょう。
 「井伊(いい)の赤備(あかぞなえ)」で有名な井伊直政のカブトは朱塗りです。戦場に朱塗りで固めた一団が現れたら、さぞかし脅威だったことでしょう。
 伊達政宗の重臣の伊達成実(しげざね)の南蛮鎖兜(くさりかぶと)は、なんと、巨大なムカデをその前面につけています。ムカデは怪異なる動物で、毘沙門天の仲間だった。
 蝶兜(ちょうかぶと)もあります。こちらは、優美な蝶のイメージです。
毛利家伝来の兜には、孔雀の羽で装い、ヤクの白い毛がついている。
 ウサギの頭がそっくりカブトになっているのもあります。ウサギの耳がピンと立っています。
 サザエの形をしたカブト、しゃちほこ形のカブト。いろんなものがあります。なんと、ハマグリをのせたカブトまであります。
見るだけで楽しいカブトの写真集です。
(2013年9月刊。1600円+税)

2013年12月31日

甲斐姫物語


著者  山名 美和子 、 出版  鳳書院

今から5年前、『のぼうの城』(和田竜。小学館)を読んだとき、これって完全にフィクションだと思いました。話が面白すぎたからです。ところが、実は、歴史的に有名な攻防戦のフィクションとして再現したものだと知って腰が抜けるほど、驚いてしまいました。
 『のぼうの城』の巻末の参考文献として、『行田市史』や『成田記』など、たくさんの本が並んでいることからも、単なるフィクションではなく、一定の史実にもとづいた本だということが分かります。そして、この本は、『のぼうの城』よりも、ぐっと味わい深いものがあります。
 なにしろ、主人公は、城主の娘、そして、その跡取りとして武芸にも優れている若き女性なのです。これで話が面白くないわけがありません。
 忍(おし)城をわずか300人ほどで守る。敵は秀吉軍。石田三成を大将とする3万人の軍勢。守れるはずがありません。ところが、地の利を得て、城下の百姓のたすけもあって、ついに守り通すのです。
 ここらは『のぼうの城』と同じで、知略を尽くすのです。ちょっと違うのは籠城する将兵の仲間割れをいかに防ぐかという難局を乗り切ったところです。戦国時代の戦いで活用されたのが、この仲間割れ作戦でした。武将同士に不和があることを聞きつけると、そこに乗じて餌をちらつかせて寝返りを誘うのです。常套手段でした。それにしても、小田原城に立てこもった北条勢が陥落したあとまで、ちっぽけな忍城を守り抜いたのですから、すごいものです。これは史実なのです。
 石田三成の「水攻め」にあっても陥落しなかったのでした。そして、甲斐姫は落城後、蒲生(がもう)氏郷(うじさと)の配下になります。そして、ついには秀吉の下に召されていくのでした。
歴史的な事実と、どの程度あっているのかは、恥ずかしながら知りませんが、物語としてとてもよくできていると感嘆しつつ、二日間で読み通しました。著者略歴によると、たくさん歴史書をものにしておられることを知りました。
 軽やかで、巧みな心理描写に、感情移入がスムーズに出来て、すっと読み通すことができました。ありがとうございます。
(2013年10月刊。1600円+税)

2013年12月21日

戦国大名の「外交」


著者  丸島 和洋 、 出版  講談社選書メチエ

外交というと、国家間の交渉というイメージですよね。戦国大名が「外交」していたというのは、ちょっと変ではないですか・・・。でも、著者は変ではないと言います。
戦国大名は、一つの「国家」だった。戦国時代は、日本という国の統合力が弱まり、戦国大名という地域国家によって、列島が分裂していた時代なのだ。うーん、そうなんですか・・・。
 今川義元は、「ただ今は、おしなべて自分の力量をもって国の法度(はっと)を申し付け、静謐(せいひつ)することなれば」と、高らかに宣言している。
 紛争当事者の双方が中人(ちゅうにん。いわば仲人)と呼ばれる第三者に問題解決を委託し、中人の調停によって和解するという中世の紛争解決方法を中人制と呼んだ。
 このとき、起請文(きしょうもん)の交換が重要な意味をもつ。起請文は、前書(まえがき)と神文(しんもん。罰文=ばつぶん)からなる。起請文には、花押に血判がすえられることが多い。血判は指先に傷をつけて、血を花押の上に滴(したた)らせる。
 秀吉は、戦国大名間の戦争の本質は、国境紛争にあると理解していた。
国境あたりの国衆は、「両属」(りょうぞく)や「多属」を余儀なくされた。つまり、隣接諸大名に同時に従属することで、自領が戦場になることを避けようとした。
 同じように国境付近の村落は、「半手」(はんて)という知恵をつかった。半手は、「半納」「半所務」(はんしょむ)とも呼ばれ、敵対する大名双方が、国境の村落の中立を認めるもの。だから年貢については、両方の大名に半分ずつ納める。これって映画「七人の侍」を思い出しますよね。百姓はしたたかに生きていたのです。
大名同士でとりかわす外交書状には厳密な作法が存在した。書札礼(しょさつれい)というのは、どのような書式で書状を書くかによって、自分と相手方との政治的、身分的な差異を表現する。
「書止文言」(かきとめもんごん)には
対等な相手に書状を送るとき・・・・、恐々謹言
目上には・・・・・、恐惶謹言
目下には・・・・・、謹言
さらに身分の低い相手には、書止文言はなく、「候也」と書く。
 草書で字体を崩して書くよりも、行書さらには「真」で書いた方が厚礼である。
 もっとも丁重されたのが、相手に直接書状を送らず、その家臣に宛てて書状を送るということ。形式上の宛先は相手の家臣である。こうやって、ひそかに意思が伝達されていた。
 側近だけでも外交交渉が可能でありながら、一門・宿老を起用せざるをえなかった。これは、戦国大名の特徴の一つである。
 「路地馳走」(ろじちそう)とは、領国に達するまでの「安全な」交通路を軍事外交上のさまざまな手段をつかって、確保したどり着いた使者などについて宿舎などの手配をして、本域まで送り届けること。
 戦国大名の外交において、外交官である「取次」は不可欠な存在である。交渉相手に深入りをしてしまうという危険性をもっている。
戦国大名が「外交」していたという指摘に驚かされました。
(2013年8月刊。1700円+税)

2013年11月16日

秀吉の出自と出世伝説


著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書

秀吉の出自は今なお不明。
 『懲毖録』(ちょうひろく。李朝の宰相、柳成竜の著)には、秀吉はもともと中国人で、倭国に流れこんで薪を売って生計を立てていた、とある。秀吉が中国人というのは認められないが、薪売りをしていたという史料は他にもある。
 秀吉の出自が判然としないというのは、同時代に日本に来ていたポルトガル人宣教師にも広く認識されていた。
 秀吉が関白に就任したあと、秀吉の弟と称する若者が登場した。秀吉51歳のときのこと。秀吉は、その若者を捕まえると、直ちに面前で斬首刑に処した。その前、母の大政所に、この若者は知らないと言わせていた。別に、もう一人、妹と称する若い女性がいたが、こちらも斬首された。
 3回以上の結婚歴のある秀吉の母には、別に子どもがいた可能性は高いが、秀吉には兄弟は三人で十分だった。ですから、彼や彼女らは切り捨てられたというわけです。
 秀吉の出自を被差別民だとする有力説もある。秀吉には卓抜した能力と粘り強く辛抱強い、そして上昇志向があった。
 秀吉の指は6本あった。だから、信長から「六ツめ」とあだ名されていた。フロイスの『日本史』にも、秀吉の片手には6本の指があったとされている。
 秀吉は身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。眼が飛び出しており、ヒゲは少なかった。秀吉は、「猿」にたとえられ、また、はげネズミとも言われた。
 秀吉は、フロイスに対して、自信の容姿が良くないことを自覚して述べた。
秀吉は、自分の趣味を諸大名に押しつける性癖があった。それも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響している。
 秀吉は非常に出世欲が高く、ゆえに仕官するための行動を欠かさなかった。実に抜け目のない性格だった。そして、そのための努力を惜しまなかった。
 秀吉の合戦では残酷な仕打ちも珍しくなかった。秀次とその家族の抹殺もかなり異常だった。
 秀吉の実像をつかむことのできるコンパクトにまとまった本です。
(2013年5月刊。900円+税)

2013年10月27日

支倉常長・遣欧使節

著者  太田 尚樹 、 出版  山川出版社

スペインに日本(ハポン)姓の人が800人ほどもいて、それは400年前の仙台藩の支倉常長たちの遣欧使節のヨーロッパ残留組の子孫だという話です。
スペインはセビリア郊外の川岸の町に日本人の子孫が800人ほど住んでいる。それは残留日本人5人の子孫たちだ。400年前、支倉常長一行がここを通過したとき、日本に戻るのを希望しなかった日本人がいた。
 ハポンとは日本のこと。名前にハポンというのをつけているのは、日本との関わりを残すためのもの。本当の名前は別にあったはず。
 「わが家には、ビョウブ、カタナ、ハシ、ワラジという言葉が先祖代々伝わっていた」
 ハポンの人々の多くは、赤ん坊のころ、お尻に蒙古斑が出る。
 ハポン性の人には富豪はいない。無難で、地道な生き方をしていた。漁業や農業、そして最近では公務員、教員、銀行員、医師を輩出している。
 支倉常長が会ったスペイン国王はフェリペ3世(37歳)。6歳のとき、同じ日本(ジパング)から4人の少年たちがスペインの宮殿にあらわれたときにも、立ち会った。
 支倉常長はキリスト教の洗礼を受けた。ただし、主人の伊達政宗は、キリストには関心はなく、ヨーロッパとの通商を考えていた。しかしながら、キリスト教の禁令は厳しさを増していた。
石巻を出発した船には、スペインの船員40人と日本人140人が乗っていた。日本人の多くは交易商人だった。4年後に仙台に帰り着いたのは26人のうち13人。少なくとも8人は日本に帰ってこなかった。
 支倉常長に対する評価は、当時のスペイン側の記録によると、ベタ誉めで、はったりのない、実直な人柄が評価された。
 支倉はスペイン国王やローマ法王の前でも、日本語で堂々と挨拶した。
出発したとき、42歳で、堂々たる腹のすわった人物だったようです。
すごいですね、400年たって、日本人の子孫がスペインにかたまって生活しているとは・・・。
(2013年8月刊。1600円+税)

2013年10月19日

信長の城

著者  千田 嘉博 、 出版  岩波新書

私は岐阜城にも安土城にも、それぞれ2回、現地に足を運びました。
 どちらも小高い山の上にそびえ立つ山城です。岐阜城のほうは、ロープウェーがなければ山頂にある城にたどり着く自信はまるでありません。
 安土城のほうは、麓にある大手門から一直線で上る広い道を歩いていきました。やがて、つづら折になり、頂上には安土城天守閣の土台石が残っています。城跡のすぐ近くには壮麗な天守閣を再現した博物館があります。どちらも一見の価値がある城です。
 天守閣と呼ぶのは俗称で、正しくないそうです。史料用語としては、天守が正しい。閣をつけて呼ぶようになったのは明治よりあとのこと。
 織田信長が桶狭間の戦いに勝利できたのは、今川軍の主力と遭遇せずに、今川義元の本陣3000人と直接戦ったから。今川軍の主力は、信長軍の突入に気がついていなかった。信長は、今川軍よりひとつ北側の黒川筋の谷筋を抜けて、義元本陣を目指してまっしぐらに進軍していった。そのため今川軍の主力との遭遇が避けられた。
 信長の岐阜城をイエズス会の宣教師ルイス・フロイスとロレンソ修道士が訪ね、その報告記が今も活字として残っている。
 ふもとの池には水鳥が飼われていた。これは観賞用であると同時に、夜間に不審な人物が近づくと水鳥が騒いで、その発見を容易にしたため、城では水鳥が好まれていた。
 岐阜城、山上の城は何びとも登城してはならない、おかすべからざる禁令であった。信長は、登城をごくわずかな人に許可しているだけだった。信長は、山城から山麓館に下りてくる途中で、各地からの使者や武士、公家などに会った。これは、ほかの戦国大名と比べて珍しい行動だった。信長は、わざと身分の上下を意識しなくてよい路上での面談を行い、仕事の迅速化と効率化を図る意図があった。信長は、山麓館ではなく、山上の城に家族とともに住んでいた。
 安土城は、築城開始から6年、天主完成から3年、中心部の最終完成からは、わずか9ヶ月という、短命な城だった。
安土城こそは、佐和山城、坂本城の中間地点に位置し、尾張・美濃と京都とを連絡した陸路・水路の要の位置を占めていた。
 信長は、親衛隊を安土の城下に集住させた。しかし、信長の直臣たちが、すべて喜んで信長に従ったわけではなかった。親衛隊のうち民衆で60人、馬廻り衆で60人の計120人が単身赴任だということが判明した。安土城が築城されたあとも、重臣たちの妻子は、それぞれの城に住んでいて、安土城内の武家屋敷には常住どころか、そもそも住んでさえいなかった。一族や重臣たちが安土城に出仕した際に寝泊まりするための屋敷だった。
はじめての近世的城下町だった安土は、過渡的な様相を色濃くもっていた。日頃は、連絡と維持管理のためのわずかな番衆がいるだけで、ひっそりとした生活感のない武家屋敷街だった。
 当時、大手道を進むと、大手道のはるか先の高みに天主がそびえていた。大手道は、信長の権威を人々に印象づける、きわめて強い象徴性を発揮した。
 一族衆や重臣たちは大手道を登って出仕したが、それ以外の多数の直臣たちは、百々橋(どどばし)口から摠見寺をこえて安土城に向かった。
信長の城をその構造から特徴づけようとした説得力のある本です。
(2013年1月刊。840円+税)

2013年8月17日

続・日曜日の歴史学

著者  山本 博文 、 出版  東京堂出版

みみずがのたくっているとしか思えないのが古文書です。それがすらすら読めたら、どんなに楽しいことかと思います。真面目に古文書学を勉強したら、少しは私でも読めるようになるのでしょうが、とてもそんな時間はありません。古文書も読みたいけれど、海外旅行もしてみたい私には、やっぱりフランス語のほうで、もう少し引き続きがんばることにします。
 そんなわけで、古文書の現物(もちろん、そのコピー)を見て、なんと書いてあるのか、そして、それはどんな意味なのかを解説してくれる本は、なんとしても読みたいのです。
 この本は、その期待に背きません。しかも、登場人物は、信長、光秀、秀吉そして家康というのですから、文句のつけようもありません。
 古文書は、「こもんじょ」と読む。
浅井長政が信長に改められ滅亡する寸前の感状が残っています。すごい感謝状です。浅井が組んだ朝倉義景の拠点であった越前の一乗谷(いちじょうだに)の発掘跡に行ったことがあります。戦国時代を偲ぶことのできる貴重な遺跡です。
織田信長の発給した文書も興味深いものがあります。現物のコピーがイメージをふくらませてくれます。信長は天下をとる前、そして天下を取ったあと、文書の内容と形式を変えていることがよく分かります。
 たとえば、仙台の伊達輝宗あての信長の朱印状では、宛所から「謹上」がなくなり、「伊達」が位置が低くなっている。これは、信長の立場が上がって、尊大になっていることを意味している。
 ついに天下人になった信長は、長年の宿老である佐久間信盛父子を追放します。その「折檻状」は有名です。信盛が信長に口答えしたことが許せなかったようです。こんな家臣を置いてはおけないと信長は決断したのでしょう。
著者は、「明智光秀軍法」については、偽書だとしています。江戸時代の軍役例にならっていることが偽書説の根拠となっています。
 著者は、光秀のバック(黒幕)に将軍義昭がいたとは思っていません。光秀は、あくまで単独で信長殺害を決意した、としています。
 そして、なんと、光秀は、このとき67歳だったというのです。「老後の思い出に・・・思い切った」という言葉が記録されていること。信じられませんでした。光秀は、自分の身に危機が迫っていること、それならそれを逆手(さかて)にとって、老後の思い出に一夜でも天下を取りたいと思った、ということです。うむむ、そういうこともあるのでしょうか・・・。
光秀の発給文書についても紹介されています。
 秀頼が秀吉の実の子ではないという説を前に紹介しました(服部英男、『河原の者・非人・秀吉』山川出版社)が、著者はそれは単なる噂か、憶測でしかないとして、排斥しています。いったい、どうなんでしょうか。歴史の謎は深まるばかりです。
(2013年4月刊。1600円+税)

2013年5月25日

真田三代・風雲録

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社

真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

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