弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2016年1月24日

戦国のゲルニカ

(霧山昴)
著者  渡辺 武 、 出版  新日本出版社

 大坂夏の陣で何があったのか、「図屏風」に描かれた絵を詳細に読み解いた本です。すごいです。5071人もの人物が表情豊かに描かれています。「真田丸」の主人公・真田幸村(信繁)も当然のことながら描かれています。
いったい誰がこんな詳細きわまりない絵を描けたのでしょうか。とても想像だけで描いたとは思えません。そして、すべてはオールカラーなのです。あちこちに首をとられた将兵の身体が地面にころがっています。そして、女性が襲われ、人さらいに連れられていっています。まさしく、戦争というものの悲惨さが如実に示されています。
ここには勇壮な合戦絵巻というより、戦争(合戦)の残酷さがよくも描かれています。
大阪城天守閣の元館長によるものですので、その解説はなるほどと思わせます。
5月7日、決戦の日の真田隊は、真田幸村自身をはじめ多くの将兵が家康の本陣を目指して捨て身の突撃を繰り返したため、一時は家康本陣のシンボルたる金扇(きんおうぎ)の大馬印を倒して家康を避難させる事態にまで至った。
幟(のぼり)、旗指物(はたさしもの)、鎧具足(よろいぐそく)などを赤一色で統一した「赤備えの真田隊」の奮戦振りはひときわ目立った。「真田、日本一の兵(つわもの)」と東軍の将兵たちも賛嘆を惜しまなかった(「薩藩旧記」)。真田幸村が越前兵に討ち取られたとき、数えの49歳だった。
豊臣家の馬印が平成びょうたんだというのは、江戸時代も後期の寛政年間(18世紀末)の創作であって、本当は金びょうひとつだった。この「屏風」もそのとおり正確に描かれている。この「屏風」は、合戦の現場を生々しく描いているところに特色がある。
合戦の現場は一人ひとりが必死の殺し合い。敵の首ひとつを取るのも容易なことではなかった。殺すか、殺されるかで、まさしく修羅場だった。
徳川軍の内部でも、各部隊の軍功争いは熾烈だった。そして、各人の高名争いは、さらに切実だった。参戦した将兵のうち、実際に高名をあげられたのは、少数でしかない。それで、敗走する将兵を襲って首を取る「追い首」、武器をもたない非戦闘員の避難民を襲って首を取る「偽首(にせくび)」も横行した。さらには、「味方討ち」さえ起きていた。
この「屏風」には、婦女暴行やら略奪の生々しい状況も描かれている。目立ちにくいところに、ひっそりと描きこまれているのだ。
「真田丸」を楽しみに見ようという人にとっては必読の本であり、「屏風」は必見(私も残念ながらまだ見ていません)だと思いました。
(2015年11月刊。1900円+税)

2016年1月16日

真田丸の謎

(霧山昴)
著者  千田 嘉博 、 出版  NHK出版新書

 大坂の陣では、火縄銃だけでなく、多くの大砲が使われた。徳川方はイギリスから購入した最新式のカルバリン砲などの大砲で鉄壁の大坂城を砲撃した。当時の砲弾はまだ炸裂弾ではないので致命的な打撃を与えることはできなかったが、それでも大坂方を威嚇して戦意をくじく効果は十分にあった。とりあけ、大坂城の北側にある備前島から大坂城天守を目標として撃ち込まれた砲弾は、城内の人々、実質的に豊臣方の総大将であった淀殿を恐怖させることには成功した。
 真田丸の戦いは、大阪冬の陣(1614年)における最大の激戦として知られる。これまで真田丸は南北220メートル、東西180メートル程度とされてきた。しかし、実は、それよりはるかに大きなスケールだった。
真田丸は、単なる砦や馬出しというレベルではなく巨大な要塞だった。 
真田丸は、本体とその北側にある小曲輪(くるわ)によって構成される、二重構造だった。真田丸は、あらゆる敵の攻撃を想定し、どのような状況になっても、真田丸単体で生き残れるように設計されていた。つまり、一個の独立した域を想構の外側に新たに築いた。そんなイメージで捉えるべきものだ。
 真田信繁(幸村)の武名があがったのは、大坂冬の陣における真田丸での活躍があったからで、大坂城に入った段階では、大坂方の中での信頼度は低かったのも当然である。
真田信繁には、孤立無援の「死地」とも言える真田丸において、「敵襲を防ぎきることができる」という確信があったのではないか・・・。
 真田丸は方形で、前面は深さ6~8メートルの水堀、後方(北側)は、深い谷に守られた複雑な地形だった。真田丸は、近づくことさえ難しい、きわめて堅固な砦だった。ここに3000兵が籠もっていた。そこへ井伊直孝、松平忠直、前田利常の軍勢が攻めかかってきたが、彼らは数千人もの被害を出して敗退していった。
 著者は、真田丸が三光神社あたりではなく、明星学園を中心とした位置にあったとしています。もちろん、今は何も残っていません。
 それでも一度、現地に行ってみたいと思います。よく調べてあると感心しました。
(2015年11月刊。780円+税)

2016年1月 9日

真田信繁

(霧山昴)
著者  平山 優 、 出版  角川迸書

 真田幸村についての本格的な研究書だと思いました。真田幸村は昔からマンガ本その他で身近な存在でしたが、この本を読むと知らないことだらけでした。
 大坂冬の陣のとき、家康方の大名家臣には、関ケ原合戦以降、14年間も大規模な戦争が起きていなかったために、実戦経験のないものが多数を占めていた。そのため、戦場での駆け引きや出頭らの指揮の命令に従う要諦など、多くの点で経験に欠け、ややもすると暴走する者が少なくなかった。大名やその家臣たちは、それぞれの立場や思惑をかかえて大きな戦場にのぞんだ。そして、そこで、功績をあげ、自分たちの身上を上昇させていこうと考えていた。ここに、真田丸に攻撃を仕掛けてきた寄せ手たちが、思わぬ不覚をとった背景がある。
 真田丸や惣構に向けて、東軍の情勢は、とりわけ先手衆が功を焦り、面子を競いつつ攻め寄せる事態となった。これに釣られて後方の軍勢も先行を焦って続々と前に出てきてしまい、前田利常ら大将の命令も無視された。これが各軍の指揮系統を麻痺させ、混乱に拍車をかける結果となった。
 真田信繁が守る真田丸とその背後の惣構の連携により、東軍は甚大な打撃を蒙り、敗退した。前田、井伊、越後衆らが大敗を喫し、多大な損害を受けた。
 真田丸の戦闘で大敗を喫したことに、家康は大きな衝撃を受けた。そこで家康は穏やかに真田信繁を調略しようと試みた。真田昌幸・信繁父子は、家康が調略工作に置いて破格の条件を提示し味方につけて難局を打開すると、約束を反古した経緯をそれまで嫌というほど見せつけられてきた。それで、失敗に終わった。
外国人宣教師たちは、大坂冬の陣を徳川方の雅色が悪かった合戦だと認識していた。
大坂城の濠が埋め立てられて無惨な状況になったにもかかわらず、牢人衆たちは大坂を去ろうとせず、小屋掛けして居座り続けていた。そればかりか、全国から、豊臣家に奉公を望むものが方々から流れ込んできて、太閣在世中よりも人数が多いと言われたほどになった。豊臣方は、大坂城下に立札を出し、仕官は受け付けないと告知していたものの、実際には新参者の牢人たちを優遇していたので、彼らは妻子を連れて居座るようになった。冬の陣のときよりも多数の牢人たちが集まり、大坂方の動きは活発化していった。
 大坂方に味方する牢人が増えたのは、冬の陣における徳川方の作戦と、秀頼の主張に正当性が認められていたから・・・。
 牢人たちは、和議によって赦免されても召しかかえてくれる大名はまったくなかったので、大坂を去ることが出来なかった。牢人問題は豊臣方の責任事項であり、その召し放ちこそ和睦時の約束だった。
 家康は豊臣氏を滅ぼす気はまったくなく、あくまで国替えに応じさせて徳川将軍体制下に組み込むことで問題を解決しようと考えていた。そのため、東北、北陸、畿内のみに動員をかけ、西国大名には待機を指示していた。
大坂方には、牢人して時節を待っていただけあって、年齢は経ていても実践経験のある者が非常に多かった。
大坂夏の陣における東軍で目立ったのは、大した理由もないのに軍勢がいきなり崩れ、陣形を乱したばかりか、算を乱して逃げ崩れることになる。これを「味方崩」と呼んだ。味方崩が重大な事態を招いたのは、一部の兵卒が逃げ崩れ、味方の軍勢に逃げ込むことからであった。これは東軍の兵士たちの多くが実戦経験に乏しい者たちで占められていることから起きたこと。
 大坂夏の陣のとき、死戦を覚悟していた越前松平忠直軍の抜け駆けによって、東西両軍が望まない形で開戦することになってしまった。東軍は、兵力こそ15万を数えたというが、各軍勢は大名単位で思いおもいに活動している。家康・秀忠の指示は届きかねる状況だった。
家康は豊臣氏を最初から潰すつもりなどなかったし、大坂の陣が勃発したあとも、なんとか戦争を回避しようと秀頼の説得につとめていた。
家康は、兵糧の欠乏と寒気に悩まされ、戦闘での敗退などで諸大名が徳川から離反することを恐れていた。他方、豊臣方は、玉薬などの欠乏に悩まされ、これ以上籠城戦は困難になりつつあった。このようにして、双方の思惑が一致して、和睦は成立した。このとき、双方で問題となったのは、大坂城に籠城した牢人たちを、どう扱うかという問題だった。
敵方からも称賛された信繁は当時から大いに注目され、5月8日の首実験には多くの武将が見物にやってきた。
このようにして信繁は幸村として、軍記物のなかで大活躍するようになっていった。
 大変新鮮な切り口の幸村についての本です。NHKドラマ「真田丸」の時代考証を担当する著者の語りは明快です。
(2015年10月刊。1800円+税)

2016年1月 5日

帰蝶

(霧山昴)
著者  諸田 玲子 、 出版 PHP研究所

 織田信長の正妻は、明智光秀の従妹であり、斎藤道三の娘だったというのです。知りませんでした。織田信長の正室、つまり正妻です。
帰蝶は、斎藤道三(どうさん)の娘の濃姫(のうひめ)である。これまでの通説によると、本能寺の変のずっと以前に早世したが、離縁されたと考えられていた。ところが、近年そうではなくて慶長17年(1612年)に78歳で亡くなったという記載が見つかった。別の資料にも、信長の一周忌の法要を信長公夫人がとりおこなったと書かれている。
では、帰蝶は本能寺の変に至るときに明智光秀といかに関わっていたのか、そして本能寺の変が起きたあと、いかなる行動に出たのか、誰もが知りたいところです。
そのあたりを小説として、女性の立場でこまやかに丁寧に描いた小説です。
私は安土城には二度のぼったことがあります。やはり織田信長の「天下布武」という発想を知るためには、ぜひ一度は安土城の跡地に立つ必要があると考えました。
広い大手門の坂道をのぼっていき、あとは曲がりくねっています。天守閣を再現した博物館が近くにあって、当時をしのぶことも出来ます。
信長の周囲にいた女性たちが、栄光と恐怖の背中あわせに生きていたことを偲ばせる小説でした。
作家の想像力というのは、本当にたいしたものです。
(2015年10月刊。1700円+税)

2015年12月31日

アジアのなかの戦国大名

(霧山昴)
著者  鹿毛敏夫 、 出版  吉川弘文館

  戦国時代の大名が海外貿易に積極だったことがよく分かる本です。
  周防(すおう)山口に本拠を置く大内氏は、15世紀半ば過ぎ、それまでの対朝鮮交易に主体的に乗り出していった。大内氏は、16世紀半ばの天文7年と天文16年の2度とも、遣明船経営を独占した。
  天文7年(1538年)の遣明船は、大内船三艘で編成されていたが、各船には百数十人が乗り込み、総勢400人をこえる船団だった。
肥後の戦国大名である相良(さがら)氏も遣明船を派遣した。相良晴広は、天文23年(1554年)に、「市木丸」を明に派遣した。このとき、日本からは、銀を持っていった。豊後(ぶんご)の大友氏も遣明船を派遣した。
  これまでの通説では、大内氏が滅亡した天文20年(1551年)をもって勘合貿易が断絶されたとされているが、実は、このように相良、大友、大内ら西日本の地域大名によって遣明船は派遣され続けていた。
  ただし、それは明(中国)側にとっては、密貿易(倭冠船)そのものでもあった。
  すなわち、16世紀に日本の地域大名が派遣していた遣明船は、明政府から日本国王使船として認められたら正式な朝貢貿易船として振る舞い、認められなければ密貿易船として南方海域で私貿易活動を行うというように、裏表を使い分ける二面性を有していた。
  15世紀の遣明船が日本から中国(明)へ運んだ最大の輸出品は硫黄だった。木造帆船に軽自動車54台分の重さの硫黄を積んで東シナ海を横断した。
  宋代の中国では、火薬を兵器として利用することが拡大し、黒色火薬の原料としての硫黄の需要が急増した。11世紀の宋政府は、日本から大量の硫黄を買い付け、軍需物資として硫黄を国家的に管理した。このころの日本では硫黄が、鬼界島(硫黄島)や大分で掘られていた。
  ゴールド(金)ラッシュ、シルバー(銀)ラッシュと同じように、サルファ―(硫黄)ラッシュが出現していた。15世紀から17世紀までのこと。
  カンボジアやシャム(タイ)とも九州の諸大名は取引をしていた。カンボジア国王は、大友氏へ返礼として象を送ろうとしたようです。
  西日本で多くのキリシタン大名が生まれたのも、これらと関係がある。戦国大名で最初に受洗したのは肥前の大村純忠。その後、九州では有馬氏や大友氏、中・四国では宇喜多氏や一条氏、幾内では高山氏。このように、西日本で多くキリシタン大名が生まれている。
 戦国時代の日本の実情について知らないことがたくさんありました。

(2015年9月刊。1700円+税)

2015年11月14日

秀吉研究の最前線

(霧山昴)
著者  日本史史料研究会 、 出版  洋泉社 歴史新書Y

 秀吉についての最新の研究成果がコンパクトにまとめられた新書です。
 五大老・五奉行という呼称は、秀吉の当時は使われておらず、江戸時代に入ってから一般化した。五大老とは、江戸幕府の大老にちなんでつけられたものなので、江戸時代の呼び方。五奉行は、あるときは「年寄」ないし「奉行」と呼ばれていた。
 五大老の日常的かつ本来の職務は領地給与であった。五大老は、あくまで秀吉の代行者にすぎなかった。五奉行の職務は、豊臣家直轄領の統括であった。
そして、五大老が上位で、五奉行が下位であったというのは、安易すぎる結論であって、見直されてしかるべきもの。
 秀吉は、武家出身者として初めて従一位関白に任官した。秀吉は、死ぬまで太政大臣の地位に留まっていた。
秀吉の実父は誰なのか分っていない。実母はなか(のちの大政所)。
刀狩以降も、民衆は丸腰ではなかった。江戸時代の百姓は領主に数倍する鉄砲をもっていた。ただし、百姓から帯刀権が剥奪された。
 清須会議は有名だが、会議というのは明治になって学者が名づけたもの。当時は、「談合」と呼んでいた。このとき、信雄と信孝が争ったのは織田家の家督ではなく、「御名代」であった。
 秀吉は名護屋城における最重要拠点を家康に任せていた。つまり、秀吉は家康を警戒していなかった。
 40代、50代の学者による研究会がまとめていますので、信頼性があります。


(2015年8月刊。950円+税)

2015年11月 3日

戦国武将

(霧山昴)
著者 小和田 哲男  、 出版 中公文庫

  戦国時代というのは、後世の歴史家が命名したのではありません。武田信玄が定めた分国法のなかに、「今は天下が戦国だから」と書かれています。
戦国時代ほど個人の能力や力量が重視された時代はほかにない。それを中世では、器量という言葉で言いあらわしている。
今では、器量よしというと、美人をさす言葉になっていますよね・・・。
上杉家では、感状をたくさんもらっている武将が上座にすわり、感状が少ないと下座にすわることになっていた。感状は、そのまま戦国武将の器量の認定証になっていた。そして、子どもに父ほどの器量がなければ、結局、家禄を没収されてしまった。
戦国時代においては、主君から恩義が得られなければ、その主君のもとから離脱するのは自由だった。器量ある者が人の上に立つという観念が支配的な風潮だった。
合戦をするにあたって、占いやら方角にとらわれず、合理的な考えをする武将がいた。武田信玄とか朝倉孝景が、そうである。
重臣たちが協議したうえで主君の承認を得るという方式が多かった。主君の恣意は認められなかった。戦国大名と重臣の関係は、近世におけるような絶対的な上下の関係ではなく、比較的に対等に近かった。戦国大名における重臣の力は、今日の私たちが想像する以上に強かったのである。
戦国期の足利将軍は、偏諱(へんき)を与えることで、擬制的な親子関係を結ぶというより、戦国大名からの見返りとしての献金の方を重視していた。
男の世界である合戦に、戦国女性は自ら加わっている。夫の死後、城主となって城を守ったという「女城主」も戦国期には珍しくはなかった。
30年前の本がアップトウーデイトに改訂された文庫本です。面白く、すらすらと読めました。

(2015年8月刊。800円+税)

2015年9月26日

豊臣大坂城

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書

 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

2015年9月20日

太閣の巨いなる遺命

(霧山昴)
著者  岩井 三四二 、 出版  講談社

 ときは戦国時代。江戸時代がまだ始まる前のこと。日本人は、東南アジアとの交易を盛んにしていたのです。タイのアユタヤに出かけていきます。
鹿皮はシャムの国の特産品。ほかには、染料のもとになる蘇木(そぼく)、高価な香料の沈香(じんこう)、象牙、絹などが買い付けられ、日本からは刀や塗り物、銅などが持ち込まれる。支払いに一番喜ばれるのは銀だ。
 日本で生み出される大量の銀が、アユタヤとの交易を回している。だから、銀を積んだ朱印船が年に何十艭も日本を出航し、アユタヤばかりでなく南洋の各地をめざして海を渡っている。南蛮船や明国の船も、日本の銀を求めて南洋各地と日本を往反(おうへん)している。
 アユタヤには日本町があり、1000人近くの日本人が住んでいる。チャオプラヤ川に沿って南北に5町、東西の幅が2町ほどの矩形の中にある。アユタヤ産の鹿皮は、革袴や革羽織、馬に乗るときにつける行膳(むかはぎ)、甲冑(かっちゅう)の飾りなどに使われ、日本の武士のあいだで人気が高い。少し前まで鹿皮はルソンから日本に持ち込まれるものが多かったが、いまはアユタヤが最大の産地である。
 イエズス会は、バテレンの元締めであるローマ教皇に忠誠を誓った熱心な信徒の集まりだ。いわば、ローマ教皇の直参馬廻り衆である。デウスの教えを世界に広めるために設立されたのだが、ポルトガルとイスパニアという世界に覇を唱えた強国の力を背景にし、信仰のためには、どんな危険な地域にも入り込む、忠実で優秀な人材を抱え、なおかつ軍勢のように上意下達の仕組みを持っている。
 イエズス会が現にやっていることは、神の教えを広めるという崇高な建前とは裏腹に、ずいぶんと世俗の塵にまみれている。南蛮人が行く先々で、その地の人々に神の福音を説き、人々を手なずけて南蛮船が着く湊をしつらえ、商人が交易できるよう手助けする。
 果ては、ゴアやマカオのように、他国の領土に南蛮人の居留地をつくってしまう。そして、宣教師たちも、当然のように商売をし、ぜいたくも蓄財もするのだ。
 宣教師たちは、京都など宣教に訪れた日本各地では清貧な暮らしをして見せていたが、おのれの領地である長崎では下僕を使い、ポルトガルから運んだ酒や食物を飲み食いするなど、贅沢な暮らしをしていた。
 宣教師になるのに必須であるラテンの言葉や教養を学ぶのは、資力に余裕のある家に生まれなければ出来ないこと。だから、宣教師たちは、もともと貴族か裕福な商人だった者ばかり。貴族だから、召使を身辺におき、贅沢するのは当たり前だと思っている。そこは、日本の位の高い坊主と変わらない。
 しかも、南蛮の貴族は武人の一面も兼ね備えている。戦いとなれば、馬に剰従卒をひきいて出陣する。イエズス会が長﨑を守ろうとして大筒鉄砲を持ち込んだのも、もともと武人でもあった宣教師たちの目からすれば、何の不思議もない。
 手に汗にぎる大海洋冒険小説です。著者のたくましい想像力によって海賊船とのたたかい、そして海上戦闘をしっかり堪能することができました。
(2015年7月刊。1800円+税)

2015年8月22日

織田信長「天下人」の実像

(霧山 昴)
著者  金子 拓 、 出版  講談社現代新書

 織田信長の実像に迫った新書です。
 信長は、秀吉とちがって、全国統一をかかげて権力をふるおうとしていたとは考えられない。信長の行動基準は、あくまでも天下静謐の維持という点にあった。
 信長においては、官位によって彼の「天下」の外にあって好意的・従属的な関係を結んでいる諸大名までをも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
 しかし、将軍推任を受け、信長は、それまでの天下静謐の維持という大義名分を自己否定するかのように、征服欲をむき出しにしたいくさを中国・四国方面に仕掛けるという最終決断をしたのではないか。
 だから、光秀が、それまで一貫していたはずの天下静謐のための戦いという目的から逸脱しつつある信長の動きを頓挫させようとしたのではないか。となると、天下静謐を根底から揺るがせたのは、光秀ではなく信長だったことになる。
 本能寺の変の直後、朝廷は光秀を天下人とみなして、京都の安全保障を要請する使者を遣わすなど、謀叛人扱いをせず、それなりの対応をしている。基本的に朝廷は、自分たちを保護してくれる人間であれば誰でもよく、武家権力者が誰であるべきだという理念を前提として動くことはなかった。
 信長が印章につかった「天下布武」(てんかふぶ)というのは、将軍を中心とする幾内の秩序が回復することを指す。戦国時代の室町将軍において、維持すべき支配領域とは京都中心の「天下」であった。それは、日本全国を意味していない。
 信長は、天下静謐を維持することを自らの使命とした。信長の勢力拡大は、天下静謐に歯向かう敵と戦った結果として生じた。
 信長は官位に対してみずから選択するほどの知識はなかったし、また執着心もなかった。
 信長は積極的に左大臣任官を希望していない。
 譲位についての天皇の頑張な拒否があり、逆に積極的な譲位推進の思惑もない。信長は、どうにかして左大臣を辞退しようとしたものでもない。任官がないことを承知のうえで、信長は天皇の譲位延期を受けいれたはず・・・。
 信長の実像を明らかにしようという、意欲的な内容にあふれた新書です。
(2014年8月刊。880円+税)

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