弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2012年12月24日

秀吉と海賊大名

著者   藤田 達生 、 出版   中公新書 

 秀吉と光秀の関係について新説が紹介されています。
 信長は、対毛利戦争の継続に積極的ではなく、対毛利主戦派の秀吉と宇喜多直家を交渉から除外して和平にもちこもうとしていた。つまり、信長と秀吉は必ずしも一枚岩ではなく、織田政権の西国政策を体現するとみられていた秀吉の地位は意外に脆弱だった。
 光秀のライバル秀吉は、天正8年5月の時点で政治生命の危機に瀕していた。そこで秀吉は、中国方面司令官としての立場を死守するために宇喜多氏と一蓮托生の関係を築いて、なりふり構わずに対毛利戦争をあおり、信長の中国動座を画策した。天正8年の時点で、秀吉は四国の長宗我部氏とも友好関係を築いていた。
 信長は、天正8年8月に島津氏に対して大伴氏との戦闘を停止し、双方が和睦するように命じた(九州停戦令)。このように停戦令は、秀吉が初めてではなく、その前に信長が天下人として発令していた。
 光秀は信長の四国攻撃のあとの自らの処遇について不安を抱いたに違いない。外交官として深く関係した長宗我部氏が敗北することによって、織田政権内における発言力が決定的に低下することは確実だった。それに追い討ちをかけたのが、四国・中国平定後に予想される大規模な国替(くにがえ)だった。光秀が円国への国替を強制される可能性はきわめて高かった。幾内から最前線へ転封は、常に政権中枢にあった光秀にとって、左遷つまり活躍の場をとりあげられることを意味していた。そして、四国遠征のあとは、光秀が没落し、秀吉が織田家中で最有力の重臣となることは確実だった。
 秀吉は、毛利氏に対しては強硬策をとったが、海賊衆には実に辛抱強くソフトに迫っていた。
本能寺の変の直前、信長は四国国分の実務のため、淡路に行こうとしていた。光秀や長宗我部元親にとって理不尽な信長の外交政策の転換は、信長にとっては若い信孝を活躍させるチャンスと位置づけていた。信長は来るべき天下統一後をにらんで、若い一門、近習を有力大名として幾内近国に配置しはじめていた。
 光秀は、将軍相当者だった信長を討滅するため、主君殺しを正当化し、反信長勢力を糾合するためにも、かつての主人である現職将軍・義昭を奉じた。
 毛利氏が秀吉を追撃しなかったのは、秀吉方に内通した重臣をかかえて崩壊寸前の家中の立て直しを優先させたから。長年に及ぶ戦闘で毛利家の家中は相当に消耗しており、これ以上の危機は回避すべきだと大局的判断に立ったのだろう。
 毛利家中は、秀吉の激しい調略によって、一部の重臣が離反したり、態度をあいまいにしており、相当に浮き足だっていた。家臣相互が疑心暗鬼の状態にあり、とても一丸となって秀吉を追撃できる状態にはなかった。
海賊停止令は、海賊の存在そのものを停止するものではなく、賊船行為を厳禁したことに本質がある。中世の海賊にとって、海関を設けること自体は正当な権利であった。
 秀吉と光秀、そして海賊との関係を再認識させられる、面白い刺激的な本でした。
(2012年3月刊。760円+税)

2012年9月23日

河原ノ者、非人、秀吉

著者    服部 英雄 、 出版    山川出版社 

 豊臣秀吉は、子どものころ乞食をしていて、6本指だった。そして、その子、秀頼は実子ではないというショッキングなことが書かれています。いずれも目を疑わせる記述です。
秀吉(藤吉郎)は、養父の筑阿弥(ちくあみ)と折りあいが悪く、家を出て放浪していた。若き日の秀吉は針を売って歩いていた。妻となった「ね」は連雀(れんじゃく)商人の家の出だった。秀吉は、道中、猿芸を続けながら放浪していた。この芸で多量の針を売って生活していた。貧農の子に生まれた秀吉は、ムシ口を携行する生活、つまり乞食生活を経験している。
そして、秀吉は6本指だった。織田信長は6本指の秀吉を「六つ目」と呼んでいた。
秀吉については、古くから私生児説があった。父の縁威は明らかでない。
秀吉は縁者ならすべてを登用したわけではない。苦境に遭ったときの自分を支援したものだけを登用していた。
 秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである。
 秀吉は多くの女性と愛し合うことができたが、一人の子も授からなかった。茶々以外の女性は妊娠できなかった。秀吉とのあいだでは子ができなかったが、別の男性とのあいだでは子を産めた女性が少なくとも3人は確認できる。つまり、男性の側に欠陥があった。俗に秀頼の父は、大野修理(治長)とする見方が多数派である。
 ルイス・フロイスの報告書には、秀吉には子種なく、子どもをつくる体質を欠いているので、その息子は秀吉の子どもではないとしている。
 茶々は、秀吉自身が指示・命令した結果として妊娠し、出産した。決して不義密通の子ではない。茶々が産む子は豊臣の子であり、織田の子なのである。
 茶々の相手となったのは僧侶ないし陰陽師だった。その人格をもたないことが必須の条件だった。人格があると豊臣家の将来に禍根を残す。親権者の登場は避けなければならなかった。
 秀次は、そのことに反発したのではないか。それに対して、ひとりでも秀吉の方針に根本的な疑問をもつものがいるのは許されなかった。だから、、秀次だけでなく、妻子まで全員が殺害された。
700頁もの大作です。秀吉に関するものは、そのうち200頁にもなりません。前半500頁近くは犬追物(いぬおうもの)や河原ノ者などの実情を解明しています。
 犬追物とは、武士が馬に乗って弓で犬を射る芸のことです。犬は弓で射られると死ななくても傷つきます。二度とその犬は使えません。ですから、大量の犬を捕まえるのが職業として成りたっていたようです。
 そして、傷ついた犬はどうしたのか?みんなで犬を食べていたようです。もちろん、武士もです。かつて、中世の日本では、犬をためらいなく食べていたといいます。今も韓国では(恐らく北朝鮮でも)犬を食べているとのことです。でも、犬って、食べる気にはなりませんよね。
(2012年4月刊。2800円+税)

2012年7月21日

素顔の伊達政宗

著者   佐藤 憲一 、 出版   洋泉社歴史新書y

 戦国武将として名高い伊達政宗が大変筆まめな文化人でもあったことを知り、驚嘆してしまいました。なにしろ残っている手紙だけで1260通だというのです。娘にあてた自筆の手紙だけでも328通といいます。すごく筆まめな人だったんですね。ちなみに、織田信長の自筆の手紙は3通、豊臣秀吉は130通、徳川家康は30通です。
 伊達政宗は18歳のときに家督を相続し、翌年、父は戦死してしまうのでした。
 そして、豊臣秀吉の小田原攻めのときに、遅れて駆け付け、あわやというときを迎えたのです。家臣は主戦論と参陣論に分かれて激論をたたかわした末の参陣でした。案に相違して、秀吉からは手厚くもてなされたことは、有名な場面です。
 このあと、政宗は弟の小次郎(秀雄)を手討ちしたことにして逃したのではないかと推測しています。そのとき、母は山形へ出奔し、28年後に政宗と再会した。なんという劇的な再会でしょうか・・・。
秀吉が亡くなったあと、政宗は家康に味方します。ところが、家康は政宗を警戒していたのでした。
 政宗の必要上の動きが家康の警戒心をあおり、心証を悪くした。
 家康にとって、政宗は見方としては頼りになる存在であっても、敵となった場合の恐ろしさは十分に承知していた。そこで、覚書で100万石するとしていたが、脅威になるので反故にして、ほおかむりした。
 伊達政宗は、広く海外にも目を向けていた。家臣の支倉常長を大使とする遣欧使節を派遣した。自分の家臣を自分の建造した船で欧州まで派遣した大名は政宗のほかにいない。これは、政宗がスペイン王国とローマ教皇に対して、当時酢終え印の植民地であったメキシコとの通商と宣教師派遣を要請するために送り出した本格的な外交使節だった。7年に及ぶ海外での旅を経て元和6年(1620年)に使節は仙台に戻ってきた。ところが、当時すでにキリシタン取り締まりが強化されていた。
 1640年3月、常長の嫡男常頼は、切腹を命ぜられ、改易された。
 政宗は和歌をたしなみ、源氏物語などの古典にも親しんでいた。伝統にかなった書法を身につけ、流麗な仮名文字にも定評がある。
 ただし、酒豪であり、酒癖は悪かったようでもあります。
 政宗の知らなかった素顔をのぞいた気分になりました。
(2012年2月刊。890円+税)
記録的な大雨でした。私の住む町は幸いなんともありませんでしたが、周囲は大変でした。なかなか梅雨が明けないため、セミの鳴き声も心なしか弱々しげです。
 筑後川が氾濫したのは昭和28年のことですから、今から60年もの前のことになります。今回はそれに匹敵するほどの大災害でした。自然の脅威をつくづく感じます。
 原発再稼働反対の声が首相官邸を取り巻いているのは頼もしい限りです。人間の無力さをもっとみんなが自覚すべきではないでしょうか・・・。

2012年7月 7日

朝の霧

著者   山本 一力 、 出版   文芸春秋

 いつも、うまい時代小説を書く著者が、いつもの江戸時代ではなく、少しさかのぼって戦国時代を舞台として書きました。
 四国は長宗我部元親が覇者になろうとしていたころを舞台とした時代小説です。
 戦国時代は武田信玄のように、実父を早々に追放して若くして実権を握った武将がいました。兄弟間の殺し合いはありふれていました。おとなしく従っているように見せかけて、実は敵に内通しているという武将はいくらでもいたのです。そこには信義よりも力の世界があったのです。
 長宗我部元親と競争していた武将・波川玄蕃は長宗我部の配下に入って、めきめきと頭角をあらわします。あまりに活躍し目立つと主のほうは面白くありません。いつ自らの地位が脅かされないとも限らないからです。下剋上の世の中なので、従であっても力あるものが上に立つ主(あるじ)を打倒する心配が常にありました。
 とうとう長宗我部は、この波川玄蕃を切り捨てることを決意します。実妹の夫であっても、自らの地位の安泰の方が大切ですから・・・。
 いつものことながら、しっぽり読ませてくれる本でした。
(2012年2月刊。1500円+税)

2012年6月23日

佐土原城

著者   末永 和孝 、 出版   鉱脈社

 この3月は宮崎出張が重なりました。この本は、宮崎空港で買い求めたものです。
 佐土原城には行ったことがないのですが、宮崎は戦国時代、南の島津家と北の大友家とが激しくせりあったところと聞いていましたので、佐土原城の歴史を知りたいと思っていたのでした。
 佐土原城の歴史を語る本に、曾我兄弟の仇討ちの話が出てきたのに驚きました。
佐土原城主だった伊東氏の祖先は藤原不比等の子孫であり、藤原姓を名乗った。
 工藤祐経(すけつね)は、跡目(あとめ)相続をめぐって殺した子どもたちから富士野の巻狩のときに曽我兄弟から討たれてしまった(1193年のこと)。この工藤祐経は、京都にあって管弦や諸芸にすぐれ、公家の文化に通じていたので、源頼朝から側近として重用・厚遇されていた。工藤祐経が武将として認められ、幕府の有力御家人へと成長したのは、平家討伐のために西国へ攻めくだったときだった。
 農後国の佐伯で平家追討に功があった工藤祐経は、鎌倉に帰郷してから文武で秀でた武将として、源頼朝に仕えた。工藤祐経の死後、その子、祐時(すけとき)が、源頼朝を烏帽子(えぼし)親として元服した。やがて伊東姓を名乗り、伊東祐時と称した。祐時も源氏三代の将軍に仕えた。
 伊東祐時の四男・祐明は日向国那珂軍田嶋庄に地頭として下向した。島津氏は、島津忠久が1185年に島津荘の下司職(げすしき。地頭職)に任ぜられたことに始まる。忠久は、平家の政権下で平家の強い影響下にあった南九州に、源頼朝の信任あつい関東御家人として任命された。
 日向国に下向した伊東本家がまず手をつけたのは、本家より先に日向国に下向し、すでに本家と疎遠になっていた支族を束ね、伊東氏の権勢を高めることだった。
 伊東氏は、島津氏の勢力が日向国で強まることを恐れ、常に幕府とつながっていた。
 1578年、大友宗麟は、3万5千の兵を率いて日向に出兵し、延岡市に本陣を置いた。大友軍の総勢は5万、島津義久は弟の家久を佐土原城に置き、日向国諸将の総大将とした。
 島津氏の戦法は、釣り野伏せ(つりのぶせ)、穿抜法(うがちぬけのほう)、繰り詰め(くりつめ)である。うがちぬけのほうは、真一文字に敵に突入して切り抜ける戦法。これは、関ヶ原のたたかいのときに活用されました。敗戦必至のなかで打ち死に覚悟で家康本陣に切り込んで生きのびたのです。
 くりつめは、鉄砲を間断なく射撃する戦法。島津軍は、鉄砲を足軽に持たせず、すべて武将が持っていた。鉄砲を一番撃ち、二番撃ち、三番撃ちに分け、間断なく打ち続ける戦法である。
 戦国が江戸に生き、そして現代にも通じる話って、たくさんありますよね。
(2011年7月刊。1600円+税)

2012年5月26日

黒田如水

著者   小和田 哲男 、 出版   ミネルヴァ書房

 秀吉が天下を取れたのは、官兵衛と半兵衛という二兵衛がいたからだ、と言われることがある。半兵衛とは、竹中半兵衛重治のこと。官兵衛とは黒田官兵衛、義高(よしたか)のこと。
戦国時代、重要な決定は大将一人で決めるのではなく、重臣立ちの会議によって決められていた。
 後詰(ごづめ)とは、後巻(うしろまき)ともいい、味方の城が敵に包囲されたとき、城を攻めている敵に包囲されたとき、城を攻めている敵のさらに外側を大軍で包囲し、城の外と中とで敵を挟み撃ちにしようという戦法であり、そのための援軍のことをいう。
 天正6年(1578年)、織田方だった摂津の荒木村重が有岡城で信長に対して叛旗を翻した。荒木村重の謀反は、三木城の別所長治を相手として戦っている秀吉にとって、まさに青天の霹靂だった。そこで村重を説得すべく黒田如水が最後に送りこまれたところ、有岡城内に幽閉されてしまった。しかし、如水と日頃接していた重臣たちは、如水が村重と同心して織田家を裏切ることは絶対にないと信じていた。
 黒田如水は、1年間も狭い牢に閉じ込められていたため、膝は不自由になり、頭髪はぬけて禿になった。これは一生回復しないままだった。
 織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が「中国大返し」をするとき如水は知恵を働かした。秀吉の軍勢に毛利勢が加わっているように見せかけるため、毛利家の旗20本を借り受け、陣の先に立てていた。
 著者によると、黒田如水はキリシタンだったとのことです。博多の教会堂で、如水追悼の儀式が行われたそうです。知りませんでした。
 また、如水は、戦国武将としては珍しく、殺戮を好まなかったと書かれています。そして、如水は正室だけで、側室をもたなかったという点でも変わっています。
 この本には偽書とされる『武功夜話』の引用もあったりして、歴史書としてはどうなのかなと思うところもありますが、黒田如水の歩みを分かりやすく伝えていました。
(2012年1月刊。3000円+税)

2012年4月 4日

武蔵成田氏

著者   黒田 基樹 、 出版   岩田書院

 『のぼうの城』(和田竜。小学館)を面白く読んだものとして、その史実はどうだったのか関心がありました。
関東攻めの秀吉軍の一員として石田三成指揮下の2万人の軍政にわずか2千で立ち向かい、水攻めにもめげず城を守り抜いたなんて本当なんだろうか、半信半疑でした。『のぼうの城』を読んで3年半たち、ようやく史実を知ることができました。まことに小説家の想像力は偉大なものです。史実を知ったからといって、小説の面白さが消えてなくなるわけではありません。
秀吉が北条氏政・氏直親子らの北条一族の守る小田原城攻めに動員した兵力は総勢24万人といわれている。これに対して北条勢は3万余人。
 天正18年(1590年)3月に小田原攻めの緒戦が始まると、秀吉軍は次々に北条方の城を攻略した。6月には、関東で残る北条方の城は小田原城のほかは忍城だけとなった。秀吉は忍城を攻めるため石田三成を指揮官として、佐竹義宣、宇都宮国綱、多賀谷重綱、水谷勝俊、結城晴朝ら関東の諸将をあわせて2万余の大軍を派遣した。ここに、関東の戦国合戦の最後を飾る忍城攻めが始まった。
忍城は周囲を沼と湿地に囲まれた難攻不落の城郭である。城内には、雑兵・百姓・町人・神官・女子供ら3000あまりが立て籠もった。
 秀吉は忍城の攻略方法として、石田三成に水攻めを指示した。三成の築いた堤防は石田堤と呼ばれ、現在も一部が残っている。秀吉の忍城攻めの方針は、周囲を包囲したうえで水攻めの用意を周到にさせて、開城させようというもので、力攻めは想定していなかった。
 7月1日、北条氏直は秀吉へ降伏し、7月5日に小田原城を出た。これにより、北条方で残ったのは忍城ただ一城のみとなった。そして、秀吉は最後に残った忍城攻めの仕上げに取りかかった。しかし、小田原城まで開城したとあっては、忍城も籠城する理由を失った。
秀吉は7月15日に忍城水攻めを見物し、17日には小田原を出陣して会津に向かう予定だったが、水攻めは出来ていなかった。いくら秀吉が忍城水攻めに執心を燃やしても、あと半月かかるか1ヵ月かかるか分からない状態では待ってはいられなかった。奥州平定がそのために遅れたのでは、忍城水攻めどころではない。秀吉は水攻め見物をあきらめ、北条氏直に忍城の開城を命じた。7月16日、忍城に立て籠もっていた成田勢は一同堂々と出城した。
 石田三成の忍城水攻めはなく、忍城総攻撃もなかった。実際にあったのは、5月1日の忍城の皿尾出張の乗取り合戦だけだった。
 ところで忍城攻めのために石田三成が高額の労賃を呈示して近隣から労務者をかき集めたのは事実でした。
昼は永楽銭60文と米1升を支給する。夜は永楽銭100文と米1升とする。
 この労賃の高さに、15歳前後の若衆から60代の老人まで応募した。そして、6ヶ所に区画して、1部隊が1区画を担当して、一斉に工事をすすめた。こうやって水攻め用堤防14キロは1ヵ月ほどの短期間で完成した。人海戦術が成功したわけである。そのうえで利根川の水を入れて、荒川をせき止めなければならない。それにまた大工事を要した。なーるほど、すごい工事だったようです。
 郷土史をここまで調べあげたことに驚嘆しながら、一気に読みすすめました。
(2012年1月刊。3800円+税)
 日曜日の午後、庭の桜の木が半ば枯れているのに気がつきました。根本のところが虫食い状態になっていたのです。道理で今年は花が少ししか咲かなかったのでした。
 そこで残念ですがノコギリで切りはじめました。幹の部分を切って、枝を切っている最中、誤って左手にノコギリの刃を当ててしまいました。
 そこで、指を口にふくんで、30分ほど、チューリップを眺めながらじっとしていました。ケガをしたとき、下手に消毒しないほうがよい、人間の自然治癒力に任せるべきだという記事を読んだばかりでしたので早速実践してみたのです。おかげで、痛みはありますが、まあ、なんとかなりました。

2012年3月12日

秀吉の朝鮮侵略と民衆、文禄の役(上)

著者   中里 紀元 、 出版   文献出版

 今秋、久しぶりに名護屋城跡に行く予定ですので、改めて秀吉の朝鮮侵略戦争の実態を知ろうと思って読みはじめました。
 上下2巻から成る大作です。長く中学校の歴史の教師として実践してきた著者は韓国の文献もしっかり参照して刻明に朝鮮侵略戦争の推移をたどっています。とても勉強になりました。
 秀吉の朝鮮出兵は中国への大陸侵略の一環であるが、この計画は九州出兵と平行して具体的に進められていった。秀吉は九州にはいるとすぐに、宋(そう)義調(よししげ)に朝鮮王国自身が秀吉へ服従を示すため日本へ入朝するよう要請せよと命じた。
秀吉の朝鮮出兵の意図は日本全国が戦乱に明け暮れた戦国時代に膨大にふくれあがった武将たちの人減らしにもあったという説を読んだことがありますが、秀吉にとって朝鮮そして中国という国は簡単に征服できるという発想だったようです。その国土の広さを全然わかっていなかったのでしょうね、きっと。
 秀吉は、朝鮮について、明への侵攻とは関係なく、日本の領国にすると考えていた。秀吉の腹心の二大名(加藤清正と小西行長)を肥後に置き、朝鮮出兵の基地としての九州治政を重視した。そこで隈本に加藤清正を、宇土と天草に小西行長を置いた。
 天正19年秋、秀吉の子(鶴松)が死ぬとまもなく、秀吉は大陸侵略を決定した。秀吉は大明に入って皇帝となることを決定し、それに同意しない朝鮮をまず征服して秀吉に従わせ、これを先導して大明に進むとした。諸大名は、この計画を知って秀吉が狂ったと思った。しかし、秀吉に向かっては言えず、心の中で感じたままだった。
 秀長は反対し、秀吉に先導させ続けた。千利休も秀長に同調した。
秀吉の言葉に喜んで海外に領国を得たいと思ったのは、加藤清正や鍋島直茂。自分の本領を捨ててまで海外に領国を求めるのを嫌ったのは、家康や毛利輝元。
朝鮮出兵に反対すると時刻の領土を秀吉によって取り上げられ、あるいは国替えされるのを恐れて、多くの大名は出兵への不満・反対の気持ちを抱きながら朝鮮侵攻に参加した。
肥前の名護屋城は、天正19年(1591年)9月に築城が始まり、翌年2月には完成した。わずか5ヵ月という短期間で竣工した。名護屋には、波多三河守親(ちかし)の家臣で松浦党の城があった。
 倭寇の有力な港として、呼子とともに名護屋の港があった。名護屋の地形は、各大名の陣尾の曲輪に、それぞれ直接に船を着けることができたので、日本一の港だと言われた。
 秀吉の名護屋城には五層七重の天守閣があり、本丸、二の丸、三の丸、山里丸の四つの主廊があり、それに五つの出丸がついていた。名護屋町には、京、大坂、堺の大商人たちが集まってきて、すべて望みの品物は町にあふれていた。
 朝鮮侵略軍は、名護屋在陣が12万余人、朝鮮への渡海軍が2倍の20万5千余人。渡海軍の1番から6番は九州勢で8万人、渡海軍の51%。5番、7番、8番隊は中国、四国の大名軍で統計6万5千人、40%。
 このように、朝鮮侵略軍は九州・中国・四国と西日本の武士、とくに農・漁民によって構成されていた。九州・中国の大名は1万名につき600人の動員数を命じられていた。
 西日本の大名にとって、この大動員は大変に重い負担で、苦労があった。武士だけでなく、相当数の農漁民が軍夫として動員された。逃亡しようとした者は、見せしめとして火刑によって処刑された。
 日本軍は戦国時代を経て、新兵器の鉄砲を使用し、それによる城攻めに慣れていた。それに対して、朝鮮軍は矢で対抗していた。そのうえ、朝鮮水軍は、いち早く逃走した。
 小西軍は、奇策、人形や布を振って矢の標的になるものをつくり、その標的で矢をそらして城内への突入に成功した。
 李氏朝鮮の20年間、平和な世の中が続いていたため、民衆は戦時を知らなかった。これに対して日本軍は戦国の世が続いて、その中で生き抜き、鉄砲という新兵器も手に入れ、これを巧みに使うことに慣れ、戦術もいろいろ身につけていた。
 朝鮮王が王都を出ると、それまでの王政に対する不満が爆発して反乱が起き、都と王宮は乱民によって火に包まれた。
 朝鮮の優れた技術者を掠奪し、日本へ連行するよう秀吉自身が各大名に命じた。そうでなくても、朝鮮住民を人狩りして、夫丸(人夫)として酷使した。
 よくぞここまで調べあげたものだな、そう感嘆しながら読みすすめていきました。
(1993年3月刊。15,000円+税)

2012年1月14日

織田信長のマネー改革

著者  武田知弘 、 出版  ソフトバンク新書 

織田信長のやったことを経済学的に解釈していて、なるほど、そういうことだったのかと感嘆させられました。
織田信長は石山本願寺と戦っているとき、鉄甲船をくり出した。新兵器だった。鉄は、当時、貴重品だった。その貴重品を船の全面に貼りつけたのだから、費用は莫大だった。そんなお金を信長は、どこで手に入れていたのか。
信長公は、金、銀、米、銭に不足することがなかった。
寺、城、港が信長を富貴にした。信長は多くの寺社の利権を奪った。
信長は4回も居城を変えたが、そのたびに富貴になった。なぜか?
信長の城は、敵に対しての牽制でもあり、領民に対して威圧と安心を与えるものだった。逆にいうと、安土城は、巨大な税務署でもあった。
信長は、かなり細かい検地を実施した。信長の城つくりは、すなわち街づくりでもあった。街が発展すると、信長にとって戦略物資を調達しやすくなる。そして、市をたてさせ、地子銭はとらないけれど冥加金はとって、収入を増やしていた。
 信長は港を欲した。港によって莫大な関税収入が保障された。
 信長は、中央政権として、日本史上初めて通貨として金銀の使用を促し、金銀と銅銭の価値比率を制定し、体系化した通貨制度をつくった。また、物を量る単位として、「枡」を統一させた。
 信長は道路網整備のために大がかりな掘削工事も行っている。両端には側溝があり、土手もある本格的な道路である。
信長の時代には、人々は安全に、夏は夜間でも安全に旅ができた。
信長は、庶民には減税し、金をもっているものから果敢に税金をとろうとした。それが楽市楽座であり、地子銭の免除、比叡山焼き打ちなのである。
なるほど、なるほど、と思いながら車内で一気に読み終えました。

(2011年7月刊。730円+税)

2011年8月19日

小牧・長久手の戦いの構造

著者  藤田 達生    、 出版  岩田書院 

 天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に勃発した小牧・長久手の戦いは、関が原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」であった。うひゃあ、そうだったんですか・・・・。
 小牧・長久手の戦いでは、織田信長と徳川家康連合軍の陣営は、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政、伊勢・紀伊の一揆勢力などと連携しつつ広大な秀吉包囲網を形成して10ヶ月間にわたって戦争を遂行した。
羽柴秀吉は本能寺の変の起こる直前は備中高松城(岡山市)を攻めていた。このとき、秀吉は毛利氏との講和を結び、急いで京都へ取って返した(中国大返し)。なぜ、毛利氏は秀吉からの講和の申し入れに即座に応じたのか。それは、重臣層が離反していて毛利氏は一丸となって戦える状況になく、弱体化していたからである。
 なーるほど、そういうことだったのですね。毛利氏は、長年に及ぶ戦闘で相当に消耗しておりこれ以上の危機は回避すべきであると対極的に判断していた。秀吉にしても今後の信長の西国政策を考慮すると、有力水軍を従え北九州も影響力の毛利氏を滅亡させてしまうのは、水力軍の劣る織田方とって得策ではないと判断したと思われる。
 小牧・長久手の戦いは、小牧・長くてエリアに限定された局地戦ではなく、広範囲にわたる大規模戦役であった。長久手の戦いによる敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいたことがうかがえる。
 信雄・家康は早期に上洛して秀吉を京都から追い払い、天下を取って京都に正当な中央政権を打ち立てることを目ざしていた。それに対して、秀吉の究極的な攻撃目標は家康の領国である三河・遠江への総攻撃であった。
小牧・長久手の戦いは、天正12年3月の羽柴秀吉と織田信雄の戦い、4月から6月にかけての秀吉と家康の戦い、それ以降11月までの和戦両方を見こした戦いという三段階に分けることができる。この全時期を通じて、両陣営とも周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化を積極的に行っていた。全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、全国を二分する戦争へと拡大することとなった。
 長久手での戦いが徳川氏にとって、華々しい勝利であったことは事実である。しかし、結果的に人質(養子)を出すことになったのは、ここで勝利した信雄・家康方である。この戦いで両者の攻防が終わったのではない。
 確かに秀吉は尾張国では優勢だった。しかし、たとえば本願寺・長宗我部氏が敵方となって秀吉領国まで攻勢に出たとき、その攻勢先に兵力をさかねばならず、そう考えると予断を許さない状況であったと言える。つまり、これまでの戦いとは違って、この戦いは全国的な大規模戦争となったため、たとえ個別に優勢であっても戦争終結までいつ情勢が激変するか分からないことになったのである。
 家康は小牧合戦後、すばやく自覚的かつ一方的に人質を秀吉に出した。なぜか?信雄が戦列を離れた直後の局面で、単独で秀吉に対抗するのは困難だと判断したのが第一の理由だろう。
尾張国での信雄、家康と秀吉の直接退治は、兵力的な差があり、家康から先制する攻撃はなかった。対する秀吉も、大きな被害を伴う直接対決を避けながらの攻略が中心だった。その結果、両陣営は長期対峙することになった。
そのとき、この状態を打破すべく用いた戦術が、周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化であった。これは両陣営の外交活動は、まさに目に見えない攻撃となった。超陣営とも、このような戦術を大々的に実施した結果、この戦いは尾張、美濃両国に集まった当事者だけでなく、東は関東から西は四国、中国まで、幅広い地域に直接的に影響を与えることになった。その結果、全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、さらには、この戦いのあと、天下を取った秀吉の政権それ自体にも組み込まれていくことになった。つまり、この戦いは、全国を二分する戦争へと拡大した結果、豊臣政権にとっての「天下分け目の戦い」へと発展していったのである。
小牧・長久手の戦いを学者の皆さんがこれほど本格的に研究しているなんて、驚いてしまいました。学者ってすごいですね。とりわけ、秀吉や家康が書いた書状を解析するところなんて、私からすると神業(かみわざ)に思えてなりません。
(2006年4月刊。8900円+税)

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