弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2013年12月31日

甲斐姫物語


著者  山名 美和子 、 出版  鳳書院

今から5年前、『のぼうの城』(和田竜。小学館)を読んだとき、これって完全にフィクションだと思いました。話が面白すぎたからです。ところが、実は、歴史的に有名な攻防戦のフィクションとして再現したものだと知って腰が抜けるほど、驚いてしまいました。
 『のぼうの城』の巻末の参考文献として、『行田市史』や『成田記』など、たくさんの本が並んでいることからも、単なるフィクションではなく、一定の史実にもとづいた本だということが分かります。そして、この本は、『のぼうの城』よりも、ぐっと味わい深いものがあります。
 なにしろ、主人公は、城主の娘、そして、その跡取りとして武芸にも優れている若き女性なのです。これで話が面白くないわけがありません。
 忍(おし)城をわずか300人ほどで守る。敵は秀吉軍。石田三成を大将とする3万人の軍勢。守れるはずがありません。ところが、地の利を得て、城下の百姓のたすけもあって、ついに守り通すのです。
 ここらは『のぼうの城』と同じで、知略を尽くすのです。ちょっと違うのは籠城する将兵の仲間割れをいかに防ぐかという難局を乗り切ったところです。戦国時代の戦いで活用されたのが、この仲間割れ作戦でした。武将同士に不和があることを聞きつけると、そこに乗じて餌をちらつかせて寝返りを誘うのです。常套手段でした。それにしても、小田原城に立てこもった北条勢が陥落したあとまで、ちっぽけな忍城を守り抜いたのですから、すごいものです。これは史実なのです。
 石田三成の「水攻め」にあっても陥落しなかったのでした。そして、甲斐姫は落城後、蒲生(がもう)氏郷(うじさと)の配下になります。そして、ついには秀吉の下に召されていくのでした。
歴史的な事実と、どの程度あっているのかは、恥ずかしながら知りませんが、物語としてとてもよくできていると感嘆しつつ、二日間で読み通しました。著者略歴によると、たくさん歴史書をものにしておられることを知りました。
 軽やかで、巧みな心理描写に、感情移入がスムーズに出来て、すっと読み通すことができました。ありがとうございます。
(2013年10月刊。1600円+税)

2013年12月21日

戦国大名の「外交」


著者  丸島 和洋 、 出版  講談社選書メチエ

外交というと、国家間の交渉というイメージですよね。戦国大名が「外交」していたというのは、ちょっと変ではないですか・・・。でも、著者は変ではないと言います。
戦国大名は、一つの「国家」だった。戦国時代は、日本という国の統合力が弱まり、戦国大名という地域国家によって、列島が分裂していた時代なのだ。うーん、そうなんですか・・・。
 今川義元は、「ただ今は、おしなべて自分の力量をもって国の法度(はっと)を申し付け、静謐(せいひつ)することなれば」と、高らかに宣言している。
 紛争当事者の双方が中人(ちゅうにん。いわば仲人)と呼ばれる第三者に問題解決を委託し、中人の調停によって和解するという中世の紛争解決方法を中人制と呼んだ。
 このとき、起請文(きしょうもん)の交換が重要な意味をもつ。起請文は、前書(まえがき)と神文(しんもん。罰文=ばつぶん)からなる。起請文には、花押に血判がすえられることが多い。血判は指先に傷をつけて、血を花押の上に滴(したた)らせる。
 秀吉は、戦国大名間の戦争の本質は、国境紛争にあると理解していた。
国境あたりの国衆は、「両属」(りょうぞく)や「多属」を余儀なくされた。つまり、隣接諸大名に同時に従属することで、自領が戦場になることを避けようとした。
 同じように国境付近の村落は、「半手」(はんて)という知恵をつかった。半手は、「半納」「半所務」(はんしょむ)とも呼ばれ、敵対する大名双方が、国境の村落の中立を認めるもの。だから年貢については、両方の大名に半分ずつ納める。これって映画「七人の侍」を思い出しますよね。百姓はしたたかに生きていたのです。
大名同士でとりかわす外交書状には厳密な作法が存在した。書札礼(しょさつれい)というのは、どのような書式で書状を書くかによって、自分と相手方との政治的、身分的な差異を表現する。
「書止文言」(かきとめもんごん)には
対等な相手に書状を送るとき・・・・、恐々謹言
目上には・・・・・、恐惶謹言
目下には・・・・・、謹言
さらに身分の低い相手には、書止文言はなく、「候也」と書く。
 草書で字体を崩して書くよりも、行書さらには「真」で書いた方が厚礼である。
 もっとも丁重されたのが、相手に直接書状を送らず、その家臣に宛てて書状を送るということ。形式上の宛先は相手の家臣である。こうやって、ひそかに意思が伝達されていた。
 側近だけでも外交交渉が可能でありながら、一門・宿老を起用せざるをえなかった。これは、戦国大名の特徴の一つである。
 「路地馳走」(ろじちそう)とは、領国に達するまでの「安全な」交通路を軍事外交上のさまざまな手段をつかって、確保したどり着いた使者などについて宿舎などの手配をして、本域まで送り届けること。
 戦国大名の外交において、外交官である「取次」は不可欠な存在である。交渉相手に深入りをしてしまうという危険性をもっている。
戦国大名が「外交」していたという指摘に驚かされました。
(2013年8月刊。1700円+税)

2013年11月16日

秀吉の出自と出世伝説


著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書

秀吉の出自は今なお不明。
 『懲毖録』(ちょうひろく。李朝の宰相、柳成竜の著)には、秀吉はもともと中国人で、倭国に流れこんで薪を売って生計を立てていた、とある。秀吉が中国人というのは認められないが、薪売りをしていたという史料は他にもある。
 秀吉の出自が判然としないというのは、同時代に日本に来ていたポルトガル人宣教師にも広く認識されていた。
 秀吉が関白に就任したあと、秀吉の弟と称する若者が登場した。秀吉51歳のときのこと。秀吉は、その若者を捕まえると、直ちに面前で斬首刑に処した。その前、母の大政所に、この若者は知らないと言わせていた。別に、もう一人、妹と称する若い女性がいたが、こちらも斬首された。
 3回以上の結婚歴のある秀吉の母には、別に子どもがいた可能性は高いが、秀吉には兄弟は三人で十分だった。ですから、彼や彼女らは切り捨てられたというわけです。
 秀吉の出自を被差別民だとする有力説もある。秀吉には卓抜した能力と粘り強く辛抱強い、そして上昇志向があった。
 秀吉の指は6本あった。だから、信長から「六ツめ」とあだ名されていた。フロイスの『日本史』にも、秀吉の片手には6本の指があったとされている。
 秀吉は身長が低く、醜悪な容貌の持ち主だった。眼が飛び出しており、ヒゲは少なかった。秀吉は、「猿」にたとえられ、また、はげネズミとも言われた。
 秀吉は、フロイスに対して、自信の容姿が良くないことを自覚して述べた。
秀吉は、自分の趣味を諸大名に押しつける性癖があった。それも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響している。
 秀吉は非常に出世欲が高く、ゆえに仕官するための行動を欠かさなかった。実に抜け目のない性格だった。そして、そのための努力を惜しまなかった。
 秀吉の合戦では残酷な仕打ちも珍しくなかった。秀次とその家族の抹殺もかなり異常だった。
 秀吉の実像をつかむことのできるコンパクトにまとまった本です。
(2013年5月刊。900円+税)

2013年10月27日

支倉常長・遣欧使節

著者  太田 尚樹 、 出版  山川出版社

スペインに日本(ハポン)姓の人が800人ほどもいて、それは400年前の仙台藩の支倉常長たちの遣欧使節のヨーロッパ残留組の子孫だという話です。
スペインはセビリア郊外の川岸の町に日本人の子孫が800人ほど住んでいる。それは残留日本人5人の子孫たちだ。400年前、支倉常長一行がここを通過したとき、日本に戻るのを希望しなかった日本人がいた。
 ハポンとは日本のこと。名前にハポンというのをつけているのは、日本との関わりを残すためのもの。本当の名前は別にあったはず。
 「わが家には、ビョウブ、カタナ、ハシ、ワラジという言葉が先祖代々伝わっていた」
 ハポンの人々の多くは、赤ん坊のころ、お尻に蒙古斑が出る。
 ハポン性の人には富豪はいない。無難で、地道な生き方をしていた。漁業や農業、そして最近では公務員、教員、銀行員、医師を輩出している。
 支倉常長が会ったスペイン国王はフェリペ3世(37歳)。6歳のとき、同じ日本(ジパング)から4人の少年たちがスペインの宮殿にあらわれたときにも、立ち会った。
 支倉常長はキリスト教の洗礼を受けた。ただし、主人の伊達政宗は、キリストには関心はなく、ヨーロッパとの通商を考えていた。しかしながら、キリスト教の禁令は厳しさを増していた。
石巻を出発した船には、スペインの船員40人と日本人140人が乗っていた。日本人の多くは交易商人だった。4年後に仙台に帰り着いたのは26人のうち13人。少なくとも8人は日本に帰ってこなかった。
 支倉常長に対する評価は、当時のスペイン側の記録によると、ベタ誉めで、はったりのない、実直な人柄が評価された。
 支倉はスペイン国王やローマ法王の前でも、日本語で堂々と挨拶した。
出発したとき、42歳で、堂々たる腹のすわった人物だったようです。
すごいですね、400年たって、日本人の子孫がスペインにかたまって生活しているとは・・・。
(2013年8月刊。1600円+税)

2013年10月19日

信長の城

著者  千田 嘉博 、 出版  岩波新書

私は岐阜城にも安土城にも、それぞれ2回、現地に足を運びました。
 どちらも小高い山の上にそびえ立つ山城です。岐阜城のほうは、ロープウェーがなければ山頂にある城にたどり着く自信はまるでありません。
 安土城のほうは、麓にある大手門から一直線で上る広い道を歩いていきました。やがて、つづら折になり、頂上には安土城天守閣の土台石が残っています。城跡のすぐ近くには壮麗な天守閣を再現した博物館があります。どちらも一見の価値がある城です。
 天守閣と呼ぶのは俗称で、正しくないそうです。史料用語としては、天守が正しい。閣をつけて呼ぶようになったのは明治よりあとのこと。
 織田信長が桶狭間の戦いに勝利できたのは、今川軍の主力と遭遇せずに、今川義元の本陣3000人と直接戦ったから。今川軍の主力は、信長軍の突入に気がついていなかった。信長は、今川軍よりひとつ北側の黒川筋の谷筋を抜けて、義元本陣を目指してまっしぐらに進軍していった。そのため今川軍の主力との遭遇が避けられた。
 信長の岐阜城をイエズス会の宣教師ルイス・フロイスとロレンソ修道士が訪ね、その報告記が今も活字として残っている。
 ふもとの池には水鳥が飼われていた。これは観賞用であると同時に、夜間に不審な人物が近づくと水鳥が騒いで、その発見を容易にしたため、城では水鳥が好まれていた。
 岐阜城、山上の城は何びとも登城してはならない、おかすべからざる禁令であった。信長は、登城をごくわずかな人に許可しているだけだった。信長は、山城から山麓館に下りてくる途中で、各地からの使者や武士、公家などに会った。これは、ほかの戦国大名と比べて珍しい行動だった。信長は、わざと身分の上下を意識しなくてよい路上での面談を行い、仕事の迅速化と効率化を図る意図があった。信長は、山麓館ではなく、山上の城に家族とともに住んでいた。
 安土城は、築城開始から6年、天主完成から3年、中心部の最終完成からは、わずか9ヶ月という、短命な城だった。
安土城こそは、佐和山城、坂本城の中間地点に位置し、尾張・美濃と京都とを連絡した陸路・水路の要の位置を占めていた。
 信長は、親衛隊を安土の城下に集住させた。しかし、信長の直臣たちが、すべて喜んで信長に従ったわけではなかった。親衛隊のうち民衆で60人、馬廻り衆で60人の計120人が単身赴任だということが判明した。安土城が築城されたあとも、重臣たちの妻子は、それぞれの城に住んでいて、安土城内の武家屋敷には常住どころか、そもそも住んでさえいなかった。一族や重臣たちが安土城に出仕した際に寝泊まりするための屋敷だった。
はじめての近世的城下町だった安土は、過渡的な様相を色濃くもっていた。日頃は、連絡と維持管理のためのわずかな番衆がいるだけで、ひっそりとした生活感のない武家屋敷街だった。
 当時、大手道を進むと、大手道のはるか先の高みに天主がそびえていた。大手道は、信長の権威を人々に印象づける、きわめて強い象徴性を発揮した。
 一族衆や重臣たちは大手道を登って出仕したが、それ以外の多数の直臣たちは、百々橋(どどばし)口から摠見寺をこえて安土城に向かった。
信長の城をその構造から特徴づけようとした説得力のある本です。
(2013年1月刊。840円+税)

2013年8月17日

続・日曜日の歴史学

著者  山本 博文 、 出版  東京堂出版

みみずがのたくっているとしか思えないのが古文書です。それがすらすら読めたら、どんなに楽しいことかと思います。真面目に古文書学を勉強したら、少しは私でも読めるようになるのでしょうが、とてもそんな時間はありません。古文書も読みたいけれど、海外旅行もしてみたい私には、やっぱりフランス語のほうで、もう少し引き続きがんばることにします。
 そんなわけで、古文書の現物(もちろん、そのコピー)を見て、なんと書いてあるのか、そして、それはどんな意味なのかを解説してくれる本は、なんとしても読みたいのです。
 この本は、その期待に背きません。しかも、登場人物は、信長、光秀、秀吉そして家康というのですから、文句のつけようもありません。
 古文書は、「こもんじょ」と読む。
浅井長政が信長に改められ滅亡する寸前の感状が残っています。すごい感謝状です。浅井が組んだ朝倉義景の拠点であった越前の一乗谷(いちじょうだに)の発掘跡に行ったことがあります。戦国時代を偲ぶことのできる貴重な遺跡です。
織田信長の発給した文書も興味深いものがあります。現物のコピーがイメージをふくらませてくれます。信長は天下をとる前、そして天下を取ったあと、文書の内容と形式を変えていることがよく分かります。
 たとえば、仙台の伊達輝宗あての信長の朱印状では、宛所から「謹上」がなくなり、「伊達」が位置が低くなっている。これは、信長の立場が上がって、尊大になっていることを意味している。
 ついに天下人になった信長は、長年の宿老である佐久間信盛父子を追放します。その「折檻状」は有名です。信盛が信長に口答えしたことが許せなかったようです。こんな家臣を置いてはおけないと信長は決断したのでしょう。
著者は、「明智光秀軍法」については、偽書だとしています。江戸時代の軍役例にならっていることが偽書説の根拠となっています。
 著者は、光秀のバック(黒幕)に将軍義昭がいたとは思っていません。光秀は、あくまで単独で信長殺害を決意した、としています。
 そして、なんと、光秀は、このとき67歳だったというのです。「老後の思い出に・・・思い切った」という言葉が記録されていること。信じられませんでした。光秀は、自分の身に危機が迫っていること、それならそれを逆手(さかて)にとって、老後の思い出に一夜でも天下を取りたいと思った、ということです。うむむ、そういうこともあるのでしょうか・・・。
光秀の発給文書についても紹介されています。
 秀頼が秀吉の実の子ではないという説を前に紹介しました(服部英男、『河原の者・非人・秀吉』山川出版社)が、著者はそれは単なる噂か、憶測でしかないとして、排斥しています。いったい、どうなんでしょうか。歴史の謎は深まるばかりです。
(2013年4月刊。1600円+税)

2013年5月25日

真田三代・風雲録

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社

真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

2013年4月 7日

伊東マンショ

著者  マンショを語る会 、 出版  鉱脈社

宮崎で生まれた少年が、戦国時代にはるばるスペインそしてローマに渡って教皇に面会したのでした。その天正少年遣欧使節団の首席をつとめたのが伊東マンショです。昨年は、伊東マンショが長崎で亡くなって400年という記念の年でした。
 慶応17年(1612年)11月に43歳で亡くなったのでした。
 マンショは、今の西都市で生まれました。日向国を治めていた伊東氏の重臣の子どもです。ところが、日向の伊東氏は南に薩摩の島津氏、北に豊後の大友氏にはさまれ、島津軍に攻めこまれて大友を頼って落ちのびていったのでした。そして、頼みの大友軍が島津軍に大敗してしまったのです。
 天正10年(1582年)2月、遣欧少年使節は長崎を出発した。首席の伊東マンショ、干々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチーノの4人。いずれも13か14歳の少年たち。引率者はヴァリヤーノら3人。随員2人。この9人がポルトガル商人の帆船でマカオに向かった。マカオに10ヵ月間滞在して、ラテン語、ローマ字の学習、何より楽器演奏に励んだ。
 ポルトガル領のインド・ゴアについたのは、長崎を出て1年9ヵ月後。そのあと、アフリカ南端の喜望峰を通過して、セントヘレナ島に上陸します。200年後にナポレオンが幽閉された島です。
 ポルトガルのリスボンに着いたのは長崎を出て2年半後の1584年(天正12年)8月のこと。10月にマドリードに入り、スペイン国王フェリーペ2世と会見。使節一行は着物姿。日本語で挨拶。大友・有島・大村の三大名の書状を、同行した日本人修道士が読みあげた。
 1585年(天正13年)3月、ローマで法王グレゴリオ13世の謁見式に参加した。総勢2000人の大行列だったというのですから、大変な見物でしたね。
 このとき、日本から織田信長の「安土城屏風絵」も進呈したようです。残念なことに紛失して、所在が分からなくなっているそうです。
 4人の少年使節の熱狂的な報道が当時の新聞に絵入りで報道されていたというのです。金モールの洋装のりりしい青年4人の絵が載っています。
 ところが、天正18年(1590年)7月、4人が8年5ヵ月後に日本に戻ったとき、日本はすっかり変わっていたのでした。
 それでも、少年たちは豊臣秀吉に京都の聚楽第で面会しています。
 マンショたちは、印刷機を持ち帰ってきました。ローマ字による本の印刷もすすみました。ところが、キリシタン禁教となり、苦難のなかでマンショは病死してしまったのでした。
 ところが、マンショの死んだ慶長17年(1612年)は、徳川幕府のキリシタン弾圧が強化された年だったのです。残酷な拷問を受けなかったのが、まだ幸いだったかもしれません。
中浦ジュリアンは1633年に穴吊りという過酷な刑で処刑されました。64歳でした。原マルチーノは、マカオに流され、そこで1629年に病死しました。
 島原の乱が起きたのは、その何年か後の1637年のことです。
(2012年8月刊。619円+税)

2013年3月11日

織田信長

著者  池上 裕子 、 出版  吉川弘文館

織田信長研究の最新到達点を明らかにした本です。といっても、それほど目新しい内容があるわけでもありません。
 信長は美濃を平定して上洛の条件がととのったとき、「天下布武」の印判を用いはじめた。永禄12年(1569年)、元亀元年(1570年)のころ。この「天下」は、日本全国を意味するものではない。京都に隣接する諸国と五幾内のこと。
 元亀3年(1572年)9月、信長は比叡山焼討ちを敢行した。山下の坂本から根本中堂をはじめとする山上へと放火・殺戮を尽くした。3,4千人は伐り捨てたという。
 この比叡山焼討ちは、古い体制を象徴する宗教勢力を否定するという目的のために破壊・殺戮したのではない。信長に味方せず、敵方を利して、信長を窮地に陥れたから、敵を徹底的に破壊する信長流の報復戦をした。もちろん、そこには計算があった。天皇と都の鎮護を担って公武の手厚い保護を受け、信仰の対象でもある比叡山でさえ容赦なく攻め滅ぼすというメッセージである。これを見て、わが身の存続をひたすら願う天皇・公家らは信長の機嫌を損ねないように努めるしかないと考えた。
 信長は比叡山を焼討ちし、本願寺と戦い、寺院勢力を自己のものに服属させようとした。しかし、仏教を否定したわけではない。
天正3年(1575年)、信長は積極的に朝廷官位の中に身をおく道を選んだ。11月4日、昇殿して徒三位権大納言に叙任され、7日には右大将に任じられた。かつて、源頼朝も武家政権の樹立にあたって権大納言と右大将に任じられている。すでに指摘されていることだが、信長はそれにならったと思われる。
 信長は天皇・朝廷を否定せず、それから官位に叙任される形をとり、天皇・朝廷を支えてきた公家寺社に新たに知行地を与えて、その経済基盤を保障する政策をとった。
 信長は朝廷を否定しなかった。天皇・公家も寺社関係者も信長に願いはするが、信長の機嫌を損ねないように気配りをかかさないし、天下の構成要素になっている。彼らは信長にとって何の障害にも不利益にもならないどころか、利用価値があった。信長は彼らを温存し、利用して天下静謐を実現しようとした。彼らを否定して、あるいは彼らから完全に独立して政権を樹立できるとは考えていなかった。
 信長の築いた安土城の最上階の七重目(6階)は、三間四方の狭い空間であるが、徳のある理想的な皇帝・学問の世界を代表する孔門十哲、知徳を備えながら世俗の利益・名誉を求めない賢人、これらをみずからの居所の最上階に配し、聖なる空間とした。信長の王権構想は、日本と天皇とを超えんとするところにあった。
 信長は中国を強く意識し、中国的世界をとりこみつくろうことで、天皇と将軍とは異なる地平に立つことを示そうとした。
 信長は天皇を安土に行幸させ、この御幸の間に迎えようとした。それが信長の居所である天主よりずっと低い所に建てられたことに意味がある。平地の少ない山に天主を頂点にヒエラルヒを明示する目的でもって築かれた安土城は、天皇にも天主を仰ぎ見せようとしたもの。
 信長の本心では、実質的に自己を天皇の上に置いていた。信長は、安土城と城下町を描かせた屏風を、見たがる天皇の求めには応じずに、宣教師ヴァリニャーノに与えた。自らの偉業をヨーロッパ世界に知らしめたいと考えたのだ。
 私と同じ団塊世代の著者の手になる本です。信長の全体像をコンパクトに知ることができる本です。
(2012年12月刊。2300円+税)

2013年2月 1日

秀吉の朝鮮侵略と民衆

著者  北島万次 、 出版  岩波新書

 秀吉の朝鮮侵略は、1592年(天正20年)から、1598年(慶長3年)まで、前後7年にわたった。秀吉政権は、家臣や諸大名の目を海外征服にまで向けさせる果てしなき戦争体制によってのみ維持・強化しえた。
 その海外制覇の野望は1587年(天正15年)の九州平定直後に具体化される。
 加藤清正が豆満江を渡ってオランカイ地域に進入した目的は、オランカイから明へ入るルートを探ることにあった。しかし、オランカイは広く、のち清朝を興す女真部族が割拠し、耕地は雑穀遅滞であって、兵糧が取られる見込みはないとみて、清正は断念した。
 1593年、平壌の戦いと幸州の戦いにおける日本軍の敗北、碧蹄館の戦いにおける明軍の敗北、これによって日本と明の双方から和議の気運がもちあがった。
 1593年5月、石田三成・小西行長らに付き添われて名護屋に着岸した謝用梓と除一貫は明の皇帝から任命されてもいない偽使節だった。彼らは、諜報機関の一員(スパイ)だった。
 そして、小西行長は朝鮮にもどって、明軍の沈惟敬とはかって行長の家臣である内藤如安を秀吉の降伏使節に仕立て、明皇帝のもとに派遣することにした。1594年12月、内藤如安は北京に到り、明皇帝の朝見を受けた。そして、明皇帝は秀吉を日本国王に冊封するとした。
 1596年、小西行長は秀吉に対して、加藤清正が和議を妨害したと讒訴した。
 1596年9月、秀吉は大坂城で明皇帝の使者と対面した。そのとき、明使は秀吉に拝跪を求めたが、秀吉は膝間に瘡ありと称して拝跪しなかった。そのうえで、明使は日本軍の朝鮮完全撤退を求めたので、秀吉は激怒し、これで日明講和交渉は破綻した。
 第一次朝鮮侵略は明征服を目指したが、その野望は挫折した。しかし、動員した諸大名には恩賞を与えねばならない。そこで、秀吉は朝鮮南四道奪取を目指した。
 1597年12月の蔚山倭城を明軍が攻撃するにあたって、呂余文という名前の降倭を偵察としてつかった。呂余文は剃髪し、日本兵に変装し、蔚山に潜入した。
  さらに、清正の家臣であった降倭の岡本越後守(沙也可)と宇喜多秀家の家臣であった降倭の田原七左衛門が明軍の勧告状を手にして加藤清正と面談した。
 日本の将兵が明と朝鮮軍の捕虜となったばかりか、積極的に抗日の戦いに加わっていたとは、いささか驚きでした。
 降倭とは、秀吉の朝鮮侵略のとき、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人をいう。1593年には、降倭を疑いの目で見ることが多かった。1594年から降倭のうち悪賢く制しがたいもの以外は殺さず、降倭それぞれが習得している軍事技術を伝習させる方向に重点が置かれるようになった。そして、給料を与えて射撃や刀槍の術などを伝習させた。また、剣銃の鋳造などにもあたらせた。さらに、降倭を間諜として利用することもあった。
 要叱其(よしち)という降倭は軍官(将校)となり、日本軍に復帰する意思は毛頭なかった。降倭は、日本軍との戦闘のみならず、女真族との対決にも動員された。
 降倭になった者の動機には、日本軍の大将の性格が悪く、課せられた役儀が重く厳しいからというものがある。兵卒に課せられた際限なき築城と普譜、その反対に大将は茶の湯や連歌・けまり。これが兵卒を降倭に走らせる引き金となった。
 特定の従順な降倭をとり立て、その降倭に降倭全体を束ねさせた。しかし、降倭内の対立があり、結束したわけではなかった。それでも、配下を率いて投降し、定住する降倭の部将もいた。沙也可は金忠善となった。さらに、金向義という武将もいる。本拠をつくって定住し、妻子をもち、耕地を保有する降倭もいた。
 降倭の実態を詳しく知ることのできる本でもありました。

                (2012年10月刊。760円+税)
 日曜日に仏検(準一級)の口頭試問を受けました。すごく緊張してのぞみましたが、美容整形手術に賛成か反対かという問いでしたので、何とか答えることができました。実は、もう一つの問いは難しい単語があって意味が分からなかったのです。3分前に問題を渡され選んだ問いについて、3分間のプレゼンをするのです。これがいつも大変です。今回は、たまたまフランス語のできる娘が自宅にいましたので、試験官になってもらって、特訓を受けました。これが良かったように思います。話し慣れていないので、いつも大変なのです。

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