弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2012年7月 7日

朝の霧

著者   山本 一力 、 出版   文芸春秋

 いつも、うまい時代小説を書く著者が、いつもの江戸時代ではなく、少しさかのぼって戦国時代を舞台として書きました。
 四国は長宗我部元親が覇者になろうとしていたころを舞台とした時代小説です。
 戦国時代は武田信玄のように、実父を早々に追放して若くして実権を握った武将がいました。兄弟間の殺し合いはありふれていました。おとなしく従っているように見せかけて、実は敵に内通しているという武将はいくらでもいたのです。そこには信義よりも力の世界があったのです。
 長宗我部元親と競争していた武将・波川玄蕃は長宗我部の配下に入って、めきめきと頭角をあらわします。あまりに活躍し目立つと主のほうは面白くありません。いつ自らの地位が脅かされないとも限らないからです。下剋上の世の中なので、従であっても力あるものが上に立つ主(あるじ)を打倒する心配が常にありました。
 とうとう長宗我部は、この波川玄蕃を切り捨てることを決意します。実妹の夫であっても、自らの地位の安泰の方が大切ですから・・・。
 いつものことながら、しっぽり読ませてくれる本でした。
(2012年2月刊。1500円+税)

2012年6月23日

佐土原城

著者   末永 和孝 、 出版   鉱脈社

 この3月は宮崎出張が重なりました。この本は、宮崎空港で買い求めたものです。
 佐土原城には行ったことがないのですが、宮崎は戦国時代、南の島津家と北の大友家とが激しくせりあったところと聞いていましたので、佐土原城の歴史を知りたいと思っていたのでした。
 佐土原城の歴史を語る本に、曾我兄弟の仇討ちの話が出てきたのに驚きました。
佐土原城主だった伊東氏の祖先は藤原不比等の子孫であり、藤原姓を名乗った。
 工藤祐経(すけつね)は、跡目(あとめ)相続をめぐって殺した子どもたちから富士野の巻狩のときに曽我兄弟から討たれてしまった(1193年のこと)。この工藤祐経は、京都にあって管弦や諸芸にすぐれ、公家の文化に通じていたので、源頼朝から側近として重用・厚遇されていた。工藤祐経が武将として認められ、幕府の有力御家人へと成長したのは、平家討伐のために西国へ攻めくだったときだった。
 農後国の佐伯で平家追討に功があった工藤祐経は、鎌倉に帰郷してから文武で秀でた武将として、源頼朝に仕えた。工藤祐経の死後、その子、祐時(すけとき)が、源頼朝を烏帽子(えぼし)親として元服した。やがて伊東姓を名乗り、伊東祐時と称した。祐時も源氏三代の将軍に仕えた。
 伊東祐時の四男・祐明は日向国那珂軍田嶋庄に地頭として下向した。島津氏は、島津忠久が1185年に島津荘の下司職(げすしき。地頭職)に任ぜられたことに始まる。忠久は、平家の政権下で平家の強い影響下にあった南九州に、源頼朝の信任あつい関東御家人として任命された。
 日向国に下向した伊東本家がまず手をつけたのは、本家より先に日向国に下向し、すでに本家と疎遠になっていた支族を束ね、伊東氏の権勢を高めることだった。
 伊東氏は、島津氏の勢力が日向国で強まることを恐れ、常に幕府とつながっていた。
 1578年、大友宗麟は、3万5千の兵を率いて日向に出兵し、延岡市に本陣を置いた。大友軍の総勢は5万、島津義久は弟の家久を佐土原城に置き、日向国諸将の総大将とした。
 島津氏の戦法は、釣り野伏せ(つりのぶせ)、穿抜法(うがちぬけのほう)、繰り詰め(くりつめ)である。うがちぬけのほうは、真一文字に敵に突入して切り抜ける戦法。これは、関ヶ原のたたかいのときに活用されました。敗戦必至のなかで打ち死に覚悟で家康本陣に切り込んで生きのびたのです。
 くりつめは、鉄砲を間断なく射撃する戦法。島津軍は、鉄砲を足軽に持たせず、すべて武将が持っていた。鉄砲を一番撃ち、二番撃ち、三番撃ちに分け、間断なく打ち続ける戦法である。
 戦国が江戸に生き、そして現代にも通じる話って、たくさんありますよね。
(2011年7月刊。1600円+税)

2012年5月26日

黒田如水

著者   小和田 哲男 、 出版   ミネルヴァ書房

 秀吉が天下を取れたのは、官兵衛と半兵衛という二兵衛がいたからだ、と言われることがある。半兵衛とは、竹中半兵衛重治のこと。官兵衛とは黒田官兵衛、義高(よしたか)のこと。
戦国時代、重要な決定は大将一人で決めるのではなく、重臣立ちの会議によって決められていた。
 後詰(ごづめ)とは、後巻(うしろまき)ともいい、味方の城が敵に包囲されたとき、城を攻めている敵に包囲されたとき、城を攻めている敵のさらに外側を大軍で包囲し、城の外と中とで敵を挟み撃ちにしようという戦法であり、そのための援軍のことをいう。
 天正6年(1578年)、織田方だった摂津の荒木村重が有岡城で信長に対して叛旗を翻した。荒木村重の謀反は、三木城の別所長治を相手として戦っている秀吉にとって、まさに青天の霹靂だった。そこで村重を説得すべく黒田如水が最後に送りこまれたところ、有岡城内に幽閉されてしまった。しかし、如水と日頃接していた重臣たちは、如水が村重と同心して織田家を裏切ることは絶対にないと信じていた。
 黒田如水は、1年間も狭い牢に閉じ込められていたため、膝は不自由になり、頭髪はぬけて禿になった。これは一生回復しないままだった。
 織田信長が本能寺の変で倒れ、秀吉が「中国大返し」をするとき如水は知恵を働かした。秀吉の軍勢に毛利勢が加わっているように見せかけるため、毛利家の旗20本を借り受け、陣の先に立てていた。
 著者によると、黒田如水はキリシタンだったとのことです。博多の教会堂で、如水追悼の儀式が行われたそうです。知りませんでした。
 また、如水は、戦国武将としては珍しく、殺戮を好まなかったと書かれています。そして、如水は正室だけで、側室をもたなかったという点でも変わっています。
 この本には偽書とされる『武功夜話』の引用もあったりして、歴史書としてはどうなのかなと思うところもありますが、黒田如水の歩みを分かりやすく伝えていました。
(2012年1月刊。3000円+税)

2012年4月 4日

武蔵成田氏

著者   黒田 基樹 、 出版   岩田書院

 『のぼうの城』(和田竜。小学館)を面白く読んだものとして、その史実はどうだったのか関心がありました。
関東攻めの秀吉軍の一員として石田三成指揮下の2万人の軍政にわずか2千で立ち向かい、水攻めにもめげず城を守り抜いたなんて本当なんだろうか、半信半疑でした。『のぼうの城』を読んで3年半たち、ようやく史実を知ることができました。まことに小説家の想像力は偉大なものです。史実を知ったからといって、小説の面白さが消えてなくなるわけではありません。
秀吉が北条氏政・氏直親子らの北条一族の守る小田原城攻めに動員した兵力は総勢24万人といわれている。これに対して北条勢は3万余人。
 天正18年(1590年)3月に小田原攻めの緒戦が始まると、秀吉軍は次々に北条方の城を攻略した。6月には、関東で残る北条方の城は小田原城のほかは忍城だけとなった。秀吉は忍城を攻めるため石田三成を指揮官として、佐竹義宣、宇都宮国綱、多賀谷重綱、水谷勝俊、結城晴朝ら関東の諸将をあわせて2万余の大軍を派遣した。ここに、関東の戦国合戦の最後を飾る忍城攻めが始まった。
忍城は周囲を沼と湿地に囲まれた難攻不落の城郭である。城内には、雑兵・百姓・町人・神官・女子供ら3000あまりが立て籠もった。
 秀吉は忍城の攻略方法として、石田三成に水攻めを指示した。三成の築いた堤防は石田堤と呼ばれ、現在も一部が残っている。秀吉の忍城攻めの方針は、周囲を包囲したうえで水攻めの用意を周到にさせて、開城させようというもので、力攻めは想定していなかった。
 7月1日、北条氏直は秀吉へ降伏し、7月5日に小田原城を出た。これにより、北条方で残ったのは忍城ただ一城のみとなった。そして、秀吉は最後に残った忍城攻めの仕上げに取りかかった。しかし、小田原城まで開城したとあっては、忍城も籠城する理由を失った。
秀吉は7月15日に忍城水攻めを見物し、17日には小田原を出陣して会津に向かう予定だったが、水攻めは出来ていなかった。いくら秀吉が忍城水攻めに執心を燃やしても、あと半月かかるか1ヵ月かかるか分からない状態では待ってはいられなかった。奥州平定がそのために遅れたのでは、忍城水攻めどころではない。秀吉は水攻め見物をあきらめ、北条氏直に忍城の開城を命じた。7月16日、忍城に立て籠もっていた成田勢は一同堂々と出城した。
 石田三成の忍城水攻めはなく、忍城総攻撃もなかった。実際にあったのは、5月1日の忍城の皿尾出張の乗取り合戦だけだった。
 ところで忍城攻めのために石田三成が高額の労賃を呈示して近隣から労務者をかき集めたのは事実でした。
昼は永楽銭60文と米1升を支給する。夜は永楽銭100文と米1升とする。
 この労賃の高さに、15歳前後の若衆から60代の老人まで応募した。そして、6ヶ所に区画して、1部隊が1区画を担当して、一斉に工事をすすめた。こうやって水攻め用堤防14キロは1ヵ月ほどの短期間で完成した。人海戦術が成功したわけである。そのうえで利根川の水を入れて、荒川をせき止めなければならない。それにまた大工事を要した。なーるほど、すごい工事だったようです。
 郷土史をここまで調べあげたことに驚嘆しながら、一気に読みすすめました。
(2012年1月刊。3800円+税)
 日曜日の午後、庭の桜の木が半ば枯れているのに気がつきました。根本のところが虫食い状態になっていたのです。道理で今年は花が少ししか咲かなかったのでした。
 そこで残念ですがノコギリで切りはじめました。幹の部分を切って、枝を切っている最中、誤って左手にノコギリの刃を当ててしまいました。
 そこで、指を口にふくんで、30分ほど、チューリップを眺めながらじっとしていました。ケガをしたとき、下手に消毒しないほうがよい、人間の自然治癒力に任せるべきだという記事を読んだばかりでしたので早速実践してみたのです。おかげで、痛みはありますが、まあ、なんとかなりました。

2012年3月12日

秀吉の朝鮮侵略と民衆、文禄の役(上)

著者   中里 紀元 、 出版   文献出版

 今秋、久しぶりに名護屋城跡に行く予定ですので、改めて秀吉の朝鮮侵略戦争の実態を知ろうと思って読みはじめました。
 上下2巻から成る大作です。長く中学校の歴史の教師として実践してきた著者は韓国の文献もしっかり参照して刻明に朝鮮侵略戦争の推移をたどっています。とても勉強になりました。
 秀吉の朝鮮出兵は中国への大陸侵略の一環であるが、この計画は九州出兵と平行して具体的に進められていった。秀吉は九州にはいるとすぐに、宋(そう)義調(よししげ)に朝鮮王国自身が秀吉へ服従を示すため日本へ入朝するよう要請せよと命じた。
秀吉の朝鮮出兵の意図は日本全国が戦乱に明け暮れた戦国時代に膨大にふくれあがった武将たちの人減らしにもあったという説を読んだことがありますが、秀吉にとって朝鮮そして中国という国は簡単に征服できるという発想だったようです。その国土の広さを全然わかっていなかったのでしょうね、きっと。
 秀吉は、朝鮮について、明への侵攻とは関係なく、日本の領国にすると考えていた。秀吉の腹心の二大名(加藤清正と小西行長)を肥後に置き、朝鮮出兵の基地としての九州治政を重視した。そこで隈本に加藤清正を、宇土と天草に小西行長を置いた。
 天正19年秋、秀吉の子(鶴松)が死ぬとまもなく、秀吉は大陸侵略を決定した。秀吉は大明に入って皇帝となることを決定し、それに同意しない朝鮮をまず征服して秀吉に従わせ、これを先導して大明に進むとした。諸大名は、この計画を知って秀吉が狂ったと思った。しかし、秀吉に向かっては言えず、心の中で感じたままだった。
 秀長は反対し、秀吉に先導させ続けた。千利休も秀長に同調した。
秀吉の言葉に喜んで海外に領国を得たいと思ったのは、加藤清正や鍋島直茂。自分の本領を捨ててまで海外に領国を求めるのを嫌ったのは、家康や毛利輝元。
朝鮮出兵に反対すると時刻の領土を秀吉によって取り上げられ、あるいは国替えされるのを恐れて、多くの大名は出兵への不満・反対の気持ちを抱きながら朝鮮侵攻に参加した。
肥前の名護屋城は、天正19年(1591年)9月に築城が始まり、翌年2月には完成した。わずか5ヵ月という短期間で竣工した。名護屋には、波多三河守親(ちかし)の家臣で松浦党の城があった。
 倭寇の有力な港として、呼子とともに名護屋の港があった。名護屋の地形は、各大名の陣尾の曲輪に、それぞれ直接に船を着けることができたので、日本一の港だと言われた。
 秀吉の名護屋城には五層七重の天守閣があり、本丸、二の丸、三の丸、山里丸の四つの主廊があり、それに五つの出丸がついていた。名護屋町には、京、大坂、堺の大商人たちが集まってきて、すべて望みの品物は町にあふれていた。
 朝鮮侵略軍は、名護屋在陣が12万余人、朝鮮への渡海軍が2倍の20万5千余人。渡海軍の1番から6番は九州勢で8万人、渡海軍の51%。5番、7番、8番隊は中国、四国の大名軍で統計6万5千人、40%。
 このように、朝鮮侵略軍は九州・中国・四国と西日本の武士、とくに農・漁民によって構成されていた。九州・中国の大名は1万名につき600人の動員数を命じられていた。
 西日本の大名にとって、この大動員は大変に重い負担で、苦労があった。武士だけでなく、相当数の農漁民が軍夫として動員された。逃亡しようとした者は、見せしめとして火刑によって処刑された。
 日本軍は戦国時代を経て、新兵器の鉄砲を使用し、それによる城攻めに慣れていた。それに対して、朝鮮軍は矢で対抗していた。そのうえ、朝鮮水軍は、いち早く逃走した。
 小西軍は、奇策、人形や布を振って矢の標的になるものをつくり、その標的で矢をそらして城内への突入に成功した。
 李氏朝鮮の20年間、平和な世の中が続いていたため、民衆は戦時を知らなかった。これに対して日本軍は戦国の世が続いて、その中で生き抜き、鉄砲という新兵器も手に入れ、これを巧みに使うことに慣れ、戦術もいろいろ身につけていた。
 朝鮮王が王都を出ると、それまでの王政に対する不満が爆発して反乱が起き、都と王宮は乱民によって火に包まれた。
 朝鮮の優れた技術者を掠奪し、日本へ連行するよう秀吉自身が各大名に命じた。そうでなくても、朝鮮住民を人狩りして、夫丸(人夫)として酷使した。
 よくぞここまで調べあげたものだな、そう感嘆しながら読みすすめていきました。
(1993年3月刊。15,000円+税)

2012年1月14日

織田信長のマネー改革

著者  武田知弘 、 出版  ソフトバンク新書 

織田信長のやったことを経済学的に解釈していて、なるほど、そういうことだったのかと感嘆させられました。
織田信長は石山本願寺と戦っているとき、鉄甲船をくり出した。新兵器だった。鉄は、当時、貴重品だった。その貴重品を船の全面に貼りつけたのだから、費用は莫大だった。そんなお金を信長は、どこで手に入れていたのか。
信長公は、金、銀、米、銭に不足することがなかった。
寺、城、港が信長を富貴にした。信長は多くの寺社の利権を奪った。
信長は4回も居城を変えたが、そのたびに富貴になった。なぜか?
信長の城は、敵に対しての牽制でもあり、領民に対して威圧と安心を与えるものだった。逆にいうと、安土城は、巨大な税務署でもあった。
信長は、かなり細かい検地を実施した。信長の城つくりは、すなわち街づくりでもあった。街が発展すると、信長にとって戦略物資を調達しやすくなる。そして、市をたてさせ、地子銭はとらないけれど冥加金はとって、収入を増やしていた。
 信長は港を欲した。港によって莫大な関税収入が保障された。
 信長は、中央政権として、日本史上初めて通貨として金銀の使用を促し、金銀と銅銭の価値比率を制定し、体系化した通貨制度をつくった。また、物を量る単位として、「枡」を統一させた。
 信長は道路網整備のために大がかりな掘削工事も行っている。両端には側溝があり、土手もある本格的な道路である。
信長の時代には、人々は安全に、夏は夜間でも安全に旅ができた。
信長は、庶民には減税し、金をもっているものから果敢に税金をとろうとした。それが楽市楽座であり、地子銭の免除、比叡山焼き打ちなのである。
なるほど、なるほど、と思いながら車内で一気に読み終えました。

(2011年7月刊。730円+税)

2011年8月19日

小牧・長久手の戦いの構造

著者  藤田 達生    、 出版  岩田書院 

 天正12年(1584年)に羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間に勃発した小牧・長久手の戦いは、関が原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」であった。うひゃあ、そうだったんですか・・・・。
 小牧・長久手の戦いでは、織田信長と徳川家康連合軍の陣営は、長宗我部元親、佐々成政、北条氏政、伊勢・紀伊の一揆勢力などと連携しつつ広大な秀吉包囲網を形成して10ヶ月間にわたって戦争を遂行した。
羽柴秀吉は本能寺の変の起こる直前は備中高松城(岡山市)を攻めていた。このとき、秀吉は毛利氏との講和を結び、急いで京都へ取って返した(中国大返し)。なぜ、毛利氏は秀吉からの講和の申し入れに即座に応じたのか。それは、重臣層が離反していて毛利氏は一丸となって戦える状況になく、弱体化していたからである。
 なーるほど、そういうことだったのですね。毛利氏は、長年に及ぶ戦闘で相当に消耗しておりこれ以上の危機は回避すべきであると対極的に判断していた。秀吉にしても今後の信長の西国政策を考慮すると、有力水軍を従え北九州も影響力の毛利氏を滅亡させてしまうのは、水力軍の劣る織田方とって得策ではないと判断したと思われる。
 小牧・長久手の戦いは、小牧・長くてエリアに限定された局地戦ではなく、広範囲にわたる大規模戦役であった。長久手の戦いによる敗戦以前は、秀吉は野戦による短期決戦をもくろんでいたことがうかがえる。
 信雄・家康は早期に上洛して秀吉を京都から追い払い、天下を取って京都に正当な中央政権を打ち立てることを目ざしていた。それに対して、秀吉の究極的な攻撃目標は家康の領国である三河・遠江への総攻撃であった。
小牧・長久手の戦いは、天正12年3月の羽柴秀吉と織田信雄の戦い、4月から6月にかけての秀吉と家康の戦い、それ以降11月までの和戦両方を見こした戦いという三段階に分けることができる。この全時期を通じて、両陣営とも周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化を積極的に行っていた。全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、全国を二分する戦争へと拡大することとなった。
 長久手での戦いが徳川氏にとって、華々しい勝利であったことは事実である。しかし、結果的に人質(養子)を出すことになったのは、ここで勝利した信雄・家康方である。この戦いで両者の攻防が終わったのではない。
 確かに秀吉は尾張国では優勢だった。しかし、たとえば本願寺・長宗我部氏が敵方となって秀吉領国まで攻勢に出たとき、その攻勢先に兵力をさかねばならず、そう考えると予断を許さない状況であったと言える。つまり、これまでの戦いとは違って、この戦いは全国的な大規模戦争となったため、たとえ個別に優勢であっても戦争終結までいつ情勢が激変するか分からないことになったのである。
 家康は小牧合戦後、すばやく自覚的かつ一方的に人質を秀吉に出した。なぜか?信雄が戦列を離れた直後の局面で、単独で秀吉に対抗するのは困難だと判断したのが第一の理由だろう。
尾張国での信雄、家康と秀吉の直接退治は、兵力的な差があり、家康から先制する攻撃はなかった。対する秀吉も、大きな被害を伴う直接対決を避けながらの攻略が中心だった。その結果、両陣営は長期対峙することになった。
そのとき、この状態を打破すべく用いた戦術が、周辺諸国からの攻撃による相手兵力の分散化であった。これは両陣営の外交活動は、まさに目に見えない攻撃となった。超陣営とも、このような戦術を大々的に実施した結果、この戦いは尾張、美濃両国に集まった当事者だけでなく、東は関東から西は四国、中国まで、幅広い地域に直接的に影響を与えることになった。その結果、全国の大名・土豪層が信雄・家康対秀吉という図式に組み込まれ、さらには、この戦いのあと、天下を取った秀吉の政権それ自体にも組み込まれていくことになった。つまり、この戦いは、全国を二分する戦争へと拡大した結果、豊臣政権にとっての「天下分け目の戦い」へと発展していったのである。
小牧・長久手の戦いを学者の皆さんがこれほど本格的に研究しているなんて、驚いてしまいました。学者ってすごいですね。とりわけ、秀吉や家康が書いた書状を解析するところなんて、私からすると神業(かみわざ)に思えてなりません。
(2006年4月刊。8900円+税)

2011年8月 6日

消された秀吉の真実

著者    山本博文・堀新・曽根勇二  、 出版   柏書房

 この本を読むと、私たち日本人がいかに徳川史観に毒されていたかに思い至ります。徳川史観とは、徳川家康をことさらに神聖化・絶対化する江戸幕府のイデオロギー工作のことです。これが300年にわたって繰り返されてきたため、日本人の歴史認識にしっかり刷り込まれてしまっています。たとえば、徳川家康が、豊臣秀吉の臣下として羽柴授姓されて、羽柴家康を名乗っていたことがあり、本姓も豊臣に改姓して、豊臣家康としていたというのです。豊臣一族の一員として秀吉に仕えていたのでした。
ええーっウソでしょ、と叫びたくなる話です。
 もう一つが、小牧・長久手の戦いで家康が秀吉に勝ったため、さすがの秀吉も家康にだけは特別な地位を認めざるをえなかったというのが「常識」です。ところが、実際には、先に岩崎城を秀吉軍に奪取された家康が、何とか長久手で秀吉軍の後尾を捕まえて逆転勝利に持ち込んだだけ。いわば、局地戦で勝利したのみで、美濃や伊勢などをふくめて全体でみると、実際には秀吉が勝利している。だからこそ、織田信雄も家康も、秀吉に人質を提供して停戦した。ところが、小牧・長久手の戦いにおける徳川譜代の活躍を強調するために、家康の勝利が大いに喧伝された。これは、関ヶ原の戦いが外様大名の活躍による勝利だったことの関係で強調されたこと。なーるほど、そういうことだったんですか・・・。
秀吉の発給文書は、秀吉の権力掌握の諸段階にそった形で、書状、直書(じきしょ)、朱印状と変化していく。それとは別に、自筆の書状もある。
 書状は、同等の者同士が連絡するためのもの。本尾に恐惶謹言、恐々謹言などと書かれ、署名と花押がある。
直書は、宛名の人物に「直接与えた文書」ということで、本尾が「可申候也」(もうすべくそうろう)となっている。
 朱印状は、秀吉の朱印が持された文書のこと。自筆書状を除いて、すべて右筆(ゆうひつ)が執筆する。
秀吉の朱印状については、「自敬表現」と言われてきたが正しくない。これは、秀吉が自分に敬語をつかっているとみる説。しかし実際には、秀吉の文書を作成した右筆が秀吉に敬語をつかっていると理解すべきなのだ。そして右筆は、知行宛行(あてがい)状を執筆したときには、受益者に対して筆耕料(手数料)を要求している。
 徳川幕府は、自らに都合の悪いことは消し去っていたのですね。丹念に文書(しかも原本)を掘り起こして論ずる学者の偉大さには、ひたすら感服します。
(2011年6月刊。2800円+税)

2011年6月25日

雑兵足軽たちの戦い

著者    東郷 隆  、 出版   講談社文庫

 絵解き文庫本ですから、気軽に読めて、戦国時代のイメージがよくつかめる本です。戦国時代の合戦において、本当の主役は雑兵足軽だったのでしょうね。武将は、彼らを思うように指図して動かさなければ合戦に勝つことは出来なかったのでした。
 主人が戦場で不利となったとき、ただのんびりと見物している家来などいるわけがない。身軽な武装で騎馬の傍らに付き従い、ときに主人を守って武力を行使する人々が出現するのは当然の成り行きだった。足を軽々と動かして主人に従う人々の出身は、多くが荘園領主である武士の私的従者だった。しかし、なかには衣食を求めて当座のしのぎに有力な者の下へ付く浮浪人や逃亡農民もあり、彼らの身分はあやふやだった。
俗に「家子郎党」(いえのころうとう)と称された武士の集団にふくまれる者は、まず血縁によるつながりの「家子」で、家の頂点に立つ惣領に従う主人の兄弟や庶子(正妻ではない女性とのあいだに出来た子)である。これに、それぞれ従う「郎党(郎従)」が付く。郎党は、主人の家と血縁関係にあったものが代を重ねるうちに身分が下落したもの、さらには領主である主人の家に代々つかえてきた武装農民を指す。
蒙古襲来のとき、危機を辛うじて切り抜けた鎌倉幕府が不快感を覚えたのは、武士たちの腰の引けた戦いぶりだった。彼らには国土の防衛という観念が依然として低く、九州一円でも兵の動員力はそれほど高くなかった。なかには、こういうときこそ自分の所領を守る方が大切だなど言って館に立て籠もってしまう者や、武具の用意が出来ていないとか、親族の死による供養・喪中を口実として合戦場へ出ながら戦闘を拒否する者もいて、指導者たちを辟易させた。うひゃあ、なんという実態でしょうか・・・。
鎌倉幕府は、動員の不足を山賊化した人々を取り締まって、流人として西国に送って補おうとした。中央で捕縛された人々は、まず流人となって九州の守護所に集められ、対モンゴル戦の先鋒となる地頭や御家人のもとへ引き渡された。現地での身分は「因人(めしうど)」(召人)で、戦闘に参加するときは下人・所従の扱いだったが、家柄の良い者は、「客人(まろうど)」としての待遇を得、流刑先で半ば自由の身になる者もいた。こうした人々を「西遷悪党(せいせんあくとう)」という。鎌倉幕府が滅亡したあとも、モンゴルに備えた異国警固令は依然として続いた。足利尊氏も、博多にある石築地の補修を地元の武士に命じた。
16世紀の越前国を支配した朝倉氏は教訓集をつくった。合戦の最中、優勢な敵が現れたと聞いて退く「聞き逃れ」は許す、しかし、敵を見て退く「見逃れ」はいけない。耳で聞いて逃げるのは、臆病とさげすまれても戦術のうちである。しかし、敵の姿をはっきりと見てしまったあとは、健気に斬り死にの覚悟をさせる。昔から、「耳は臆病にて、目はけなげ」というのだ。
まだまだ面白い話と図解が盛りだくさんです。戦国時代の合戦の実相を知り、イメージをつかむうえで必読文献だと思いました。
(2007年3月刊。495円+税)

2011年6月15日

東アジアの兵器革命

著者    久芳  崇  、 出版   吉川弘文館

 実に面白い、知的興奮を覚えさせる本でした。
 なにしろ、秀吉の朝鮮出兵のとき、数千人もの日本兵が捕虜となって中国大陸に連れ去られ、一部は中国皇帝の前に引き出されて公開処刑の対象となったものの、その大半は中国軍に組み込まれて、鉄砲隊として反乱軍退治などに活躍したというのです。しかも、長篠の戦いで輪番による鉄砲の連続一斉射撃(三段撃ち)がなされたという従来の通説に対して、現実には技術的にそんなことはありえないという最近の有力説を覆すような中国の兵法書が紹介されています。そこに載っている三段撃ちの図解を見て、腰が抜けそうになりました。
 中国の史料によると、鉄砲の輪番射撃の戦術が、日本では少なくとも16世紀末の時点で存在していたこと、朝鮮の役の後に中国・明王朝に伝播していたことがうかがえる。
 朝鮮の役において、数千人をこえる日本兵捕虜(降倭)が発生した。この降倭の一部が朝鮮軍に編入され、鉄砲や火薬の製法を伝え、朝鮮における日本式鉄砲の普及に大きな役割を果たし、17世紀の朝鮮で精鋭の鉄砲隊が組織された。
日本軍の鉄砲はきわめて性能が高かった。明軍の鉄砲はポルトガル伝来の鉄砲の模造品であり、日本軍のものより性能が劣っていた。明軍の鉄砲は鋳銅製であり、連続射撃すると熱をもって破裂する危険があった。また、命中精度も射程距離も日本軍の鍛鉄製の鉄砲に劣った。そこで、明軍は、日本軍の鉄砲を獲得したときには朝鮮軍にとどめず、明軍に送るように指示していた。
 朝鮮の役で捕虜となった日本兵は、熟達した鉄砲の使い手として、中国内の反乱軍の鎮圧のために鉄砲隊として活用された。また、女真族やモンゴル族との対戦においても日本式鉄砲は大きな威力を発揮した。
 明軍の大将は、日本兵捕虜61人を北京の明朝皇帝(万暦帝)の前に献納した。この捕虜の経歴が明らかとなっている。それによるとトップは、島津義弘の一族(平秀政、27歳)、また、薩摩守・平正成(40歳)であった。これについて、著者は日本側の資料には、そのような武将が見あたらないので、明軍側が皇帝に献納するとき最高位の敵将として偽装した可能性が高いとしています。なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、朝鮮半島に渡った日本の一部(数千人)が中国大陸に送られ、精鋭の鉄砲隊を構成して反乱軍や女真・モンゴル軍と戦っていたなんて、まったく驚きでした。
 中国書を丹念に掘り起こすとそんな事実まで判明するのです。まだ若い(40歳)学者のようですから、今後の活躍が大いに楽しみです。この出版社は次々にいい本を出してくれています。感謝します。
(2010年12月刊。3800円+税)

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